54 山を越えたその先に
革鎧をアルアディアから受け取った翌日。
クレイオス、そして――アリーシャの姿は、王都の中、王城内練兵場に在った。
二人は旅支度を済ませた装いをしており、事実、これから王都を発たんとする直前である。
「せめて送り出させてほしい」、という騎士団長の願いを断ることなどありえず、しかし王都一有名な彼女に見送られれば一騒動となるのが目に見えていた。
そんな、目立ちたくないクレイオスらを慮って、彼らが最後に顔を合わせる場所は、一般人の目を隔てる王城西門の内側となったのだ。
クレイオスの装いはもちろん、灰色の革鎧を纏い、橙色の外套を羽織っている。
その背には、新たに仕立ててもらったランスベルト――槍を背中に背負うための肩掛けベルト――に固定された神槍があった。
一つ違うのは、その白銀の槍先が、灰の革鞘に収まっていることだ。
これは悪鬼との邂逅以前に起きた、商人ハバによる目利きを思い出したクレイオスが、どうにか隠せないかとアルアディアに相談した結果である。
目立つなら隠せ、と至極まっとうな意見のもと、槍に触れぬよう四苦八苦しながらもどうにか形にしてくれたのがこの逸品だ。
いかなる妙技が用いられたのか、穂先を下にしても落ちない程に革鞘は吸い付き、さりとて邪魔な時には一閃すれば容易く外れる代物である。
鎧ともども、最高の仕事をしてくれる女職人だった、とクレイオスは思い返すたびに感謝をそらんじることだろう。
一方のアリーシャも、その装いを新たなものにしていた。
カーマソス村での狩人装束――ただの動きやすい深緑の軽装――の上に、灰色の革の胸当てを防具として装着し、下衣にも動きを邪魔しない程度に革の防具が仕込まれている。
また、肌着と服の間に蒼い皮を用いた胴衣を着こんでいて、生半可な矢撃や剣では柔肌に傷をつけることもできないだろう。
その背には、使いなじんだ一張りの弓。
クレイオスの祖父タグサムが拵えたそれは、まるで新品のような艶を得ながらも、手に馴染む感覚に些かの変化もない。王都の職人による、全霊を挙げた手入れのおかげだ。
その他にも、二人にはその旅を手助けするためのいくつもの道具が贈られていた。
太陽神の加護を受けた寝袋に、火打石を柄頭に埋め込んだダガー。獣除けの香がたっぷりとしみ込んだ簡易テント、騎士団謹製の長持ちする保存食など。
金銭を用いて手に入れようとすれば、裕福な商人とて渋面にならざるを得ない高級品たちだ。
さりとて、それでも決して旅人が得られないほどのものではない。不要なトラブルの種を排除した、騎士団長の心遣いがあった。
それらを肩にかけた荷袋に収め、二人は目の前の騎士団長と、その後ろにずらりと並ぶ騎士たちを見渡す。
この半月の療養と休息で、交流することのできた彼らの顔と名前はちゃんと覚えている。
誰もがみな、英雄であるクレイオスを称え、致死の紫電から生き延びたアリーシャを案じ続けてくれた者たちだ。
尊敬の目で見られることはむずがゆい感じがしたものだが、悪意など欠片もない彼らを厭う道理はない。
何よりも、太陽のような気持ちの良い気風の騎士たちなのだ、明日から顔を見れなくなることが途端に惜しく思えてくるほどである。
むろん、その長たる騎士団長エーレオナのことも、同じように思っている。
それは彼女も同じらしい。
「今日発つ、っていうのは何日も前からわかっていたことだけれど……いざこの日が来ると、何とも言えないわね」
「本当にありがとう、エーレオナさん。あなたのおかげで私は――私たちは旅を続けられる。どんな言葉を尽くしても、この感謝の気持ちは伝えきれないわ」
「本当に、心からそう思う。俺たちのためにしてくれた、エーレオナの全ての配慮と行動に感謝を」
寂しそうな、しかしこの日がつつがなく迎えられたことを喜ぶ騎士団長に、クレイオスとアリーシャは言葉少なながらも万感の思いを込めた感謝を告げた。
そんな二人に困ったように首を振りながら、エーレオナは笑った。
「ふふ、奇妙なものね。王都を、ノードゥスを救った英雄に感謝されるだなんて。シュテウスが見たらなんて言うかしら」
そう笑いながら、彼女はアリーシャへと歩み寄る。
懐から丸められた羊皮紙を取り出し、首をかしげる少女に手渡した。
「これは、『国地図』の一部よ。写しを作る許可を得るのに時間がかかったけど、間に合ってよかった」
「え、国地図、って……」
驚きの面持ちで、アリーシャは差し出された羊皮紙を手に取る。
麻の紐で留められたそれを開けば、そこにはいくつもの線と文字、記号を用いた図が描かれていた。
