メトロポリス・4
――足が痛い…
――息が辛い…
――お腹空いた…
とるものもとりあえず、ご馳走を振舞ってくれると言う。
それを信じて延々と歩き続けたノーリであったが、何時まで経ってもご飯もといマトイ氏の住居に辿り着く気配はなかった。
その理由についてを問うたところ、『誰かさんに追いかけられて寄り道をしたから』と、当て擦りの様に返されてしまった。ならば何故誤解が解けた今、また同じようにぐるぐると“すらむ街”の裏道を出鱈目に歩いているのかと詰問してみれば、『用心のため』だそうである。
結局マトイ氏の「もうすぐ着く」が「ほら着いた」に変化するまでに、日がとっぷりと暮れてしまっていた。
「こ、ここがマトイさんのお家ですか…?」
足の痛みが限界に達しつつあるノーリが、悲痛な声を上げる。
“この世界”で2度目の夜というわけだが、もう心細い思いをしなくて済むというのならば、眼の前に広がる光景を受け入れるのも止む無しなのだろうか。
「おう。足元に気をつけろよ、お嬢ちゃん」
「お嬢ちゃんは止めてください! ノーリです!」
「分かったよ、ノーリお嬢ちゃん。きちんと俺が踏んだのと同じ場所を歩いて来いよ? 引っかかると面倒だからな」
出会ってからこっち、無礼な物言いを一向に改めてくれない青年は、ひょいひょいと地面に転がる大小の石片を跨いで行ってしまう。その先に見えるのは、目的地の建物……の、残骸だった。薄暗い中でもはっきりと分かる程、完膚なきまでに崩壊しきっている。最早降り積もった瓦礫の山だ。
「おいお嬢ちゃん、早く来いよ。俺もとっとと休みてぇんだ」
元はしっかりとした出入り口だったであろうに、今では完全に横倒しになった無様な扉の前で、青年が呼びかけてくる。
半ば呆然としていたノーリは、最早言い返す気力も失せたとばかりにノロノロと歩き出した。一応忠告を守って、彼の足跡を辿って進む。大きな石の塊の上に飛び乗り、丸く綺麗にくぼんだ地面に向かって跳躍。そして右回りに、弧を描くようにしてマトイのもとへ。
「おし。上出来だぜ、ノーリお嬢ちゃん」
「…さいですか」
何故か先刻とは異なり、軽薄さの見える笑みを浮かべたマトイに対し、ノーリは睨みつける様な視線を返した。
「そんなにむくれんなよ。上のお家とは違いすぎて、幻滅しちまったんだろ?」
「むくれてなんかいません! それに、私はここの世界の出身では…」
「まあ、確かに“世界が違う”よな。とにかく入って見ろよ」
マトイ氏の人間性を信じた上で告白したノーリの身の上を、どうやら彼は勘違いしているようであった。加えてこちらを“年下扱い”し続ける行為に、だんだんと怒りが湧いてくる。
ここいらで一度、立場というものを分からせるべきではないだろうか。
そんなノーリの思いを余所に、マトイはごそごそと横倒しの扉に手をかけた。しばらくしてガチャリと、錠が外れるような音が響く。…いや、実際に錠だったようだ。
マトイが棒状の取っ手を掴んで持ち上げると、歪んだ金属製の扉が口を開けた。
「入りな」
「入れって……この中に、ですか?」
それ以外の意味などないだろうに、あえてノーリは確認した。
すでに疲労がピークに到達しているというのだから、このような瓦礫の中で一夜を明かしたくはないという思いを抱くのは、それこそ世界が異なっていたとしても共通する価値観であろう。
しかしそんなノーリに対して、マトイ氏は無慈悲にも言い放つ。
「決まってんだろ。早く入れよ、腹ペコ娘」
「…」
はたして本当に、自分の直感は正しかったのだろうか。
自分自身の判断に疑念を覚えずにはいられないノーリであったが、最早彼以外に頼れるあてなどない。ええいままよ!と、身体をかがめて扉の中へと潜り込む。
「おい! もっと頭を低く…」
ごちん!
