環状の世界・10
夕刻。
宿の一室に入ると、ナインはまず大きなマントをテーブルの上に放り投げた。そして息を殺しながら、部屋中を調べ始める。
石造りの壁をコツコツと叩き、天井を下から押し、戸棚の中を確認して、ベッドの下の床を撫でていく。広い部屋なので念入りに、それこそ舐めるようにだ。
そうしてたっぷり20分かけて室内をくまなく調べ上げた後、ナインはようやく緊張を解いた。
「よし、盗聴の危険性は無し」
そう呟いてから、おもむろにその場にしゃがみ込む。そしてそのままの姿勢で大きく息を吸い込んでから、全身をバネのようにして勢いよく跳躍。迫撃砲から打ち出されるように空中を舞う身体は、狙い違わずキングサイズのベッドへ落着した。
ぼふっ!
ベッドが激しく軋みながら、ナインの長躯を受け止めた。柔らかい感触の中で、スーツに皺がつくのにも構わずに、ジタバタと手足を振るってみる。
「くあ~、たまんねぇな……」
全身を包んでいた疲労感が少しばかり和らいでいくのを感じながら、ナインは絞りだすように呟いた。普段ならば絶対にやらないガキっぽい行為だが、たまにはこうしてはしゃぐのも悪くないものだ。別にハードボイルドを気取っている訳ではないし、敵地でずっと気を張りっぱなしでいるというのも心身に悪影響を及ぼしてしまう。
加えてここには、口うるさい団長様がおられないことでもあるし。
「……そういやアイツ、連絡してこないな」
ふとその事実を思い出し、ナインはピタリと悶えるのを止めた。
このフィエルに潜入してから今日で1週間となるが、その間にノーリと会話をした記憶が無い。初日は朝っぱらから口喧嘩をしたものだが、それ以降はまったく音沙汰なしだ。
任務に集中できるのはいいのだが、やや拍子抜けな気分でもある。
「……って、何を馬鹿な」
ほんの一瞬、“寂しい”などという感情が芽生えたような気がして、ナインはベッドの上に仰向けになった。
今のナインは、あのお嬢様のお守りに勤しむ使用人ではない。団の一員として、敵対勢力の内情を探るスパイなのだ。センチメンタルな部分は押し込めて、自身の為すべきことを為さねばならない。
ナインは、疲労のために下がりがちだった眼尻をきりりと釣り上げると、身体を起こしてベッドの上に胡坐をかいた。そして胸元のペンダント型デバイスを取り出し、機能の1つを呼び出す。
これから本拠地である城へと、メッセージを送るのだ。
「記録開始……本日の拠点は、このフィエルで最高と評される宿。部屋の広さはそこそこ、壁は厚くて音漏れの心配はない。ベッドはデカく、風呂場では湯が使い放題と、悪くないサービスだ。だが、空調やドライヤーを置いていないのに一泊2000マークというのは、ぼったくりだと思われる」
嫌味っぽく言いながら、ナインは室内を見回した。
埃ひとつ落ちていない程に綺麗に掃除された床。大きな姿見や彫刻、壁に掛けられた絵画などの豪華な調度品は、眼を愉しませてくれる。
しかし如何せん、利便性に乏しい。これから蒸し暑い夜を扇子でやり過ごさねばならないし、ラジオやテレビもないので戦意高揚番組で暇をつぶすことすらできない。フロントに頼めば控えている音楽隊が来てくれるらしいが、さすがにそこまでやる気にはならなかった。
ナインはベッドから降りると、脇のテーブルへと歩み寄った。そしてその上に無造作に引っかけられているマントを引っ掴むと、内ポケットの中から手のひらサイズの物品を数個取り出す。
「本日の戦利品は、ゴムを使ってないサンダル。それにトイレットペーパーの代用品に、本っぽいものだ」
言いながらナインは、テーブルの上に物品を並べていく。大きさも形もまるで統一感のないそれらは、ナインが市場で買いあさってきたものだ。一目で用途が理解できる品もあれば、何十分眺めても製作者の正気を疑うしかないものまである。
例えば服飾品などは分かりやすい。乾燥させた植物を編んで造られたサンダルは、その素材に反して丈夫だ。
反面、手のひらサイズのスポンジ状の物体の用途は驚愕である。なんと排便後にナニを拭くための道具だ。しかも洗って再利用するものらしく、宿の便所には必ず数個のスポンジが置いてある。濁った水でいっぱいになった瓶と一緒に。
極めつけは、長い1枚の布を巻き付けた棒だ。鈍器の一種にも思えるこれは、何とこの大陸における書物である。元の世界でナインが収集していた紙媒体の書籍ですら骨董品だったが、これはもはや歴史的な遺物と同レベルだった。
