52 英雄たちの休息
現在に蘇った魔物の大攻勢という、未曽有の危機を乗り越えた王都ヒュペリアーナ。
魔物の呼び寄せた重苦しい雷雲は一日を待たずに消え失せ、その後の天気は太陽神がノードゥスという国を賛美するような気持ちのいい晴れ間が続いていた。
太陽神が姿を見せる時間が長くなる季節ということもあり、彼を国教の神とするこの国では先日の危機を忘れるかのようなお祭り騒ぎが連日執り行われている。
平民が住まう地区ではどこも出店が立ち並び、おいしい食べ物や山奥の狩人などが見たこともないであろう菓子が子供の駄賃程度で売られている。
遊戯を売り物にしている店もあり、そういったものを中心に王都の平民は盛り上がっているようだった。
無論のこと、王都の無事を喜んだのは立場は違えども貴種も同じ。貴族たちも貴族なりの流儀でこの祭りに興じている。
上流階級専用の地区に立つ大きな劇場で、『巨大魔獣討伐』と、そして今回の『魔物戦争』を題目にした二つの劇が何度も公演されているらしい。前者は騎士団長エーレオナが為したかつての偉業で、後者はもちろん紅蓮の青年クレイオスが主人公だ。
三つある劇場全てでこれらの劇が内容の被りなど気にせず行われているようだが、祭りが始まってから既に五日の現在、どうやら劇場ごとで内容に色を付けているのだとか。
ある劇場では何故か青年と騎士団長のラブロマンスになっているらしく、それを聞いた張本人たる緋髪の女性から猛抗議を受けている、とは風の噂だ。
そんな王都の騒がしい現状はさておいて、祭りの主役たるクレイオスは何をしているのか。
祭りが始まって五日、つまり戦いが終わって十日が経過した日の朝。
怪我の治療を二日で終えた青年は、祭りの喧騒を嫌うようにその中心から随分離れた場所で朝日を浴びながら身体を動かしている。
今回の英雄譚を知る多くの王都の住民は想像もしていないだろう。
まさか、かの青年が崩れた城壁の補修作業に従事しているなどと。
「これはここでいいな?」
「おう。あそこのやつ全部積んでくれ」
成形された大きな石ブロックを両脇に抱え、クレイオスは現場を仕切る監督者の職人に城壁の上から問いかける。
それに対して監督者が城壁の下にあるブロックの山を指差して応えると、青年はテキパキと作業を再開した。
青年が手伝いを申し出てきたときは何度も何度も「必要ない、休んでいてくれ、こんなところに来るな」と嘆願したものだが、相手は頑固さの強度においては鉱人族にも引けを取らぬクレイオスである。
強硬に作業に参加すること三日目にもなると監督者の男もついに諦め、それどころか並の作業員の数倍の働きをする彼を便利に使うようになっていた。
今だって、十数キロフェラムはある重たい石二つを抱えて、七ベルムル以上はある城壁を足だけで駆け登っている。道具か権能が必要な作業が、彼一人の活動で終えられてしまうのだ。
おかげで、本来ならまだ瓦礫の片づけをしていたかもしれないのに、もう既に城壁は補修完了の目途が立ち始めている。
あとは積まれたブロックを鍛冶神神官の職人が権能を用いて固め、その後に魔法神神官が魔法で強度を上げるだけだ。
全ては働き者の英雄のおかげだが、彼がそうまでして働く理由を考えると、途端に監督者はやるせない思いになる。
戦場になど出ていない、しがない職人の彼だが、騎士である息子からクレイオスに起きた悲劇を耳にすることができていた。
何かを忘れるように働き続けるクレイオスの姿は、英雄になど見えない。
傷ついた心を押し隠しているだけの、ただの青年だった。
*
昼の鐘を過ぎてしばらく、作業を終えたクレイオスは王都の通りを進んでいた。
朝から随分騒いでいるというのに、疲れ知らずの住民たちは今もなお笑顔で今回の勝利を祝っている。
元々の気質が陽気なのだろうが、それにしたってすごいお祭りだ、とクレイオスは遠目から彼らを眺めていた。
一緒になって騒ぐ気質でもなく、まして己が主役の祭りとなるとどうにも気後れする。村での祭りは常に、奉じる神や獲った獲物が主役だったからだ。
出店や道の脇で行われる平民向けの劇に目もくれず、クレイオスは通りを突き進む。彼の仄暗い赤髪を珍しげに見る者はあれど、話しかけてくる人はいなかった。
驚くべきことに、英雄クレイオスがどんな顔をしてどんな背格好であるのかは、王都の住民にはあまり知られていない。
