42 蒼褪めた冠(2)
震える火の粉、焦げ付く大気。
冷たい夜気を消し飛ばす熱気が渦を巻き、一抱えはあろう火球が虚空に顕現する。それは視界を紅蓮に染め上げ、明るい広場で影がさらに形を失った。
クレイオスの中で驚愕が理解へと及ぶ前に、その火球はアリーシャの矢撃の如き速度で彼へと発射される。
闇の森に紅を引き、網膜に焼きつく残像を残した時には既に紅蓮は眼前に迫っていた。
「――っ、オオォォォォッ!?」
転瞬、喉から破裂するような絶叫が飛び出す。
卓越した直感が回避は間に合わないと判断し、故にクレイオスにできたのは反射行動のみ。脊髄が肉体の防衛をすべく、迫る火球に渾身の力で槍を振り上げる。
銀閃が弧を描き、白銀の穂先は吸い込まれるように火球へと直撃した。
刹那、爆裂。
火球が槍の迎撃を受けて炸裂を引き起こし、超高温の熱波と大音声の爆発音が無作為に全方位へと撒き散らされる。
「ぐぅ――ッ!?」
それはまさしく暴力の嵐、両の足を踏ん張ったクレイオスすら容易くその場から吹き飛ばし、若草の上にゴロゴロと転がした。
青年は素早く立ち上がるも、その身体の前面には赤い火傷と火ぶくれが皮膚を侵している。その上、至近距離の大爆発は耳の奥にまでダメージを浸透させており、クレイオスは身体の平衡が歪んでいるのを冷静に感じ取った。この際、音が聞こえにくくなったのは些事でしかないだろう。
チリチリと痛みを訴える身体の信号を無視して、クレイオスは驚愕収まらぬままに言葉を口にした。
「魔法、か……?」
虚空から現出する現象、それ自体は権能でもあり得る。魔物でいうなれば、邪権能という可能性もある。
だが、直前に魔物が発した唸り声――まるで意味があるかのような発音が、クレイオスの脳裏に一つの光景を思い起こさせていた。それこそ、何日も前に目にしたイドゥが魔法を行使せんとしたあの凍てつくような空気である。
そんな彼の呟きを聞き取ったが故か、或いは別の何かか。
切っ掛けに判断はつかぬとも、それを待たずして再び、蒼き魔物が牙の居並ぶ口を開く。
「『グ――ウィ――カァッ!』」
「――! 避けろ土人族!」
魔物の発声を聞いて、一人の森人族が焦りを多分に含んだ声色で叫んだ。
その警告を耳にすると同時、クレイオスは即座に真横へと跳躍。今度はあらかじめ反応できた、ならば同じように防御する理由はない。
刹那の間に、緋色の力の塊が渦を巻いて出現。魔物からクレイオスへと向かう直線状の全てを焼き尽くしながら射出され、彼の体が在った場所を正確に射抜く。それだけに留まらず、後方の木に着弾するや否や爆発とともに火の海を生み出した。
それを横目で把握しながら、クレイオスは「最悪だ」と誰に言うでもなく口の中で呟く。
今の一撃は紛れもなくクレイオスが確信を深めるに足る現象だ。つまり、魔物が魔法師である証拠。
一筋縄ではいかぬ剣術。自身に比肩するどころか凌駕している膂力。そして、未知の現象を引き起こす能力である魔法。
前者二つだけでもう十分な脅威であるというのに、そこへさらに魔法神の象徴までも揮うなど、絶望が過ぎる。
その能力と風貌を併せ、クレイオスは既に蒼き魔物をこの魔物騒動の最大戦力と認定していた。これ以上の化け物が居ないことを、願っているとも言う。
それは、これより先の戦いが小鬼や悪鬼などといった連中とは比べ物にならない死闘になることを指し示している。故に、これは真の全力を出せない自分にとっての試練だと定義した。
覚悟を決める。
意識を研ぎ澄まし、些細な変化も見逃さぬよう目を凝らす。
例え未知の能力を使う相手であっても――やることは、変わらない。
動揺していた自身の心根を落ち着かせ、クレイオスは躊躇わず前へと飛び出した。
数瞬の間もなく始まる剣戟を目にしながら、アリーシャは先ほど叫んだ森人族に話しかける。
援護射撃すべきとも思ったが、クレイオスが全力で相手をしている間は魔物もこちらを気にしようとはしていない。それが油断であるか、それとも余裕の無さであるかは判別がつかないが、その時間を使って情報収集を優先すべきと考えた。
「ねえ、他にあいつについて知ってることはないの?」
もはや、魔法を使うことを知っていたかどうかなど聞く意味もない。ここに来るまでに死んだアトアーデという女森人族の死因がわかっただけだ。必要なのは、更なる魔物の情報。
一方で、話しかけられた男の森人族は数瞬の間を置き、葛藤するような表情をしながらもアリーシャに向けて口を開く。
「……奴があの火球の魔法を使う以上のことは知らん。だが、逆を言えばそれ以外使えない、使う気がないということにもなる。その上、詠唱は常に同じだった」
「発声にさえ気をつけていれば、一応あの炎の魔法が来ることはわかるのね」
「ああ」
果たして、判明したことは少ない。森人族とて長時間相対していたわけではないからだろう。その間に少なくない被害を被ったのだから溜まったものではない、と森人族の顔には苦渋が満ちていた。
一方でアリーシャはこれまでに得た魔物の情報を思い出し、思考に沈む。
恐らくこの蒼い魔物は群れの長に値する存在。悪鬼のように二匹も三匹も居るわけではないだろう。
ならば、その率いていた群れはと言えば、森人族によってほぼ駆逐されている。逃げた魔物は居るか、と傍の森人族に問えば、「この戦場からは数匹逃れてはいたが、追撃に行った者が逃しはしないだろう」との答えが返ってきた。これで、とんぼ返りしてくる新たな敵はいない、とアリーシャは考える。
ふと、彼女は思い出したように視線をあたりに巡らせる。グアランスとの約束の為に思考の隅に追いやっていたが、子どもは?