「いずれの品も、作りはしっかりしているが原始的だ。警邏をしていた兵たちの装備も同じだった。……無線すらないとは、どうやって遠隔地と連絡を取り合ってるんだろうな?」
このフィエルに来てナインが真っ先に注目したのは、軍関係者の装備だった。ナインの常識に基づけば、文明における最先端の技術が最初に向かう先とは、軍事力だからだ。
よく市場を歩き回っている兵たちを観察する限り、彼らは遠目にもがっしりとした身体つきをしており、身のこなしも訓練を受けたそれであった。しかしその装いは、金属製の鎧に、剣や槍といった近接武器ばかり。電子機器どころか、腕時計すら持ってはいなかった。
「製紙技術も存在していないことから、このゲルム帝国の科学技術の水準はかなり低いと推察される。少なくとも、恒星を囲む程の超構造体を建設可能なレベルには至っていない」
その推理を裏付けるように、この宿の設備や市場で流通している品々のすべては、手工業によって生み出されていた。
実際に、ちょっとした家具や食器、服飾品などの生産拠点を探ってみたのだが、せいぜい十数人からなる職人の集団が、1つ1つの製品を手作りしていたのだ。極端な例を挙げれば、民家のお年寄りが1人でせっせと木彫り人形を彫っているという始末だ。
工場制という概念すら芽生えていないなど、もはや存在自体が文化遺産レベルの国である。
結局のところ、ナインが1週間にわたってフィエルを調査した上で導き出した答えは1つ。
「“環状の世界”を創り上げた存在の技術水準と、この大陸に住まう連中とのそれには、まさしく天文学的な差がある。何か破滅的な事故でも起きて、文明が著しく衰退したのかもしれない」
城で捕虜を相手に情報収集をしている仲間たちも、すでにこの考えに行き着いているだろう、とナインは思う。
一応疑り深く、この“環状の世界”が超文明の創り出したリゾート地であり、ここの住人達は一種のロールプレイをしていると仮定をしてもみた。いわゆるゴッコ遊びをしている可能性についてを考えたのだが、市場を行き交う人々の会話をどれだけ盗み聞きしても、夜中に民家に忍び込んで記録物などを盗み見ても、そのような気配は微塵もなかった。
つまりこの大陸の住人達は、この作り物の世界の中で、本当に原始的な暮らしをしていることになる。
異常だった。
異常としか表現できない事態だった。
あるいは本当に破滅的な事故が起きていたとして、そこに留まる自分たちの身に危険はないのか。
考えれば考える程に分からなくなり、そして恐ろしくなってしまう。
「まあとにかく、この1週間で可能な限りの調査はした。……以上」
ナインは恐怖を振り払うように首を振ると、音声記録を終了した。即座にデータを転送してしまい、
ペンダントを懐に仕舞う。
考えることこそナインの理想の漢の姿であるが、ただ憶測を積み重ねるばかりでは無益だ。こんな風に弱気になってしまうのは、疲れているのと、何より空腹だからに違いない。
そう思い立ったナインは、早速スーツの内ポケットに隠し持っていた細長い円筒の容器を取り出した。水筒の様にも見えるそれには、ナインの携行食糧が入っているのだ。
「しかし、せっかく高級ホテルに来てるのになぁ……」
容器の中のペースト状の食糧を見つめながら、しみじみと呟く。脳裏に浮かぶのは、10分前の光景だ。
この宿にチェックインすると同時に通されたのは、やはり豪華な作りの食堂だった。無数の蝋燭の明かりによって照らし出された真っ白なテーブルクロス。鮮やかで色とりどりの花に、何処かから響いてくる落ち着いたリズムの楽曲。
夕刻だったためか、そこではすでに他の客が数名席に着き、晩餐を始めていた。まるで光り輝く様な衣服を身に纏った紳士や貴婦人たちが、上品な笑顔を浮かべて談笑し、愉し気に食事をしている。
その浮世離れした雰囲気に中てられ、ふらふらと入室したナインであったが、ものの数秒で踵を返すことになったのは言うまでもない。
何せ大きなテーブルの上に所狭しと並べられた皿の数々、その上に乗せられていたのは、丸焼きにされた動物の死骸やら草の盛り合わせやらの、正視に耐えないものばかりだったからだ。
