環状の世界・1
―メアリーの部屋っていう思考実験がある
―モノクロの部屋で育った物知りのメアリーが、初めてカラフルな世界に解放されたらどうなるかって話
―……あのときの俺は、多分彼女と同じくらいに衝撃を受けたんじゃないかな
「なんっだ、こりゃあ……」
城の玄関口。その大きな正面扉を開いた途端、眼前に広がった光景に、ナインは茫然としながら呟いた。やや切れ長の目が大きく見開かれ、弛緩した口がぽかんとだらしなく開きっぱなしになる。大切にしていた蔵書に誤って代用コーヒーをぶちまけてしまったのでもなければ、とてもしないような間抜けな表情だ。
しかしノーリはそんな阿呆丸出しなナインを嗤うこともせず、ひょいひょいと小走りに扉の外へと飛び出して行く。そして入口で硬直しているナインに向かって、ドヤ顔で勝利宣言をした。
「どぉおですか、ナイン!? すっごいでしょうが!」
「あ、ああ……すごいな、確かにすごいよ」
ナインはふんぞり返るお嬢様には少しも眼をくれず、感極まったようにため息をついた。
緑、そう緑だ。
ナインの眼前、つまりお嬢様の背後に広がっているのは、鮮やかな緑であった。濃緑、黄緑、すこし茶色がかった緑など様々だが、概ね統一感がある。
あの砂ばかりの荒野が無限に続く、終末的で寂寥たる光景とはまるで違う。それとは正反対の、有機的な何かを内包した、まるで生きているような緑の群体だった。
「うっ……」
ナインは後じさりながら、鼻と口元を手で覆った。未だ嗅いだことのない“味の濃い”匂いに、むせ返りそうになったのだ。視界を覆いつくす様な慣れないけばけばしい色も相まって、戦闘高揚剤によるバッドトリップに似た感覚に陥ってしまう。
ナインはぐるぐると回りそうになる頭の中で、精一杯に脳みそを回転させた。
いったい何が。何が起こったというのだろうか。
「ナイン、何をしてるんですか?」
混乱のあまり立ち尽くしていたナインに痺れを切らしたように、ノーリが駆け寄ってきた。こちらの反応が期待通りでなかったためだろうか、上機嫌だった顔が一転して不満そのものに変化している。実に子どもっぽい。
ノーリは呆けたまま動けないでいるナインに鼻を鳴らすと、その左手を乱暴に掴んだ。
抵抗することすら忘れていたナインは、覚束ない視線をノーリに向ける。
「なんだよ、どうした?」
「さぁ、ほら。行きましょう!」
「い、行くって何処にだ?」
「決まってるでしょうが、あの“森”へ入ってみるのです!」
「もり……」
耳に飛び込んで来た聞き覚えのある単語を、即座に脳内の検索エンジンへぶち込む。フリーズしかけていた頭脳を無理やりに働かせ、混乱から立ち直ろうとする。
森。
大戦が始まるよりもさらに昔、世界の環境が辛うじて人間以外の生物が生存できる水準だった頃に存在した、種々の樹木が密集している空間のことだ。その特性から、他の動物たちの住処にもなっていたらしい。してみると、この五月蠅い位の緑色の塊は、木やその他の“植物”と称される生命体の群れということになる。
―って、んなアホな話があるかよっ!
そのあり得ない答えを、ナインは自分自身で否定した。
メトロポリスの外に、いやそれ以前に、この世界に森と呼べるほどの植物が生存している筈がない。旧世代の無節操な開拓に、石油資源の枯渇。それに伴う大戦によって、重篤な破局的な環境破壊が行われたのは、ナインがこの世に生まれるよりも前の話だ。野生動物は勿論、植物どころか、すでに霊長類たる人間すら限られた空間にしがみつくことでどうにか生き長らえている始末だ。
ゆえに眼の前のこの光景は、現実にはあり得ない。夢幻としか表現できない現象だ。
ナインは頭を振ると、右手を口元から離した。そしてその手を、正面からこちらを見つめる少女の頬にゆっくりと優しく這わせる。
「えっ……?」
ナインのその行為の意図が理解できなかったのか、ノーリは眼を白黒とさせるばかりだった。ナインは伝わってくる柔らかな感触を確かめるように、指先に力を込める。
ぎゅっ!
