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それは旅路の終わりか


『……り! しっかりしてください……!』

『駄目だ。奪われてる…………を……』

『そんな……なんとかならないんですか……!?』

『……にも、どうにもならない……』


 ああ、またこの夢か。と思う。

 強い倦怠の中、遥か彼方から降ってくる言い争いの声。酷く切なく、胸がきゅうっと締め付けられそうになる。しかし理由が分からない。どころか、声の正体すら判然としない。


『……ぜ!? ……うして、こんな……』

『こうするしかなかっ……』

『……んなのって、そんなのって……』

『ごめんよ……。ごめん』

『許しませんよ……! 一生、永遠に……!』


 二つの何かがぶつかるのが見える。ピンクと白。とてもよく似ているのに、はっきり違う何か。

 もう何度となく繰り返し見てきたやりとり。こちらからは一切干渉はできず、それゆえに内容も一切変化しない。普通なら飽きてしまうはずなのに、どうしてだか見るたびに、胸の内のセンチメンタルな部分が喚きだす。


「さて、どうかな?」


 別の声がかかる。この夢を見るときに必ず現れる奴だ。

 視線だけを動かし、虚空の中にその姿を捉える。長くしっとりとした黒髪を後ろでにまとめた少女。上はタンクトップに、下は都市迷彩の戦闘服というやつだろうか。まだ幼さを残すその容姿には少々不釣合いなのだが、不思議と『彼女はこれで完成している』と思えてならない。

 その少女が、訊ねてきた。


「何か感想はあるかな? 脳裏にひらめくものは?」


 これもまた、何度となくかけられてきた問いであった。そしてその答えはいつも、『分からない』であった。心が激しく動くのは感じ取れる。だがそれだけだ。


「そうか」


 少女は少しだけ哀しげな笑みを浮かべた。

 夢の中であるがゆえに、重力の影響を受けていないかのように宙に浮かびながら片膝を抱え、もう片方の足を伸ばす。さらに小首を傾げるという、蠱惑的な仕草をするが……しかしそれに対しては、『ミスマッチだ』という感覚を覚えてしまう。彼女には相応しくない。そう断言できる。


「これは失礼。以後気をつけるよ……おや」


 少女が姿勢を正そうとして、不意に虚空を見上げた。つられてそちらを見ると、ぶつかり合うピンクと白をかき消すような光が差し込んでくるではないか。温かい。それとともに、にゃぁにゃぁという聞きなれた鳴き声まで。


「今日はここまでにしよう。あまりこちらで独占すると、怒られてしまうのでね」


 苦笑しつつ手をふる少女の姿が、ぼやけて崩れていく。

 顔に変な感触がある。むずむずして、ちょっと痛い。






 目を開くと、まず現れたのは白くて小さな毛むくじゃらの生物だった。至近距離でさかんににゃぁにゃぁと鳴いている。顔全体がベタベタな上にズキズキするのは、舐められたからか。


「おはよう、チィちゃん」


 そう言いながら、やんわりとその生物―白猫を布団の上からどかした。上体を起こして軽く伸びをし、ぐるりと自室を見回す。いつもの八畳間。家具は机に箪笥タンスに本棚にとそろっているが、それでもなお殺風景。広すぎる。

 机上の時計を見れば、そろそろ六時になるという頃合い。チィちゃん、今朝も目覚ましご苦労様です。

 寝巻きの袖で顔を拭ってから布団をたたみ、押入れを開けて仕舞いこむ。それから着替えをするため、洋服箪笥ようふくダンスに手をかけようとしたところで、不意にふすまが開いた。

 

「おはようございます。トオキチさん、そろそろ朝食のお時間ですよ」


 まったく気配なく顔を出したのは、メイド服の女性だった。ボブカットされた黒髪に、胸の奥が暖かくなるような笑顔。この“お屋敷”でお手伝いさんをやっている、ヤエさんだ。


「おはようございます、ヤエさん。今日もお綺麗ですね」

「あらあら、ありがとうございます。チィ“様”も、おはようございますね」

 

