46 王都防衛戦線(1)
クレイオスらが手合わせを行ったのは、王城西門から最も近い練兵場。シウテ川とは真反対に位置し、ヒュペリアーナの抱く肥沃な平原がすぐそばにある。
打ち鳴らされた鐘は、その平原を見下ろす尖塔のものであった。危急の知らせの元凶はそちらにあるということだ。
鐘の音を耳にするや否や、先ほどまでの明るい様相から一転、団長に足る剣呑な空気を纏ってエーレオナが指示を下す。
「総員、戦闘準備! ニール、あなたは弓兵部隊へ連絡を。アルマ、魔法神神殿に派兵の要請をして頂戴。それから――」
流れるような命令が一瞬の沈黙を得た。騎士団長の碧眼は、部外者である狩人二名を捉えている。しかし迷ったのは刹那の間、すぐにその唇を開いた。
「あなたたちは、私とシュテウスについてきて。傍を離れないこと。緊急事態みたいだから、嫌でも指示には従ってもらうわよ」
「わかった」
クレイオスが迷いなく頷き、アリーシャもそれに追随するのを見てエーレオナは満足げに笑みを浮かべる。そして、既に息を整え終えた副団長を連れて西の城壁へと走り出した。
重い装備をものともしない走力であっという間に城壁内部に辿り着き、階段を上って上へ。物見の為の城壁上部に到着すると、そこでは既に巡回の兵士数名が呆然と立ち竦んでいた。
西の平原を眺め、口をポカンと開けて己を失っている。
ただならぬ様子にすぐさま同じく西を見やって――その場の全員が、絶句した。
広大な緑の平原。
その緑を侵すが如く、蠢く無数の群れがそこには在った。
千ベルムルはあろう距離であるが、その群れをつぶさに見てとるに不足はない。故に、誰もが言葉を失うことになる。
群れを構成する一つ一つの影は、人型であるが人ではない。背の低い緑色の影、背の高い赤い影。その二種類が入り乱れ、広大な平原の端から端までをびっしりと埋め尽くしている。
緑と赤の魔物どもは一つの波濤となり、ゆっくりと、だが着実に王都に向けて迫っていたのだ。
明らかな、魔物による一大攻勢。王都をこの国の心臓と見定めたか、或いは単に防衛の硬さを疎んじたか。魔物の理屈は不明だが、わかっているのはこのヒュペリアーナが未曽有の危機に晒されているということだ。
いち早く我に返った騎士団長エーレオナが、傍に居る巡回兵に指示を下す。
「っ、鐘鳴役に、非常事態宣言を通達しなさい! そっちのあなたは警邏部隊に住民の避難誘導指示を、早く!」
我を失っていた者たちはその鋭い声に身体を跳ね上げ、すぐさま指示を遂行すべく走り出していく。
それを視界の端に捉えながら、クレイオスは未だ遠くにある無数の群れを鋭い眼光で睨みつけていた。
あまりにも途方もない数。その出自に、当然の疑問が頭に浮かぶ。これほどの数が、ただ封印されていたとは考えにくい。そもそも、小鬼など、神の力をもってすれば吹いて消し飛ばせるような存在だ。
何かがあるはずだ、と考えるのを止めないまま、今見える群れの端から端までにくまなく視線を滑らせる。
そして――見つけた。
「あそこだ」
「……え?」
「あそこに、蒼い悪鬼がいる」
クレイオスが無造作に指さした先。エーレオナとシュテウスが望遠鏡を取り出してようやく見える、群れの中央。緑と赤に埋もれるようにして、しかし明らかに異なる色彩が一つ、陣取っている。
蒼色。
忘れようもない、蒼穹の色がたった一つ。群れの中央で守られるようにして存在していた。
遠景を拡大するレンズの向こうに目を凝らし、エーレオナは話に聞いただけの『蒼』を見定めんとする。
その瞬間――蒼き悪鬼が、遥か遠方に立つ騎士団長を、見た。
「――っ! なる、ほどね……」
同時、背筋に走る悪寒。腹の底まで見透かすような虹色の瞳に、底知れないものを感じて彼女は納得を呟く。確かに、あれは別格だ。あれがあの無数の群れを率いているに違いない。
