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勇者と魔王の世界・30

―ベットは?

―バイラムよぉ

―バイラムかのぉ

―バイラムさんですわ!

―……バイラム……かな

―では、我はナインにしておくか



 廊下を一歩進むごとに、空気が張り詰めていくのが分かった。

 背筋にじっとりと張り付く悪寒。毛が逆立つような嫌な気分。

 軍人時代に何度も、そしてアクバル大統領の護衛官となってからも度々あったこの感じ。

 間違いない。ここはもう、危険地帯だ。

 ナインを捕らえているエレベーターへとまっしぐらに向かいつつ、バイラムは再び無線機に呼びかけた。


「そっちの様子はどうだ? ヤツに何か怪しい動きは?」

『いいえ、特には。大人しいモンですよ』


 即座に警備室でナインの様子をモニターしている部下が答えてくれる。信頼のおける戦友からの言葉だ、嘘や偽りはないだろう。だがまったく安心できない。

 理性とは無関係に研ぎ澄まされていく五感が、確かな異常を訴えてくる。今にも襲われそうだ、注意しろ、と。

 

―あのアホ共の世話の為に、最低限の人員しか残しておかなかったのは不味かったな


 いくらあの二世の関係者とはいえ―むしろ、だからこそとも言えるが―あいつらだけをアクバル大統領のそばにおいては置けない。だから通常は敷地内を巡回している部下たちを執務室に張り付かせていたのだが、奴らが無茶な注文をつけるものだからそのことごとくが使い走りに出されてしまった。

 大統領からも、『出来るだけ彼らの要求には応えてやって欲しい』と頼み込まれていたので、突っぱねることができなかったのだ。いっそ命令してもらえた方が職務の一環と割り切れただろうに、情に訴えてくるとは。


「あの方も、つくづく老いたものだな……」


 愚痴りながら廊下を進んでいると、ちょうど交差点になる位置に差し掛かった。このままここを真っすぐ行けば、あと5分も経たずに目的地に到着できる。

 しかしバイラムは、そこではたと足を止めた。


 “いる”。

 このすぐ近くだ。

 殺気が漂ってきているのが分かる。


 三度、無線で確認することも無く、素早く腰の自動オートマチック拳銃を引き抜く。そしてわずかに腰を落とし両脇を閉めて、身体を小さくするようにしてそれを構えた。

 近接戦闘クロース・クォーター・コンバットへの備えだ。普通の、腕を伸ばす形の射撃姿勢よりも取り回しがしにくくなるが、咄嗟に対応するにはこちらの方がいい。銃や身体を掴まれる心配が減る。

 それに作戦時とは違い、いま持っている拳銃のサイズは若干小さく威力が低いのだ。“敵”の身体の何処かにあてて怯ませることができれば、それで充分。


―敵、か


 果たして本当にあのナインなのだろうか。ここにきてバイラムの中に、妙な哀惜のような感情が生じた。

 そこそこに経験があるようだが、まだまだ技能的にも精神的にも未熟な青年。鍛えれば使える奴になっただろうに、なんとも惜しいことだ。あんなスィスの下についていなければ、声をかけていたかも……

 と、そこまで考えてから、バイラムは無為な思考を中断した。

 結局誰が相手だろうと、敵であるのならば容赦してはいられない。閣下の描く理想の実現まで、あともうほんの少しのところにまで来たのだ。例え相手が子どもであっても躊躇うものか。

 先ほどまでとは違い、慎重に一歩ずつ足を踏み出す。左右の通路からの襲撃を警戒。全神経を尖らせ、ありとあらゆる前兆をキャッチすることに努める。

  

 かたん

  

 そのとき、バイラムの聴覚がかすかな物音を捉えた。 

 左の通路にある部屋。扉の閉まっているその奥からだ。

 反射的に、そちらへ銃を構えようとするバイラム。だがそこで、先ほどから感じていた殺気が猛烈に強まった。

 “背中”の方からだ。

 

―ブラフか!?


