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神火のクレイオス  作者: 宮川和輝
第2部 昏き森と悪意の水都
61/64

61 三姉弟・堅木の安堵

 翌日の朝。

 疲れがたまっていたのか起き出さない幼馴染をそのままに、クレイオスは革鎧も身に着けずに緑の住居を出た。

 眠りで凝り固まった体を伸ばすように、身体を大きく広げながら深呼吸をする。

 朝の清々しい冷たさと森の清浄な気配が一息で肺に満ち、それらは瞬く間に全身の巡りを活性化させた。さりとてそこに乱暴さはなく、森神シルワの優しげな吐息を浴びたかのような気持ちよさばかりが募る。

 良い朝だ、と掛け値なしの感想を抱き――そこでふと、頭上に目をやってクレイオスは驚いた。

 昨晩は、夜空も見えぬくらいに閉じられていたパトルの天蓋。奇妙に生え茂る木々の枝葉で閉ざされていたそこは、いつの間にか花弁のようにぱかりと開いて気持ちの良い晴れ空を見せていた。

 朝早い現在では、まだ太陽神ソールはすぐ隣のマルゴー山脈の向こうにおわすことだろう。今頃はノードゥスを明るく照らしているはずだ。

 故に白んだ空を眺めることになるのだが、クレイオスはそこに不思議な新鮮味を覚えた。


 思えば、王都で過ごす間、こうして空を眺めた記憶がない。

 常に騎士や職人、幼馴染と話をしていて、移動するにも雑多な人々が行きかう道を苦労しながら歩いていた。足元や眼前のものに気を取られていて、この雄大な大空を見上げる余裕もなかった。

 だが、再び旅を始めて、人の営みから大きく外れたこの森の中に在って。

 クレイオスはその余裕のようなものを、ようやく取り戻したといえようか。

 やはり、青年は本質的には狩人なのである。森の中で生き、森に生かされて育ってきたのだ。心安らぐいとまを見出して当然であった。

 また、昨夜のうちに自らの進退を明確に定めた(・・・)という事実が、彼の心に安寧をもたらしたのは間違いない。


 こうしたとき、やはり思い出すのは故郷でのこと。

 こんな良く晴れた朝はなにをしていたであろうか。朝食の用意であったか、いやその前に掃除であったか、小川で洗濯をしていた日もあった――いや。

 唐突にその日課(・・・・)を思い出し、クレイオスは間抜けな自分に苦笑する。こんなことも忘れていたなんて、どれほど切羽詰まっていたのだろう。

 そう、天気が悪いのでもない限り、早くに起きだして柔軟運動を欠かさずやってきたではないか。

 旅が始まってより、それを行う機会にはまったく恵まれなかった。宿屋は言うに及ばず、慣れぬ野営の中でそんなことをする暇はなく、騎士団の宿舎ではそのことを思い出しもしなかった。

 だが思い出してしまえば、なんとなく股関節や肩回りの手ごたえに不満を感じ始めるのが不思議なものだ。柔軟性が損なわれている、と不明な危機感に追われてクレイオスはおもむろに屈伸を開始する。



 それから一通りの柔軟を終えて、クレイオスは首を傾げた。

 今は上下に肌着一枚、森を抜ける風が火照った体を気持ちよく冷ましてくれるが、だからこそ青年は少しの驚きを湛えることになる。

 かつては毎朝この運動を行うだけで汗みずくになり、小川に飛び込んで水浴びせねばならないほどだった。しかし久しぶりにやってみると、薄い発汗だけで終わってしまっている。

 これも己の覚醒――半神半人アモルデウスとして目覚めたことが関わっているのだろう、とクレイオスは暫しの熟考を経て把握した。

 膂力などの筋力の発達はもとより、持久力スタミナまで向上しているらしい。


 自分のことながら、大した身体をしている――と喜びと驚きを半々に感じていると、クレイオスの背中に声がかけられた。


「朝から元気だな。よく眠れたか?」


 気配もなく唐突に言葉が投げられて、青年は驚きながらも振り返る。

 そこには、昨日より縁のある三姉弟が長男――フィラウトが立っていた。不思議なものを見る目でクレイオスを見ており、なぜかその左手に二本の棒を抱えている。

 思ったより距離は近く、五歩もあれば手が届くほど。ここまで接近されて気づけないものか、と驚くクレイオスだが、少し遅れて気づいた。

 今もフィラウトの気配は限りなく希薄だ――否、恐ろしく周囲と一体化している、が正しい。

 森の中に在って、森人族アールヴの気配はそこに完全に同一化する。森に木があることが自然であるように、彼らが森を移動することはあまりに自然で知覚が難しいだけのことなのだ。

