偏狭な世界・15
トリーという呼び名は、他の団員たちと同じ偽りのものである。
彼女が団の一員となったその日に、不死人の長から頂戴した字だ。
本名はトリー自身にも分からない。忘れてしまったからだ。自分自身が何者だったのか、その生い立ちも含めて。
いったい現在から、どれくらい過去のことだったろうか。
ふと我に返ると、トリーはまったく覚えのない場所にいた。
酷く崩れた遺跡の中。割れた天井から差し込む陽光を頼りに周囲を見回すと、そこには数人の若い男女が腰を下ろしながら、目を丸くしてこちらを見つめていた。
たぶん朝餉の準備でもしていたのであろう。鎧兜に身を包んだその連中は皿とスプーンを片手に、ひっくり返った鍋の上に立ち尽くしていたトリーに、物凄い勢いで詰め寄ってきた。
何者なのか。
何処から現れたのか。
何が目的なのか。
その他にもいろいろ。
残念ながら当時のトリーには、それらの詰問に対してろくな返答ができなかった。何せ名前すら覚束ない。自身の正体についても、彼らがこしらえたスープを台無しにした理由についても、皆目見当がつかなかったのだ。
―ただ何か、自分には大きな目的があって、その達成のために人生の大半を捧げていた。なんとなく、それだけは自信をもって言える。
ふんぞり返ってそう答えてやると、何故だかその連中にいたく気に入られた。
そして身寄りがないのだからと、グループに加えてもらった。これがトリーの最初の仲間だった。
それとその際、『不便だから』と可愛らしい名前をつけてもらったような気がする。たしか、ミュー……なんとか。もう随分と昔のことなので思い出せないが。
とにかく当時のトリーは、そのグループの一員となり、頭目から直々に技能を仕込まれた。
息をひそめ、足音を消し、気配を殺す技能。
遺跡に潜む危険な罠を、魔物を、そして宝を察知する技能。
そして、子どものように卑小な体躯であっても、十二分に脅威に立ち向かえる技能。
どれ1つとっても習得は容易では無く、トリーは途方もない時間を修練に費やすことになった。毎日毎日泣きたくなるくらいに反復訓練をし、仲間たちから助言をもらい、それでもときおり手酷い失態を犯しては、師である頭目からゲンコツを頂いて。
―もっと楽に上達する方法はないのだろうか?
そのように訊ねるトリーに、師は遠慮のない特大のゲンコツを下さったものだ。
『そんな都合のいい方法などあるものか。己を高めるのは、死に物狂いの努力だけだ』、と。
そんなこんなで三度目の春を迎える頃になると、ようやくトリーは一人前という評価をされるようになった。そして、自身を取り巻く状況にも理解が及ぶようになってきた。
どうも当時のその世界は、大破壊とでも言うべき災厄によって一度滅んでおり、各地に過去の人類の隆盛を示す何かしらが遺されているとのことだった。トリーが最初に仲間たちと出会った遺跡も、その1つだった。
トリーが所属するグループは、それらの遺跡に潜っては遺産を探し出す、いわゆる冒険者というやくざ者の集まりだったのだ。
始めの頃は留守番ばかりさせられていたトリーだったが、探索への同行を許されるようになると、自身の中に大きな変化を感じられるようになった。
―なんだろう、ここ。見覚えがあるような……
驚く仲間たちに、トリーは拙いながらも述べた。
―自分は以前にも、このガタガタの遺跡を訪れたことがある。もっとずっと、完璧な状態のときに
その意味不明な発言に、仲間たちはほとんど聞く耳をもたなかった。だが同じような遺跡に何度も潜っているうちに、だんだんとトリーの思考は鮮明になっていった。
記憶が、蘇ったのだ。
……ほんのわずかながら。
それによればトリーは、今よりもずっと過去の人間であるらしかった。つまり、大破壊よりも以前のそれである。ではなぜそんな者が、いまもこの時代に生き永らえているのか。
―そう。それは間違いなく、時間旅行によるもの!