理解と共に望遠鏡を下ろし、くるりと踵を返す。彼女の中で既に目的は定められた。だが、その前に騎士団長としてやるべきことがある。
狩人二人に向き直り、王都を守る者として言葉を発した。
「事態は理解してるわね? 敵は無数、その目的はおそらく王都への侵攻。緊急事態宣言の発令により、その規則に従ってこれから始まる王都防衛戦に参加してもらうわ。悪いけど、拒否権はなしよ」
「問題ない。こちらとしては、最初からそのつもりだった」
「うん。私がどの程度の力になれるかわからないけど、やれることはやらせてもらうわ」
この未曽有の危機に、騎士団長としては少しでも戦える戦力が欲しい現状。その為に強権を発動するつもりでいたが、対する二人は言われなくともこの戦いに参戦する気だった。
その力強い返答に満足げな笑みを浮かべ、エーレオナは寡黙な副団長を伴って歩き出す。
「さあ、作戦会議のお時間よ。といっても、やることは決まっているけどね」
まだ若い彼女としても、こんな大災害めいた事態は初めてであろうに、発する言葉に悲壮さや辛気臭さは欠片もない。
どこまでも明るい太陽のような笑みで、目の前の難事を乗り越えんとしていた。
*
時は流れ、騎士団長、副団長の姿はそびえ立つ城壁の外に在った。その背後には何十名もの騎士が整然と列を成し、更に後ろでは正規非正規を問わない歩兵部隊が人の壁を作っている。
そう、王都防衛の要は、その最先端で臆することなく『時』を待っていた。
既に作戦会議は終了し、この大侵攻を乗り越えるための手順は定められていた。
作戦会議が早くに終わったのは、魔物の群れが王都の喉元まで来ている、というのもあったが、なによりも立案とその決定がほぼ全て騎士団長エーレオナに預けられていたことが大きい。会議というよりは彼女の決めた内容を周知し、理解させることを目的とした報告の場というのが実態だった。
なにせ、こと王都を護るという点において、彼女を差し置く存在は居ないのだ。
なぜならば――王都より遠い村で暮らしていたクレイオスらの知るところではないが――この国において『英雄』という言葉が指し示す人物は、エーレオナ・トラロマティただ一人なのだから。
そんな騎士団長の作戦に異を唱える者はおらず、各部隊の隊長に為すべきことを任せて今に至る。
その作戦には部外者であろうクレイオスの存在も組み込まれており、紅髪の青年は騎士団のトップらの傍らに在った。任せられたのは重要な任であり、そのために橙色の外套を貸し与えられている。
だが一方で幼馴染のアリーシャはと言えば、この場には居なかった。森の中で真価を発揮する権能しか持たぬ弓使いは、現状としては力不足。即席の弓兵部隊――王都の傭兵をかき集めたもの――に組み込まれ、今は西を見下ろせる分厚い城壁の上に居た。
その城壁は、完全武装の兵士たちが二列になっても余裕のあるほどの幅がある。そこで実際に正規の弓兵部隊と傭兵部隊が前に並び、いつでも矢を射かけられるように準備を整えている。その後ろでは、ローブ姿の者たちが無言で居並んでいた。そのどちらもが、蠢く平原を見下ろしながら固唾を呑んで指示を待っている。
全ての防衛戦力が見つめている魔物の群れは、大海にて海神の気まぐれによって強く打ち寄せる大波に似ていた。
それを構成するのが神の敵であるというのでなんともおかしな表現ではあるが、ともあれ実質的には自然災害の類ではない。
気まぐれな神の無慈悲に抵抗する手段は存在しないが、しかしてその敵たる魔物にはいくらでも抵抗してよいのである。
ならば、手の打ちようはある。それを証明する時が来た。