 即座に振り向く。

 と同時に、眼前に迫る鋭い眼つきの形相。

 ナインだ!

 

「貴様!?」

「ぬぁっ!」


 青年が、真っすぐこちらに突っ込んで来る。

 完全な奇襲だ。だというのに、左脇に吊っている銃を使おうとせず、素手喧嘩ステゴロを挑んでくるつもりらしい。

 なんという馬鹿な男だ。つくづく殺すには惜しい……!

 ナインが右腕を振りかぶった。狙いは顔面のようだ。

 もう照準は間に合わない。構えを解き、左腕を突き上げてどうにかその攻撃を打ち払う。

 返しで方手だけで銃を構え、ほぼ相手に密着する形で引き金を引こうとする。

 だがナインも反応してきた。右手を思い切り叩かれ、銃を取り落としてしまう。

 固い音を立てて床を滑っていくポリマーフレーム・ピストル。しかしそれを眼で追うこともせず、バイラムは両腕を持ち上げて格闘戦の構えを取った。

 この男の腕力はなかなかのものだ。不用意に銃を拾いに行って組み伏せられては、すぐに力負けしてしまう。それにバイラムはスーツの下に防弾ベストを着込んでいる。ナインにあの小型拳銃を拾われて撃たれても、即死することは無い。

 ナインも構えなおした。

 腰を落とし、左手を突き出して右手を引き絞る。軍隊式格闘術というよりも、古の武術でいうところの“型”に見えるそれ。

 同じく元軍人だと思っていたが、勘違いだったのだろうか? 否、今はそれよりも、相手の一挙手に集中せねば。

 呼吸を整え、今度はこちらから攻める。

 低い姿勢になったナインに向けて、上から打ち下ろすようにワン・ツー。しかしどちらも左手でいなされ、返しの右拳を貰いそうになる。何とか回避。

 続けてロー・キック。だが脛でカットされる。蹴り足を戻そうとしたところで、逆に距離を詰められそうになる。それをバックステップでかわす。

 若いのになかなかやる。それなりに殴り合いをこなしてきたようで、間合いの取り方はまずまずだ。

 だが哀しいかな、バイラムには及ばない。


―本当にお前は馬鹿野郎だ。その程度で挑んできやがって……!


 バイラムは唸り声を上げながら跳びかかった。

 上段、中段、下段と狙いを細かく変え、さらにはフェイントを織り交ぜての猛攻を加える。

 ナインも懸命に追随し、防御しようとするが、しかし徐々にその表情に焦りの色を浮かべだした。反撃の手も緩んでいき、防戦一方になっていく。

 頃合いとみたバイラムは、一気に畳みかけた。

 ほとんど体当たりをする様にして左フックをぶちかます。それを受け止めきれずにナインがよろめくと、続けてそこに膝蹴りを放つ。


「がっ!?」


 ナインの両腕が弾き飛ばされ、ボディから顔面にかけてがオープンになった。ここぞとばかりに、渾身の右ストレートを叩き込む。

 だがここでナインも、必死の抵抗を見せた。崩れかけたバランスを立て直し、バイラムの右腕を両手で掴んでのけたのだ。

 拳がナインの胸板を叩く。だがほとんど威力が殺されたそれは、クリーンヒットには程遠い。


「とったぞ」


 ナインがニヤリと笑う。


「ああ、確かにな」


 反対にバイラムは、苦渋の表情を返した。

 そして、ナインのスーツの下の、左脇の辺りをまさぐる。……あった。

 こちらの意図に気づいたのか、ナインが笑みを消した。

 しかしもう遅い。掴まれたままの右腕をどうにか動かし、ナインの拳銃を掴み取る。たしか『形見』とか言っていただろうか。だが今この瞬間においては、そんな感傷は無用だ。

 照準の必要などなく左わき腹に銃口を突きつけ、そのまま引き金を引く。

 破裂音も。

 反動も。

 硝煙の匂いもしない。

 長い軍歴の中でもまったく経験したことのない、異様な程に軽い手応え。

 だが、確かに“とった”。

 ……かに思えた。


「……やりやがったな、テメェっ」

「なっ……!?」


 ほんの一瞬の硬直の後、ナインが再び動き出した。むき出しにした歯を食いしばり、掴んだバイラムの右腕を捻り上げ、逆関節を極めると……そのまま容赦なくへし折る。

 

