63 三姉弟・幼木の執心
満足げな吐息を漏らし、クレイオスは腰元の地面に手をつきながら空を見上げた。
森人族の森の地べたに座り、見上げる空はさぞかし気持ちの良い綺麗なもの――なのだろうが、生憎と枝葉でできた天蓋に閉ざされてすっきりとは見えない。
しかし、いくら屋根の役割を果たす天蓋であっても、構造としては植物を重ね合わせただけのもの。どうあっても隙間があり、そこから真っ赤に染まった夕空の断片が見て取れた。
既に夕刻、それも太陽神が世界樹に隠れかかるほどの時分だ。
フィラウトと手合わせしたり、モルハウトと土人族の都の様子について語ったりしながら一日を過ごし、夕食を共に食べ終えたのがつい先ほどのこと。
腹も満ち、満足感でふわふわする頭で天蓋を見上げていた。
今宵振舞われたのは、森人族の狩りの獲物――それも魔獣の肉であった。
新鮮で、しかも火を通して調理された脂滴る大ぶりの肉の山をどん、と供されたのである。
モルハウトがアリーシャに夕食を期待してほしい、と言ったのは、今日が村として火を使ってよい日であったからだ。
同時にその日は村の狩人たちが森に散り、あちらこちらで獲物を狩って持ち帰る日でもある。そうして得た肉の多くを森神への献上品としつつ、火によって加工するのだ。
日持ちのする干し物にしたり数日分の食事にしたりと、それなりに騒がしい一日になるのだという。
残念ながら、村の最奥で匿われているかのような扱いで逗留しているクレイオスらにはその様子を窺い知ることはできなかった。辛うじて、あのユピテウスがそうした作業に駆り出されている、と聞いて夕暮れまで顔も見れない事情であったのを把握した程度である。
どちらかといえばクレイオスとしては、頭の上で閉じた天蓋を見上げることで、「今日が特別な日であった」ということを把握することができた。
そもそも、この森人族の村で火の取り扱いが厳密に管理されているのは何故か。
当然、聖域たる森を焼け野原にしないためという当たり前すぎる話はある。が、冬でもなく枯れ木ばかりがあるわけでもないこの緑の森を焼き払うには、よほどの大火でもなければ不可能だ。
そしてそこまでの火力を扱う作業をするわけではないし、育ちかねない火種を放置するほど森人族は馬鹿ではない。
故に、森人族たちが第一に危惧しているのは、火から生ずる煙――天高くまで登っていく灰色の人煙である。
いくら村周辺を迷宮化していると言っても、その守りは絶対的なものではない。目印となるもの、煙を目指せば到達できてしまうだろう。
さりとて村から離れたところで作業するというのも能率を考えれば大変であるし、そうすることで森のあちこちに痕跡を残してしまうということ自体が、森人族の狩人たる矜持が許さない。
だったら、村の中で居場所を晒さぬやり方で火を使えばいい――その結論が、あの天蓋だ。
閉ざした天蓋、密集する枝葉を通る煙は、布で泥水を濾したように薄くなる。分厚い枝葉の層で煙を希釈してしまえば、隣のマルゴー山脈のてっぺんから見下ろしても気づけぬほどになる。そうして、森人族たちは村を隠し通すことにしたのだ。
火を扱う日とは、即ち天蓋を閉じる日。クレイオスが空を仰げぬ理由であった。
「満足したようでなによりだ」
気を抜いた様子で天を仰ぐクレイオスに、共に食事していた森人族モルハウトが声をかける。その顔には微笑みが浮かんでおり、静かな喜びを湛えている。
実際、提供された肉の山を青年が健啖な勢いで減らしていくさまは、小食な彼女からしてみれば実に気持ちの良いものであった。
旺盛な食欲と遠慮を排した勢いは信頼の裏返しであるが故、モルハウトはクレイオスを大層気に入ったのだ。
「ああ……本当に美味かった、ありがとう」
「なに、今日は村のみんなが魔獣も狩ってきてくれたからな。なんのかんのと言いながら、もてなす気はあるのさ」
美味であった肉の味を反芻しながら、クレイオスは薄い笑みを浮かべて感謝の言葉を口にする。
対し、同じく食事を囲んでいたフィラウトが面白がるような軽口と共に笑って答えた。
今日の獲物が客人である土人族らの夕食となることなど、当然森人族の狩人たちは知っていた。
