40 深き森の狩人(2)
爆ぜる咆哮。鼓膜をつんざく大音声と共に、その主は森人族の背後から姿を表していた。
振り返る男と共に敵意に溢れる咆哮の主を確認すれば、そこに居たのは赤き魔物。
落ち窪んだ目に牙の覗く顎、全身を鮮血で染めたような体色は、紛れもなくつい先ほどキトゥラ村で戦闘した恐るべき魔物の特徴そのものであった。
それだけではない。
凶暴性を隠しきれぬ形相からわずかに視線を落として胸郭を見れば、そこには真新しい鮮血色の皮膚が丸く窪んで張っている。まるで、開いていた穴を塞ぐべく皮膚が張ったかのようだ。
その傷跡を見て、クレイオスは確信する。
――コイツは俺が戦った相手だ、と。
狩人として、一度見た獲物の特徴を忘れるわけがない。ましてや自分が手傷を与えて逃してしまった相手、その傷の形など克明に思い出せる。故に、魔物の憎悪の瞳の意味が容易に理解できた。
クレイオスら二人が即座に戦闘態勢に入る中、経験の差から森人族の男の反応が数手分遅れる。
「なっ――クソッ、奥の奴らはいったい何を、」
「下がれッ!」
悠長に驚きを口にする森人族の肩を引っ掴み、無理やり後方に押しやると同時にクレイオスは白銀の槍を振り上げた。その直後、放たれた矢の如き勢いの悪鬼が一息で肉薄。手に持った剣のような形をした巨大な岩の塊を、クレイオスに向けて力強く振り下ろす。
槍と岩塊が真正面から衝突。それだけで周囲の木の葉を揺らす風が巻き起こり、クレイオスの外套がばさりとはためく。
同時、アリーシャが魔物の眼球目掛けて射撃を敢行。しかしそれはグイと首を横に振られるだけで虚空を貫いていった。
その隙を突き、満身の力で以て岩塊の剣を弾き返したクレイオスは、返す刃で閃光の如き刺突を放つ。僅かな月光の下であっても輝きを失わぬ穂先が、銀光の尾を引いて魔物の胸部――傷跡より右にある心臓めがけて迫った。しかし、それより早く切り返した剣が上から打ち落とすように弾く。
刹那の間に行われた一合の攻防。
しかし甲高い剣戟の響きは、森人族を正気に戻すには充分であった。何かを噛み殺すような苦い色を混ぜながらも表情を厳しいものに変え、弓を引いた男はその鏃を魔物に向ける。
「っ、土人族! これは我らの森の問題だ! 手を出すな!」
「そんなことを言っている場合――か!」
森人族の口から放たれたのは、変わらずの不干渉を命じる叫び。しかし、既に魔物と戦闘に入っている二人がそんなことに聞く耳を持つわけもない。
次いで薙ぎ払われる岩塊の剣をクレイオスは屈み込んで避けつつ、白銀の槍を振り上げるように一閃。半歩引くように回避した魔物の胸を、穂先が掠めて薄皮を引き裂いた。
まるで傷にもならない傷ではあるが、それでもこの一撃によって悪鬼の顔に苦みが混じる。
武器を得て、その上で膂力は同等であるのに、既に与えた手傷には差が生じていた。それはそのまま、両者の実力の差を示している。
敗走し、傷を治し、気配を察知してここまで押し通ってきて尚この有様。悪鬼のプライドが、そんな無様を許せるはずもない。
総身に力を漲らせ、悪鬼が大きく息を吸い込む。至近距離から大爆音たる咆哮をあげんとして――その喉を、強烈な衝撃が貫いた。
先んじて放たれたのは矢。下手人はこの森の住人たる狩人。
確かに鋭い木の実を鏃とした矢では魔物の表皮を貫けない。しかし、土人族を遥かに超える膂力――鉱人族ほどではないものの――から放たれる弓矢の威力は、鉱人族の槌の一撃に等しい。それほどの代物を場所を選んで放てば、強靭な悪鬼にダメージを与えることなど容易かった。
森人族の男はちら、とアリーシャの方を見て、小さく舌打ちを漏らし、矢を番えながら不本意そうに言葉を発する。