「ぐあぁぁっ……」


 耳の内側から響いてくるような、ごきりという嫌な音。次いで襲い来る激痛。すでに全身を駆け巡っていたアドレナリンでも緩和しきれないそれが、バイラムの精神をかき乱した。

 続くナインからの追撃。腹部への膝蹴り。堪らず背を曲げたところで、さらに後頭部を殴りつけられる。

 グラグラと揺れる視界。定まらない平衡感覚。

 

―何故、どうしてだ?


 床にくずおれながらも、バイラムは不思議に思っていた。

 確かに奴の、左脇腹から下にかけてを撃ち抜いてやった。なのに何故、どうしてコイツはピンピンしているのだ。


「クソが。よりにもよって、これで撃ちやがって……」


 ナインが悪態をつきながら、バイラムの眼の前の床に転がっている、妙な形の銃を拾い上げる。勝利を掴み取ったというのに、その顔に喜色は一切浮かんでおらず、むしろ屈辱に満ち満ちていた。








 








 

 



 完全な奇襲だった筈なのに、バイラムの反応は的確だった。

 おまけに、部屋の中に隠れていたムハンマドに頼んで陽動までしてもらったというのに、接近しきる前に気づかれてしまう始末。

 トリー・センセイから気配を遮断する技術を学んではいたが、まるで生かせていない。格闘術の方もそうだ。ドスからしごかれていたおかげでどうにか渡り合うことができていたが、最後の最後で出し抜かれてしまった。

 所詮、不肖の弟子であるナインではこの程度ということか。


『お見事です、ナイン。無事に無力化できましたね』

「無事なもんかよ。ボロ負けだ」


 ペンダントから呼びかけてくるピャーチに対し、ナインは鼻を鳴らした。そして喉の奥からこみ上げてくる血を吐き捨てる。 

 先の熱線拳銃レーザー・ガンで撃たれた傷によるものだ。昨晩の整備のときに、あらかじめ威力を低めに設定しておいたので、どうにか再生が間に合った。もしも最大威力だったならば、今頃下半身が消し飛んでいただろう。

 俺を殺さないでくれてありがとうよ、相棒。


「またズルをしちまった。おまけにテメェの得物を奪われて反撃されるなんざアホにも程がある。真正面からやってたら、やっぱり負けてたろうさ」

『利用できるものを利用しただけでしょう。それに、ここに忍び込むために僕を利用しているのですから、その程度のことを気にするのもどうかと思いますが』

「はっ! よく言うぜ。お前、わざとコイツを見逃してただろ?」

『どういうことです?』

「とぼけんなよ。他の護衛官どもはきっちり進路上から退かしてくれたのに、バイラムのことだけはそうしなかったな。おおかた……」


 そこで扉が開く音がした。ムハンマドだ。部屋に隠れさせていたが、戦闘が終了したのを察知したらしい。


「おう、すまねぇ。待たせちまったな」


 ナインが声をかけるが、ムハンマドは答えなかった。黙ってこちらに歩み寄ると、床に転がっていたバイラムの拳銃を拾い上げる。


「ようやく会えたな、バイラム」

「……まさか、ムハンマドか?」


 その言葉に、昏倒していたバイラムがわずかに顔を上げた。未だに焦点の合わない両眼が、無精髭の男を捉える。

 その眼前に銃を突きつけながら、ムハンマドが言った。 


「この瞬間を待ちわびていたぞ」

―うーん、50点てとこねぇ

―詰めが甘いのぉ。30点じゃ

―おまけして60点ですわ!

―……0点……赤点……ぶー

―貴様ら、我よりも辛辣だな

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