穢れない真っ白な柔肌が、勢いよくつねり上げられた。
「ぴぎゃーーー! な、なにをするんですかっ!」
余程痛かったのだろう。ノーリが大きな悲鳴と共に、抗議の声を上げた。
ナインはその反応の強さに驚き、ぱっと右手を放す。そして素直に謝罪をした。
「あ、いや、すまねぇ。てっきり夢だと思って……」
「そんな訳ないでしょうが! それとそういう時は、まず自分のほっぺでやってください!」
ノーリが赤くなった頬を撫でながら、もっともなことを言う。それでも握った手を放そうとはしないお嬢様に、ナインは『いっそ夢だったらなぁ』と思うのだった。
現状に対して理解が追い付かないナインは、連れられるがまま緑の世界へと足を踏み入れることとなった。恐らく植物の一種と思われる、足元に広がる緑色の突起物の集合体に、腰まで“浸かり”ながら進んでいく。かさかさと軽い感触が足をひっかき、その度に強い匂いが撒き散らされた。
正にこの世のものとは思えぬ光景に何度も歩みを止めそうになったが、その度に団長殿は力強い言葉をかけてくださった。
「大丈夫ですよ、ナイン。私が付いてますからね!」
「お、おう……」
どうにも上からな物言いに聞こえるが、今のナインにはそれを気にすること余裕などあろう筈もなかった。ただただ落ち着かない心持ちで視線を上下左右に巡らせながら、ノーリの背中にぴったりと張り付いて行く。
何度かこうして2人で歩いたが、今ほどこの小さな背中と細い手に頼りがいを感じたことはない。
本来ならば立場が逆であるということを忘れる程に緊張しながら、ナインは未体験ゾーンを進んでいく。
不意に差し込んでくる光に身構え、風に揺らめく枝の影に視線を誘導され、遠くから聞こえてくる電子音に似た何かにびくりと肩を震わせてしまう。
まるで防護服も着ずに、重度汚染区域に入っていくような気分だ。だが不思議と、懐かしさを覚えてもいる。
それはナイン本人の記憶や、製造されたと同時に植付けられた他人のそれではない。もっと奥深いところにある、太古から脈々と受け継がれてきた遺伝子の中にある経験値。進化の過程で確かに触れたことのある大自然への、おぼろげな郷愁の念だった。
がさり
ナインが奇妙な感覚に襲われる中、草むらの向こうで何かが動く気配がした。
緊張のあまり普段の倍以上に鋭敏になっていたナインは、即座に懐のホルスターから熱線拳銃を抜き放つ。いつでも撃てるようにと、引き金に指をかけ……
ぴょこり
ナインが震える銃口を向けるその先に、何か小さいものが現れた。
それは手に抱えられる程度の大きさの、毛むくじゃらの生物だった。前足と後ろ足を入れ替えるように跳ねながら、こちらに近づいてくる。頭部についた二つの大きな突起物が特徴的なそれは……
「おや、兎じゃないですか。やはり”近い世界”だと、生態が似通るものですね」
「うさぎ? こ、これがか……?」
出現した生物に少しも驚かず、その正体を看破したノーリ。その背後に隠れるように後ずさりながら、ナインは必死に記憶のプールを掻き分けた。
兎。絶滅した草食動物の一種だ。
書籍によって大まかな外観については知り得ていたが、眼の前にいるこの生物は、抱いていたイメージとは少し違う。頭部の突起、つまり大きな耳という点は一致しているが、全裸なのはおかしい。何故“服を着ていない”のだろうか?
「何を驚いてるんですか、ナイン」
「いや、兎ったらアレだろ。青い上着を着て……」
「何を言ってるんですか、そんな兎がいる訳ないでしょうが」
「しかし、靴だって履いてないじゃないか。怪しいぞ」
自身の知る兎像とかけ離れたその姿に動揺を隠せず、強い警戒心を抱くナイン。それを尻目に、ノーリがすたすたと前に進み出た。草むらの前でこちらを見つめている兎さんへ、のこのこと近づいていく。
「おい、ノーリ!」
「大丈夫ですよ。ほら、こんなに大人しくてかわいいのに」
その不用意さに危機感を抱くナインだったが、ノーリはそれに構わず兎のすぐ目の前で立ち止まった。そして微笑みながらしゃがみ込むと、手の平を上にして差し出す。
兎はそれを怪訝そうに見つめると、小さな鼻をぴこぴこと動かしながら、ノーリの手に顔を近づけた。
「ほぉーら、よーしよしよし……」
ナインが戦々恐々と見守る中、ノーリは伸ばした手で兎を撫でようとした。
がぶり!