 これが血臭や殺気を纏っていれば、クレイオスの狩人の触覚が機敏に反応するだろうが、そうでもない限り彼らに背後をとられても仕方のないことだろう。


 少し驚いた自分を押し隠すように、クレイオスは運動の息を整えるふりをして返事をする。


「ああ、素晴らしい寝床だった。森人族アールヴの計らいに心底から感謝している」

「ふふん、当然だな」


 咄嗟に出た言葉だが、クレイオスの心からの賛辞である。あの緑の住居は夜の森の冷気を遮ってくれたし、植物の寝台は柔らかで寝心地は抜群であった。

 狩人であったがゆえに青臭さも気にならず、地面で野営することに比べればはるかに上等な寝床であったと言わざるを得ない。

 そんな素直な称賛に、フィラウトは鼻高々といった様子で何度も頷きながら笑みを浮かべた。

 それから腰にひっかけていた緑色の袋を、クレイオスに向けて放り投げる。造作もなく受け取ってみれば、それは袋ではなく巨大な葉っぱで何かを包んでいるものだった。

 フィラウトに促されるまま開いてみれば、中にあったのは昨日も食べた干し肉と果実がいくつか。朝食と理解し、「ありがたい」と述べればフィラウトは軽く手を振ってその場に座り込んだ。

 それから腰にもう一つあった葉の袋を開き、果実を手にしながら「座ったらどうだ?」となんでもない顔で催促してくる。

 どうやらここで朝食を共にする気のようで、クレイオスは思わず面喰らいながらも言われたとおりに対面の地べたに座った。


 森人族アールヴの気質を思えば、驚くべき程の気安さだ。

 彼ら三姉弟が一般的な森人族アールヴからかけ離れた精神性であることは昨日の話でわかっていたことだが、実際に相手をするとなると戸惑ってしまう。

 まして、このフィラウトは昨日の時点でさほどに交流がない。食事の用意をしてくれて、目の前で干し肉をうまいうまいと食べただけである。

 それがそんなに嬉しかったのだろうか、とクレイオスは思考を明後日に向けながら干し肉を齧り――思わず目を見開いて顎の動きを止めた。


 美味い。

 昨日とは歯触りの違う干し肉は歯を容易に受け入れる柔らかさがあり、噛めば肉汁のような濃密な味の液体がじゅわりと滲み出てくる。

 それが嬉しくて何度も噛み潰そうとすると、今度は干し肉そのもののコク深い味わいが口内いっぱいに広がり、肉汁と合わせて何とも言えない美味さばかりが味覚を驚かせた。

 昨日とは明らかに味が違う。何よりも香ばしくて仕方ない。夢中になって何度も噛みながら考え、クレイオスはすぐに答えに行き着いた。


(ふぉ)、れは、焼いたのか?」

「そうとも。ユピテウスにこっそりと頼んでな、少しだけ工面してもらった。バレるとまずいから内密に頼むぞ」


 悪戯っけの強い笑みで片目を瞑って見せ、フィラウトは同じく焼いた干し肉を齧る。やはり最高だな、と美味に唸っている様子に、クレイオスはこの若き青年森人族(アールヴ)に多大なる親近感を覚えていた。

