メトロポリス・10
――え、ちょ
――ぐぇ
危険な連中に囲まれ、知っている情報をよこせと脅されたならば、どのように対応するのが正解なのだろうか。
当然、素直に応じることこそが、生存のための最適解だ。力ある者に反抗することは、即座に死の危険へと直結する。ことに、この無法地帯においては尚更だ。
「ノーリ、という女性。知ってるでしょ?」
小型投影機を片手に小首を傾げる小娘が、じっと虚ろな眼を向けてくる。
素直に応じてやることができれば、どんなにか楽なのだろう。奥歯を噛み締めながら、マトイは逡巡していた。
―おいおい、まさかあの娘を売っちまう気か? こんな得体の知れない連中に。
―仕方ねぇだろ。探偵だ何だと嘯いたところで、所詮俺は労働者未満のチンピラだ。
―初めての依頼人だぞ? それでも男かよ。
―男も女もあるか。自分の身を第一に考えて、何が悪いってんだ。
矜持と理性。マトイの内の相反する二つの思考形態が、真っ向から対峙する。
しかし前回とは違い、危機が顕在化したこの状況にあっては、最早ちっぽけなプライドに勢いなどない。
「どう、なの?」
投影装置を持つ少女、トリーが、こちらを覗き込むようにして訊ねてきた。相変わらずとぼけたような表情をしているが、その眼はマトイから離れない。
下手な返答をすれば、容赦なく腰の物騒なものを引き抜いて襲い掛かってくることだろう。すでに一度出し抜かれていることもあり、容易く応戦できる自信はもてない。
加えて、マトイと彼女との距離は2メートル程度だ。間違いなく、レイピアの間合いに捉えられている。圧倒的に不利な状況だ。
「大人しく白状なさった方が、貴方のためにもよろしいですわよ」
トリーに追随するようにして、背後からも言葉が投げかけられた。続いて、ごがん、ごがんと、催促の地鳴り。声の主が、あの馬鹿みたいに巨大な杖で、地面を叩いているようだ。激しい振動に見舞われ、足が震える。
「さっさと答えなさいな」
「セーミ様、落ち着いてくださいませ。萎縮して閉口されては、元も子もありません」
黙考するマトイに焦れてきたのか、セーミと呼ばれた少女が急かすように言う。
有難くも、それをたしなめてくれるメイド服の方はさて置いても。ドでかい鈍器を片手で担いで疾走してくるお嬢様もまた、頭の痛い材料だった。アスファルトを砕く程の一撃を振舞われた日には、全身の骨が粉砕されてしまうことだろう。
それで“死ぬことは無い”にしても、とても抵抗できるとは思えない。全体、実力者たちに完全に挟み撃ちにされた今、どれだけの選択肢があると言うのか。
…ああ、なんだ。こいつらに捕まった時点で、答えは決まっていた訳か。
凶悪な重圧の板挟みに遭い、とうとうマトイの心が悲鳴を上げた。
そうだ、それこそが賢い選択。もとより、知り合って数週間程度の間柄。身の安全が担保されるのであれば、後ろ髪を引かれる程のこともない。全体、あの小娘が転がり込んできてからというもの、平穏な生活はズタボロだ。この妙ちくりんな連中が引き取ってくれるというのなら、万々歳ではないか。
「俺は…」
卑屈な決意が、マトイの口を無理やりにこじ開けようとする。
プププーーーッ! ププーーーッ!
