夢の世界・8
もうどれくらい、ここにいるのだろうか。
陽の光の入らないこの地下書庫にて、エカテリーナはただただ黙々と魔法の研究に没頭していた。
すでに疲労も空腹も感じなくなり、時間の感覚すらあやふやになりつつある。だがそれでも、机上に積まれた書籍のページをめくる手は止まらない。
すべては望みを叶えるのため。自身の大望を、具現化させるため。
そのために、時間を無駄にはしていられない……
ランプの中の炎が揺らめく。
桃色髪の少女は、煩わし気に顔を上げた。
「姉さん、そろそろ休んだら?」
「ウラジミル……」
気が付けば、机を挟んだ正面に1人の少年が立っていた。
エカテリーナとお揃いのマントに帽子。そして、桃色髪。弟のウラジミルだ。手にした杖の先に“照明”の魔法光を灯し、こちらを心配そうに見つめている。
「いつからそこに?」
「さっき扉をノックしたんだけど、返事がなかったから。勝手に入ってきたんだ」
そのような気配は感じられなかったのだが、とエカテリーナは思った。どうやら随分集中していたらしい。
再び視線を手元の書籍に戻す。
「何の用です? 私は忙しいんですよ」
「いや、その。ずっとここに籠りきりだからさ。あんまり無茶はしない方が」
「別に、気にかけてくれなくったって結構ですよ」
エカテリーナは冷たく切り捨てると、懐から愛用の杖を取り出した。そして短く呪文を呟き、杖の先を発光させる。ウラジミルがやっているのと同じ、“照明”だ。初歩的な魔法ではあるが、こちらの方が明らかに輝きが強い。
エカテリーナは不要になったランプの火を吹き消すと、もう一度弟を見据えて言った。
「私のことより、自分のことを心配なさい。これから先どうやってこの学院で生き抜いていくのか、それを考えるべきでしょうが」
「う、うん。そうだね、ごめん……」
「ふん」
不機嫌そうに鼻を鳴らす姉を前に、しょげ返る少年。顔の傷に張られた大きな絆創膏も相まって、なんとも痛々しい。そう言えば、今朝方級友に打擲されたのだったか。
「……そうですね。少し、休むとしましょう」
不肖とは言え、実の弟に対してキツすぎたようだ。望んでのことではないとは言え、劣等性のために日常的に災難に見舞われる彼が、その窮地を救う姉に対して精一杯の気遣いをしているのだ。その意を酌んでやるだけの度量は、もって然るべきだろう。
「う、うん! まだこの時間なら、食堂は空いてるから! 一緒に夕食にしよう!」
「はいはい。そうはしゃぐもんじゃぁありません」
子どものように顔をほころばせるウラジミルに、少しだけ苦笑するエカテリーナ。するとウラジミルが、ふと思い出したように訊ねてきた。
「姉さんは、何故そんなに一生懸命に魔法の研究をしているんだい?」
「そんなの決まってるでしょうが。私の大望を叶えるためですよ」
「大望って? この学院には、講師を含めても姉さんに敵う相手なんかいない。ひょっとしたら、この世界で一番かも」
「そりゃぁそうでしょうとも。私は優秀ですからね」
「でもそれなのに、これ以上何を目指すの?」
「……」
そこでエカテリーナは立ち止まり、天井を仰ぎ見た。
大望。大望とは、何だっただろうか。すでに自分は、俗物たちが望むものをすべて手にしている。
家柄、富、そして有り余る才能。学院における評価は揺るぎなく、将来に対して何の懸念材料もない。
だというのに、これ以上何を望むのか。
いったい自分は何のために、取り憑かれたように研究に没頭しているのだろうか。
「姉さん」
思考の渦に飲み込まれそうになったそのとき、囁くような声が響いてきた。
「姉さんの望みを叶えるもの。それはほら、“これ”だろう?」
視線を戻すと、微笑を浮かべたウラジミルが、一冊の書籍を差し出してきた。
得体の知れない動物の皮による外装。かでかと刻印された『禁忌』という最大限の警告の下に、古の文字で表題が見て取れる。