簡潔に書かれた文字、絵柄から察するに、王都とその傍を流れるシウテ川、魔物との戦いの舞台となった平野、そしてマルゴー山脈の一部がこの羊皮紙に収まっている。
クレイオスはもちろん、アリーシャであっても、この国の『地図』を目にするのは初めてである。
むろん、この世に地図が存在しないというわけではない。誰しも、自身の住まう周辺地域を図化し、他者と共有するくらいのことはする。
だが、それは所詮庶民の覚え書きでしかなく、正確な代物ではない。記号とミミズのような線で構成された主観的な落書きだ。
しかし、手渡されたこれは違う。
この『ノードゥス』という国を図化するために、運命神、魔法神、星神の三神の司祭たちが集い、ある特別な日にその敬虔な祈りを以て儀式を行う。
その神聖なる儀式により、神々は司祭たちへ、この国を『真上』から見下ろす目を与えるのだ。
そう、はるか天空より、きわめて客観的な視点を以てしてこの国の輪郭を描き、川の長さを知り、山の形を覚えることができるのである。
手渡されたこの羊皮紙にはその一部が模写されている。
その価値は計り知れず、あるいは黄金の山よりも得難いものだ。
「こんな凄いもの、受け取れな――」
「いいの、持っていきなさい。どうせ一部だし、王都から山脈にある山道の場所までを示してるだけだもの」
騎士団長の言の通り、これが国の全容であれば国家機密ともいうべき秘であるが、この羊皮紙の内容と言えば国のわずか一部を示しているだけである。
そこに価値を見出す者とて居ようが、ならばその手に渡らぬようすればよいだけのこと。
「そんなに心配なら、山に入ってから燃やしてしまいなさい。そこから先では役に立たないんだから」
「そう、ね。そうした方が私も安心できるわ……あの、本当にありがとう」
どこか不安げにしながらも、アリーシャは深く頭を下げ、羊皮紙を丸めて胸に抱く。
そんな彼女にひらひらと手を振りながら、エーレオナは困ったように微笑みを浮かべた。
「お礼ばっかりね、もう。正直、私たちとしては、あなたたちの旅の目的に関して何の力にもなれなかったから、せめてこれくらいはしたいの。わかってちょうだいな」
「本当に、充分すぎるほどだ。それに、次の目的地のヒントもくれただろう」
この半月の間に、クレイオスらは旅の全てを明かさぬまでも、目的地に関するヒントを得るために話をしている。
大地の北に存在するという、『最果ての北地』。その名に聞き覚えはないか、あるいは北のどこにあるのか。
彼らの問いに一も二もなく騎士団長は情報収集を行い、その結果、「わからない」ことが分かった。
他国より至る行商人にまで問いを投げたが、まるで知らないということだったのだ。
手がかりのかけらもなく、ただ北を目指すしかないか――そう考えていたクレイオスらに、話を聞きつけた運命神神殿の司祭から一つの情報が贈られた。
「――エダークス王都、そこにある『運命大神殿』に、『世界地図』が存在する、という話だったな。紹介状まで貰っているんだ、これ以上のことはない」
隣国エダークス。その王都に、運命神を奉ずる大神殿が存在する。
かの女神から最大の加護を得るそこには、国という規模をはるか超える、『世界』の形を記した地図があるのだとか。
本来であれば国一つを見ることが関の山の儀式を、いかなる手法を用いてか、神の寵愛のもとに最大限に拡大し、『世界地図』を製作することに成功したという。
むろん、その価値は計り知れず、たとえクレイオスらがノードゥスの英雄であれど、「みせてくれ」と懇願したところで見ることはかなわない。
それは、この国の運命神神殿の最高司祭の紹介状があってもだ。
だが、地図を見ることが目的ではないのだ。
あくまで得たいのは、『最果ての北地』の所在、あるいは正体。
その情報が存在する可能性が最も高いという話であり、話をひとつでも聞くくらいのことは叶うだろう。
ゆえに、次の目的地は、マルゴー山脈を越えた先、大地のさらに内側に存在する国『エダークス』である。
「そこに、あなたたちの求めるものがあることを願うわ。……それに、貴女の眼のことも何かあるといいのだけど」
淡く目を伏せ、エーレオナは悔恨の面持ちでアリーシャを、その瞳を見つめる。
常盤色に紫が混じってかき混ぜられた、濁った色であるのは半月前となんら変わりない。
彼女の症状に改善の兆候はなく、今を以て、視界の様子はぼやけてハッキリとはしていないのだ。
――だが、何の解決にも至っていないわけではない。
この半月という時間は、紫電に傷ついた身体を癒し、弱った筋力を鍛え直すためだけではない。旅に出られるだけの解決策を得るための時間だった。
アリーシャの陥った視力障害。
