ココアとスコーン、おほしさま、そして書きかけの日記
その夏は、いまでも鮮明に覚えている。空や海がどんな色をしていたのかも、波音と海鳥の鳴き声も、どんな曲を聴いて、どんな本を読んでいたかも。どのひとこまも、色褪せずにただはっきりと、こころに刻まれている。
なぜ、それほどまでその夏が強烈な印象を残したのだろう。
すべての始まりは、きっとあの手紙だった。
その日、ぼくは昼過ぎになってからやっと目を覚ました。そうというのも、前の日に遊び過ぎてしまったから。
リビングに行くと、兄ひとりがいて、いまから出掛けてくるのだと言った。兄に言われたとおりに冷蔵庫を開けてみると、たまごサンドとチキンサラダが余裕を持って真ん中の段の、一番目がつきやすい場所で、ラップに包まれてぼくを待っていた。
昼下がりの朝食を食べ終えたあと、着替えてから、歯磨き、トイレを済ませてから、外に出た。
とくに意味があったわけでもない。ただ、すこし歩きたかった。
一歩踏み出すたびに、サンダルがぺたぺたと音を立てる。
気持ちのいい日だ。汗ばむのは夏の常だとすると。果てしなく青い空。すぐ近くに見える海は、日の光を受けて、きらきらと、さざ波を立てる。
聞こえてくる様々な自然の音。目を閉じて、空気を思い切り吸ってみた。潮の匂い。あの、独特な香り。目を開けると、ここからすこし離れた砂浜に、人影が見えた。
それは、間違いなく彼女だった。
りりーだった。
彼女はスケッチブックらしきものに、夢中で何かを描き込んでいるようだった。潮風が髪の毛をもてあそんでいるのにも構わず、その目線は手元にとまったままだった。こちらがじっと見ても、気づかれる感じはなかった。
なにを描いてるんだろう。気になりつつも、近づく気にはならなかった。彼女とはそれほど親しくないし、何より、彼女の傍にいると、文字通り居心地がよくない。
彼女の姿を横目に、海沿いの道の散歩を続けた。一番近い場所にきたとき、彼女の横にふたの開いた大きめのかごが置いてあるのが見えた。そのなかには、絵の具や雑多なものと一緒に、箱に入ったサンドイッチがそっと横たわっている。
彼女も、きっとこの気持ちのいい夏の日をたのしみにきたのだろう。
ゆっくりと散歩して家に帰ると、もう夕暮れ時で、家族も帰っていた。母と姉がもう夕食の準備を始めていて、キッチンはいい匂いに包まれていた。
夕食のあと、自分の部屋にいって椅子にもたれて音楽を聴いているうちに、いつのまにか、眠りにおちていた。
一度、目を覚ましたときは真夜中で、透かし模様のカーテン越しに月が明るく光って見えた。また目を閉じて、次に目を開けたときは薄暗い青が目に飛び込んできた。その色に、なぜか心ひかれて、起き上がってベランダへと向かった。
ドアを開けて踏み出すと、雲の広がった空の割れ目から、朝日がゆっくりと顔を出してくるのが見えた。紫、紺から薄い青、ピンク、オレンジ、そして黄色に色が広がっていく。涼しさの残る早朝に、そっと熱を吹き込みながら。
新聞の配達をしているひとだろうか。自転車で、あちらこちらの家へとまわっては、郵便受けに投函していく。うちにもまわってきたとき、じっとその様子を見つめていると、こちらに気がついたようで、かるく会釈してくれた。こちらも会釈を返した。帽子を目深に被り、肩にひとつの三つ編みをたらした女性だった。
新聞を取りに、階段を降りて外へ向かった。新聞を取りだそうと、郵便受けを開けた。すると、
白い封筒に入った手紙らしきものが足元に、ひらりと落ちた。拾って、宛名を確認する。
ぼく宛だった。差し出し人は、ぼくの知らない人。
開けても大丈夫なのだろうか。すこし不安が胸を掠めたけれど、好奇心の方が勝った。
ばくは、その手紙の封を開けた。