明暗分かれて影が一層濃い森を目を凝らして探してみれば、少し離れたところに塊になってうずくまる小さな影たちが見えた。
すぐにでも駆け寄って無事を確認したいが、その余裕はない。全てが無事に終わってから、ということになる。
それには何の保証もない。暗い森の中で何が起きているのかもわからずに震える子供を、せめて慰めるということすらできないのだ。
そのことに歯噛みしつつ、『狩人』の少女はあの蒼鬼をどう仕留めるかという思考にすぐに移行した。
自分に出来ること、クレイオスに出来ること、森人族の戦士たちに出来るであろうこと。
この中では自分の無力さが一等際立つが、それを嘆くよりもどうにか有効活用すべく考える。
目の前で少しずつ追い詰められる幼馴染を見つめながら、やがて少女は口を開いた。
「森人族の皆、聞いて――」
*
斬撃。一閃。猛襲。打突。
攻撃の一つ一つから与えられる情報を、そのような単純な内容に落とし込む。そのせいで回避の精度は落ち、紙一重の動きをすれば誤った目測により簡単に肉を僅かに抉られていった。だが、真っ二つとなるよりは遥かにマシだろう。
そんな文字通りの『肉を切らせて骨を守る』戦い方をせねばならぬほどに、魔物の攻め立てる連撃は嵐の如く苛烈だった。
構えられた鋼の切っ先が勢い余って大地を抉る。しかしそれでも一切の遅延などなく、続けざまに振り上げられる豪烈なる一閃。
切っ先の軌道など目で追えるはずもなく、見ようとすればブレた刀身の根元の残像しか網膜に刻めない。そんな出鱈目な一撃を、クレイオスは勘と己の身体能力に任せ、半身を引くことで薄皮一枚切らせるだけに成功する。
そんなギリギリの生死の攻防に勝利したかと思えば――既に視界の中で、翻った刃が前へと踏み込みながら閃光の如く振り下ろされていた。
回避する暇はない、と判断すると同時にクレイオスは槍を両手で握り、捧げるように天へと掲げる。神槍は剣閃の軌道上に、完璧に置かれた。故に、青年の体を真っ二つにせんとする一撃とそれを阻まんとした防御は、後者に軍配が上がる。
青年の肉に到達する前に、構えられた白銀に鋼が食らいつき、星の輝きにも負けない火花を散らす――それと同時に襲い来る強烈な衝撃。
その瞬間、全身の筋肉がおぞましい悲鳴をあげた、とクレイオスは錯覚した。否、錯覚などではない。肉体全てが今にも断裂しそうな危機に喘ぎ、その恐怖を脳髄にこれでもかと叩きこんでいるのだ。
一瞬たりとも緩むことを許されない全身の緊張に、このままでは己が肉体は陶器のように砕けてしまうのではないか、という憂慮が脳裏を過ぎる。
だが、そんな思考は現状において邪念でしかなく。
それを許さない、次なる一撃がクレイオスへと迫っていた。
今も押し込んでくる剣の圧力が一瞬薄くなった――ことに理解が及ぶ前に、青年の腹部に蒼い肉の塊が深々と突き刺さる。
それは『足』、即ち前蹴り。魔物の武器は剣と魔法のみに非ず、それらを揮う肉体こそが真の脅威であった。
「か――……っ!?」
臓腑の底から抉り取るような、そんな蹴撃。肺からすべての空気が絞り出され、潰れかけた臓器の悲鳴で視界が白く明滅する。
しかして休む余裕はない。体が吹き飛ばない程度の弱い一撃であったが故に、この程度で済んでいた。違う、この程度で済むように調整された。
次が来る、という当然の予知を基に、弾くように大地を蹴飛ばしてごろりと真横に転がる。直後、体のあった場所を銀閃が引き裂いた。
致死の連撃をこうしてどうにか凌ぎきる。だが、それがどうだという。反撃も出来ていない、それどころか肺から吐き出さされた空気を取り戻す呼吸さえできていない。
それでもまた次なる一撃を予期し、遠のく意識で半身を引く。薄皮一枚の差を引けば当たる距離を、切り返された斬撃が通り過ぎた。
