メトロポリス・7
――本棚が倒れた。倒れた本棚が机に直撃した。本が散らばっている。色々不味い。
――マトイ氏が帰ってくるまでに、元通りに出来るかなぁ、無理だろうなぁ…
――取り合えず、お腹が空いたから“ゴム”を食べてから考えよう。
無数の影が、やってくる。
そう、それはまさに影だった。
全身を覆うのは、艶消しされた黒色の合金製アーマー。古の甲冑よりも分厚そうなそれは、至近距離からの発砲や爆発にも容易に耐えるだろう。
ヘルメットに装着されたゴーグルからは、赤い二つの光点が放たれ、見ている者に怪物のような印象を与える。
そして、手にした恐ろし気な武器の数々。パワーアシスト機能の恩恵により、高性能にして高威力な重火器を苦も無く携えている。
現代科学の粋を集めて拵えられた、破壊と殺戮の力を身に纏う悍ましい影たちが。影の怪物たちが。
今、こちらに迫ってくる。
「軍警察だっ!?」
闇市にひしめいていた人々が、恐怖と驚きに支配される。
軍警察とはメトロポリス行政府が所有する武力の象徴であり、それらは主に反政府的な活動を行うテロ集団や、ストライキを起こす怠惰な労働者組織、そして外界からの侵略者といった、支配者構造を脅かす存在に対して向けられるものである。
メトロポリスに害も益も及ぼさない、落伍者たちが集うスラム街に使用されるなど、無意味極まる話だ。
「何で連中がやってくるんだよ?」
「知るかよ! でも、俺たちを殺しに来たのには違いねぇさ!」
「馬鹿なこと言うなよ、そんなことする訳が…」
闇市の通りの1つを封鎖するように展開した、武装集団。
その異常事態に、力をもたない者たちも、多少なりとも修羅場を経験したことのあるチンピラたちも、どうすべきかが分からずまごつく。
だが、そのように呑気な慌て方ができたのは、ほんの束の間だけであった。
がちゃ、がちゃり。
影の軍勢が一斉に、武器を構えた。洗練され、統一された滑らかな動き。様々な種類の銃器が、集う浮浪者や労働者、そしてギャングたちを狙う。
『撃て』
くぐもった一声を皮切りにして、奇妙な音が響いた。
ぷしゅんぷしゅん。
すぽぽぽん。
しゅしゅしゅしゅ。
耳をつんざく音も、破裂音も、ましてや爆炎を伴った轟音など一切ない。
静かに、異様な程あっけなく。影たちは、“撃ち”続ける。
するとその先で、どんどんどんどん人が倒れていった。
まるで眠るように、まったく苦痛を感じていないように、ふらりふらりと地面に伸びていく。そしてそのまま、動かなくなる。
「うわぁぁぁっ!?」
「きゃああぁぁーー!」
少しだけ離れた位置から、波及してくる一連の事態を目の当たりにした者たちは、自らに差し迫る命の危機をはっきりと感じ取った。
叫喚する群衆が、蜘蛛の子を散らすように逃げだす。
狂乱した者は、とにかく迫りくる脅威から離れようと、前にいる者を押しのけ、息が切れていることにも気付かずに走る。
少しだけ冷静な者は、他者の影に隠れるように。または、抱えきれるだけの“戦利品”を拾った上で、密かに走る。
ほんの数秒前まで盛況な市場だった筈のスラムの一画は、戦場もかくやとばかりの地獄絵図へと描き変わった。
「兄貴、あれは!?」
「軍警察の実働部隊だな。短信銃に、投擲砲、電気銃。見えてる範囲で、30人ってところか」
「殺しのプロじゃないですか!」
「やべぇよ頭目! 早く逃げねぇと!」
掘立小屋の中。
慌てふためくギャングたちを尻目に、扉の隙間から一部始終を見ていたマトイは、冷静に事態の分析に当たっていた。
上層区画へとつながる、大型幹線道路がある方角から現れた軍警察の連中は、突如闇市に襲撃をかけてきた。しかし強硬な手段とは裏腹に、その装備に殺傷能力は無いように思われる。