雷神神殿の司祭たちによって、その正体は『生体魔素の極端な乱調』であると特定された。
体内を満たす『生体魔素』が外的要因によって偏りや変調が起き、その影響で視力が低下している。
ならば、『生体魔素』の調子を整えれば、おのずと視力も回復するという話だ。
だが、この治療方法には問題が二つあった。
一つは、他者の手で治療を行えないこと。
『生体魔素』は非常に繊細かつ未知の部分も多い存在だ。そこに他者から手を加えるということは、アリーシャの病状を見てわかるように想像もできない変調を引き起こす。
故に、症状がわかっていても、手を出すことができない。
二つに、人生をかけるほどの長期的な治療が必要であること。
神殿にあった、近似の病状であった患者の治療にかかった期間は、三十年。目を患った男性が老いて疲れ果てた末にようやく、日常生活ができるほどになったのだという。
しかし、これらの問題をどうにか片付け、アリーシャは旅立つ決意を固めた。
一つ目の問題は、単純に、他者にできないなら『自分でやればいい』として解決した。というよりは、それ以外に治療方法がなかったのだ。
乱れた生体魔素を、自身の手で整えて正しい形に導く。
その為に必要な技術として、『生体魔素の操作』というものがある。自身のうちにある『生体魔素』を必要な量、必要な形に取り出し、必要な時に用いる技術だ。
といっても、難しい話ではない。これは、『権能』を得た人間であれば無意識に行っている技である。
手の先に風を生み出す、無数の鉱石片をひとところに集める、祈りを火炎に変じさせる――これら全ての権能に、この技術が関わっている。決して難解なものではない。
とはいえ、アリーシャの権能は『森の木々に妨げられない矢を射ることができる』というもの。これは、自身の身から無意識に流れ出ている『生体魔素』が影響する権能だ。
操作とは別次元に位置する故に、彼女にとって操作の習得はゼロからのスタートとなっていた。
それでも、アリーシャはわずか半月で技術を己の物にした。
二つ目の問題に関しては、技術の習得の過程で解決の可能性を得たのである。
生体魔素の調整という治療行為を何十年も行わなければ視力は戻らない、とされていたのだが。
試しに生体魔素を眼球周辺に集中してみた結果、なんと視力が――目に見える世界がハッキリと見えたのである。
驚いた瞬間に視界は元に戻ったが、それは即ち『生体魔素の操作』によって視力が回復した証左。
わずかな、まばたきほどの時間しか回復しないが、それでも無意味なんかじゃない。
彼女にとってはまさしく女神からの救いの手であり、旅立つ決意を固めた一番の要因だ。
治癒司祭や治療院には引き留められたが、この眼と付き合っていく覚悟を決めたのだ。
それらの事情を知るエーレオナは、少女の眼のことも案じていた。
あるいは、隣国――魔法大国エダークスであれば、という思いがあった。
「ありがとう、エーレオナさん。まあ、そのあたりはうまくやっていって見せるから、そんなに心配しないで」
「……そう。確かに、私にできるのは祈ることだけ。貴女のことは、隣の英雄にお任せしましょう」
そう言って、エーレオナはクレイオスに視線を投げる。
碧眼と交差した視線の元、翡翠の瞳には――固い決意。頷きと共にアリーシャをちらと見た理由を察せぬほど騎士団長は愚昧ではない。
この旅路で、青年は幼馴染の瞳を治す、その手段を得るつもりである。
二人の目指す目的地は、神々となんらかの関わりがある、とまで騎士団長は想像できていた。
それはつまり人生を賭して果たすに値する――神託の旅というのは大地に生きる人族にとって、そういうものである。
だというのに、この青年は幼馴染の眼を治すことをも目指している。なんの躊躇も懊悩もなく、その瞳には鋼よりも固い決意があった。
それを愚かとするか、強欲とするか――そんなことを論じる以前に、エーレオナにとってはただ、その在り方が好ましい。
微笑を浮かべ、「さて」と両の手を打ち合わせた。
「名残惜しいけれど、いつまでも引き留めちゃ悪いものね。そろそろお開きとしましょう」
「ええ。今までありがとう、エーレオナさん。騎士団と、そしてこの国に永き栄光のあらんことを」
「本当に世話になった。神々の加護があらんことを」
握った拳を立てる仕草で、二人はささやかな祈りを贈る。
そんな二人に、エーレオナは表情を引き締めると、スッ、と背筋を伸ばして声を高らかに張り上げた。
「総員、整列!」
凛とした声が練兵場に響き渡る。
同時、静かに見守っていた騎士たちが一糸乱れぬ動きで列を作り上げ、騎士団長の後方で流麗な隊列を生み出した。