その瞬間、兎が大きく跳びはね、ノーリの手に噛みついた。
「ぴぎゃーーー!!」
「うおおおっ!? ノーリぃ!?」
ノーリが絶叫し、桃色の癖毛を跳ねまわらせる。ナインが慌てふためき、ノーリの元へと駆け寄る。
なんの前触れもなく狂暴化した兎は、ノーリが痛みのあまりに振り回す腕から即座に飛び退いた。そして離れた地面に着地すると、さっと草むらへと飛び込んでしまった。
脅威が去ったことに安堵したナインは、熱線拳銃を下げて愚かしいお嬢様の元へと駆け寄った。そして尻もちをついたまま震えている彼女の肩へと、空いている左手を置く。
「大丈夫か!?」
「へ、平気ですぅ……」
「そうか、よかった」
涙目で抑えている右手を、そっと覗き込んでみる。つい今しがた兎に噛まれた中指の先からは、うっすらと血が流れていた。かなり勢いよく噛まれたように見えたが、幸運なことに傷は浅そうだった。
「成程、実はヤバイ生き物だったんだな、兎ってのは」
「いや、そんな筈は……」
ナインは現実と書物で得た知識との差異を修正し、兎という生物に対して新たな脅威度を設定した。しかし今一つ納得がいかない様子のノーリは、愚図りながら首を傾げる。
すると。
がさ、がさり
草むらの向こうで、また何かが動く気配がした。
ナインは即座に、熱線拳銃の銃口をそちらへと向ける。
ぴょこり
現れたのは、兎よりも二回りほど大きな生物だった。やはり毛むくじゃらだが、こちらは足がすらりとしている。その突き出るような顔つきや、尻の部分のほつれた光ファイバーのような長い繊維の集合体が特徴的なそれは……
「おや、今度は狐ですね」
「きつね? こ、これがか……?」
新たに出現した生物にこれまた驚くことなく、その正体を看破したノーリ。もうその背中に隠れることもなく、しかしナインは若干後じさりつつ、記憶のプールを掻き分ける。
狐。絶滅した肉食動物の一種だ。
書籍によって大まかな外見については知り得ていたが、眼の前にいるこの生物は、抱いていたイメージとは少々違う。その流れるような尻尾や尖った顔つきという点は一致しているが、まずもって“四足歩行をする”というのがおかしい。
「何を驚いてるんですか、ナイン」
「いや、狐ったらアレだろ。二本足で立って、手袋をつけてるもんだろ」
「何を言ってるんですか、そんな狐がいる訳ないでしょうが」
「しかし、あんな前足じゃあ栗を抱えられないし……」
動揺を隠せないでいるナインを尻目に、ノーリがすたすたと前に進み出た。草むらの前でこちらを見つめている狐さんに、のこのこと近づいていく。
「おい、ノーリ!? 止めとけよ!」
「大丈夫ですよ。ほぉら、こんなに大人しくてかわいいのに」
つい今しがた痛い目を見たばかりだというのに、まったく警戒をしないノーリ。その様子を目の当たりにしたナインは、狐への警戒心よりもお嬢様への呆れの念を抱いてしまった。
ノーリは狐のすぐ目の前で立ち止まり、微笑みながらしゃがみ込むと、今度は噛まれていない左の手の平を差し出す。
狐はそれを怪訝そうに見つめると、尖った鼻をぴこぴこと動かしながら、ノーリの手に顔を近づけた。
「ほぉーら、よーしよしよし……」
ナインが戦々恐々と見守る中、ノーリは伸ばした手で狐を撫でようとした。
がぶり!