エカテリーナは、頭の中に詰め込まれた知識をもとに、その名を読み解いた。
「超……魔法……?」
真っ白な虚無の空間で、ナインとチィは、新たな脅威と対峙していた。
未だに状況ははっきりとしない。だが眼前に立つ“コイツ”は、間違いなく敵だ。それだけは理解できていた。
「“夢幻”だと?」
「そうだ。この夢の世界の支配者にして、夢そのもの。眠りの中に究極の楽園を築く神だよ」
“夢幻”と名乗る存在が、そう言って大仰に両腕を広げる。それに対してナインは、歯を剥き出しながら応じた。
「御大層な口上だな。ここが夢の世界だと? それじゃあ今までの幻覚は、全部お前の仕業だったのか」
「厳密にいえば、幻覚とは違うんだが。まあ概ねその通りだ。ひょっとすると、同位体4号と名乗った方が分かりやすいかな?」
「同位体……!」
意味がないことだと知りつつも、ナインは身構えた。
同位体とは、団における最高戦力であるチィと、同等以上の能力を有する超存在を指す定義だ。ならばコイツは、その自称の通りの神ということになる。
「あの“貪食”と同じ、化け物ってわけか」
「おいおい。あんな品のない輩と一緒にするなよ、9号」
「その名で気安く呼ぶんじゃねぇよ。大体なんだよ、その格好は!?」
「おや、気に障ったかな。これは失敬……」
クスクスと嗤いながら、まったく誠意のない謝罪を述べる“夢幻”。
実に忌々しいことにその外見は、ナインの夢の中に登場した0号とまったく同じであった。かつて所属していた組織の戦闘服に身を包んだ、まだ十代くらいの少女。後ろ手にまとめられた長い黒髪が、愉快そうに左右に揺れている。
―あの夢の中で話した相手も、コイツだったのか……!
怒りのあまり、噛み締めた奥歯が砕けそうになってしまう。クソが。何のつもりか知らねぇが、人を弄ぶようなことをしやがって。
恐らくこの姿は、この“夢幻”とやらの本当の姿ではないのだろう。どんな意図があるにせよ、ナインを欺こうとしたことも含めて、到底許して置ける所業ではなかった。
「コイツには、自分ってものがないんだ」
今にも跳びかからんばかりに激高するナインを制するように、隣のチィが言った。彼女もまた、怒り心頭といった様子で、癖のある髪を逆立てていたが。
「コイツは、現実の世界には存在できない。こうして他人の記憶にある誰かの姿を借りないと、話すことすらできやしないんだ」
「その姿で言っても格好がつかないよ、守護女神。自分一人では行動できず、ノーリに依存することでしか自己を保てないくせに」
「なっ、何だとぉ!?」
「んなこたぁどうだっていいんだよ。何が目的でこんなことをしやがるんだ」
「……それはもちろん、君たちの団長のノーリだよ」
0号の姿をした化け物が、笑みを浮かべたまま答える。その瞬間ナインは、身体中の血の気が引いていくのを確かに感じ取った。
「ノーリが目的だと? やはり“貪食”のように、あいつを喰おうってのか?」
「人聞きの悪いことを言うなよ、危害は一切加えないさ。ただ彼女がもつ、“世界渡り”を手に入れたいんだ」
“世界渡り”。
ナインがノーリと出会うことになった原因とも言える、異なる世界への行き来を可能とする超魔法。あの団長様の、魔法少女としての本質だ。その尋常ならざる力は、ナインや他の団員たちにとってそうであるように、この同位体の目にも魅力的に映るらしい。
全体、どこぞの世界で女神サマをやっておられたというこのチィも、ノーリに惹かれてここにいるのだし。
何にしても、喰われるだの殺されるだのといった目に遭っていないのならば、一安心だ。まだ完全には信用できないが。
そうやって胸をなでおろしていると、“夢幻”が腰に手をあて、若干前かがみになった。そして下から覗き込むようにして、ナインの顔を見つめてくる。姿かたちこそ0号に瓜二つだったが、顔つきの方はまるで生まれたばかりのように無垢だ。不覚にも、ドキリとしてしまう。