 そう言って、足元の白猫をひとなで。すると白猫が上機嫌そうに、ごろごろと喉を鳴らした。朝日をバックになんとも絵になるワンシーン。今日も今日とて麗しい。

 メイド様がうなずき立ち上がる。


「それでは、居間でお待ちしております」

「はい。また後で」

「お召し物は片付けますので、置いたままで結構です。それと朝食には、必ずスーツをご着用の上で」

「……う。どうしてもアレ、着ないと駄目ですかね」

「ご当主様のご意志ですので」


 トオキチは直立不動の姿勢でメイドを見送った。ふすまが閉じられたのを確認してから、着替えを再開する。

 寝巻きを脱ぎ捨て、箪笥を開く。吊るされているのは、糊が利いた真っ白なシャツが数着とストライプタイが数本。それに一際目を引くのが新品の黒い上下のスーツだ。

 昨日届いたばかりのオーダーメイド。しかも百万円近くもするようなイタリア製の高級品。

 居候の身には余りすぎるし、汚しでもしたらとんでもないことになる。一切の財産を持たないトオキチとしては、気が引ける思いだったが……しかし当主様は『貴方のものですから』と譲らなかった。

 このお屋敷においては、当主の意志は絶対だ。タダで食わせてもらっている以上は従わねばならない。

 それに、もう一匹に対しても。

  

「にゃあ!」


 スーツの生地をじっとりと眺めていると、足元の白猫が鳴き声を上げた。催促しているつもりのようだ。

 仕方がない。覚悟を決め、袖を通す。すると全身を包み込むしっくりとした感覚。オーダーメイドなのだから当然だが、実になじむ感覚だ。

 ネクタイを締め、ボタンを留めたところで、待ってましたとばかりに白猫が跳びついてきた。下ろしたてのスーツにさっそく爪が立てられる。

 

「勘弁してくれよな、もう……」


 とは言え、無理やり引き剥がすこともできない。

 なにしろこの白猫、ヤエさんから“様”づけで呼ばれるだけあって、機嫌を損ねるとお屋敷中をひっくり返すような大騒ぎを起こすのだ。しかも幾人もいる住人のうち、不思議とトオキチに一番なついているときた。邪険にして暴れられて、それこそスーツを引き裂かれでもしたら一大事だ。

 毛だらけになるのもやむなし。抱きかかえてやり、そのまま居間へと向かう。


「おう、おはよう」


 廊下に出た途端、背後から声をかけられる。

 振り返るとそこには、巨木と見まごう程の大男が立っていた。きちっと整えられた短めの頭髪。壮年ながらもはちきれんばかりの逞しい肉体。トオキチと同じ高級スーツが、まるで拘束具のような有様になっていた。


「おはようございます、ケンジロウさん。なんでこんなところに?」


 トオキチの部屋は、お屋敷の中心部である居間から一番離れた、ほとんど隅っこの方にある。逆に彼の部屋は居間の近くだ。何か用事でもなければ、わざわざここにくる必要もあるまい。

 するとケンジロウと呼ばれた男が、窓の外を顎で示した。

 

「桜じゃよ。ほれ、ようやく咲いてな」

「え……ああ!」


 お屋敷の庭園の一画にある桜の木。

 暖かくなってきたのでそろそろかと思っていたが、今朝満開になったようだ。庭園には他にもいくつか木が植えられているが、桜はあれだけ。そしてその様子が一等よく見えるのが、このトオキチの部屋の前なのである。


「ワシぁ毎年、この時期を楽しみにしとるんじゃ。“気”が、生命力が満ち溢れるのが感じられる。なにより美しい。お前さんもそう思うじゃろ」

「ええ、そのとおりですね」


 トオキチは白猫を抱えたまま巨漢の隣に立ち、舞い落ちるピンクの花びらを見つめた。

 なんと幻想的なことか。それに、あの女性ひとの髪の色と同じでもある。端的に言って、とても好きだ。


「っと。それにしてもケンジロウさん。だいぶさっぱりしましたね」


 そう言って指差すと、ケンジロウが苦笑しながら後頭部を撫でた。


「応。ついにばっさりやられちまったからのぉ」

「男前になったと思いますよ」

「ワシはやはり落ち着かんがな。前の方が良かったわい」

 