マトイ氏の2度目の忠告とほぼ同時に、ノーリの脳内に激しい火花が散った。
「うそ…」
天井部分から吊るされたランプの明かりをつけた途端に、背後から呆けたような声が聴こえてきた。
少女の思った以上の反応に、マトイはまたもや庇護欲が刺激されたのを感じる。
倒壊した雑居ビル。その横倒しになった扉をくぐった先にあったのは、マトイの“探偵事務所”だ。外の惨状からは想像もできない程に、広く確保された空間。いや、それは最早、立派な部屋であった。
中央には傷だらけの木製テーブルが置かれ、すぐそばには革の剥げかかった大きな二つのソファーが向かい合うように備えてある。奥の壁際には金属製のデスクが鎮座し、その両脇にはいくつもの本棚と、そしてベッドが据え付けられていた。
外観とのギャップに、入口で愚図っていたノーリ嬢も、さぞや驚いたことだろう。
マトイはしめしめとほくそ笑みながら、テーブルの上にトークンと食料の入った袋を置いた。そして、すぐ近くの炊事場へと移動する。
「適当に座っててくれ」
「え、あ、はい!」
最悪の現実が、実は予想していた以上の水準であったならば、多少なりとも機嫌を良くするのが人間という生き物である。
少女のふくれっ面が和らいでいくのを横目で盗み見ながら、マトイは床に置いてあったポリタンクを持ち上げ、コンロの上に置きっぱなしになっていた薬缶へと水を移した。
「口に合うかどうかは分からねぇが、泥水でよかったら用意するよ」
「ど、泥水ですか!?」
「…コーヒーだよ、コーヒー。無論、偽物だがね」
なんとも素直な少女の反応に、マトイは溜息をつきつつ取りなした。
ノーリは今一つ理解できない表情のまま、取り合えずソファーの一つに腰を落ち着ける。
「で、俺に何の用だい?」
背中越しに、改めて少女の訪問の理由を問いつつ、マトイはコンロに点火した。即座に、小さな薬缶を大きな火が包んでいく。御手製のためにリミッターが存在しない高火力が、一気に水を沸騰させていった。
「私を、守っていただきたいのです」
「守る?」
背中に掛かる、先刻よりも明らかに落ち着いた声に、マトイは間を置かず聞き返してしまった。
「はい。つまりは、護衛です。それと、人探しを」
護衛。人探し。
少女の“依頼内容”を反芻しつつ、マトイは手早くカップを2つ用意する。コンロ脇の『嗜好品』とラベリングされた金属の円筒を取り上げて蓋を開け、中に入っていた茶色い粉をカップの中に振りかける。最後にそこに、熱湯を注ぎこんだ。
湯気と共に、正に泥の様な色合いの水たまりが2つ出来上がる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
淹れたての代用コーヒーの入ったカップをノーリに手渡すと、マトイは自分のカップを持って、少女の対面のソファーに腰掛けた。そして、一気にそれをあおる。
どろりと粘り気のある熱が舌と喉を焼き、実に大雑把でわざとらしい強い香りが鼻腔をくすぐる。それらが、1日の労働と、予想外の来客に疲れたマトイの精神を癒していく。
マトイが愛飲するこの代用コーヒーは、本物のコーヒー豆の味に似せて化学的に合成された代物である。代用タバコと並んで大戦中から製造されている粗悪品だが、全体、本物の味を知らないマトイにとっては、これでも贅沢の1つだ。
マトイが慎ましい娯楽を堪能し終えて正面を見ると、ノーリはカップを持ったまま、じっとマトイを見つめていた。あの、心の中を見透かすような鳶色の光が、またもやマトイを射貫く様に向けられている。
「何故、俺なんだ?」
「ここに来て、色々な人に尋ねて周りました。すると何方も、貴方の名を挙げたのです」
「ギャングの用心棒として、か」
「いいえ、違います。この“すらむ”で、最も信頼に足る人物として、です」
「そりゃどうも」
もう一人の自分が脳内で、「警戒しろ」と囁いてくる気がした。
護衛。
それ自体は、マトイが日常的にスラム街のギャングから請け負う仕事であるため、慣れたものである。だがそのほとんどは、同業者とのいざこざを解決する最終手段である、暴力装置としての役割だ。ノーリは、一体何から守って欲しいというのだろうか。
「何か取引でもするのか? その立ち合い人とか」
「いいえ。ただ、ここに置いていただければいいんです」
さあ、きな臭くなってきたぞ。
ノーリの発言の真意を探ろうと、マトイも彼女の眼を見つめ返す。
するとノーリの瞳に、揺れが生じた。不安か、焦りか、恐怖か。それら負の感情のすべてか。断られるのは困る、という分かりやすいサインだ。
内臓をくすぐられるような居心地の悪さを覚えつつも、マトイは熟考を止めない。
初対面の娘がチンピラ紛いの男の下に転がり込むなど、まともな判断ではない。やむにやまれずの行動だとしたら、彼女は相当差し迫った状況にあると言えるだろう。ならば彼女を受け入れるということは、彼女の抱えるリスクをそのまま肩代わりするということに繋がってしまう。
マトイは眼を閉じ、残った代用コーヒーを一気に流し込んだ。初めて“探偵らしい依頼”が持ち込まれたことで、舞い上がっていた部分が冷えていく。
…軽い気持ちで拾ってきたはいいが、実は厄介な火種なのではないか。この娘をかくまうことで、身に余る危険が寄ってくるかもしれない。今からでも遅くはない、放逐するべきだ。