なにせ、フィラウト自身が聞かせた話である。それに対し、同胞たちは「さっさと追い出してしまってもよいだろうに」とぶちぶち言いながら出立していたのは記憶に新しい。
その上で肉の中でもとりわけ良質な魔獣の肉を得てきたのだから、フィラウトとしては同胞の行動に対する言動の不一致ぶりが面白いのだ。
どのような経緯にせよ、森人族側が歓待している立場。
だというのに粗末な肉を提供し、「客人の一人や二人程度、満足させられぬのか」などと侮られるわけにはいかぬ――そんな特有の誇り高さが仕事をしたに違いない。そう奮起した心情が、同じ森人族であるフィラウトにはよくわかった。
そうして狩人たちがそれなりの労力を払って得た、魔獣の肉。
これは保存食に加工すると微妙な味となるが、充分な血抜きの後にすぐ焼いて食べることで一転して大変な美味となる。脂に富み、肉汁に溢れ、歯応えのある筋は旨味を滲ませてくれるのだ。
柔らかさよりも歯応えを好むクレイオスなどはこの肉が大層お気に入りで、故郷で口にしたものの中で最も好きだと断言するほど。
旅を始めてからは当然ながらずっとお目にかかる機会はなく、このような場で再び口にできたのは実に幸運だったと言えよう。王都などで食べた上品な食事も嫌いではないが、やはりこの焼いただけの肉の美味さというのは何物にも代えがたい。
故郷の村であればお祭り騒ぎとなる獲物だったな――と満ち足りた気持ちに浸りながら、クレイオスは思い出す。
火を囲み、月女神の像を囲んで大騒ぎする夜は本当に楽しかった。最後の思い出にある祭りは、直後の騒動に上塗りされてあまりよい記憶とは言えないが、それでも村の数少ない娯楽だったのだ。
さてそれならその前の祭りはどうだったか――そこまで思い起こしたところで、はたと元狩人は気づいた。それは、隣でモルハウトよりはたくさん肉を食べていたアリーシャも同様であった。
渡された皮袋の水を飲んでいたアリーシャは、かつて村周辺の森を庭としていた経験から一つの不安要素を見出す。
それはつい昨日の、今の状況に至る出会い、その原因を思い出したからこその問いであった。
「今日、魔獣を狩った、って聞いたけれど……この森って、そんなに頻繁に奴らが現れるの?」
昨日、ユピテウスを助けるためにクレイオスが仕留めた魔獣。それとは別に、今日もまた魔獣を狩って夕食の糧としたのだという。しかもフィラウトの口ぶりからして、獲物を選べる程に。
それは故郷、セルペンス山とその麓の森で考えれば、尋常ではないと判断するほどの事態であった。
月の満ち欠けが一巡するまでの期間を開けて、ようやく再度姿を見るかどうかというのが故郷における魔獣の出現頻度である。
少なくともクレイオスが狩人として独り立ちしてからの六年間は崩れたことのない法則であるし、祖父の話も含めればもっと長い。
直近では短期間に二頭狩ったりもしたが、あれはどちらかといえば魔物復活の凶兆であったと考えれば納得もいく。
つまり、「この森の近くでももしかしたら」――と、アリーシャが総毛立つような警戒を滲ませるのも当然であろう。
そんな土人族二人の様子に、一瞬目を合わせた長姉と長男は「山向こうから来たなら知らないものか」と呟いて状況の説明を始めた。
「山向こうではどうか知らないが、この森、ひいては土人族の領域であっても今ではもう魔獣はそう珍しいものではないのだ。およそ三十年、四十年ほど前から、連中の数が爆発的に増えている」
「原因はわからん。もとは山から下りてくる奴を偶に仕留める程度だったんだがな。今ではその気になって探せば大体見つかる。おかげで普通の獣が逃げ出して、森の環境は滅茶苦茶だ」
肩を竦めて二人が語ったのは、クレイオスをして絶句させるとんでもない現状だった。
獣以上に森での活動に適した生き物である森人族だからこそ、あまり問題視していない様子で口にしているが、普通に考えれば大問題だ。
その獣性だけでなく肉体までもを凶暴なものに変じた魔獣は、時として村一つを一晩で壊滅させる。領地から人知れず村が消滅したことは数知れず、巡業の司祭や商隊が発見することでようやく露見することも多い。
そんな話を王都にて騎士たちから聞き及んでいたクレイオスは、正しく魔獣の危険性について認識できていた。