呆気にとられる仲間たちに、トリーはそのように解説した。
―この時代に来る前の自分は、時空の秘密に迫ろうとした科学者であり、同時に被験者でもあった。つまり自分は、時空多様体に干渉する実験を行い、その過程で未来に飛ばされてしまったのだ!
それを裏付けるように、旧時代の遺跡に遺されていた様々な記録を、トリーは理解することができた。当然のことだった。それらはすべて、過去のトリーが管轄していた施設であり、そこに納められていたデータの一切は、トリーの研究に関するものばかりだったからだ。
その事実を耳にした仲間たちは、『なるほど、だからお前は“そう”なんだな』と、笑っていた。その時の笑顔は、なんだろうか。少しだけ、哀しそうだった。
それからまた長い年月が経ち、グループは変化していった。
いつも仲睦まじい様子だった男女の2人。名前が思い出せないのだが、とにかく笑顔で見つめ合ってばかりだった彼らが、結婚を機に冒険者を辞めた。パン屋を開くとか言ってたっけ。
すると後に続く様にして、どんどんメンバーが抜けていった。
なよっちくて、いつも魔導書を片手に独り言ばかりこぼしていた男。すごく立派なヒゲだった。名前は何だっけ? とにかく彼は、『お誘いを受けたから』と言って、有名な魔法研究機関の職員になった。
あと、逞しくて、いつもグループの前衛を受け持っていた戦士。すごく気のいいヤツだった。名前は……やはり覚えてない。とにかく彼は、『家業を継ぐ』と言って、故郷に帰ってしまった。大工だっただろうか。
そうして1人、また1人と数が減っていき、とうとうグループは頭目とトリーの2人きりになって。
そしてまことに残念ながら、ついにその頭目も……ああ、なんてことだ! 彼の名前まで忘れてしまっただなんて……!?
見ず知らずのトリーを受け入れてくれた頭目。
隠密技術のすべてを教えてくれた師。
そして、よき伴侶となってくれたあの男性。
皺くちゃで、ちいとも力が入らなくなった手をトリーの頭に置きながら、彼は今際の際にこう言ったのだ。
『遂げろよ、朽ちぬ娘。時の忘れ物よ。お前の探し物が、いつか見つかると良いな』、と。
恐らくは、過去に自分がしでかしたであろう、時空多様体への干渉実験の弊害。トリーの肉体は、まるで時間という河の流れの中ただ1つ取り残された岩のように、まったく変化をしていなかった。彼と出会ったその時から寸分たりとも成長せず、また老いもせずに。
―死という結果に帰着しないということなのか……
亀と俊足男の競争なんて例え話があるが、トリーの場合はそんな生易しいものではない。時が止まっていては、いずれ訪れるはずの結末も無限の彼方だ。
トリーは死なない。どれだけの時を経ても。仮に世界が滅んでも、トリーはそうはならない。永遠に、ずっと。
夫の死を看取り、途方に暮れたトリーは、悩みに悩んだ末に1つの結論に達した。
―ならば生きよう。懸命に。精一杯に
何より彼の遺言があった。トリーの中の、未だ蘇らない記憶の奥底には、大いなる目的が眠っているのだ。せめてそれを遂げるまでは、まっとうに生きてやろうではないか。
それからトリーは、放浪の旅に出た。たった1人で、当ても無く。
とはいえ孤独といのは耐え難かったので、ときたまテキトーなグループを見かけては声をかけ、潜り込ませてもらっていた。なにせ数十年がかりで鍛えた技能があるのだ。誰も彼もがトリーの腕を見込み、頼ってくれた。
だからトリーも真摯に応えた。己のもてる技術・技能を、新たな仲間たちのために存分に振るい、ときに伝授し、そしてまた研鑽し続けた。
そしてそんなことを何度も何度も繰り返して、世界中の遺跡を踏破してしまった頃。
トリーと似たような境遇の連中に出会った。
桃色の髪の少女。
ボロをまとった超人。
可愛らしい女神様。
『貴女も共にいきませんか?』
トリーは10秒ほど熟考に熟考を重ね、そしてその提案を受け入れた。
結局、世界中を巡っても目的が思い出せないのだ。ならばこの世界の外に、そのきっかけを求めるしかない。