正にその折。修羅場を完全に静止させたのは、甲高い奇妙な電子音であった。音源は、マトイのコートの胸ポケットである。
気の抜けた音程に緊張状態にあった空気を乱され、マトイを囲む3人が首を傾げながらお互いを見やる。
だが。マトイだけは、顔を引きつらせていた。
クソが。このタイミングで。
再び3人の注目が集まるのにも構わず、マトイは苦虫を噛み潰したような表情になった。
この電子音は、救難ビーコンが発信されたことを示すものだ。マトイが護衛対象であるノーリに持たせ、緊急時に起動するようにと言い含めておいたものである。
それがたった今、起動した。
つまり彼女が。
初めての依頼人であるノーリが、マトイに対して助けを求めているということである。
その瞬間マトイの脳内で、癖のある桃色の髪が跳ねた。
上から目線で説教を垂れる、偉そうなツラ。
こちらの顔を覗き込みながら浮かべる、満面の笑み。
人前で腹の虫を泣かせてしまったことを恥じる、情けない表情。
そして。
初めての依頼をくれたときの。あの、縋るような。『どうか、見捨てないで欲しい』という曇り顔が。
泡沫の様に浮かんでは消え、消えては浮かんでいった。
「知らねぇな」
気が付くとマトイは、そう口走っていた。
『しまった』と思うよりも早く、正面に立つトリーという少女が、スッと眼を細める。きっと背後の2人も、恐ろしい表情になっていることだろう。
彼女の手元の装置から投影される映像から眼を反らし、マトイは腰を落とした。動揺を悟られないようにと顔を俯け、地面に散乱した菓子類を拾い上げて袋に詰め込んでいく。
だが内心は、焦りと恐れでパンク寸前だ。突き刺さる様な視線に、悪寒が止まらない。
ああ、なんてこった。やっちまったな。俺は救いようのない大馬鹿野郎だ。クソが。クソクソクソ…
ノーリ嬢が聞いたら髪を逆立てそうな罵詈雑言を、胸中で何度も喚く。その益体もない自己批判の単語が、不思議と沸き立つ心を少しだけ鎮めてくれた。
最悪の選択をしちまった。だが、それがどうしたってんだ。死に損なってここに流れ着き、グダグダと生き続けることが最善だってのか?
マトイの中のちっぽけな矜持が、ゆっくりと頭をもたげる。
依頼人を売るような行為は、マトイの信ずる探偵として。いやそれ以前に、人として、1人の男として許されるものではない。ギャング相手に粋がる屑へと身をやつしてはいるが、その一線を越える程に落ちぶれてはいない。
それに、ノーリ嬢とこの3人の女供は、間違いなく異なる存在だ。それこそ、“住む世界が違う”。
短い付き合いだが、あのノーリ嬢は、自身の安寧のために他者を犠牲にするような冷酷な人間ではないと断言できる。しかし、この3人は違う。マトイと同じく、必要とあらば自らが生き抜くために他者の“何か”を奪うことに踏ん切りをつけられるか、あるいはすでに躊躇することを止めたタイプだ。
根拠などない。人間観察など碌にしたことのない名ばかり探偵であっても、極限状態を経験したからこそ感じ取れる、言語化できない様な本質を理解することはできるのだ。
あのお嬢さんを、こんな連中なんぞに渡せるか…っ!
そんな精神的支柱に縋り付き、振り回すことで、脳内でがなり立てていた理性を吹き飛ばす。
どの道、正直に白状したところで、そのままあっさり『はい、さようなら』ができる保障もないのだ。
こうして相手方が直接訪ねて来た以上、知らぬ存ぜぬは通らない。向こうはどんな手段に訴えてでも、こちらから依頼主であるノーリの所在を聞き出そうとするだろう。
全体、あのお嬢様は、大勢の浮浪者たちに金を支払ってマトイを探し求めたのだ。この連中が、その経緯を掴んでいない筈がない。誤魔化すことなど不可能だ。
それならば…
「さて、話は終わりかな? 中々楽しかったよ。それじゃあ、飼い猫に餌をやる時間なんでな」
覚悟を決め、マトイは立ち上がった。瞑目し、これから起こるであろう更なる悶着に向けて、気を引き締めるつもりで息を吸う。
「嘘、よくない」