最前線で魔物どもの大攻勢を見据える騎士団長の碧眼。ひたすらに冷徹な視線は彼我の距離を正確に測り、そして必要最低限のラインを魔物どもが踏み越えたのを確かに知覚した。
直後、その腰から長剣を抜き放ち、高く掲げる。晴天の下で目印のように煌めくそれを目にし、尖塔に立つ鐘鳴役が鉄の棒を振りかぶった。
そしてエーレオナが長剣を振り下ろすのと同時に、分厚い鐘へと鉄の塊が打ち付けられる。
響き渡る重低音。危急や時を知らせるソレよりも遥かに鈍く低い音は、防衛戦の火蓋を切って落とす開戦の合図だった。
同時、空を裂く無数の破裂音が城壁の上で合唱する。横一列に揃えられた弓手によって放たれた矢の群れは山なりの軌道を描き、蒼天の下で弧の頂点に到達。鋭い鏃を下にした豪雨となって、魔物の頭上に降り注ぐ。
悲鳴が轟き、容易く射抜かれた数多の小鬼がその場で絶命する。生半可な矢を徹さぬ剛皮を持つ悪鬼でさえ、幾本かの矢をその身に生やして苦悶の声を上げた。
それを繰り返すこと三度、矢の雨が魔物の波濤の前線部分をごっそりと削るも、しかして魔物どもは止まらない。死した同胞の屍を踏み潰し、城壁目指して遅滞なく迫ってくる。
だが、未だ距離は守る側の味方だ。魔物どもにも弓を使う小鬼は居ても、そのお粗末な腕では最前線にすら届きもしない。
そして何より、四度の斉射の間に次なる手が講じられていた。
再び尖塔から鈍い音が鳴り響き、それに合わせて城壁の上で弓兵部隊が後ろに下がる。その間をすり抜けるようにローブ姿の者たちが前に出て、その両手を魔物の群れに差し向けた。
同時、その口から洩れていた詠唱が終わる。
城壁の上に、無数の火球が虚空から現出した。魔法神神殿より派兵された魔法師部隊による、息を合わせた一斉射。悪鬼の身体にすら大穴を開ける一撃が今、群れを成して魔物どもに撃ち放たれる。
矢よりも直線的な軌跡を引いて、射出された火球の群れが赤と緑の集団へ飛来。着弾と同時に強烈な爆発を巻き起こし、矢の雨よりも遥かに大きな戦果を挙げて魔物どもを駆逐する。
城壁の上から見れば、その斉射によって魔物の群れに明らかにいくつもの穴を開けていた。それを見て、改めてアリーシャは魔法の凄まじさを実感する。これを繰り返せば、魔物どもが城壁に辿り着く前に殲滅できるのではないか、と思えるほどだ。
だがしかし、現実は甘くない。視線の先で瞬く間に群れの穴が埋め尽くされ、変わらぬ分厚さで魔物の波濤は侵攻を再開する。まさに無尽蔵と言える数。対するこちらは矢にも魔法の弾数にも限界があるというのに。
その有様に息を呑む暇はない。魔法師が下がるのに合わせて、また弓兵部隊が前に出て斉射を再開した。
海の大波にいくら射かけて火球をぶつけても意味はないが、魔物の波であらば効果はある。全体でみれば僅かな数であろうと、削り続ければその脅威もまた減ずるのだ。
その為に削れるだけ削るべく、騎士団長はギリギリのラインを見定めていた。
矢の雨と火球の斉射で削ること数度。魔法師たちの生体魔素が尽き出した頃には、魔物の群れは裸眼でそれらの存在をつぶさに見てとれるまでに迫っていた。
距離にして数百ベルムル。背の低い小鬼どもの間では、林立する巨躯の悪鬼はよく目立つ。当然、それと同じだけの体躯を誇る指揮官級の存在もまた、同様に。
蒼天の色にも負けぬ深い群青の肌。雄々しくそそり立つ三本の角は王冠の如し形をしている。
確かにクレイオスが交戦し、そして突如として姿を消した魔物の特徴と一致していた。その胸部に、塞がれてはいるものの穴が開いていたように見える傷跡があるなら尚更だ。
だが、記憶にある姿と差異があることを青年は感じていた。遠くから見るだけではわからなかったが、近づいた今ならわかる。