その確認など必要ない、気配だけで全てが整ったことを把握した騎士団長は、大きく息を吸う。
「我らが英雄に、国を救いたもうた真なる戦士に――礼ッ!」
放たれた鋭い号令と共に、騎士団長以下、すべての騎士が同時にその握り拳で胸を叩く。
《日輪の栄光》騎士団による、最上位の敬礼。王に捧げる礼が今、二人の旅人に向けられる。
盛大な手向けに、少女と青年はそれぞれ笑みを浮かべ、見よう見まねで同じように右拳を胸に当てる。
これが、騎士団と彼らの、別れの一幕であった。
*
そして時は流れ、二日後。
二人は山道の緩い傾斜を急ぐことなく歩いていた。
その足取りに迷いはない。この山道が国境越えによく使われる代物ということもあり、踏み固められわかりやすい道であるというのもある。
だが、最たる理由は騎士団長が贈った地図にあろう。
山道までの地図、と言いながら、そこに付け加えるようにして山を越えやすい道のりを追記してくれていたのだ。
その内容を感謝しながら頭に叩き込み、昨晩のうちにその地図は灰になっている。
そこに付け加えて、二人が迷わない理由はもう一つ。
わかりやすい景色が常に視界にあるからだ。
剝き出しになった地層、荒れ果てた岩肌、不自然に転がる大岩の数々――左手に広がる不自然な『谷間』という景色が、迷いやすい山林であっても目印となっている。
不思議がるまでもなく、これは魔物との戦いの過程で生まれた景色。クレイオスが山を投げた際に生まれた破壊の痕だ。
マルゴー山脈とは、当然の話ではあるがいくつもの山が連なっている。
そのうちの一つの、山の半ばから山頂部分までをそっくり力任せに消失させたのだから、その痕は自然的でない不可思議な風景となる。
山と山の間に、不自然な谷――というよりは小規模な平野が形成されているということだ。
この景色を間近で見たとき、アリーシャは呆れと驚嘆を、クレイオスはわずかな申し訳なさを覚えたのだった。いずれ山をテリトリーとする鍛治神に怒られるかもしれない。
ともあれ、そんなものが存在するのだから迷う道理はない。
無論、平野のような平たい形となっている以上、山を登り下りするよりはそちらを通った方が山越えは早いが、それはできない選択だった。
なにせ、強引な力で形成された環境だ。迂闊にその上を歩けば、隠されていた洞穴に落ちたり、奇跡的なバランスで積みあがっていた土砂を崩落させかねない。
正しくその心配をしていたエーレオナの導きに従い、二人はその隣の山を通って山脈を抜けることにしたのだった。
そうして、二人は見知らぬ山であっても迷うことなく尾根にまでたどり着く。
すなわち、山によって隔てられていた――大地の更に内側を、この目に収められるようになったということ。
それは、故郷の山、セルペンス山を越えたときと近しい状況であるが。
この瞬間に得た感動を、クレイオスは一生涯忘れないだろう。
晴れ渡る空、太陽神の計らいか、雲一つない。
空気は澄み渡り、今この世界は何にも隔てられることなく視力の限界まで見渡すことができる。
視界に入ったのは――広大なる世界だった。
山から平野にかけて深い森が広がり、その先にはここからでもわかるほど大きな川――後に運河だと知る――がある。
そこから先にも広い広い平野と低い山の姿が見え、なるほど、ノードゥスをして『大国』と評するだけの領土の広さがクレイオスには理解できた。
だが、それらはまず最初に見えたものではない。
そのずっと奥、運河を越え、平野を越え、その先にある森林。
遥か遥か遠く、水平線に消えるギリギリ手前の位置にあるその森は、このマルゴー山脈から認識できるほどに縮尺の狂った異様に大きな樹木から形成されている。
そんな樹林の奥に――見えていた。
天空を支える、巨大な巨大な大木が。
遠景というのは例え晴れ渡っていようとうっすらと白みがかり、そこにあるものの正体は茫洋として知れないものだ。
だが、あの樹は。
この大地からまっすぐに伸び、神の居――天空の神界へと枝葉を伸ばしている。
足元の森も十二分に巨大であろうに、その樹と比べればヒトと蟻ほどの差があった。
それは本当に、遥か遠いこのマルゴー山脈に居てなお、顎を持ち上げて見上げねばならぬほどの全容なのだ。
同じように、視力を一時回復させたアリーシャが、呆然としながらもその樹の名をつぶやく。
「あれが……『世界樹』。神々と大地を繋ぐ樹」
その名は、この大地に住まう全ての人族が知る偉大なる樹。
かの樹があるからこそ、神々は我らを見捨てず、我らの祈りは神々に届く。
あるいはノードゥスに住まう者たちがいつかは、と夢想する存在との邂逅を今。
クレイオスたちは、果たしたのだった。