これは、栄誉に関心がなく、目立つことを嫌ったクレイオスの意向をエーレオナが汲んで、全身全霊を以て情報統制に尽力してくれたおかげだ。
その勢いたるや、戦勝記念として彼を祀り上げようとしたノードゥス国王へと直訴するにまで及んだという。
いかなる手腕を用いたか、青年にはまるで見当がつかないが、彼の周囲が常に落ち着いていられる現状から、その嘆願は届いたのだろう。
そのことに、クレイオスは重ね重ね、感謝の念を抱いている。
そうして楽しげな通りを過ぎて、辿り着いたのは職人の集まる<職人ギルド>の通りだ。
名前の通り、様々な専門的な技能を有する職人が工房を構える通りとなっていて、お祭り騒ぎの主要な通りと比べて静かな様相を呈している。
通りの左右を詰める建物には木槌や鋸などが描かれた看板が掲げられ、どこが何を取り扱う場所なのかが一目でわかるようになっていた。
そんな、さして長くもない通りを進み、やがて蜘蛛らしい絵柄が描かれた看板の建物にクレイオスは足を踏み入れる。
クレイオスには今をもって読めないが、看板に刻まれる工房名は『蜘蛛糸紡ぎのアルアディア』、というらしい。
扉に装飾された金属の筒が、青年の押し開けた動きに合わせて揺れ、チン、と澄んだ音を室内に響かせる。
屋内に入った赤髪の青年が目にしたのは、用途のわからぬ無数の道具と傷だらけの作業台が立ち並ぶ光景だ。
正面の壁には成形された何かの革がひっかけられ、ここが何の工房であるかを静かに物語っていた。
ここは職人の聖域ともいえる作業場。主なき状態で客を招くことなどありえず、故にクレイオスは一人の女性と顔をあわせることになる。
奥の壁を向き、背中を見せて作業していた小柄な女がゆっくりと振り返る。
入ってきたのがクレイオスであるとわかっていたのか、さしたる驚きもなく、渋面だった表情に薄い笑みを浮かべた。
「おや、英雄殿じゃないか。用事はもう?」
「ああ。そちらの調子はどうだ」
からりとした陽気な声の問いかけにクレイオスが頷いて見せる。次いで問い返した青年に、女性は「見たほうがはやいだろう」と作業場の奥へと手招きした。
珍しい女性革職人である彼女『アルアディア』だが、彼女の特異性はそれだけではない。
左右に尖った耳、色素の薄い肌、浅緑の短髪――アルアディアは、紛れもない森人族である。
驚くべきことに、彼女こそがこの聖域の主人だ。王都に住まう住民の一人であり、職人ギルドの一員ですらある。
これにはクレイオスも初対面の時に驚いたものだ。
数度にわたる交流の中で彼女自身が語ったところによると、あの黒い森を出て土人族社会に入り込む森人族は珍しくはあるが居ないわけではないらしい。
当然、森に戻ることなどできず、森の内情を語ることなどへの様々な『禁則』を与えられるが、出て行くことに関しては意外と寛容なのだとか。
彼女の所感で言えば、出て行く者への興味を失う、といった方が正しいらしいが。
そんなアルアディアとクレイオスが知り合うに至ったのは、魔物を打ち倒した二日後。
王都を救い、魔物を討伐したクレイオスになにがしかの明確な形で報いたい、というエーレオナからの言に、青年が『革鎧』を所望したことがきっかけだ。
十分に報いてもらっているので必要ない、と最初は断ったクレイオスだが、騎士団長が「そうはいかない」と力強く首を横に振ったのである。
彼の為した偉業に比べれば、王国ノードゥスは現状彼に対して何もしていないに等しい。
それを望んだのはほかならぬ英雄本人であるのだが、だからといってそれに甘んじるわけにはいかない。
君が栄誉を求めぬならば、せめて金品で――という騎士団長の熱弁に押され、とっさに口をついてでたのが先述の『革鎧』だ。
これは、祖父タグサムより預けられた魔獣の革の使い道に迷っていたからこそ出た願望だった。
これにすぐに応えるべく<職人ギルド>に要請があり、魔獣の革を防具に仕立てることのできる職人アルアディアに白羽の矢が立った。
聞くに、魔獣の革を防具に用いるには特殊な糸が必要であり、それを用意して活用できる者の中で最も腕が良いのは彼女なのだとか。
森人族にして女性。土人族の中でも殊更、男社会である<職人ギルド>において、そこまでの評価を得るにどれほどの苦労があったか。