その瞬間、狐が尖った口を大きく開き、ノーリの手に噛みついた。
「ぴぎゃーーー!!」
「うおおおっ!? ノーリぃ!?」
ノーリが絶叫し、桃色のくせ毛を跳ねまわらせる。ナインが慌てふためき、ノーリの元へと駆け寄る。
なんの前触れもなく狂暴化した狐は、ノーリが痛みのあまりに振り回す腕から即座に飛び退いた。そして離れた地面に着地すると、さっと草むらへと飛び込んでいく。
脅威が去ったことに安堵しつつ、ナインは実に愚かしいお嬢様へと駆け寄った。そして、尻もちをついたまま震えている彼女の肩へと空いている左手を置く。
「あー、その。大丈夫か?」
「うぐぐぐ……」
「いや、分かった。もう帰ろう。な?」
優しく背中を撫でてやりながら、ノーリが涙目で抑えている左手をそっと覗き込んでみる。つい今しがた狐に噛まれた手の平にはばっちりと歯型が付いており、うっすらと血が流れていた。かなり勢いよく噛まれたように見えたが、食いちぎられずに済んだのは幸運と言えるだろう。
「森ってのは大分危険な場所のようだな。とっとと城に戻るぞ」
「あううう、そうしますぅ……」
ナインが肩を抱いてやると、ノーリは半泣きで立ち上がった。
まったく、何が何だか分からない。お嬢様の派手な余興に付き合ってやったと思ったら、今度は森の中で危険な生物と接触だ。痛い目を見たのはお嬢様だが、このままではこちらの神経が正常さを保てなくなりそうだ。
この愚かな娘の治療もしなければならないし、まずもって城に戻り、落ち着くことにしよう。
ナインがそう考えた、正にその時。
がさがさがさ
草むらの向こうで、またもや何かが動く気配がした。
最早驚きも怯えることもなく、ナインは流れるような動作で熱線拳銃を構えた。負傷し、疲弊したノーリを背後へと庇うのも忘れない。
ずしん
ナインが銃口を向けるその先に、何か大きいものが現れた。
それはナインを二回り以上大きくしたようなサイズの、毛むくじゃらの生物だった。ずんぐりむっくりとした体躯を揺らしながらのしのしとこちらに近づいてくる。前後の足の先から生えている長い爪と、だらだらととめどなく涎を垂らす口の中に見える恐ろしい牙が特徴的なそれは……
「お、おや。熊じゃないですか」
「……くまさんね、へいへい」
ぶるぶると震えながら、出現した生物の正体を看破したノーリ。しかしうんざりしてきたナインは、最早それに乗ってやるつもりはなかった。大袈裟なため息をつきながら、右手の指先に力を込める。
ばしゅんっ!
放たれた熱線が熊のすぐ足元の地面を穿ち、大穴を空ける。それに驚いた熊は巨体を跳び上がらせると、一目散に草むらへと飛び込んでいった。
「ナイン!? 何をやってるんですか!?」
「追い払ったに決まってるだろうが! まさかこの期に及んで頭を撫でてやろうってんじゃないだろうな? 腕を引きちぎられるどころじゃ済まねぇぞ!」
ナインはぶっきらぼうに言い放ってから、熱線拳銃を懐のホルスターに戻した。そして乱暴にノーリの腕を掴み、来た道を引き返す。
「ナイン、ひょっとして怒ってます?」
「ああ、怒ってるよ」
即答してやると、途端にノーリは肩を落とした。歩きながら血の滲んだ両手を握りしめ、唇を尖らせて俯いてしまう。どうやらナインの怒りの原因が、自分にあると思っているらしい。
『それは違う』と優しく言葉をかけてやろうとも思ったが、しかしできなかった。
この娘の負傷は、ナインが護衛としての職責を果たせなかったことに起因する。現状を理解しようと努めるあまりに、ノーリに迫る危険を払いきれなかったとなれば、監督不行き届きも甚だしい。
だが、それを認めることが業腹であるのも確かだった。
全体、この娘はナインにはない知識をひけらかすことで悦に入ろうとするきらいがある。此度の暴走じみた行動の理由も、そのあたりにあるように感じられるのだ。ナインとしては、お嬢様の身を守ることに否定的なわけでは無い。しかしそう言った癇に障る態度をとられることに、度々イラつくことも事実だった。
要するに、返報である。
―まったく、子どもっぽいのはどっちだよ……
自己嫌悪に陥るナインは、せめてとばかりに両手で傷心のノーリの肩を優しく包んでやる。
そんな2人の様子を、ただ天頂にある太陽だけが見つめていた。
―知識として知ることと、実際に経験することには大きな差がある
―俺の初めての“渡り”は、そんな感じで始まった




