閑話・見知らぬ部屋で
―ムニャムニャ、マトイさん……
9号としては、不機嫌にならざるを得ない。
本来、個室で愛しの女性と2人きり、しかもベッドの上で身を寄せ合っているともなれば、最高のシチュエーションの筈だ。それを差し引いてなお、気分を害するというのだから、その原因であるところの0号は相当に度し難い振舞をしているということである。
「とどのつまり、だ。アイツが言うには、探偵というのは斯様な生き様の人間を指すのだそうな」
「左様で」
高揚が続いているのか、いつもより口調が弾んでいるように見える上官。しかしその隣で横になっている自分としては、“先の行為”の余韻が嘘のように冷めていく思いだった。
そうやって不貞腐れている9号を余所に、0号は講釈を垂れ続ける。
「頭脳明晰で沈着冷静。しかし、いざという時には驚くほどの行動力を見せる。何かあると慌ててばかりだった、あの大馬鹿者とは真逆だな」
「ほぅ」
「優れているのは推理力だけでない。彼は複数の武術も修めていてな。危険な悪党を追いつめ、叩きのめすのだ。……それを尊崇していたアイツの方は、腕っぷしが貧弱だったが」
「はぁ」
「それと、意外にも薬物や煙草を嗜好したりと、退廃的なところもある。あの阿呆も、似合わないのに紙巻き煙草を自作しようとして失敗していたろう? 偉大なる探偵に近づこうという涙ぐましい努力だな」
「それはそれは」
饒舌な娘に対し、9号は半目になって生返事を投げ返し続けていた。
いい加減にして欲しいところだ。旧世代のフィクションの人物とは言え、大洋連合加盟国の人間を持ち上げるだけでも辟易するというのに、その偉大なる人物でさえ枕詞に過ぎないのだから。
「……どうしたのだ、9号?」
さすがにわざとらしい態度に気が付いてくれたのか、一方的な会話ならぬ弁舌を打ち切り、0号が訊ねてきた。上目遣いに、こちらの感情を覗き込もうとするかのように顔を近づけてくる。
そのいじらしい仕草に心臓が跳びはねかけたが、9号は「別に」とつっけんどんに返し、いじけるように顔を背けた。
「おい、9号。こっちを向いてくれ」
打って変わって弱々しい声が掛けられた。同時に、ひんやりとした感触が、背中にぴたりと張り付く。
0号の手だ。あれだけ激しく運動した後だというのに、こんなに温度差を感じるというのは、彼女がそれ程に緊張しているということだろうか。あるいは、9号の方が怒り心頭で熱くなっているのか。
「9号、なあ頼むよ。何が気に入らんのだ?」
「……」
9号は勿体つけながら振り返ると、顔全体を使って不満を表現した。奥歯を噛み締め、口の端を歪め、睨みつけるような視線を向けてやる。
すると0号は酷く驚き、そして哀し気に眉根を下げた。怯えたように毛布を引っ掴み、裸体を隠すようにして引き寄せる。
「い、一体どうしたというのだ……?」
消え入りそうな声で呟いてから、縮こまってしまう。まるで外見年齢相応の、傷ついた乙女そのものだ。任務中の苛烈な彼女しか知らない者には、想像すらできない弱々しい態度である。
それを目の当たりにした瞬間に、9号の脳内が急激に熱くなった。
ある意味破廉恥ともいうべき欲望が、破滅的な勢いで膨れ上がる。
「何ともありませんよ。只ね―」
言うべきでないことは分かっている。
だがそれでも、見てみたい。
―この言葉を投げかけたら、彼女は、今度はどんな顔をするのか……
それは嫌悪や嗜虐的な感情などではなく、むしろその対極に位置する願望だった。
愛する女性のことをもっと、何でも、いっそすべてを知っておきたい。
そんな“幼い”純粋さからくる衝動が、9号に誤った選択をさせた。
「貴女の頭の中には、死んだ人間のことしかないのかと思いまして」
言い終えると同時に、9号の意識が暗転する。大地が揺れ、天が極彩色を放ちながら割れ、身体を揺らすような轟音が鼓膜を貫く。
それらがたった一瞬の間に訪れ、そして消え去った。
「……すまん」
「い、いえ……」