 昨日まで彼の後頭部には、マゲのようにひっつめにした髪があった。だがテレビ映りが良くない上に、“野党”からしようもない人格攻撃を受ける恐れがあるということで、断髪されてしまったのだ。

 本当なら髭も伸ばしておきたかったらしいし、全体、スーツを着るのも御免とのことであったが、そういった身だしなみの一切は、彼の秘書によって徹底的に管理されていた。


「当然のことですわ。国会議員として、もっと自覚をもってもらわなければなりませんもの」


 と、ケンジロウの陰から一人の女性が進み出る。

 トオキチは驚きつつ頭を下げた。身体が小さく、ケンジロウの腰くらいの背丈しかなかったので、隠れて見えなかったのだ。

 

「あ、ナナミさん。おはようございます」

「おはようございますですわ、トオキチさんにチィさん」

 

 まるで中学生のような。否、下手をすると小学生と誤解されてしまいそうな見た目の女性が、上品に笑う。

 このナナミこそが、無精気味なケンジロウの尻を叩く辣腕秘書であった。女物のスーツをびしっと着こなし、縁の尖った眼鏡をくいっと持ち上げる様は、まさに仕事のできる大人の女。

 そのアンバランスな容姿もあわせ、現役与党議員のケンジロウとのデコボココンビぶりは有名である。


「ナナミよぉ。お前さん、あんまり酷いぞ。髭だけならまだしも」 

「駄目に決まってますでしょうが。顔見せを仕事にする人間が、だらしなくてどうしますの」

「人は見た目じゃねえ、大事なのは内面じゃ。こんなスーツなんぞよりも……」

「そういうのは、最低限を満たして初めて許されることですのよ。その最たるものが身だしなみなのです」

「……お前さんだって、髪がすっごく長いじゃろうに」

「私はきちんと結ってありますので。問題ありませんの」

「ちっ、もうええわい。とっととメシにしようや」


 数百人からなる反政府デモ隊に襲われた際、無傷のまま全員を返り討ちにしてしまったという逸話をもつ巨漢であるが、ことこの秘書に対してはまったく頭が上がらないようだった。とはいえ“家族”ということもあってか、仲は実に良い。

 うらやましい、と素直に思う。


「何を惚けちょる。行くぞ」

「今日もスケジュールがぎっちりですの。貴方も急いでくださいまし」

「あ、はい!」


 急かされる様に居間へと向かう。特にトオキチの部屋は隅にあるので、そこそこの距離を歩かねばならない。


 トオキチが世話になっているこのお屋敷は、帝都の大田区にあった。しかも住宅地の中に、一際大きな敷地を有している。もとからではなく、最近になって一帯の土地を買い上げたのだ。

 ふじのみや

 それがこのお屋敷に住まう人間たちがことごとく頂くことになっている名だ。ケンジロウやナナミはもちろん、お手伝いのヤエさんや、居候であるトオキチまでも名乗っている。

 それもまた、当主の意志だった。『みんな家族ですから』と。

 藤ノ宮家は、ほんの数年前までは落ちぶれた武家だったが、現当主に代替わりしてからは凄まじい隆盛ぶりであった。

 ケンジロウこと藤ノ宮健二郎は、その一例だ。世襲議員でもないのに当選と同時に入閣し、外務大臣を務めている。現在、“異界”との間に起きた悲劇的な初接触ファースト・コンタクトの清算をするべく、国内はもちろん海外に“異界”にと飛び回っているのだ。

 そんな訳で、政治・経済界のいずれにおいても藤ノ宮の名は知れ渡っている。

 

 なんだってそんな家に、身よりもとりえもない。どころか、“自分が何者かすら分からない”トオキチがいるのか。

 拾われてから三年経った今でも、まったく分からないままだった。

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