アルアディアは語ろうとしないが、だからこそクレイオスは敬意を払っていた。
だが、そんな彼女の尽力があってもなお、革鎧の製作は難航している。
タグサムの用意してくれた革が相当に上質な大熊のものであったこともそうだが、それ以上に国から押し付けられた追加の素材が職人アルアディアをうならせていた。
なんと、『魔物の素材』である。
クレイオスが革鎧を所望したまではいいが、素材は彼が出すという条件にエーレオナ――及び国が苦慮。こちらで用意するという話を突っぱねられ、しかし国から職人を紹介しただけというわけにはいかない。
そこで目を付けたのが、平原に横たわるレギーナと王冠悪鬼の骸だ。
並の刃物を徹さぬ頑強な皮や、強靭な筋肉を支える骨など、なんでもいいから利用して革鎧を製作しろ、という無理難題がアルアディアに課されたのである。
魔獣の革だけならすぐに取りかかれる彼女だが、この注文には非常に難儀している。魔物の素材など触ったこともなかったのだから。
当然、アルアディアの補佐としてつけられた数人の腕利きの職人があっても話は同じである。
彼女が苦慮しているのが己の為の防具ということもあり、クレイオスはこうして時間があればアルアディアの作業場に寄っていた。
当然、職人でもない彼にやれることなどなかったが、アルアディアが意外にもお喋りな性格であったことが幸いし、訪問するたびに進捗を聞いたりして時間を過ごしている。
ここ数日は悩みに悩みぬいていた彼女だが、どうやら表情や声色を見るに進展があったらしい。
案内された作業台の上に、醒めるような蒼色の皮が鎮座している。その形が前日と違っているのを見て、クレイオスは表情を僅かに驚きの色に染めた。
「加工できたのか」
「ああ。三日目にしてようやく。これでダメなら英雄殿の手を借りなきゃいけないところだった」
クレイオスが驚くのも無理はなく、この皮――王冠悪鬼の素材は、前日までまったく加工のできない難物であったのだ。
アルアディアの仕事道具の刃は徹らず、ハサミで断つことも無論不可。仲の悪い鉱人族の工房から彼女が断腸の思いで借りた王都一のナイフでさえ、傷をつけるのがやっとだった。
一方で、クレイオスが神の槍を器用に使って皮に突き立ててみれば、バターに熱したナイフを差し入れるが如く簡単に突き抜けてしまった。実際、この工房に持ち込む手段として彼の槍が活躍している。
そういう事情があり、クレイオスが槍で皮を裁断しなければならないという事態になりかけていたのだが、アルアディアは自前で解決手段を見つけ出したようだ。
「太陽神神殿から秘宝中の秘宝を借りることができたんだ。これだよ」
そう言って、アルアディアは作業台に置かれた一本のナイフを手に取る。
柄も刀身も、全て一つの鉱石から形を造られ、継ぎ目なく一体となっている特殊なナイフだ。
水色がかった銀色をしており、それを扱うアルアディアの手つきはそこはかとなくうやうやしい。
彼女が丁寧な手つきで柄を握ると、端材となっている蒼い皮の切れ端の上を滑らせる。それだけで、皮は真っ二つに裂けた。
それまでの皮の強靭さを知っていると、今しがた見せられた光景は驚嘆に値する。
「ほう」と思わず声を上げるクレイオスに、ナイフの持ち主でないはずのアルアディアは得意げに胸を反らした。
「〈神聖銀〉といってね。鍛冶神の祝福を受けた本物の『神の鉱石』らしい」
「凄まじい切れ味だな」
「いいや、どうやら切れ味はこの前見せた、アナグラ工房のナイフより劣るのだという。これが皮を切れるのは、『神の鉱石』と『魔物の素材』という相性が関係しているらしいぞ」
続けて「どちらかといえば鈍らだ」と言う言葉を証明するように、森人族の細い指が刃をなぞっても薄皮さえ切れていない。
だのに強靭な魔物の皮を切り裂けるのは、『神の力が人族を守り、魔物の表皮を傷つけるのは当然』という理屈なのだろうか。
思わず頭を捻り、そしてパッと頭に浮かんだ考えを熟慮もせずにクレイオスは口に出してしまう。
「……それがあれば、先日の戦いも楽に進められたかもしれないな」
言ってから、クレイオスは「しまった」とばかりに表情を歪めた。眉根を寄せる程度の表情の変化だが、普段から愛想のない彼としては劇的なものである。
それを見てとり、されどアルアディアは気にした様子もなく肩を竦めた。