マトイをマトイたらしめるほぼすべてが、残酷な結論を下した。
「そうだな…」
軽くなったカップをテーブルに置き、ゆっくりと口を開く。
「悪いが…」
死刑宣告をするような気分でノーリを見る。
「この依頼は…」
するとそこにあったのは、不安が溢れ出さんばかりに膨れ上がった、少女の曇り顔だった。
『どうか、見捨てないで欲しい』
今にもそんな言葉が、青ざめた唇から飛び出してくるかのような。
マトイは、現実的な男である。
それなりの理想、あるいは夢に類する何かをもってはいるが、そんなものでは腹が膨れないどころか、1枚のトークンにすらならないということを知っている。
故に、大戦とその後のスラム街を身一つで生き抜いてきたマトイの経験は、危険の回避という方向へ舵を切ることを頑なに主張するのだ。
そして、それに強固に反抗するのが……
僅かに残った、矜持であった。
「分かった、受けてやるよ。ただし、キッチリ払うもんは払ってもらうからな」
マトイは今日何度目かのため息をつくと、空になったカップをテーブルの上に置いて、頷いてやった。
「あ…ありがとうございます!」
途端に少女が、輝かんばかりの笑顔を浮かべた。時折見せる不可思議な眼力よりも、こちらの方が年相応だ。
『異世界から来た』だのとナンセンスなことを言ってはいたが、比喩に違いない。上層と下層の生活環境の差は、それこそ世界が違うと感じる筈だ。名家のお嬢様が、窮屈な社交界に嫌気が差して、この下界へと家出なさったというのが妥当なところだろう。
つまり護衛なんて言ってはいるが、しばらく寝泊まりする場所が欲しいだけなのだ。
マトイはそう“推理”し、納得することにした。楽観的と言えばその通りだが、保身を考えてこの娘を放り出したとあっては寝覚めが悪い。さらに言えば、そんな人情味のない行為は、彼の信ずる“探偵らしい振舞い”ではない。
などと必死に自分を説得していると。
くきゅるぅ
少女の腹部から、聞き覚えのある音が響いた。
白い肌に朱が差し、笑顔が消える。
「あー。そういや、腹が減ってたんだったな」
「あう」
消え入りそうなノーリの声に笑みを浮かべると、マトイはテーブルの上に放置していた袋の1つを手に取り、ひっくり返した。すると軽い音と共に、カラフルな装飾がされた直方体の紙箱が落ちてくる。
「…何ですか? これ」
「飯だよ。下層の人間は、皆これを食うの」
マトイは空になった袋をテーブルに放り、紙箱の1つを手に取った。
「ほら、手ぇ出せ」
「え? あ、はい」
マトイが箱の蓋を開けながら言うと、ノーリは何が何だか分からない様子のままカップをテーブルに置き、両方の手のひらを突き出してきた。その小さな手のひらの真上で、箱をひっくり返してやる。
ぽとん。
少女の手の中に、茶色い立方体の様な塊がころりと零れ落ちた。
キョトンとする少女に構わず、マトイはもう1つのブロックを取り出し、まだ中身の残る紙箱をテーブルに戻した。そして手の中のそれを小さく千切り、口の中に放り込む。
ゴムの様な食感と匂いが口内を満たすが、マトイは構わずに力いっぱい咀嚼して飲み下した。
少女があんぐりと口を開けて見つめる中、それを4回程繰り返したところで手の中が空になり、逆に喘いでいた胃袋が完全に満たされた。
『完全栄養食品』。
マトイの、というより労働者階級以下の人間が口にする食事である。
この手のひらサイズの粘土の様なブロックは、一食で半日分の健康維持に必要な栄養素を確保することができる。20年程前に“労働者階級”用に開発された、安価で携行保存のしやすい、素晴らしい食料品だ。
「えぇぇぇ…」
絶句する少女を尻目に、ぱんぱんと手を叩いて汚れを払うと、マトイは侘しい食事の終了を宣言した。『忙しい日々を送る労働者諸君のために!』というキャッチコピーに恥じない、最速の栄養補給手段である。
「ほら、食えよ。腹減ってんだろ?」
マトイがそう言って促すが、ノーリはなかなか動かない。お偉い方々の食糧事情など知る由もなかったが、恐らくは今しがたのマトイの食事とは大きく乖離しているのだろう。代用コーヒーを飲もうとしなかったのも、普段口にするものよりも質が低すぎたからに違いない。
だがマトイの懸念を余所に、少女は欲求に屈服したらしい。
やがてノーリは、恐る恐る手の中のブロックをほんの少しだけ千切った。そして数秒間観察し、臭いをかぎ、意を決して口の中に放り込む。
「……!?」
桃色の髪が逆立ち、眼が見開かれ、顔中に汗が流れていく。鼻息が荒くなり、肩が激しく上下し始め、眼尻にはうっすらと涙が浮かぶ。
やはり、口に合わなかったようである。物心ついた頃からこれを食しているマトイにとってはどうということは無いが、“本当の食事”を知る人間には耐えがたい苦痛なのだろう。
差し当たり、食糧事情の改善が急務なのは間違いない。
マトイは眼の前で悶える少女の姿を鑑賞しながら、脳内の優先事項メモの第一項目に、『お嬢さんのお口に合う食料の確保』と深く刻み込むのであった。
――マトイ氏は、私の依頼を受けてくれた。
――後は首尾よく仲間たちと合流できるかどうかである。
――それまではずっとこのブロックを食べることになると思うと、酷く気が滅入ってしまう。