――そんなギリギリの攻防。その中で、青年は己の心臓が熱く脈動するのを感じていた。本来ならそんなものを感じている暇さえないのに、どうしてか胸の熱は知覚に強く語り掛けてくる。
「もっと、もっと動けるはずだ」と。
それならば、己の内にある熱を――火を信じるならば、今をおいて他にないのではなかろうか。
続けざまに薙ぎ払われる一閃。回避は間に合わず、神槍で防御するしかないはずのそれを――しかし、クレイオスは避けた。
上半身を落下させるように倒すことで回避に成功する。背中の上を、髪の毛一本分の隙間をあけて鋼の刃が通り過ぎた。
蒼き魔物が目を見開いて驚愕したのを、気配で感じ取る。蒼鬼からすれば、青年が異常な加速をしたように見えただろう。
だがそんなことはクレイオスには関係ない。
回避ができた、隙が見えた。
ならば次の一手がある、すなわち――反撃!
繰り出す一閃、下方から跳ね上がった銀閃が、魔物の首筋を浅く切り裂く。寸でのところで身を引かれたが、しかしそれは紛れもない直撃だった。
防戦一方であったクレイオスによる、反撃の一手。それを皮切りに、周囲から一斉に風切り音と共に無数の矢が放たれる。
だが、それらなどまるで意にも介さぬ魔物は憤怒の表情で進撃。矢を表皮で弾けさせながら、一太刀裂いてきた愚か者を切り捨てんと鋼の剣を振り上げる。
その瞬間――どうッ、という鈍く重たい音と共に、魔物の体が僅かに傾いだ。その肩口には、突き刺さった矢。
あり得ぬ事象に、驚愕をその顔に浮かべて魔物が思わず矢の放たれた方を見れば、そこには弦の切れた弓を握る森人族グアランスが居た。
矢の威力を底上げする権能か、と判断するのと同時に、魔物の背筋を駆け落ちる悪寒。
己は今、何をしている? 最大の敵を前に視線を外している――!
それは、強者が故に冒してしまったミス。恐れるものがこれまでなかった、敵にさえならぬ雑魚ばかりを相手にしてきたが為にやってしまった失敗。
蒼鬼が失態に気づくよりも先んじて、既にクレイオスはその隙を突くべく動き出していた。
反応が一手遅れれば、対応は二手遅れる。ならばその二手を、最大の威力で以て叩き込むのみ。
「――餓ァッ!」
クレイオスの喉から張り裂けるように放たれる、裂帛の咆哮。獣じみたそれは胸の内にある熱を最大火力まで高め上げ、火が燃え移るように全身へと染み渡る。
それは何かの兆しであろうが、本人がそれに気付く余裕はない。ただ全身に渡る熱を己が全力に還元し、音を置き去りにする槍の一閃を撃ち放つのみ。
ボッ――と。
鈍い音を響かせ、次の瞬間には空気の壁を打ち貫いた銀の穂先が、魔物の左胸を穿っていた。
確かに心臓を捉えた。しかし、それでもクレイオスは油断しない。残る一手を残心などには留めない。赤き悪鬼が胸を貫いて尚生きていたのだから、それより強力であろう蒼鬼がそうでないわけがない。
即座に身体を跳ね上げ、連動して左脚を天へと伸びるように一閃。鋭い直線の軌道を描いた爪先は、吸い込まれるように魔物の顎下に直撃する。高まる身体能力による重烈なる一撃は、その重い肉体を、ぐん、と浮かせた。
顎に強烈な攻撃をぶち当てることで脳を揺らし、一時的に行動不能に追い込む。それによって、クレイオスは手の届かないはずの『三手目の機会』を引き寄せた。
魔物の胸を蹴飛ばしながら白銀の槍を引き抜き、その勢いのまま首を狙った薙ぎ払いを放つ――
――その、一瞬手前で、青年の右腕を太く力強い五指が掴み取った。
「――っ!?」
その蒼い手は、論ずるまでもなく魔物のソレ。理解と同時に驚愕がクレイオスの脳内を染め上げる。
魔物とてやられっぱなしではなかったのだ。強者としての誇り、青年への怒り、そして勝利への執着が、麻痺する身体を強引に突き動かした。