と言うのも、倒れた被害者たちが綺麗すぎるのだ。
あの部隊が手にしている短信銃は、本当ならば微細な針を無数に打ち出し、生身の対象をズタズタに引き裂く力をもつ。電気銃だって、喰らったら全身が黒焦げになる威力だ。撃たれれば、外見に著しい変化が現れる。おまけに、わずかに漂ってくる甘い匂い。間違いなく、投擲砲から放たれた催眠ガスのグレネードによるものだ。
あえて弾を変更し、あるいは出力を絞っている。
一体何の目的で、ずっと無視してきた闇市にカチコミをかけてきたのかは分からない。だがどうやら、大量虐殺をしでかすつもりではないらしい。気絶させられた連中は不憫だが、義憤に駆られて助けに入ってやるなどという、無謀なこともできない。
巻き込まれる前に、とっととずらかるべきだな。
方針を固めたマトイが身をかがめて、そそくさと扉から出て行こうとする。
すると、それを目ざとく見つけたギャングたちが、涙を浮かべて縋り付いてきた。
「兄貴、俺たちを見捨てるんですかい!?」
「いや……見捨てるも何も、逃げるしかねーだろ」
「そんな薄情な! 用心棒なんだから、何とかしてくださいよ!」
「何ともできねぇよ、ふざけんな! 相手はチンピラじゃなくて訓練された兵隊なんだぞ、勝てる訳ないだろ!」
「でも! やっとこれだけの商売ができるようになったのにぃ……」
歯ぎしりをしながら外の軍警察を見やる頭目。それにつられて手下たちが、声を押し殺して泣き始めた。
この非常事態に何とむさくるしい事かと、マトイは溜息をつきつつ天井を仰ぐ。
何年もかけてチームを大きくし、ようやくスラム街で一等の座に上り詰めたのだ。その証としての闇市に、ろくでなしながらも充足感を得ていたのだろう。確かに、市を主催した途端にこれでは気の毒なことだが、如何せん相手が悪すぎる。
マトイとて“戦場”で、そしてスラムで様々な敵と闘い、生き延びてきた実力に自負心をもっている。だが同時に、現実的な思考力ももっている。
闘うべきは勝てる相手のみであって、眼の前の相手はそうではない。
ゆえに取りうる手段は、ただ1つなのだ。
「お前らも持てるもんを持って、とっとと逃げろ。いくら軍警察でも、この闇市にいる全員を捕まえるなんてできやしない。隙ならある」
「あうぅぅぅ……。畜生、畜生……」
なおも渋るギャングたちだったが、マトイの説得が通じたのかのろのろと動き出す。
やがて小屋中から大きな袋を引っ張り出し、背負ったり抱えたりし始めた。恐らく中身は、トークン、貴金属、ドラッグなどの、かさばらないものだろう。他にも密造酒や密造銃なんかがあるだろうが、流石に一度に持っては行けまい。
「折角溜め込んだのによぅ……」
「外の連中にトークン払ったら、荷物持ちしてくれねぇかなぁ」
「持ち逃げされるに決まってんだろ。いい加減、踏ん切りをつけろよ。……行くぞ」
なおも後ろ髪を引かれているギャングたちを一蹴し、マトイは小屋の扉を開けた。
まだ実働部隊との距離は離れており、その間には逃げまどう群衆が溢れている。幸か不幸か、闇市の規模が大きかったために、その参加者も膨大だ。
まことに申し訳ないが、彼らを盾にすることでこの場をやり過ごすことができそうである。
「小屋を出たら、とにかくバラバラになって走れよ」
「何でです!? 危ないでしょうが!」
「固まってたら、まとめて捕まるかも知れねぇだろうが! 行くぞ!」
言うが早いが、マトイは群衆の中に混じって走り出した。大きな袋を落とさないように、しっかりと抱えて。
…まさか!?
いや、そんな、まさかな…
中に入っている菓子の箱の感触を確認しながら、マトイはふと奇妙な妄想に囚われた。
今になって、突然闇市の掃討に乗り出した軍警察。その目的は、一体何なのか?