 決して美味に釣られたわけではないが、クレイオスはもうフィラウトのことをいたく気に入った。気のいい奴だ、と薄い笑みを浮かべ、一緒になって干し肉を齧り始める。


 それから二人して朝食に舌鼓を打っていたが、一つ目の干し肉を飲み込んだあたりでフィラウトが口を開く。


「んむ、もう一人はどうした?」

「まだ寝ている。よほどに疲れていたのだろう」

「そうか。昨日は森を歩き、長話をしたからな。土人族ヒューマンには堪えただろう」


 未だアリーシャが熟睡していることを伝えれば、フィラウトは何度も頷きながら案ずるように緑の住居を見やった。

 それは言外にクレイオスを土人族まとも扱いしていないのだが、言われた当人はまるで気にせず同意を示すように顎を引く。

 実際、不明瞭な視界で山越えし、その後案内ありきとはいえ迷宮めいた森を歩かされたのだ。転ばぬように相当気を張ったに違いない。

 今後の旅はできるだけ街道を選ぼう、とクレイオスは密かに決心した。


 そんな青年の様子を果実を頬張りながら眺めていたフィラウトだが、ふと思い出したように背筋を伸ばし、口の中の物を飲み込んでから話し出す。


「そういえば、俺からはまだ礼を言っていなかったな。水都への旅に同行してくれて、本当に感謝する、クレイオス」

「気にするな。俺たちも俺たちで、水都に行くつもりではあったんだ」


 青年森人族(アールヴ)の謝意に、クレイオスは困ったように眉を下げながら頭をかく。誤魔化すように自分たちの旅の計画を漏らしたのは、彼らに感服したのが理由という気恥ずかしさを隠しかったから。

 それが功を奏したのか、フィラウトは鷹揚に頷いて理解を示す。だが同時に、疑問も湧き出てきたらしい。干し肉を齧りながら、フィラウトはクレイオスに尋ねる。


「ならばちょうどよかったということか。我々姉弟にしても幸運であったということだが……お前たちは山向こうから来たのだろう。あんな所を通ってまで、水都に何の用があるんだ?」

「正確には、水都ではなくさらに奥の王都に用がある。運命プロペティア大神殿まで行きたくてな」


 最後の干し肉を飲み込んで、クレイオスは隠すことなく目的地を明かした。

 それを聞きつけて、フィラウトは「王都か」とぼんやりした様子で呟く。要領を得ない様子であるのは、彼が森から出たことのない森人族アールヴであるからだろう。

 そもそもにして土人族ヒューマンの国という概念、その中枢首都がなんであるかもきちんと理解してはいない。せいぜいが「水都と何が違うのか」とふわっとした疑問しか持てないことだろう。


 そんなフィラウトの内心まで読めたわけではないが、あまり関心を惹かなかった様子なのはクレイオスにもわかる。

 話を変えるように、果実を右手で弄びながら青年からも問いを投げる。


「昨日の話し合いには来なかったようだが、お前も使者なんだな」

「ああ。あの時の俺の役割は、同胞を寄せぬ見張りだった。

 森長もりおさは我ら姉弟の話を理解してくれて、森長としてこの森の行く末を決議してくれたが、全ての同胞が心底から納得したわけではない。あの場に乗り込んで直訴せん、と憤懣していた者も居たからな」


 何気なく漏らされたフィラウトの言葉に、クレイオスは少々の驚きを得て、口に出すことなく呑み込んだ。

 土人族ヒューマン側が案内人や護衛をせぬと割れているのと同様に、森人族アールヴ側もまた完全な一枚岩となって講和を望んでいるわけではない。

 そんな不満を抱いた者が、講和を形にしうるかもしれないクレイオスたちの話し合いに手を出せぬよう、フィラウトは住居前で目を光らせていたのだ。

 だが「あいにく暇だったがな」とフィラウトが語るように、昨日は特に争いの気配はなかった。だからこそクレイオスたちは話に集中できた。

 強硬な手段に出なかったのは森長の決議もあろうが、やはり数年に及ぶ話し合いで講和の必要性を理解しているからだろう。


 実に強情で手が早いことで知られる森人族アールヴであっても、こうして平和への道を渋々ながらも歩きだそうとしている。だというのに、領主側の土人族ヒューマンたちは何をしているのか。

 思いを馳せれば馳せるほど、クレイオスには懸念が募る。

 領土を治めるまつりごとはかけらもわからないが、青年には森を賭けて戦い続けるよりもずっと良いことのはずだろう、としか思えない。百二十年の憎しみの存在は理解すれど、その炭を擦ったが如き真っ黒な濃さ(・・)までは量りかねていた。