結果としてそれは結実し、クレイオスの連撃を止めるに至る。脳を揺らされているが故に、その五指の力は遥かに弱々しかったが、青年の動きを止めるには十二分。
続けざまにクレイオスを捕まえた手を振り上げ、そして前方へと思い切り投げ放つ。驚愕に身を固めていた青年に抗う術はなく、まるで子どもの玩具のように軽々と広場の隅まで放り投げられてしまった。
その間に――青年が無防備かつ何もできない一瞬の合間に、魔物は浅い呼気と共に唱える。
「『グ――ウィ――』」
魔物が選んだのは、剣でもなく足でもなく、青年が唯一対抗手段を持たぬ攻撃。距離さえあれば一方的に叩き込める、死の炎撃こそが魔物に残された勝ち筋であった。
空中でクレイオスはそれを察するも、時すでに遅し。着地した瞬間に火球が直撃し、そして近づくこともできずに死ぬまで魔法を連射される未来を幻視する。
ここまで来て、ここまで追い詰めて、しかし一手足らず。数瞬先の敗北を前に、後悔と怒りがクレイオスの胸で渦を巻く。
半神半人と魔物の戦いは、今ここに勝敗を決した。
――それが、青年と魔物の一対一であったならば、であるが。
「『――カッ』」
詠唱の最後の一節が魔物の口から零れると同時、穴の開いた胸の前で紅蓮の暴力が逆巻いて顕現する。
だが、魔物よ、お前は忘れている。自身の命を脅かす唯一にばかり気を取られすぎた。故にその足元を掬うのは、どうしようもない有象無象でしかなかったはずの土人族。
この瞬間を――魔物が火球の魔法を使うしかなくなるこの瞬間だけを待っていた女狩人の策が、今、成った。
アリーシャの合図が、闇夜の森を切り裂く。
「今よッ!」
転瞬、森が――蠢く。
ざわめきは一瞬。そしてそれがもたらした結果もまた一瞬だった。
大地から幾本もの根が突き出し、木々の幹に巻き付く蔦がその身をしならせ、真上からは木の葉の群れが吐き出される。
明らかな森神の権能の向かう先はすべて、今この瞬間に形を成したばかりの魔法。
そう、触れれば嵐のような破壊を炸裂させる、紅蓮の火球へと大自然の切れ端たちが殺到したのだ。
「――――ガァ!?」
その結果がもたらしたものは言うに及ばず。凄まじい爆裂が主であるはずの魔物に牙を剥いた。
予想外の方向から予想外の妨害を食らい、至近距離で爆発を受けた魔物が悲痛な叫びをあげる。身体前面を強烈な熱波で煽ることになってしまった蒼鬼は何が起きたのかを理解することもできずに、たたらを踏んでよろめいた。
驚愕したのはクレイオスも同じ。着地した瞬間に逆転した形勢を見て目を見開くも、その耳に滑り込む声で即座に己を取り戻す。
「クレイオス、お願い!」
「――任せろ!」
おそらくこの逆転劇を導いたであろう幼馴染の指示に、クレイオスは全力で以て応える。
一歩で大地を吹き飛ばして魔物の眼前まで迫り、二歩目で地面を砕きながら魔物の懐へと雷速の踏み込みで入り込んだ。
前へと重心を滑らかに移動させながら、腰を捻り上げることで上半身に回転力を追加。下方から魔物の顎下を狙って、総身からまとめ上げた文字通りの『全力』で槍を打ち上げる。
まさに必殺。直撃すれば首から上を消し飛ばされるしかないその一撃を、魔物はひたすらに睨みつけ――
――そして白銀は、虚しく闇夜の黒だけを貫いた。
沈黙。
一転して、闇夜の森に静寂の帳が舞い降りる。火の粉の爆ぜる音だけが深々と響き渡った。
クレイオスも、アリーシャも、全ての森人族も、ただ眼を見開いて停止している。
「…………、消え、た?」
そんな中で、呆然として呟いたのは、果たして誰だったのか。
その一言が、今この瞬間に起きた事象のすべてを指し示していた。
策を巡らせ、全力を尽くし、望外の幸運を得て。
それでもなお、蒼き魔物を仕留めることはできず。
そこに確かに居たという暴力の痕跡だけを残し、奴は忽然と――姿を消したのだった。