村にいたころは厄介な害獣程度としか思っていなかったが、普通の人族にとっては重大な問題なのである。
それほどの問題が起きている原因――つい先ほどそれについて危惧したばかりではないか。
『魔物』。
神の権能を掠め取り、己が物としておぞましき力を揮う邪悪なる存在。神々、ひいてはその末端とも言える人族の怨敵だ。
その影がこのアルパリオス領で、今まさにちらついたのをクレイオスとアリーシャは確かに認識した。
例え、魔獣と魔物との間にどんな関係性があるのか欠片も把握できていなくとも、二人は非常事態であることを敏感に察知する。
目の前の客人二人が唐突に緊張感を纏ったのを見て、モルハウトとフィラウトは驚いたように目を白黒とさせた。山向こうはそんなに平和なのか、と当たらずとも遠からずな理解を得たあたりで、その二人に横から補足が与えられる。
「……森、じゃなくて、真っ平な平野で、魔獣と出会ったら……フィル兄さんでも、しんどい、でしょ」
呟いたのは、幼げに膝を抱えながら果実を両手で包んでいる、少年ユピテウス。
共に食事をしたのは長姉と長兄だけでなく、仲間外れはナシだと末弟も加えられていたのである。長兄に引き込まれる形であったが、嫌がらずに二切れほどの肉を食べてからは、添えられていた果実を小さな口で物静かに齧っていたのだ。
そんなユピテウスが横から口を出したのは、姉兄らの想像力を補強せんとしたため。クレイオスらの抱いている危機感とは、土人族から見た魔獣の危険性にある、と勘違いしたのである。とはいえ、彼の指摘は決して間違ったものではない。
姉兄にはできぬ、他人族の立場に立った物の考えができていた。
「土人族は、僕らみたいに、愛された森の中で、戦うわけじゃ、ないよ。それなのに、ずっと足が遅くて、力も弱いから……魔獣には、苦労してるはず」
「そう、か……考えてみればそうだな。俺も重しをつけた状態で、平野の上では戦いたくはない」
弟に言われて、フィラウトはようやく魔獣への認識の齟齬を理解したらしい。
身体的に優れ、得意な戦場に常に囲まれている種族柄を思えば、どちらかといえばフィラウトの方が一般的な森人族の思考をしていると言える。
モルハウトもまたユピテウスの言に思うところがあったようで、暫し目を閉じて何かを考え込むように黙った。
三姉弟が少しばかりの勘違いをしているのに気づいていた土人族の二人だが、さりとてこの身に溢れる危機感をどう説明したものか、と視線を交わして悩んでいた。
だが言わぬのは最もあり得ぬ選択だ。この場を逃してしまえば、明日からは水都を目指す旅路となる。その道中で伝えるよりも、最低限の安全はあろうこの森で言ってしまった方が得られる心構えも違うはずだ。
そんな視線の相談を終えたアリーシャは、三人に向き直って口を開く。
「少し、聞いてほしいことがあるの。私たちが、山を越えるまでに経験した話を――」
*
さほどに長い話とはならなかったが、そこに込められた情報量は森人族の長い人生の中であっても濃厚な代物であっただろう。
神話で封じられた魔物、その取り巻きの復活と大本たる邪龍。
ノードゥス王国をかき回し、無数とも思える配下をも捨て石にして復活を果たした邪神。
どれもこれもが聞いただけならばとんでもないほら話に思える。事実として、呆れ果てたモルハウトが二人の語る口を差し止めようとさえした。
だが、そこでこの森に住まう者ならば誰もが知る身近な大災害について口にされれば、つい続きを聞きたくなるのも無理はない。
山が火を噴き、消し飛んだ大災害。
つい昨日のようにも思い出せる、神々の怒りかと震え上がった一大事だ。
その真実が、目の前の青年クレイオスが魔物に向かって投げ放つためにやったこと、などというのだから、意味が分からないと呟くほかない。
だが、その証拠とばかりに青年が左腕に神火を纏って見せたところで胡乱気であった三人の表情が一変する。
火から発せられる、むせ返るような神性。権能程度では実現できぬ濃密な神の気配に、人族としての本能が頭蓋に理解を強制させる。
熱を持たぬ神火に手をかざし、ピリピリとさえ感じる神性に畏怖を抱きながら、モルハウトはようやくにして理解したように、神妙に頷いた。
