60 運命の道
「出立は二日後。どうかそれまで、この村でその身を休めていてほしい」
森人族の頼みを引き受けたクレイオスたちは、その後、軽い打ち合わせを行った。
なにぶん、クレイオスらの参入は急な話であり、翌日にはもう出発ということにはならない。
三姉弟の旅支度と、コルルクによる何かの準備があるということで、二人はこの森人族の村に一晩といわず、二晩滞在する流れとなった。
夜も深く、また食事もまだだという旅人二人を慮り、今日の話はここでおしまい――クレイオスたちはささやかな歓待を受けることとなった。
その歓待の内容としては、フィラウトが持ってきたいくつもの大ぶりの果実、そして狩りの成果であろう干し肉を頂くという一見質素なものである。
しかし、侮るなかれ、ここは森人族が守り、管理する森。供されたそれらは、紛れもなくそんな場所の恵みなのである。
このあたりにしかないのであろう、見覚えのない黄色い果実。
恐る恐る口にしたそれは、歯を立てればすぐに滴るほど水分に溢れ、シャクシャクとした触感が口内を楽しませてくれた。
その爽やかな風味の水分は山越えと長い話に付き合った身体に驚くほど染み渡り、甘すぎない味は空っぽの胃に確かな活力を与えてくれる。
そして何より、供された干し肉の味ときたら――故郷の村だけでなく騎士団から提供されたソレとは比べ物にならないほどに、濃厚な旨味に溢れた代物であった。
塩気以上に、肉らしい甘みと香味が舌に突き刺さる。味わい深い香草の香りが鼻を通り抜け、噛めば噛むほどに芳醇なコクが口内に広がる。一欠けらの干し肉を嚙み潰すだけで、頭は多幸感でいっぱいになった。
その美味さといったら、アリーシャが思わず「どうやって作ったの」と齧る手を止めて問うほど。
対し、夢中になって貪る隣のクレイオスの様子に、鼻高々になりながらフィラウトが説明してくれた。
この森にしかない聞き知らぬ香草の数々――だけでなく、アリーシャが毒草として知る植物などを特別な処理で調味することで、この素晴らしい干し肉を生み出すのだという。
火で炙ればまるで違う味になるのだ、と聞いて食べたがったクレイオスだが、残念ながらそれはできないとのこと。この村のルールとして、火を使ってよい日は決まっており、いくら恩人の歓待といえどもできないものはできないらしい。
森の中であること、そして火の扱いを不得手とする森人族らしい理由であろう。
そんな、二人を十分に満足させる食事の後、姉弟たちとは別れてかねてより約束されていた寝床へと案内される。
場所さえあれば天幕――騎士団よりいただいた代物――を設営できる、という二人に、そうはいかぬと森長コルルクが首を横に振った。
大事な賓客を最大級にもてなさぬわけにはいかぬし、なにより土人族さえもその旅疲れを癒してくれるこの森のすばらしさを知ってもらいたい、と自信ありげにほほ笑んだのだ。
流石に森人族のように茂みの中で眠れるほど器用ではないが――とわずかに身構えた二人だが、それは杞憂であった。
森長の住居よりさらに奥まったところ、他の森人族の気配もないような場所に案内される。
危惧通り、そこには木陰くらいしかない森の一部であったのだが、ここで案内人になっていた老爺がうっそりと手をかざしたことで情景は一変する。
森がざわめいた――否、動いた。
思わず一歩退いた二人の目と鼻の先で、木々の枝が不可思議に生え伸び、茂みから葉が飛び出し、地面から草が生長する。
瞬く間にそれらは集合し、あっという間に球状を成したのだ。
そう、森長の住居とまるで同じものが出来上がったのである。流石に一回り以上は小さかったが、二人が寝泊まりする分には十分すぎた。
これこそがコルルクの権能なのであろう。驚きのままに振り返るクレイオスの前で、少し疲れを滲ませた顔色のコルルクは「ゆっくり身を休められよ」と微笑みを浮かべて去っていった。
そして現在、二人はその住居の中で荷を下ろし、寝る前の一時を過ごしていた。
室内には森長の住居同様、淡い光を放つ花が存在しており、手元の確認には事足りる。その花も時間の経過でゆっくりと花弁を閉じていく様子から、そのうち真っ暗になって眠れるだろう、と二人は判断していた。
そうして二人が腰を下ろしているのは、一対のベッドだ。ただし、こんもりと成長した草の塊であるが。
思いのほか密度のある草のベッドは青年の体重を受けてなお形を崩さず、横になれば柔らかく全身を受け止めてくれる。流石に葉が肌に触れるくすぐったさはあるが、それは外套をシーツ代わりに敷けば問題なかった。