あえて殺傷性の無い武装を使っているということは、殺したくないという理由があるからだ。しかし、まさかお偉い連中が、トークン1枚にすら劣る自分たちの命の中に輝きを見出した訳もない。
だとすれば、生かして捕えたい何者かが、スラムに紛れ込んでいるのではないか?
マトイの脳内で、癖のあるピンク色の髪がふわりと揺れる。
「馬鹿馬鹿しい……」
逃げまどう人々をかき分けながら、マトイは思わず呟いた。
10分も走っただろうか。気が付くとマトイは、歩きなれたスラムの裏通りに逃げ込んでいた。
周囲には誰もいない。あの気の抜けたような銃声も、悲鳴もすでに聞こえない。無事に軍警察の手から逃れたのだ。
マトイはようやく足を止めて、盛大なため息をついた。
「まったく、散々な1日だぜ」
まだ日が昇ってから数時間だというのに、マトイは酷い疲労感を覚えていた。
起き抜けのお嬢さんとの口論に始まり、闇市での大混雑、ギャングとの紙一重な会話、挙句に軍警察の襲撃だ。これ以上何かあっては、流石のマトイとて倒れてしまいそうである。
「いや、そうだった。ねぐらを変えねぇとな…」
本日最大の仕事が残っていることに気づき、マトイはまたもやため息をついた。
あの世間知らずの娘が、マトイを探し出すために金なんてものをばら撒いたせいで、危険な連中に眼をつけられた恐れがある。帰ったら早々に、引っ越しをしなければならない。
あの娘は文句を言うだろうが、その原因が彼女自身にあることを滔々と説き、口の中に代用チョコレートでも詰め込んでやれば、おとなしく従うだろう。
幸いなことに、マトイは隠れ家を複数もっている。必要な物品だけを持って、日が沈む前に安全を確保してしまいたい。
少しばかりの休憩で、気持ちを落ち着けたマトイは。…というよりも、これから始まるであろう更なる悶着と労働にテンションを下げたマトイは、重い足を持ち上げようとして。
「……!」
そして、気が付いた。かすかに背後から聞こえてくる、2種類の足音に。
「ちっ」
マトイは即座に走り出した。いつもの鷹揚な足取りではなく、“訓練された”、限りなく無音に近い走り方で。よく知っている雑然とした道程を、ジグザグに、そしてスムーズに進んでいく。
だが、背後の足音は消えない。明らかにマトイを追ってきている。
クソが!
マトイは胸中で短い悪態をつきながら、走り続けた。
足音の1つは、酷く重い。余程大柄な男か、あるいは重装備なのだろう。しかしもう1つのそれは、妙に軽い。まるで女物の靴のようだ。
さっきの部隊の連中じゃねぇのか?だとすれば、どこかのギャングの用心棒か、あるいは暗殺者か。
再び高まっていく緊張感の中で、マトイは現状を分析し、打開策について思考した。
この足場の悪い道を苦も無く追いかけてくるあたり、相手は土地勘があるか、相当な手練れだ。いや、その両方と考えておくべきだろう。だとすれば、素手ではちと不味い。
マトイは荷物を左腕に持ち替えると、右手を懐へと忍ばせた。
危険な連中を牽引したままねぐらに帰る訳にはいかない。撃退するか、…排除するしかない。
覚悟を決めたマトイは、走るのを止めた。
比較的足場のしっかりした、それでいて遮蔽物が豊富な位置に陣取る。お嬢さんへの手土産をそっと離れた位置に置くと、右手が固いものを掴んだ。
その途端に、マトイの身体から殺気が滲み始める。
「……よし」
迫る足音の方、つまり来た道を振り返り、姿勢を低くする。久しく忘れていた殺しの感覚が、ゆっくりと指先へと伝わり……
「ねえ」
そしてマトイは、完全に硬直した。
すぐ耳元から聞こえてきた囁き声に、全身が粟立つ。
姿勢を変えないまま、ゆっくりと肩越しに、恐る恐る振り返ると…
「ちょっと、聞きたいこと、ある」
何たることか。
そこには、見たことのない少女が立っていた。
――何だろう、外が騒がしい気がする。
――確認しようにも、このねぐらは光が外に漏れないようにと隙間が埋めてある。
――マトイ氏には外に出るなと言われているし、どうしようか。