「…っ!」
眼を開いた瞬間。喉元に伝わる冷たい感触に、マトイの背筋が凍り付いた。
投影装置を持っていたトリーの手が、代りに腰に吊ってあった筈のレイピアを握り、マトイにそれを突きつけていたのだ。
何という恐るべき速度だろうか。眼を瞑ったのはほんの一瞬だったというのに、その一瞬のうちにこの少女は剣を抜き放ち、構えたのだ。薄々感じ取っていた通り、尋常の存在ではない。
「子ども、と油断した? 甘い」
トリーの口調は、やはりとぼけたような雰囲気だった。だが、その小さな身体に纏う雰囲気が一変している。指一本動かせば、即座に首を刎ね飛ばすと言わんばかりだ。
袋を抱えたまま動けないマトイの首筋に、ピタリとレイピアの刃が当てられる。その異様な冷たさに、マトイは思わず唾を飲んだ。その拍子に、少しだけ喉が動く。視界の端で、レイピアの剣筋から赤い液体が滴るのが見えた。
「言わないなら、身体に、聞く」
「拷問でもしようってのかい?」
「…苦手、だけど。仕方、ない」
鋭利な刃先が、つい、と動き、今度はマトイのすぐ眼前で静止する。お決まりのパターンだ。マトイが観念してノーリ嬢の居所を吐くまで、嫌という程痛覚を刺激されることになる。
重傷を負ったことは何度もあるが、取り立てて苦痛に対して抵抗力をもっている訳ではない。いずれは限界がきて、許しを請うことになるだろう。
しかし、そんな無様な姿を晒す気にはならない。何よりマトイの依頼人は、今この瞬間に危機に直面しているのだ。
こんな下らないことで時間を割く訳にはいかない。ならばいっそ、今“殺してもらう”方がマシだ。
「…やれよ」
マトイの言葉に、トリーが眼を見開いた。
「やれ。拷問なんざ無駄だ。とっとと殺せ」
「むぅ…」
初めて少女が、迷うような仕草を見せた。剣先はマトイの眼に突きつけたまま、顔をぷいっと反らしてしまう。眉根を寄せるその表情は、なんとも不機嫌そうだ。
「…強がり」
「どうでもいいからよ。とっととやれや」
「貴方! ふざけるのもいい加減になさい!」
「大真面目だよ。グダグダやってる暇なんざ…」
脅し着けておきながら一向に手を出さない少女たちに、今度はマトイの方が苛立ちを募らせる。こうしている間にも、ノーリの身が危険に晒されているのだ。こうなれば、少々強引にでも。
マトイは、やや大げさな仕草で、ゆっくりと右手を動かした。
懐へと伸びていくそれを見逃す筈もなく、トリーが制止しようとレイピアを…
『いつまでグダグダやってんだぁ!?』
突如。耳障りなハウリングを伴い、裏通りの向こうから増幅されただみ声が響き亘った。
その直後に、ドスンドスンという重たい音が、まるで歩行しているかのようなリズムで近づいてくる。
「今度は何だってんだ?」
マトイを始め、一同は揃ってその音源に眼を向けた。
瓦礫を踏み砕いて現れたのは、人間を二回り程巨大にした様なシルエット。ギチギチと悲鳴じみた軋みを上げるのは、手の部分ににょっきりと生えた巨大な鋏。
『機械人形!?』
「人型重機か!」
瓦礫を蹴り飛ばしながら歩み寄ってくるのは、下層の工業プラントで使用されている作業機械だった。
腕部の金属製のフォークで貨物を掴み、二足歩行で様々な地形を移動できるという柔軟性。棺桶状のコックピットに納まった搭乗者の動きを、正確に模倣する簡易な操作性。その特徴的な外観から、人型重機と呼ばれる作業機械である。
「会いたかったぜぇ、マトイぃぃぃ」
人間でいうところの頭部。人型重機の操縦席から顔を覗かせていたのは、見覚えのある男だった。
「テメェは…」
眼を血走らせ、口からとめどなく涎を垂らす有様。こけた頬と、ひっかき傷だらけの禿頭には、見る影もない。だが、そこに彫られた淫猥なタトゥーと、ピアス痕と思しき無数の穴には、かつての名残がある。
「ぶ、ぶ、ぶっ殺して、やぁるぜぇぇぇぇ」
怪しい眼つきでマトイを見つめ、呂律の回らない予告をかますその男は。つい先日お付き合いのあった、サイボーグ崩れだった。