まず、その瞳。落ち窪んだ眼窩の中で、爛々と虹色に輝いている。少なくとも、あんな異様な色彩ではなかった。たとえ以前に見たのが光源に乏しい森の中であったとて、その輝きを見逃したとは思えない。
さらに、その背中だ。風に揺られ、はためくものが存在している。騎士団長の背中にあるものと同じ、それは立派な外套。ただしその色は鬱血の青黒さに染められ、留め具で固定されているのではなくその肩口から直接生えているのである。つまり、外套のように見えてその実、生体の一部であるということだ。
その瞳と外套の存在から、かの魔物の印象はがらりと変わっていた。野蛮溢れる立ち姿は鳴りを潜め、見る者を圧する威厳と不遜なる気位が剥き出しになっている。
まさに王者。冠を戴き、無数の魔物を束ねる者として、さらに相応しき姿に変容したのだ。
クレイオスはエーレオナにこの変化を伝える。
「あの魔物――王冠悪鬼の姿が変わっている」
「……別個体の可能性は?」
「ない」
青年が口にしたその名は、先の作戦会議中に決められたものだ。指示内容を簡潔にするための一時的な呼称であったが、今の威風たる姿を見るにまったくの的外れというわけでもないらしい。
彼の報告を聞いてエーレオナはほんのわずかに眉根を寄せるも、それだけ。作戦の変更はなく、今少しの『時』を待つ。
だが、そんな彼女にも少しだけ腑に落ちないことがあった。
「魔法を使ってこない……?」
クレイオスの報告にあった、大威力の火球の魔法。それを矢の迎撃なり、城壁への攻撃なりに使ってくるものだと思っていたのだが、王冠悪鬼は少しもそんな素振りを見せていない。
配下の魔物が減るのもお構いなし。射程内に騎士団長らを捉えているであろうに、こちらをじっと見つめるばかりで口元は固く引き結んだままだ。
不動であることの不気味さが冷たい手となって背筋を撫でるも、今は反撃がないことを僥倖としておくしかない。被害が少なければ少ないだけ、こちらの勝利は手堅くなるのだから。
その思考の間に、両陣営の距離は更に縮まる。もはや目と鼻の先であり、小鬼のお粗末な弓ですら騎士団長に届くだろう。それを見てとった緑の群れが一斉に武器を構える――しかし、この『時』を待っていたのはエーレオナの方こそだった。
再び長剣を振り上げる。それを振り下ろすのではなく真横に薙ぎ払った直後、尖塔より甲高い音が鳴り響いた。
瞬間――魔物の頭上に、太陽が顕現した。
否、違う。太陽神がその御姿を現したのではない。
しかし、そうとも見紛うほどの巨大な大火球が、前触れもなく発生したのだ。
城壁の上にも下にも、騎士団の中にもそれらしい動きはなかった。故に、観察に徹していた王冠悪鬼は驚きに目を見開くことしかできず、致命的な一手を許してしまう。
だがどれほど魔物どもが急いで進軍しようが、それを止めることはできなかっただろう。
なぜならば、この大火球を生み出した者たちは城壁の内側に居たからだ。
王都の中央、そこには王城に次ぐ立派な建築物がある。赤と橙色に彩られ、その天辺に鐘を設置していた。街中の人々がその中に、或いは正面の広場に集まって、一様に天へと祈りを捧げている。
そう、神殿だ。それもただの神殿ではない。
この国が、国王が信ずる『国教』――太陽神の大神殿である。そこに身を置く数多くの司祭の内、高司祭が持つ『祈りを太陽神の炎に変じさせる』権能が合図と共に放たれたのだ。
細かい狙いをつけるならば、高司祭及び住民は城壁の近くに居なければならなかった。だが、騎士団長が要望したのは「西の射程ギリギリに、城壁と同じ高さから炎を真下に落とす」こと。それだけならば、大神殿からでもできる。
その一撃を成功させるために、彼女は魔物が迫るのを待っていた。そしてそれは、完全な不意打ちとして成功を果たす。
祈りを集めた大紅蓮が、魔物の波濤を蒸発させるべく――落ちた。