そうしてトリーは、団の一員となった。
これが現在のところ、最後の仲間だ。
そしてこれからもずっと。ずっとずっと、そうあって欲しいと思っている。
「あが、あががが……?」
青少年の1人。レベルがどうの、カンストがどうのと言っていた“タカなんとか”さんが、声にならない声を上げた。その首には、細身の剣が突き刺さっている。
トリーのものだ。
「ひっ」
「ひとごろしっ……」
周囲の青少年たちが、引きつった顔で後退る。すると“タカなんとか”さんも、ようやく自身に起きた異常を察知したのか、喉元にそろそろと手を伸ばした。
直後、目を見開き、喚き出す。
「あぁーー!? ああっ、ああっ!!」
剣を握るトリーに向かって、懸命に身振り手振りで何かを訴えかけてくる。
トリーはわざとらしく数秒ほど首を傾げてから、「ああ」と頷いてやった。
「……喋りにくいの? ならすぐ抜く」
「なっ!?」
「馬鹿っ! そんなことしたら血がっ……!」
トリーが軽く力を込めると、剣はあっさりとすっぽ抜けた。青少年たちは顔を青ざめさせるが、別に何が起こるでもない。血が噴き出すようなことも、激痛に見舞われることも、ましてや絶命することも。
“タカなんとか”さんはしきりに首を撫でまわし、一切の傷がついていないことを確認すると、トリーを睨みつけた。
「なにしやがるんだ!? このクソガキ!」
「……別に。大したこと、してない。……貴方たちの言う、『無駄な努力』の結果を見せただけ」
トリーは剣を鞘に納めると、青少年たちに向かって茫洋とした眼差しを投げかけながら答えた。
「……細胞組織の隙間から剣の切っ先を差し込み……神経・血管・気管を避けて押し込んだだけ」
「な、なんだよそのデタラメなスキルは……」
「……スキル? たしかに技術や技能ではあるけど……貴方たちのお遊戯とは違う」
「お遊戯だと!? 俺たちのスキルが遊びだってのか!?」
「……違うの? レベルとか、ステータスとか……遊びと同じじゃない……」
ノーリの分析によれば、この世界の理の一部は、前の世界で手に入れた電子ゲームのそれと非常に似通っている。
すなわち、ゲーム内の登場人物の能力を可視化する手段としての、レベル・ステータス・スキル。それに経験値による成長システム。どうやら“異常者”の多くは、それと近しい力の恩恵を受けているらしい。
だがそれは決して、彼らを本質的に強くしている訳では無い。
そうでなければ、ドスを相手にしてももう少し健闘できたはずだ。
「最強だとか……無双だとか……努力してるとか、えらそーなこと言う割に、弱っちい。……それはつまり、ゴッコ遊びしてるだけだから」
「こ、こ、こ」
「この、クソガキ!」
「言わせておけば!」
「……違うの? ならなんで……今のに反応できなかったの? だいぶ、手加減した……けど」
真っ赤になっていた青少年たちが、えっ、と固まる。
今しがたのトリーの一突きは、ドスならば欠伸をしながら、二本の指でつまんで止めてしまえる程度の鈍さだった。ノーリでも白刃取りができたろうし、新参者のナインですら、ぎりぎりではあるだろうが、かわすことはできただろう。
だが彼らは、全てが終わるまで察知することもできなかった。
こんな体たらくで最強? 無双?
聞いて飽きれる。有象無象のボンクラどもめ。
「……貴方たちは、強くなったつもりでいるだけ。……努力してきたつもりでいるだけ。……目を開けたまま、夢を見てる」
トリーは、硬直したまま動けないでいる青少年たちの脇を、するりと通り抜けた。そしてそのまま振り返ることなく、ドスのもとへと向かう。
自分たちを辱めた少女が、無防備な背中を晒しながら、悠々と去っていく。その様子を見ていたであろう薄弱なる“異常者”たちは、遂に一度の反撃すら仕掛けてくることはなかった。
それは決して、トリーの見た目が年端もいかない少女だからとか、不意打ちという行為が卑怯だとか、そういった負い目じみた理由からではなかっただろう。