さぞや名の知れた料理人が丹精を込めて調理してくれたのだろうが、臭いがキツイしグロテスクだしと、ナインにとっては食欲を減退させる要因しかない。自信満々で席を用立ててくれた支配人に断りを入れるのは気が引けたものだが、気分が悪くなってしまうのだからどうしようもなかった。
全体、この世界の動植物を異世界の人間であるナインが摂取するというのは、大変なリスクが伴う。初日に購入した果物を含めて、食料品も城へと輸送済みなのだから、この世界の料理を口にするのは、それらの分析が完了してからの方がよいだろう。
だから悔しくなどない。
いつもいつも流動食ばかりでは格好がつかないし、これを機にチャレンジするべきだったなど、気の迷いだ。
高い金を払ってるんだから、せめてワインくらいはいただいても良かった、などとはまったく思っていないのだ。
「ディナーのキャンセルができりゃ、もっと資金を節約できてたんだがな。……クソが」
悪態をつきながら、備え付けのスプーンでペーストをすくって口に含む。途端に広がる優しい甘さと食感に、ナインは一転して表情を和らげ、唸り声を上げた。
野菜や肉などがじっくりと煮込まれているので柔らかく、さらにえぐ味や臭みを抜いてあるので癖が無い。まだ限られた食品しか口にできないナインのためにと、麗しのメイド様が拵えてくださった一品だ。
最近、スープや粥の代わりに食卓にのぼってきたのだが、これもまたナインにとっては素晴らしいご馳走であった。心無い団長殿は、『離乳食みたいですね』などと仰るのだが。
「いやあ、やっぱり姐さんの料理は五臓六腑に染み渡るぜ!」
誰にも聞かれていないのをいいことに、必要以上に大声で感想を述べるナイン。実は1週間ぶっ続けで同じメニューなので若干飽きてきているのだが、そんなことを気にしていては金を無駄にした悔しさを紛らわせない。
「うまい」と連呼しながら容器を傾け、ペーストを口の中にかきこんでいく。そんな虚しい食事をしていると、胸元のペンダントが震え出した。城から連絡が届いているのだ。
誰からなのかは、おおよそ見当がつく。まあ、1週間もよく静かに待っていられたものだろう。
―やれやれ、せっかくのお楽しみの最中だってのに……
ナインは苦笑しながら、しかし即座に口の中のものを飲み下して応答する。
「なんだよ、お嬢さん。悪いけど、俺は今食事中で……」
『申し訳ありません。私です』
「……っと、姐さんでしたか」
またぞろ団長様が理由をつけてこちらを呼び出したのかと思っていると、予想外にも相手はタムであった。
ナインが思わず居住まいを正すと、それを見透かしたかのようにペンダントの向こうから可愛らしい忍び笑いが聞こえてくる。
『ノーリ様の方がよかったですか?』
「まさか、そんなことは無いっスよ! 俺はガキっぽいのは苦手なんで」
『あらあら。そういうことにしておきますが、ノーリ様の前でそんなことを言ってはいけませんよ?』
「……分かってますよ。ところで、何か問題でも?」
軽口を叩くのを止め、ナインは口調を改めた。
あのやんちゃなお嬢様とは違い、タムは実直な女性だ。常に職務に忠実で、無意味な行動をとることは一切無い。そんな彼女がわざわざナインに連絡を寄こしてきたということは、それが団にとって必要なことだからだ。
『はい。ノーリ様より、指示を預かっております』
「え、ノーリから?」
『はい。直ちにフィエルにおける潜入活動を終了し帰還せよ、とのことです』
「そうですか……」
答えながらも、ナインは内心で首を傾げていた。
その命令自体には、何ら不自然な点はない。この1週間でフィエルのことはかなり調査できたし、あの暗殺者集団の財布から拝借した資金も底をつきそうだ。帰還するタイミングとしては丁度いい。
奇妙なのは、その指示を何故ノーリ自身の口から告げないのかということだ。
ナインが入団してからうんざりするほどまとわりついてきたというのに、ここ数日はまったく言葉を交わしていない。本当ならばこの任務にまでついてこようとしていたあの娘にしては、不自然ではないだろうか。
『どうかしましたか?』
「いえ、了解です。直ちに城へ帰還します」
『では手筈通り、指示したポイントで合流しましょう』
タムはいつも通りの声音だった。だが返ってそれが、気にかかる。
別にナインとしては、ノーリお嬢様に対して想うところなど何もない。ただ静かになって、せいせいするくらいだ。
だがしかし。
何か、言い知れぬ嫌な予感を覚えてしまう。




