いつまでも一緒に
ドア以外、壁一面が書棚となっている沢木の書斎。部屋の中央には大理石の天板が乗ったアンティーク調の机が置かれている。 机を挟んで向かい合わせに置かれているのは、背面と座面が赤い革張りの椅子だ。
座っているのは沢木と、ひろみ。
書類の束に見える製本途中の本をひろみに差し出す沢木。
「なかなかの出来じゃないかな」沢木が満足そうに言う。
「なんか感慨深いです」紅潮し、本を手に取り、パラパラとめくるひろみ。
「いや、だがまだ早いぞ。表紙を付けて初めて自分史の完成だ」
「そうでした。表紙の候補の紙を、紙見本から選んで何種類か持って来たんです」
バッグから数枚の紙を取り出し並べるひろみ。
「自分史の完成品はまさしく君自身。楽しみだね」
「自分がどういう人間かをこんなに考える時間なんて、もうないかも」ひろみがゆっくり頷いた。
「もうないと考えると真剣度も増すだろうねえ」
ひろみが並べた紙見本を一枚ずつ掲げるようにして、見え方の具合を確認する沢木。
「じゃあ何十年かしたら、また個人レッスンしていただけますか」
「その頃、生きてたらね」
沢木、フッと笑って机の上の砂時計に目をやる。
「先生には当然、ご存命でいていただきませんと」
「そうありたいものだね」
沢木の目線を追って、砂時計に目をやったひろみ、沢木に尋ねる。
「この砂って珊瑚の砂か何かですか」
「さあ」
「質感がちょっと変わった感じですよね」
「そうかい?…それより、この段階で読み直してみると、どんな感じだい?」
そういわれて、ひろみは、再度、製本途中の本を、ゆっくりとめくった。
「うーん。もっと書くべきことがあったかも。病気のことばかりになってる」
「でも、自分史を書こうと思ったのは病気がきっかけでしょ」
「いつどうなるかわからないんだなと思ったら、何か残しておきたくなって」
「最初はびっくりしたよ。君みたいな若い子が作りたがるものじゃないからね」
「私もびっくりでした。カルチャーセンターの講座はお年を召した方ばかりで」
「君の目が〝ここ、老人会?〟って言ってたよ」
笑い合う沢木とひろみ。
「個人レッスンに切り替えていただけたので、落ち着いて取り組めました。運が良かったです」微笑むひろみ。
「どうだろうね」
「私、先生のレッスン受けるようになってから運気が上がりました」ひろみが生き生きとした目で言う。
「それは光栄だね」
「実は一昨日、お医者様から完治のお墨付きをいただきまして」
「おお。それはおめでとう」
「霧が晴れた感じです」ひろみが、ゆっくりと笑う。
「そうか。これからが楽しみだね」
「はい。もっと別のものも書いてみたくなりました」
「小説? エッセイ?」
「恋愛小説なんていいかなって…あ、ちょっと思っただけですけど」
「いやいや。何かを作りたい、残したいという強い気持ちがあれば、必ず形にできるものだよ」
「はい」嬉しそうに微笑むひろみ。
「…だがその前に、まずはこれを完成させよう」本を手に取る沢木。
ひろみが机の上の砂時計に目をやる。
「でも、本が出来上がったら、先生とも会えなくなっちゃうんですね。淋しいなあ」
「いつでも会えるさ」
沢木の言葉に、うつむき加減で微笑むひろみ。
「さて、そろそろ飲み頃かな」
砂時計の最後の一粒が落ちる。
ポットからティーカップに紅茶を注ぐ沢木。スプーンを添えて、ひろみに差し出す。
「ありがとうございます」
沢木が一口飲んで言う「うん…いい香りだ」
ひろみは、紅茶をカップの真上から覗き込み、鼻で大きく息を吸う。
「お花の香りがします。何ていう銘柄ですか?」
「リゼというトルコ産の紅茶だよ。輸出量が少ない貴重な茶葉なんだ」
「そんな大切なもの、いただいてよかったんですか」
「いいさ。今日は特別な日だ」