「そうかもしれない。だが、この国にある〈神聖銀〉はこの一本だけらしいからね。騎士ひとりにさえ持たせられまい」
思わずクレイオスが零したそんな『もしも』の話に付き合って、彼女は首を横に振る。
確かに〈神聖銀〉の剣が騎士団の装備であれば、戦いの被害者はもっと少なかっただろう。あるいは、矢の鏃であれば更に違ったに違いない。
だが、全ては仮定の話。詮のないことだった。
自分でもつまらないことを言った自覚を得たクレイオスは、「そうだな」と言葉少なに応じて視線を逸らす。
女職人は、そんな青年をいたましい者でも見るかのように視線を投げた。
彼の言いたいことはわかる。もし、先日の戦いがもっと変わっていたならば――と考えるのも無理はないのだ。
だがそれでも、慰める言葉は持ち合わせていない、とばかりにアルアディアは背を向ける。
「さ、今日はこれから忙しくなるのだ、英雄殿。作業の邪魔だ、帰るがいい」
*
半ば追い出される形で作業場を出たクレイオスは、一転して王都の中心部へと向かった。
増える人波を掻い潜るように抜け、辿り着いたのは見上げるような大きさの建物。赤と橙色に彩られ、王都中に響き渡る大鐘楼を備えた『太陽大神殿』である。
正面には大規模な広場を備え、有事の際に人を集める役目を担っていた。それは祭りの現在でも同様であり、集まった吟遊詩人による語りなどが連日執り行われている。
それを横目に収めながら、クレイオスは大神殿へと足を踏み入れる。
他の神殿と同じく、大神殿であっても一般人に広く開放されている場所だ。だが、今、中に居る人の数はそう多くない。
表では騒がしく楽しげな声が踊っているが、神殿内部は打って変わって静かだ。中に居るのは祈りを捧げる信徒がほとんどを占め、祭りを楽しもうという者の姿は見受けられない。
それも当然のことで、ここは『戦死者を弔う場』であるのだから。
先の戦い、魔物を討伐するという輝かしい勝利を収めたわけだが、死者がいなかったわけではない。
前線に身を置いた騎士、傭兵だけでなく、鬼母邪神レギーナの放った光線に切り裂かれた弓兵や魔法師など。
両手の指では数え切れぬくらい、人が死んだ。
その事実を知った時、クレイオスは黒々しい気持ちが胸に湧いたのを覚えている。あえて表現するならば、それは『自身への嫌悪感』というべきだろうか。
村で獣に襲われて助けられなかった命はある。そもそも、村を襲った蛇人間に知り合いを多く殺されている。
だが、その時に抱いたのとはまた違った気持ちがそこにあった。
どうしようもなく手の届かないところでだれかが死んだ、ということを知るというのは、こんなにも――無味であるのか、と。
何も想うことのない自分への嫌悪。それだけが浮かぶ自分に驚き、どうすればいいのか持て余す。
若き青年はこうしたときどうすればいいのかを知らず、それでも戦いを終わらせた当事者として毎日この大神殿に訪れていた。
祈りを捧げる聖堂の端に座り、瞑目して暫し。
隣に見知った気配が座るのを感じ、クレイオスはそちらを見やった。
燃え上がるような火炎色の髪をした女性――エーレオナだった。鎧も外套もないが、その目立つ容貌は王都の全ての人間が知るところである。
だが、ここは祈りの場。話しかける者は居ない。
当の本人を除いて。
「久しぶりね。元気にしていた?」
「……ああ」
声量は小さめだが、世間話を振ってきたことに僅かに驚きつつクレイオスは首肯する。
そんな彼に騎士団長は薄桃の唇で弧を描きつつ、話をつづけた。
「聞いたわよ。毎朝外壁の工事を手伝ってるって。あんまり職人の仕事をとるものじゃないわ」
「そういうつもりじゃないが……」
「ま、助かってるのは事実だし、文句って程でもないけれどね」
困ったように目を逸らす青年を見て、エーレオナはくすりと笑った。
「落ち着いて話したかったんだけど、私も忙しくてね。急にこんな形でごめんなさい」
「謝ることじゃない。こちらこそ色々と世話になっているからな」
彼女の言葉に不愛想な返事をするクレイオスだが、騎士団長は慣れているかのように「それはよかった」とおどけたように肩を竦めた。
それから何かを考えるかのように口をつぐみ、視線を青年から外して前方を見上げる。
聖堂の奥、祭壇の背後には太陽神の雄々しい立像が存在し、その姿を視界に収めながらおもむろにエーレオナが口を開いた。