 平和という布で拭われることを拒む染み――それをクレイオスたちが思い知るのは、さほどに遠くない未来である。


 だが、現状は土人族ヒューマンにしか見えないクレイオスと森人族アールヴのフィラウトが仲良く果実を頬張っているだけだ。一歩早い平和の景色と見てしまってもよい。


 お互いに最後の一個を芯の際まで齧り、葉の袋に押しやって処理する。

 そして一足早く立ち上がったフィラウトが脇にやっていた棒の一本を左手に握り、突き出した。


「腹ごなしといこう、クレイオス。一手やらないか」

「……構わない。だが、俺は槍しかまともに振れないな」


 そうしてフィラウトが誘ったのは、試合。棒二本を携える手際の良さからして、始めからそのつもりだったのだろう。

 クレイオスがそれを嫌がらないのは食後の運動を好むところもあるが、ノードゥス王都で過ごしたひと時が要因として大きかろう。


 アリーシャの快復、革鎧の完成を待つ間、クレイオスは外壁工事にばかり勤しんでいたわけではない。騎士団の練兵を乞われ、喜んで手を貸していたのだ。

 精強を誇る騎士たちを相手に、英雄として、そして何より亡き副団長を越える膂力の持ち主として何度も試合をしたのである。人同士で殺しあうでもなく高めあうための戦いがあるのだと知り、文化的田舎者の青年はそれなりに驚いたものだ。

 故に、フィラウトの誘いにも戸惑うことなく応じることができた。


 が、問題は彼の持つ棒だ。

 森人族アールヴの持ち物にしては珍しく、若々しく手ごろな太さの枝を加工した代物である。枝葉が落とされ、握りやすさと安全のために、表面が滑らかにやすりがけされている。