「ありがとうございます…」はにかみながら微笑むひろみ。「えーと…この深い赤、あのトートバッグと似てますよね」
窓際の木製コートハンガーに掛かっている赤いバッグを小さく指さすひろみ。
目を細めてバッグを見つめる沢木。
「手染めなんだ。染料を集めるのがちょっと大変だった」
「先生って、本当に多趣味でいらっしゃいますよね」
ひろみは、紅茶にミルクを入れるとスプーンでかき混ぜた。渦を巻きながらピンクになっていく紅茶。
その様子をじっと見つめる沢木。
「…どうかなさいました?」
「そうだ、この紅茶で燻製したジャーキーがあるんだよ。ちょっと待ってて」
沢木は書斎を出て行った。
* * *
キッチンで、棚からジャーキーを取り出し、皿に乗せる沢木。
「これで最後か…すぐ作らないと」
沢木はジャーキーを一片かじると、目を瞑り味わった。
* * *
ひろみは窓際へ行き、庭を眺めていた。
花びらが尖った白い花が一面に咲いている。
「何ていう花かしら」
窓際を移動していたひろみは、コートハンガーのトートバッグに腕が触れた。
「あ…あら、何か入ってるみたいね」
バッグの中を覗くと、中には赤い表紙の本があった。それを取り出すひろみ。
「革の装丁…すごくしっとりした手触り」
ひろみは本をパラパラとめくった。中は日記帳のようだった。日記の日付は飛び飛びで、どれも〝至福の一日〟とだけ書かれている。
「記念日メモかしら?」
最後に書かれたページに目を留めるひろみ。
「今日の日付?…まさか私と会う日が至福の一日ってこと?」
ひろみは嬉しそうな顔で赤い本をギュッと抱きしめた。
そして、ひろみがもう一度、本を広げようとした時、ひろみの手から本が床に落ちた。
“…右手が…しびれる”
左手で右手を押えるひろみ。体がぐらりと揺れ、床に倒れ込む。声を出そうとするが出ない。
“体が…”
* * *
ジャーキーの乗った皿を持って沢木が部屋に入って来た。
窓際で仰向けに倒れ、動けずにいるひろみを一瞥すると、皿を机に置き、一切れ手に取る。
「けっこう速いな、テトロドトキシン」
沢木は窓際へ行き、床に落ちている本を拾った。埃を払うとバッグに戻す。
しゃがんで、ひろみの顔を上から覗き込む沢木。
「こらこら。大切な革が傷んじゃうじゃないか」
ひろみは、動かない瞳で沢木を見つめる。
“先生…体が…”
「ジャーキー食べてもらいたかったんだけどなあ。この美味しさがわかれば、君自身が干し肉になる意義と幸せも理解できるはずだからね」
ジャーキーをかじり、くちゃくちゃと音をさせる沢木。
“え…?”
「その前に、まずは装丁だ」
沢木は、ひろみの服を脱がせ、うつ伏せにすると、背中をゆっくり撫でまわした。うっとりと目をつぶる沢木。
「ああ…いい手触りだ。赤い日記帳に勝るとも劣らない」
沢木は机の引き出しから大きな曲尺を取り出し、ひろみの背中に当てた。
「余白も含めて30センチ×45センチ位かな」
“何を…”
噛み終えたジャーキーをごくりと飲み込む沢木。
「トートバッグも染め直したいと思ってたんだよね。装丁の次はそれかな」
“え…?”
「そうだ。もう少し大きい砂時計も作ろう」沢木がひろみの右肩に触れる。「骨太な感じがするし、砕けば、たっぷり砂が作れそうだ」
“いや…”
「あと、ティースプーンをもう何本か作るのもいいな」
“先生…”
沢木は立ち上がると窓の外の花を眺めて微笑んだ。
「作業が済んだら、残りはおまえたちのごちそうだ」
“やめて…”
ひろみを見下ろす沢木。
「あの花はアングレカムという花なんだよ。花言葉は〝いつまでもあなたと一緒に〟」
“助けて…”
「淋しい思いなんてさせないさ」
沢木は再び机に行き、引き出しから革包丁を取り出した。
そして、ひろみの横にしゃがむと、ひろみの首を自分のほうに捻じ曲げ、微笑んだ。
「僕たち、いつまでも一緒なんだから」
(終)