右手を抑えながら俯く女性の姿を、グラグラと震える視界の中にどうにか捉えながら、9号は心の底から謝罪した。横っ面を張られたということに気が付いたのは、10秒ほど経ってようやく視界が安定しだした頃からだった。
まったく、度し難いのは自分の方だ、と9号は思った。恋敵が到達しえなかった関係を上官との間に構築できたというのに、未だに死人に嫉妬をしている。
彼女の心の大半を占めているのは、1号なのではないか、と。
だからつい、子どもじみた酷い言葉を投げかけた。1号以上に恋人のことを知ってやりたいと思ったから。彼女を、心身ともに独占したいと願ったから。
「すみませんでした」
9号は、正に打ちひしがれたように背中を丸め、ベッドから這い出ようとした。すると0号に肩を掴まれ、引き戻される。
今度は凄い力だ。気を抜いていたために碌な抵抗もできず、伸ばしかけていた足ごとベッドに引きずり込まれる。
「こっちを向け」
「む……」
それでも合わせる顔が無いとばかりに俯き続ける9号だったが、その頭を両手でがっちりと挟まれ、無理やりに正面を向かされた。
見慣れた凛々しい表情に戻った0号と、再び眼が合う。
任務中にヘマをした時と同じように、今度は本格的に鉄拳制裁を頂くことになるのだろうか。
そう思った9号は、反射的に歯を食いしばり、背筋を伸ばす。
「すまない、9号!」
しかし意外なことに、先刻張られた左頬に向かって、拳骨が飛んでくることはなかった。
身を硬くしていた9号の前で、0号が深々と頭を下げて言う。
「その、あれだ。こんな状況でアイツのことを語るのは、お前の男としての沽券にかかわる大問題だったのだろう。だが私自身、受け入れきれていなかったのだ。ただ1人残ったお前がそうであるように、1号も数少ない同期だったのだから」
それきり押し黙った娘に対し、9号は先程以上に申し訳ない気持ちで一杯になった。
研究室の培養層の中から“産み出されて”から3年。長くも短いこの期間に、大勢の仲間が死んでいった。上官として、常にその責任と悲しみを背負ってきた彼女は、想像を絶する苦痛を味わってきたに違いない。
それなのに自分は、それを推し量るどころか、いらない気遣いをさせてしまうだなんて。
傷心の女性を慰める手段を知らない9号は、黙って0号の肩を抱いてやった。娘は抵抗する素振りもなく、9号の胸にその身を投げ出してくる。最愛の女性の存在を全身で感じながら、9号はただ彼女の小さな身体を受け止めていた。
9号や0号には、その無機質な名称が示す通り、他にも一桁の番号が振られた同期の仲間たちがいた。
ある計画の初期段階に“作られた”9号らは、実験的なモデルだったため、後輩たちに比して欠陥や弱点が多く、様々な原因で破損してしまったのだ。
訓練中の事故などはまだマシな方で、記憶の導入失敗による発狂死、再生能力の暴走による急性栄養不良、“出産”前に遺伝性疾患で廃棄処分されるなどという、救いようのない事例まである。
あまり格好はよくはなかったが、現在唯一戦場で死ぬことができた1号は、与えられた役割を全うしただけ幸福と言えるだろう。
「きっと私たちが死ねば、そのコピーが作られるのだろうな」
「外見だけですよ。“中身は別物”です」
胸元で囁く0号の頭を撫でながら、9号は答える。
9号たち初期ロットの経験値を基に製造されている二桁のナンバーズは、技術の進歩によって驚くほどの生存性の高さを実現していた。
だが、素直には喜べない。
二桁台の成果の影に、自分たち一桁台の犠牲があったというのも勿論ある。しかし最も2人の心を揺さぶるのは、続々と産み出されていく後輩らの顔が、死んでいった同期たちと瓜二つであることだった。しかし瓜二つなのは、外見だけで……
「9号よ、1つ頼みがある」
「なんですか?」
0号はゆっくりと身体を起こすと、対面に座りなおした。そして9号の手を両手で包み込むようにして持ち上げ、胸元へと引き寄せる。
ドクンドクンと、彼女の鼓動が指先から伝わってくるようだった。
「私のことを、どうか忘れないでくれ」
「……む?」