「こちらにも聞きたいことがあるんだ。ぜひ教えて貰いたい」
「な、なんだよ」
「いや、実に単純な話なのだがね」
たじろぐナインに微笑みかけながら、“夢幻”が問うてきた。
「君はどうやって、気付くことができたんだ? 策は完璧だった筈だ。現に他の連中は、未だに幻想の世界を愉しんでいる」
「他の連中……団員たちのことか?」
「ああ。ドス、トリー、フィーア、スィス、セーミ、タム。そしてノーリ。夢見る力をもつ者たちは、いずれも虜だ。心のどこかでおかしいと感じていながらも、ここが現実だと信じている。なのにどうして君は、気付くことができたんだ?」
「……そんなに大したことじゃぁないさ」
0号の。否、“夢幻”の優しい優しい笑顔を見つめ返しながら。ナインは、絞りだすようにして言った。
「0号が死んじまったことは……大切な思い出だから。だから、おかしいって気づけたんだ」
途端に“夢幻”がキョトンとした表情になった。隣に立つチィまでもが、目を丸くしている。
「何だそりゃ? どうしてそれが、大切なんだ?」
「そうだな、矛盾しているよ。君にとっての想い人を亡くしたというのに、それを思い出などと」
「ああ、おかしいな。まったくその通りだよ。だが……」
「だが?」
「その時に感じたことは。あの気持ちは全部、俺だけのものだったからさ」
今でもはっきりと思い出せる。
ほとんど黒焦げの肉片のようになってしまった彼女の亡骸を抱きかかえたときの、あの吹き荒ぶような悲しみも。
回収した熱線銃の残骸を自室で眺めていたときの、あのやり場のない怒りも。
そして、どうあっても0号にはなり切れない、紛い物の代用品である100号を前にしたときの、あの底なしの虚無感も。
そのすべては、確かにナインの感情だった。
無理やりに植付けされた、誰かの記憶によるものでは断じてない。クローン兵の9号として生きてきた自分だからこそ知り得た、どす黒く染まった流血の如き負の感情。
だから、目覚めることが出来た。
0号の遺品から組み上げた熱線拳銃が見つからないだとか、存在する筈のない白猫にひっかかれたとかは、ほんのちょっとしたきっかけに過ぎない。
0号の死を受け入れたナインの前に、再び彼女が現れた。それこそが、この世界が偽りであることのなによりの証明だったのだ。
「そんな……そんなことが……?」
“夢幻”が信じられないとばかりに呻く。
「人というのは、辛い現実からの逃避を望むのではないのか? だからこそ、安直で御都合主義的な夢に逃げ込むのではないのか?」
「知らんよ。ただ俺は……そうしなかった。できなかっただけだ」
“夢幻”の言葉は正しい。時として人は、現実の辛さに耐え切れなくなる。そしてその結果として死を望み、あるいは薬物などで妄想や夢に逃避する。かつて暮らしていたスラムでは、そんなヤツはごまんといた。
―人は不快な記憶を忘れることによって自身を護る、だったか……
確かナインの世界の、心理学者だか精神学者だかの言葉だったはずだ。なるほど確かに辛い記憶を忘れるというのは、人が心を護るためには必要な行為なのかもしれない。だがナインには、それができなかった。なぜならば、そんな心を掻きむしりたくなるような辛い経験ですら、今のナインの人格を形作る大切な記憶なのだから。
「君は……強いな、ナイン」
「どうでもいいさ」
言いながらナインは、懐をまさぐった。すると、慣れ親しんだ感触が指に伝わってくる。即座に引き抜き、構える。
愛用の熱線拳銃。さっきまでは無かった筈のそれが、右手の中に納まっている。ここはまだ夢の中で、つまりこれは想像の産物でしかないわけだが……何故だかナインには、かつての想い人が護ってくれているように思えた。
「終わりだ、“夢幻”。ノーリを返してもらおう!」
「そ、そうだ! 観念しろ!」
ナインとチィが、揃って叫ぶ。すると“夢幻”は、ゆっくりと頭を振った。
「いいや。そうはいかない」