「……なるほど。森長が言っていたのは御身の正体であったか。これほどの強い神性、伝説上の魔物を相手するに確かに不足はない」
「その通りだ。あの時はみだりに触れ回らぬ方がいいと思って濁したが、そうも言ってられないらしい。……それと、そうも畏まらなくていい。俺はただのクレイオスなのだから」
昨日の森長の言葉を思い出していたのだろう、クレイオスが並々ならぬ出自であると理解したモルハウトは敬うような上目遣いで青年を見やる。
クレイオスは彼女の言葉を肯定しながら、しかしその態度はやめてくれと首を横に振った。神に愛されたのは母であって、己ではないのだから。
「しかしな」と困惑する長姉は差し置いて、クレイオスは隣の男二人を見やる。フィラウトは理解しているのかしていないのかわからない表情で火を眺め、その横ではユピテウスが食い入るように火を見つめていた。
この調子で大丈夫か、と一抹の不安を覚えつつも、クレイオスは口を開いた。
「三、四十年という年月は気になるが、それでも魔獣の大量発生は異常だ。
何かがある――そのことを森に知らせておいてほしいし、水都を目指すにあたってよくよく心に留め置くべきだと思う」
「考えすぎかもしれないけれど、私たちからすれば二度あったことが三度あっても不思議じゃないと思うの。当然、魔物なんて恐ろしいものが居ないのが一番だけれど……楽観視して、痛い目を見たくはないわ」
無意識に目の周りに力を込めながら、アリーシャはクレイオスの神火を見つめて言葉を足す。ゆらゆらと揺らめく熱のない炎――アリーシャが優しい炎と密かに思うそれは、紛れもなく魔物への切り札なのだ。
そんな二人の強い警戒を敏感に感じ取り、ユピテウスは炎から視線を外して顔を蒼くする。フィラウトは数瞬瞼を閉じ、それから重々しく頷いた。
モルハウトは困惑を引っ込め、大きく頷きながら視線を中空へと投げた。閉じた天蓋を見上げながら、思い出すように口を開く。
「実はな、アルパリオス伯との講和に際し、条件の一つに盛り込みたいと既に相談されていることがあった。
領地に蔓延る『魔獣の討伐』の手伝いを乞われていたのだよ。
あまり森の戦士を外に出すわけにはいかぬ故、この件に関しては我ら姉弟三人で対処しようと思っていたが……」
「魔物が、出る、っていうなら……ちょっと、考えたほうがいいかも。そもそも、アルパリオス伯にも、言わなきゃ」
「そうだな。だが、見えぬ危機をどう警告すればよいのか……我らとてよくわかっていないというのに。
どうやらよくよく考えねばならぬことが増えたようだ」
利発に応答するユピテウスと相談を交え、モルハウトは頭痛を堪えるように眉間に皺を寄せる。
そのことはアリーシャも考えていたことだ。
領主たるアルパリオス伯にも危険性が伝われば、魔物が復活したときに少しでも被害が抑えられるのではないか、と。
旅人である二人にはそのような機会は少しもないが、使者たる森人族は違う。伯に信じさせる手段、話術は必要となるが、黙り込んで抱えてしまうよりは遥かにマシだ。
それからモルハウトは瞑目して黙り込む。
アルパリオス伯との話し合い、その矢面に立つのは彼女であることは明白だ。長兄は腕っぷしばかりで、末弟は頭の回転は早いが会話能力に乏しい。
聡明なモルハウトが主体となるのは当然で、故に水都にたどり着いてから待ち受けるであろう交渉の中身を今のうちからよくよく考えねばならない。
その想定、あるいは森長コルルクに相談するための内容を吟味するために、彼女は思考の海に埋没した。
対して、その辺のことは潔く丸投げしている長兄が、苦笑いと共に弟に話しかける。
「大変なことになってしまってるな。これでは、水都でゆっくりお勉強もできないか」
「べ、べつに……僕だって、少しくらい我慢、できる。…………五年くらいなら」
「ははっ、本当にちょっとだな!」
兄の軽口に唇をとがらせてユピテウスは視線を逸らす。気まずげな気配は言葉よりも雄弁で、自身の言を誰よりも本人が信じていなかった。
森人族の感覚からして随分と短い我慢に、フィラウトは思わず吹き出すように笑う。遠慮のない兄の大笑にますます不貞腐れる少年だが、一方で魔物への恐怖に揺らいでいた顔色は幾分かマシになっていた。