 ただし、一般的な長剣程度の長さしかない。

 興味を持って騎士団の剣を何度か素振りした程度のクレイオスでは、十全に扱えるとは言い難い。身体能力で圧倒することは可能だが、それは試合とは言えない。

 そんなクレイオスの困った表情を前に、フィラウトは「そうだったな」となんでもないように呟いて、思い出すように虚空に視線を放った。

 数瞬だけ間をあけてから、視線を棒に戻したフィラウトは力を込めて左手を握りこむ。

 転瞬、握られた木の棒がざわめいた(・・・・・)――直後、瞬きの間に棒はその長さを二倍ほどに伸ばしていた。


「確かお前の槍はこのくらいだったな。どうだ、問題ないだろう?」

「あ、ああ。権能フィデスか」


 自慢げな表情で手渡された槍を確かめるように握りながら、クレイオスは思い出していた。そういえば昨日の――誤解から始まった――戦いで使っていたな、と。

 彼の呟きを拾って、フィラウトも隠すことなく答える。


森神シルワさまより賜った権能フィデスだとも。植物であればその長さを自在にできるのだが、なかなか便利だろう?」

「そうだな。悪くない」


 にかりと笑うフィラウトに、数度槍の長さの棒を振り回したクレイオスは頷きながら良好な手応えに笑みを浮かべる。

 注文したわけではないが、フィラウトの計らいで白銀の神槍(ミセリコルディア)と同じ長さだ。重心と重さまでは異なるが、それを踏まえればまだ振りやすい得物である。


 クレイオスの応えに気をよくしたのか、フィラウトは「面白い奴だな」と呟き、それから距離を開けるように後方へ跳び退く。距離にしておよそ十歩程度。

 そこで彼が肩の高さで水平に棒を構えるのを見て、クレイオスもまた槍を構える。

 腰を軽く落とし、左半身を前へ。右手で柔らかく得物を握り、コンパクトに締めた右脇に長柄を挟んで穂先を地面に向ける――いつもの構えだ。


 整息。集中。

 空気が変わる。


 静かな森の長閑な一幕が、戦士同士の果し合いとして急速に色を変え、乾いて(・・・)いく。

 フィラウトとて、森人族アールヴとして若いとはいえ剣士の端くれ。故に、その背に薄い脂汗が滲む。

 眼前のの如き迫力を放つ戦士、そのかつてない強敵の気配に知らず口の端が持ち上がった。


――なるほど、森人族アールヴの戦士とは精強揃いにして無双であるが……これを前にしては、些か自信を失うな。


 思考の片隅で愚痴るも、フィラウトの戦意が萎えることはない。なによりこれは命を取らない安い勝負でしかなく、クレイオスの方もそれ故にやる気を見せてくれている。

 昨日の醜態、フィラウトが襲い掛かった時にはまるで感じなかった威圧感。それを今ここで放っているのは、敵手として認めてくれている証左に他ならない。

 嬉しいじゃないか、とついに白い歯まで晒して獰猛な笑みを浮かべ、均衡を破るべくフィラウトは気配の薄い吸気を呑んで――飛び出した。


 森と同化する森人族アールヴと、一対一で勝負する難しさをクレイオスは思い知る。

 呼吸がわからず、いつ攻めてくるかわからない。騎士とはまるで違う、木を前にしているかのような生物的気配の薄さ。

 先手を譲って返す一本を放つ、という青年の目論見が如何に驕りに溢れた失敗であるかを理解するのと同時、フィラウトが猟犬のような瞬発力で突っ込んできていた。

 静から動への急激な変化。木が動物に変じた錯覚を覚えるクレイオスは反応が遅れるも、その優秀な反射神経は迎撃を容易に間に合わせる。

 たったの三歩で赤き狩人の眼前に迫った濃緑の剣士は、獣の如き荒々しさで噛みつくような上段からの振り下ろしを見舞った。

 対し、閃くような右腕の振り上げでクレイオスは迎え撃つ。放たれた長棒の一閃は過たず剣士の一撃を捉え、その豪烈な腕力で以て強引に弾き返した。


 結果、コォン、という木の棒同士が激突した間延びする音を響かせながら、フィラウトの身体が後方に吹き飛ぶ。


 されどそれは格付けの決定にあらず。

 クレイオスが手ごたえの軽さに眉を寄せるのと同時、軽やかに足裏から着地したフィラウトが土煙を巻き上げて左方へ疾駆。

 赤き青年の剛力に勝てないのは昨日の時点でフィラウトは理解していた。故にわざと迎撃させ、弾かれるよりも前に自分から後方に跳んでいたのだ。

 四足獣のような低い姿勢で飛び出した剣士は、地面に左足を突き立てながらしなやかな筋肉で以て膝をたわめ、弾かれるように今度は右方へ。

 クレイオスの眼前で右から左へと一瞬で入れ替わるかのような鋭い方向転換を見せつけながら、一息に間合いへ踏み込んだフィラウトは獣爪の如く逆袈裟に振り上げる。


 身のこなしの軽さ、動きの鋭さに青年は驚きながらも慌てない。これまで戦った誰よりも疾いが、さりとてクレイオスの動体視力を振り切るほどではない。

 今度は上から抑え込むように、長棒を鋭く振り下ろす。フィラウトの得物を抑え込み、動きを止めようとする一手はされど森人族アールヴには読まれていた。

 刹那、振り上げる棒を捉えるはずの長棒が空を切る。武器を狙うなら止めればよい、と振り切る直前でフィラウトは強引に制止していたのだ。

 結果、クレイオスの長棒は地を叩き、その隙にフィラウトはコンパクトな一撃を見舞うべくさらに半歩突っ込んだ。

 選ばれた急襲の一手は、柄での顔面打ち。刀身にあたる部分を振り上げるよりも、尚早くクレイオスの懐で有効打と成り得る。さらに、踏み込んだことで長棒の取り回しを制限する意図まで果たしていた。