覚醒したマトイは、まずゆっくりと眼を開いた。視界に溢れる適度な光量の照明を頼りに、そっと周囲を見回す。
するとそこは、真っ白な世界だった。
蛍光灯に照らし出された天井、壁面、横になっているベッドを含む調度品。10㎡程度の整然とした室内のすべてが、白一色に統一されている。大戦中に何度か世話になった医務室と似た雰囲気だが、ここまでの統一感は最早病的にすら思える程だ。
「さて。どういう状況かな、これは」
独り言ちつつも、取り合えず自分の身体の調子を確認することにした。
両手両足に軽く力を入れ、指先を動かしてみる。すると毛布の端のあたりがぴくぴくと動いた。きちんとした感覚がある。思い切って持ち上げてみると、幻肢ではない本物の右腕が現れた。
しかしそこには、管が繋いであった。ベッド脇の点滴装置に吊り下げられた、何かの液体を投与されている。
「ちっ」
マトイはそれを乱暴に引きちぎると、上半身を起こした。白く薄っぺらい装束を着せられている他には、別段異常はなかった。拘束などは一切されておらず、薬物による苦痛や眩暈なども感じない。どうやら、軍警察によって囚われた訳ではないらしい。
現状が覚悟していた程には悪くないことにひとまず胸をなでおろすが、まだ安心するわけにはいかなかった。
―何処の何方様かは知らんが、こんなゴロツキの面倒をみて下さるとは、痛み入るばかりだな。
多少のひがみ根性を込めた思いを抱きながら、何方様に向かって「御親切に」と呟く。
これ程整った環境や備品を揃えるのは、スラムという劣悪な環境では不可能だ。それどころか、労働者階級ばかりの下層でも難しい。
となれば、ここの主人は……
改めて、真っ白な室内をぐるりと見渡すマトイ。するとその中に、世界の調和を乱すものがあった。
マトイの座るベッドのすぐ脇に、なんとも色鮮やかな桃色が。
「おっ……」
思わず声をかけそうになったところで、マトイは慌てて息を吸い込んだ。そして、その桃色を注意深く観察する。
妙にふわふわとしたその塊は、規則正しいリズムで揺れていた。耳をすませば、呼吸音も聞こえてくる。どうやら、無事だったようだ。
マトイは盛大にため息をつくと、その塊に向かって手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でてやった。すると桃色の塊から小さく、「ん……」という寝言が漏れる。
「お嬢さん」
せっかく自分を見舞ってくれたというのに、驚かせてしまうのはやぶさかなので、努めて優しく声をかけてやる。ややあってから、その桃色がもぞもぞと動きだした。癖のある髪がゆっくりと持ち上がり、その下から眠たそうな少女の顔が現れる。
この部屋と同じくらいに真っ白だが、健康的なピンク色に染まった肌の少女だ。
「……んぁ?」
「よぉ、元気か?」
少女は眼を何度かこすり、しばらく考え込むような素振りを見せた。
たっぷりと30秒。そろそろこちらからもう1度声をかけてやるべきか、とマトイが思い始めたところで、突然跳びはねるようにして椅子から立ち上がる。
「ま、ま、ま、マトイさんっ! よかったっ!」
薄ピンク色の肌をさらに上気させ、掴みかかるような勢いでマトイのもとに飛び込んでくるノーリ。何故か彼女も薄絹一枚という装いだったため、柔らかな感触がほとんどダイレクトに伝わってきた。
「お、おい! そんなに引っ付くなよ!?」
起き抜けの強襲を受け、慌てふためくマトイ。力づくで引っぺがす訳にもいかず、どうにか身をよじって逃れようとする。しかしノーリの方は構わずに、力いっぱいに密着してくる。
「心配しました! 凄く怖かったんですからねっ!」
「ああああっ! このっ」
空腹で力が出ないこともあり、遂にマトイは抵抗を諦めた。自分の本意ではないという意思を示すために、せめてと両腕を高々と掲げる。
そんな完全に無防備になってしまったマトイを、ノーリは力いっぱいに抱擁するのだった。
―ああ、無事でよかった!
―本当によかった!