いきなり話題を変えたのは、そんな兄の気遣いであったのやもしれない。
二人のやりとりから、緊張を帯びていた空間は微笑みを交えて弛緩したが、客人であるクレイオスらには何の話をしているかわからない。
話題の変化に乗って「どういうこと?」と尋ねるアリーシャに、フィラウトは「こいつはな」と低い位置にある弟の頭をわしゃわしゃと撫でながら話し始めた。
「講和が成れば、絶対に魔法神神殿で教えを受けたい、と前々から言ってたのさ。俺たちが止めなければ、十年くらい前に森を出かねなかったくらいには切望してる」
「あ、あんまり、言わないでよ……恥ず、かしい」
顔を真っ赤にして膝を抱えるユピテウスは大変かわいらしい姿であったが、正直なところその様子も気にならないくらいにはアリーシャは驚いていた。
今、フィラウトは『魔法神』と言ったか。森神ではない神の神殿で教えを受けるということは即ち、『信奉している』ことを意味する。
あの、種族全体が熱心な森神信奉者である森人族が、だ。
その驚愕のままに、少女は少年に尋ねる。
「えっと、つまり……ユピテウスは『魔法師』になりたいの?」
「ん、ああ……見せたこともなかったか。ユピテウス」
「えと、わか、った」
少女の問いに、フィラウトは鷹揚に頷いて弟に目配せする。
口で言うよりも早い、と兄の要望を受け取ったユピテウスは、徐に右腕を持ち上げ、その小さく細い人差し指を立てた。
「『暗闇を暴く力、我が標となる案内人。太陽神と魔法神の名のもとに淡く咲け』」
舌足らずではないが、幼げな声が不思議な響きを以て森に拡散する。
それがクレイオスらの耳朶を打つのと同時に、それは魔素を喰らいて現出した。
少年の指先の上、爪の厚さほどの隙間を挟んだところから――蠟燭のような火が立ち上っていた。
今しがたユピテウスが謳いあげた言葉、そして発生した火。
この二つを組み合わせれば、出来上がるのは一つの事実だ。
「既に『魔法師』なのか」
「そうとも、すごいだろう?」
珍しく驚きを露わにするクレイオスに、フィラウトは自分のことのように自慢げに胸を張って頷く。
詠唱を口にし、現象たる魔法が呼び起されたことは、紛れもない魔法師の証明だった。
そっと指を畳みながら火を消すユピテウスを見ながら、アリーシャは幼馴染以上の驚きで頭がいっぱいだった。
蔵書で得た知識によれば、少年がその権能を得ることは、その身の上では限りなく不可能に近い話であるはずが故に。
驚きのまま、アリーシャは思わず問いかける。
「どう、どうやって、『魔法の神髄』を学んだの? あれは、確か――」
「――先達の、教えがなければ、ならない、だよね」
アリーシャの疑問を正確に理解し、ユピテウスは言葉を引き取るようにしながら小さく頷いた。
その答えを示すべく、少年は腰元に置いてあったソレを手にし、両手で抱えるようにしながら見せる。
「魔法神さまの、『魔法を扱える』権能を授かるには、信仰以上に、魔法に、関する知識――『神髄』を知らなければ、ダメ。
僕は、それを、この本に、教えてもらったんだ」
見せたのは、一冊の黒表紙の本。古ぼけて傷だらけの――昨日クレイオスが拾い、少年に返したものだった。
権能とは、テラリア十四柱のうち一柱の神を信奉し、その信仰心が認められた証として授けられるもの。基本的に、信ずる心を評価され、またそれのみがよすがとなる。
だが、例外となるのは魔法神。知を貴び、文学さえも司るかの女神は、己を信じるだけの者に力を与えたりしない。
彼女は権能とはまた異なる力――魔法の存在を掌握し、己が特権とした強力な女神だ。故にその力の危険性を知り尽くしており、これを正しく扱える者にこそ権能は相応しい、としている。
その為、魔法神が遍く信者に与える、『魔法を扱える』権能を得るには『魔法の神髄』を先に知る必要がある。
「力を得んとするならば、まずその力の正体を得よ」――女神が最初の信者にもたらした、有名な言葉だ。
当然、その『神髄』は広く知られるべきものではないし、みだりに触れ回ることも禁じられている。
魔法神の司祭たちは相応しいと思う人物――弟子にしか教えたりしないし、その手段も迂遠な問いかけやなぞかけに近いのだという。それを解き明かし、理解した者だけが権能を与えられるのだ。