 次から次へと対応を迫られる。昨日の激しやすい青年、という印象から抜けた、冷静な剣士としての攻勢。

 クレイオスの初見殺しに近い剛力を既知としていることもあろうが、それでも流石は森人族アールヴの戦士ということだろう。

 だが、赤髪の青年とて伊達に幾度も死地は越えていない。この程度、蒼き悪鬼オーガを相手したときに比べれば温いもの。


 顔面に迫る獣牙のような柄を、こともなげに左手がつかみ取る。確かに疾く、重い一撃だが、それでも青年に受け止めきれる範疇でしかない。

 ぎょっとするフィラウトの顔に彼の弟との相似を垣間見つつ、クレイオスはそのまま捻るように左手を外側へ回転。

 棒ごとフィラウトの右手を握りこんでいることもあり、逃れられぬ森人族はそのままでは関節を極められて勝敗が決するだろう。

 しかし、このままでは終われぬと剣士は即座に応手を打った。

 地を蹴り、宙を舞って回転方向に跳び上がる。体ごと回転することで関節の稼働域を強引に広げたのだ。

 さらに、思わぬ奇手に面喰らうクレイオスの視界の端は、猛襲する革靴を捉えた。跳び上がって回転しながら、その勢いを利用した蹴撃まで叩き込む対応力。

 思わず舌を巻きながらも流石の反射神経で首を引っ込めるように屈むことで回避する。しかし、代償として掴んだ手を解放してしまう。


 無茶な対応をしながらも危機を脱したフィラウトは、蹴撃の勢いで一回転しながら足から着地。

 即座に背中からくるりと回って遠心力を加算した薙ぎ払いを放てば、同じくして追撃しようとしていたクレイオスの振り上げた長棒に衝突する。

 まずい、とフィラウトは理解するも、今度ばかりは対応が間に合わない。

 まるで巨岩に打ち込んだかの如き衝撃が青年剣士の手首を貫き、甘い痺れが握力を奪い去ってその手から棒を弾き飛ばす。

 天高く棒が宙を舞い、くるくると回転した後にフィラウトの後方で乾いた音を立てて落ちた。


 明確な決定打、数瞬呆然としたフィラウトもそれを理解し、「はぁー」と長い息を吐いて降参するべく両手を挙げた。

 クレイオスが長棒を下ろして戦意を霧散させるのと同時、森人族は緊張から解放されたように地面に身体を投げ出した。

 寝転がったフィラウトの表情は、すっきりとしたもの。試合の流れだけ見れば善戦したとも、惨敗したともとれようが、濃緑の青年は勝利に拘っていなかった。

 何か意図でもあったのか、とフィラウトの顔を見て察するクレイオスに、三姉弟の長男である彼が口を開く。


「俺は馬鹿でな」

「……?」

「モル姉は思慮深く、森の未来を考え見通す慧眼を持つ。ユピテウスも内気なやつだが機転が利いて利発なのだ。だが、俺はどうにも小難しいことを考えることができなくてな。姉と弟、二人が本気で案じているから、俺も土人族ヒューマンと講和を結ぼう、と乗っかっただけなんだよ」


 果たして彼が漏らしたのは、独白に近い吐露。

 コルルクの話では三姉弟ともが森の仲間を相手に弁舌をふるったかのようであったが、事実としてはこのフィラウトは同意を示したに過ぎなかったのだ。

 それは森長も把握しているところであり、だからこそクレイオスらとの話し合いに参加させなかった。

 だが、一方で使者の一員には加えている。その理由は。


「そんな俺が使者の一人であるのは、やはり森長もりおさは荒事を予期しておられるのだろう。剣さえ持てばこの森で俺が一番強いからな。

 だから正直、旅の供など要らんと思っていた。土人族ヒューマン程度なんするものぞ、とな」


 だが、と倒れているフィラウトの視線が、立ったままのクレイオスを捉える。己を容易に打倒する戦士のことを。


「まったく、土人族というのは恐ろしいな。お前みたいな戦士がどこかの街を護ってるのでもなく、なんでもない顔で旅をしているのだという。

 だが、同時に頼もしい。そんなお前が俺たちの旅に同行してくれるというのだからな」


 そう言って、フィラウトはにかりと笑った。この手合わせは、クレイオスの実力を確かめようという意図があったのだろう。

 一方でフィラウトの言に、クレイオスは少しばかり誤解があるのを把握したが、数瞬悩んで指摘するのをやめた。明日には森を出るのだし、別に構わないか、と。

 そうやって説明を放棄して、クレイオスはフィラウトに手を差し伸べる。


「少なくとも、その辺の魔物モンストルムにさえ遅れはとらんと言っておこうか」

「ははっ、やはりお前は面白いな」


 にやりと笑ったクレイオスに、フィラウトも朗らかな笑みを浮かべて彼の手を取る。

 力強い腕に引き起こされてから、青年森人族(アールヴ)はおもむろに弾き飛ばされた木の棒の方へと向かった。

 拾い上げ、数度振り回して欠損がないのを確認してからその切っ先をクレイオスに突き出した。


「さて、負けっぱなしもつまらん。もう一手付き合ってもらおうか」

「何度やっても同じだな。だが、喜んで相手しよう」


 好戦的に笑うフィラウトにつられて、クレイオスもまた笑みを浮かべる。

 この森人族の相手をするのは存外に楽しかったのだ。

 間を置かず二人は再び構えなおし、向き合う。


 そして、朝の森に、間延びする高い音が再び響くのだった。

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