その上に寝転がり、明かりを利用して、クレイオスはすっかり日課となった文字の勉強を進めていた。最初に勉強に利用していた羊皮紙は既に見ておらず、今は別の羊皮紙を見るようになっている。
とはいっても、絵と文字の並んだ単語表であるのは変わらない。ただ、絵が変わり、そして形はよく似ているけど読み方の異なる単語になっているのだ。
前の紙の内容ならば諳んじるくらいに覚えたクレイオスだが、だからこそ形が似ているのに違う、という文字には苦労する。指でなぞり、その動きで覚えればいい、という幼馴染の助言を受けて、クレイオスはその通りに指を虚空に走らせていた。
その向かいのベッドで、アリーシャは己の弓の点検を行っている。確かに視力は落ちたが、鼻がくっつくくらいに顔を寄せれば流石に見える。そこに狩人として培った手指の感覚を併せれば、相棒たる弓の様子を確認するなど容易だ。
張った弦を外し、整備を終えたアリーシャは顔を上げる。ぼやけた視界の向こうでは、赤髪の幼馴染が羊皮紙を片手に寝転んでいる。
集中が切れたのか不明だが、文字を描いているはずの右手が動いていないので、アリーシャは話しかけることにした。
「なんだかすごいことになっちゃったわね」
「……ん、ああ。まさか森人族の村に泊まれるとはな」
考え事でもしていたのか、アリーシャの考えとはズレた応えが返ってくる。まったくこの幼馴染は……、とアリーシャはまるで様子の変わらぬ彼に頼もしさと不安を同時に抱いた。
「それも十分驚くことだけど」と肩をすくめて首を振りつつ、アリーシャは続けた。
「土人族と森人族の橋渡しをすることになるなんて、よっぽどよ」
「大げさだ。俺たちは旅慣れないモルハウトたちを連れて水都を目指すだけだろう」
幼馴染の言葉に、クレイオスも視線をちらと向けて肩をすくめ、「気負いすぎだ」と返した。そしてそのまま羊皮紙に目を戻し、右手がまた虚空をなぞろうとする。
アリーシャは彼が本気でそう思っているのだと理解し、眉間に力がこもるのを自覚した。
クレイオスとて、コルルクの話を聞くまでは相応に身構えていたはずだが、終わってしまえばこの態度。本気で、水都まで同行してそれで穏便に終わると思っている。
「クレイオス」、とアリーシャが声色を変えて呼びかける。そこでようやく、彼も幼馴染が何かを伝えようとしているのだと把握し、羊皮紙を下ろして上体を起こした。
向かい合ったアリーシャの瞳は真剣さを帯びており、よほどの危惧があるのだと思わされる。その一方で、紫が入り混じった今でなお、その目は変わらず綺麗だとクレイオスは頭の隅で考えていた。
無論、そんなことはおくびにも出さず、続きを促すように「どうしたんだ」と言葉を発する。
アリーシャは一瞬だけ迷うように視線を落とした。
それでも、決心したようにその心中の不安を口にする。
「森長も言っていたけれど、いまこの状況は『運命』っていうものが大きく絡んでいると思うの。
あなたの、私の、この森の運命が、もみくちゃにされた糸みたいに絡まってる。
カーマソス村のことから始まって、ノードゥスの魔物と戦って、それからこの森にたどり着いた。これは全部繋がっている、だからこそ考えるべきよ」
一拍置いて、アリーシャはクレイオスに言い聞かせるように語り掛ける。それは同時に、心中を吐露する腹積もりでもあった。
「本当に、何事もなくこの一件が終わるのか、って。私たちの旅路が平穏で、静かな円満に溢れてる――なんて、私は思えないわ。
……この、眼のことだって、そういう運命かもしれないもの」
ずっと、ずっとずっと考えていたことだった。
王都ヒュペリアーナで、一人きりの病室で、アリーシャはこの先の旅路というものに『恐れ』を抱いていた。
彼の旅路についていくのは確定している。誰に何を言われようとひっくり返したりしない。だが、それは旅路を何が阻んでも構わない、という無責任な考えではない。
――きっと『何か』と私たちは対峙することになる。
アリーシャは確信を以てそう考えていたし、現実としてその予兆のように森人族の事情に関わることになった。
そこで『関わらない』という選択肢をとれないのが彼女の善性であり性分であるのだが、さておき。
本格的に『運命』の影が見えてきた、ならばそれを警戒しないのはあり得ない話だ。
考えすぎだとも捉えられるだろう。悲観的だと揶揄してもいい。