だが、そうした口伝だけでは、信仰の機会さえ得られぬ者たちがいる。
そう、森人族――他人族との関わりを断った人族だ。故に、アリーシャは驚きを隠せない。一体、どういう経緯で森奥に住まうユピテウスが魔法の知識を得たのか、と。
その答えが、少年の抱える本だった。
やはり『文書』というのは大きな力だ。『魔法の神髄』に関する問い、謎、理解を助ける知識――それらを内包し、一冊の本と成したのである。
無論、文字をなぞって読破しただけで権能がどうにかなるはずもない。アリーシャには及びもつかないような真理があり、それを覆い隠す謎が文字の羅列となっていたに違いない。
この幼く見える少年はそれを見事突破し、手にして見せたのだ。魔法の神髄を。
賢しいとは思っていたが、ここまでのものだったとは。
驚きのまま固まって本を穴が開くほど見つめるアリーシャに、ユピテウスは不安を覚えたのかぎゅっとそれを抱きしめる。
その様子を微笑ましげに見ていたフィラウトは、付け加えるように口を開いた。
「さて、どれほど前だったか忘れたが。モル姉とユピテウスは森に迷い込んだ女性を見つけたらしい。
それを保護し、丁重に森の外に案内した礼としてそいつをくれたそうだ」
「二十年は、前、かな」
決して盗んだりしたものじゃないぞ、と言いたげなフィラウトの補足を聞き流しながら、アリーシャははたと納得を得る。
今朝、モルハウトが口にしていた願い。その大本で土人族と出会った話をしていたが、このことだったのだ。この森から出たことのない彼女がどこでそんな人物で出会えたのかと不思議に思うべきであった。
神髄を隠した書物を与えられる人物――きっと名のある魔法師であったのだな、と理解するアリーシャを横目に、クレイオスもまた頷いた。
「先ほど魔獣の討伐に三姉弟で対処する、と話していたが……なるほど、ユピテウスにも武器はあったわけだな」
「う、うん。火の魔法は、あんまり得意じゃない、から、それ以外で色々……」
「いやいや、ユピテウスは凄いぞ。村の中でやると怒られるから今は無理だが、機会があれば見せてやりたいほどだ」
つい先ほど、モルハウトが口にした言葉。わずかな違和感を覚えていたのは、戦える人間にユピテウスを加えていたからだ。
この小さな森人族が何を武器にするのか、とクレイオスは不安に思っていたが、思わぬ牙を隠し持っていたらしい。少なくとも、戦士であるフィラウトが信を置くほどの腕前なのは確かだ。
少年は利発さ故に使者に選ばれたかと思っていたが、その権能もまた理由の一つなのだろう。
頼もしい話だ、と頷く青年の横で、アリーシャは問いかける。
「でも、もう権能は授かっているんでしょう? どうして改めて神殿に教えを伺う必要があるのかしら」
「そ、の。この本、神髄を教えてくれる、為に、土人族の日記、みたいに書かれてて。教典、としては、初歩中の初歩、って書いてあったから……できれば、ちゃんとした教えを、学びたい」
果たして、少年が抱えていたのは貪欲なまでの知識欲。権能を得るに飽き足らず、更なる魔法神の教えを知りたいのだという。
確かに、これほどの敬虔な姿勢であれば、権能を得るに相応しかろう。
その姿は、アリーシャからすればかつて蔵書を読み漁っていた己を思い起こすもの。
彼の気持ちはよく理解できて、そしてその上で彼の行動力には感服する。
神殿へと参じたいが為に、講和への道を探り、森長へと訴えかけた。それだけでなく、実現のために使者となるなど、しっかりとした意思を以て行動している。
それは、同じく外の世界に憧れながらも――村で狩人を続けることに腐心していた己とは違っていて。
眩しく、だからこそ、アリーシャはユピテウスを尊敬の意で以て見つめる。
「……うん、きっと学べるわ。あなたと、あなたの姉兄の思いはきっと届くはずよ」
そう願わずにはいられない。
この三姉弟は、みんな等しく、尊くて眩しい願いを抱いているのだから。
いただいている感想、一年前からきちんと全て拝見しております。
返事ができず、大変申し訳ありません。
ですが大変な励みになっております。この場を借りて、感謝申し上げます。