「私のひいお祖父さんのお祖父さん、つまり五代前の人なんだけどね。当時の騎士団――《日輪の栄光》の団長だったんだけど、歴代最強って言われているわ」
「……?」
唐突に、百年は前であろう人間の話がエーレオナから切り出された。
何のことだろう、と疑問に思いつつ先を促せば、彼女の碧眼がクレイオスをじっと見つめる。探るような視線に居心地の悪さを覚える彼に、騎士団長は言葉を続けた。
「腕から炎を出して、現れる魔獣のことごとくを焼き払っていたらしいの。それも、権能とは別の炎で。強さの秘密を聞かれると、彼は決まってこう答えていたそうよ」
神の子だからな、って。
その言葉に、鉄面皮を誇るクレイオスでも無反応とはいかなかった。
「――、」
「なるほど、ね」
僅かな動揺と逡巡は、人生経験が格段に異なる女性に対して致命的な隙だ。容易に気取られたことを理解しつつ、されど明確な否定という嘘を吐くことはクレイオスにはできなかった。
既にこの騎士団長はクレイオスにとって『信頼に足る人物』であり、不誠実な真似は避けたかった。
だが、そんな不器用な配慮は必要なかったらしい。
「まあ、そんなこと、あの戦いを見た人は皆わかってるけどね」
「…………なに?」
「あら、秘密にしておけると思ったのかしら。あんなの、権能ってだけじゃ説明できないわ。神に連なる何者か、なんて誰でも理解できることよ」
呆れたように肩を竦める女性に、クレイオスは視線を中空にさまよわせる。自身が思うより、この身の秘密とやらは隠し遂せるものではなかったらしい。
少しばかりきまりの悪くなった青年だが、一拍の間を置いて気持ちを入れ替える。元より、絶対に隠さねばならない話でもない。
軽く頭を下げ、クレイオスは謝罪する。
「軽々しく言えることじゃなかった。だが、秘密にして申し訳ないとは思う」
「謝らせたいわけじゃなかったの。確認しなきゃいけなかっただけで、ね。特に、あなたの親はどなたなのか、とか」
じ、と見つめる碧眼に、青年は今度こそ答えに窮した。
もしかしたら、と思う存在は当然いる。だが何の確信もなく、夢幻から語られる神の声はそのことについて敢えて話そうとしていない節まである。
故に、できる答えは「わからない」と緩く首を横に振ることだった。
そんな青年の様子に、しばし黙して見つめるエーレオナ。二拍ほどの間を置いて、小さく息を吐いて「なら仕方ないわね」と困ったように笑った。
「話はそれだけ。誰も彼も、あなたが太陽神様の御子なんじゃないか、ってうるさくって。それじゃ、『彼女』によろしくね」
と、騎士団長は手をひらひらと振って席を立つ。
忙しいのは本当のようだ、と足早に去るその背中を見ながらクレイオスはぼんやりと考えた。
それから、王都でも一等静かなこの場所で青年は今一度、祈りを捧げる。
縁があるかもわからぬ太陽神に、『幼馴染の安寧』を。
*
昼を過ぎて、クレイオスは宿泊場所として与えられた騎士団の営舎に戻ってきた。
騎士団を支えるために多くの施設を兼ね備えるそこは、傷ついた騎士が怪我を癒す診療所の役割も担っている。
その一室に――アリーシャは、居る。
彼女が今なお生きているのは奇跡だった、と太陽神神殿の最高司祭は語っていた。
アリーシャを襲ったのは魔物による呪いであり、致死の紫電。クレイオスのような出自でもない限り、只の土人族は抵抗の余地なく死ぬしかない。
だが、クレイオスというフィルターを介して彼女に干渉したことで威力は激減し、そしてその場でエーレオナの指揮によって即座に治癒司祭たちによる全力の解呪が行われたことで奇跡は起きたのだ。
だが、それでもすべてが元通りで、円満に終わったわけではない。
「どうぞ」
ノックの後、幼馴染の許可を受けてクレイオスは病室に入る。
ドアの開く音を聞いて振り返った彼女は幾分か痩せているが、何よりの変化はその瞳。
美しい常盤色は紫交じりの濁った色と化し、瞳孔の収縮は鈍く反応が悪い。さまよう視線は、クレイオスの姿を探そうとしてうまくいっていない証拠だった。
そう。
傷つけられた華奢な身体は、今を以て予断を許さぬ容態であり。
何より――その視力は、大部分を失わされていたのである。
狩人として。何より、森人族に誇れるほどの射手として。
彼女は殺されたようなものだった。