だが、何よりも視力低下という明確な害を受けたアリーシャだからこそ危惧しているのだ。
次に魔物に害されるのは、クレイオスかもしれないのだから。
そんな彼女の気迫を受けて、ようやく赤髪の青年もその思考に血が通い出す。
まさしく、クレイオスは油断していたと言っていい。あんな魔物が旅を再開した矢先にまた居るかもしれないなどと思いもしなかった。
だが、幼馴染が心底から懸念し、警戒し続けているその姿を見て――目が醒めた。
かつて、夢幻の世界で神は言った。「因果が歪み、何かが狂った。それ故にこの地に魔物が溢れている」と。
それはノードゥスを跳梁する悪鬼の群れのことだと思っていたが、もしそれが――大地全体のことだとすれば。
今はわからない話だ。正しく妄想の可能性が高い。
だが、己がこうして大地を旅することになり、その向かう先に立ちはだかる者がいるのだとすれば……魔物をおいて他にない。
この、神の子という身の上は、数奇な運命の上を歩かされている。
クレイオスはようやくにしてその自覚を得た。
神託という旅の目的を与えられ、外界を目にする機会を与えられただけの田舎者では居られない。
この地で暴れまわるであろう魔物どもと対峙することを宿命づけられた戦士なのだと――拳を握りしめて理解した。
「……確かに、この先に魔物という脅威が溢れているかもしれない。そういう戦いが俺たちを待ち受けているのかもしれない。ああ、確かに考えておくべきだ。
ありがとう。俺は寝ぼけていたようだ、目が醒めた」
神の戦士となり、その敵を討つ。
それは、光栄なことなのだろう。
だが同時に残酷なことだ。
よもや、己が生まれたことさえもが――『魔物と戦う尖兵を作り出す』という運命の先触れだったのかもしれない。
「だが、一つだけ言っておきたい」
一瞬、そんな無情な考えが頭に浮かぶ。だが、すぐにクレイオスはそれを否定した。
命を賭して己を産んだ母と、娘の命を糧に産まれた孫を育ててくれた祖父。
彼らさえもが運命という見もできぬ何かに突き動かされたなどと――認めるわけにはいかない。
間違いなく、祖父タグサムはタグサム自身の考えと意思を以てクレイオスを愛し、育てたのだ。
ならば。
「この道を選んだのは、間違いなく俺で、そしてアリーシャだ。
魔物と戦ったのも、アリーシャの眼を護れなかったのも、この森にたどり着いたことも……すべて、俺が選んだ道の結果だ。
運命なんていう見えも聞こえもしない何かに諭されたつもりはない。
俺は、俺の意思で――ここに居る」
己もまた、己の意思でここまで来たのだと、若き青年は断言する。
この旅路の責任を、透明な運命というものに擦り付けたりしない。運命の糸など知らぬと、クレイオスはアリーシャに真っ向からぶつかったのだ。
そんなクレイオスの言葉を受けて、アリーシャは――思わず笑みを零した。
「……そうよね、うん。私だって、私の意思であなたについてきたんだもの。それを運命のせいにしちゃ、ダメよね」
アリーシャはずっと不安を抱いていた。旅路の行方を、クレイオスの身を案じ続けていた。運命に翻弄される幼馴染を助けようと思っていた。
だが、そんなものは知らぬと、これは俺の選んだ道だと、他ならぬ彼自身が言ってくれたのだ。
曇った空が晴れ渡るが如く、アリーシャは自分が考えすぎていたのだとすっきりした面持ちで理解する。
ならば、これ以上の言葉はいらない。あとは、目の前に立ちはだかるかもしれない難事に全力でぶつかればよいだけなのだから。
「でも、この先なにがあるかわからない、っていうのはわかっておいてよね」
「もちろんだ」
無論、しっかりと釘を刺すアリーシャに、クレイオスは重々しく頷く。
今はこれでいいのだ、と少女は自分を深く納得させたのだった。
それから、不意に部屋が暗くなり、二人は天井を見上げた。気づけば明かりを放つ花は花弁を閉じており、もう手元の確認もできない。
ちょうどよい頃合いとなったことで、二人は何を言うわけでもなく植物でできた寝台に横になることとした。
外套に包まり、これからの旅路を考える。
結局のところ、アリーシャの危惧は妄想で終わるかもしれないし、クレイオスの覚悟は空振りになるかもしれない。
考え続けたところで未来などわかるわけもなく、やがて二人は眠りへと落ちていく。
*
――だが。
例え運命を否定しようとも、待ち受ける何かがいることは変わらない。
それは水都の中で、彼らを待っている。