「どうやら貴様は森神様のご加護を賜わっているようだな。その瞳といい、土人族であるのが惜しいほどだ」
「えっと、ありがとう。でも、それが何なの?」
「……貴様が森人族であれば話は早かった、ということだ」
それだけを言い残し、森人族は素早く身を翻して樹上に跳び上がった。一瞬だけ木の葉を揺らし、それからその場から消え去るようにして気配が失せる。
まるで逃げたかのような行動だが、直後にまったく別の樹上から矢が放たれ、魔物の後頭部を打ったのを見てまだこの場に居るようだ、ということがわかった。
森人族のあっという間の行動に呆気にとられるアリーシャだが、数瞬を要してその行動の意味を咀嚼し、理解する。
「ここで戦うのは許してくれる、っていうことかしら……?」
「ならっ、有り難い話だ、なッ!」
アリーシャの呟きを拾い上げたクレイオスが返事を述べつつ、突き込まれる剣先を槍の柄で無理やりに受け流す。そのまま渾身の力で弾き、開いた胴に思い切り蹴りを叩きこんだ。
重たい身体が一瞬浮くほどの威力は魔物を僅かに後退させ、その瞬間を狙ってアリーシャと森人族が射撃。
一矢が眼球を貫き、一矢が踵の腱を射抜く。
苦悶の咆哮をあげながら転倒する悪鬼を前に、クレイオスは全力で疾駆。爆ぜるほどの勢いで大地を蹴り出し、迫る勢いのまま槍を大気の上に滑らせるように突き出した。
「――疾ッ!」
気合一閃。
今度こそ狙い過たず、傷跡より右を狙った穂先が胸郭を貫く。
怪力の総てが込められた一撃によって骨は砕かれ、更にその奥で守られていた心臓が中身の詰まった水袋のように破裂。最後に背中を突き抜け、長い穂先が半ばまで大地を抉る。
結果として、悪鬼を槍で大地に縫い留めるようにして仕留め切った。
その骸から槍を引き抜き、クレイオスは再び警戒するように森の奥を見やる。
そんな彼の目の前に、樹上から援護射撃を行った森人族の男が降り立ち、面白くなさそうな顔で呟いた。
「……本来ならば、貴様らのような土くれの人族が神聖なる森に一歩でも踏み入れることは間違いなのだ。まして、武器を振るうなど――」
男は狩人二人がこの場にいることを心底から嫌うように吐き捨てる。しかし、一旦口をつぐむと、すぐ傍で動かぬ屍となった魔物を見やって鼻を鳴らした。
「だが、このような邪悪なる者が神域を脅かしている現状ならば、多少なりとも話は別ということにしておいてやろう。寛大な措置に感謝するがいい」
「……えっと」
要は、『今回だけは許してやろう』、という意味の言葉を男は高慢に言い放っている。それをどうにか理解したアリーシャはどう反応したものか、と困惑してクレイオスを見やった。
一方で、真正面からそれを言われたクレイオスと言えば――微塵も反応を示さなかった。まるで、目の前の森人族など見えていないかのように、森の奥をじっと見つめている。
森人族の男からすれば、折角赦しの言葉をくれてやったのに不遜な態度をとられたようなもの。
露骨に気を害し、端正な眉を中心に寄せて荒々しく青年の胸ぐらに掴みかかる。
「おい。貴様がどれほど神域の奥に興味があろうが、あまり調子に乗るものではないぞ。一時の共闘は許したが、それ以上のことは我が命に代えても――」
「……熱くなるのは結構だが、誰か来ているぞ」
怒気を顕に声を荒げる森人族に、クレイオスは窘めるように静かな声を浴びせた。そして森の奥を顎をしゃくって指し示す。
冷や水をかけるような冷静な対応に、男も「なに?」と訝しげにしながらも振り返る。すると、そこには確かに暗闇の向こうからゆっくりと歩んでくる人影があった。
この森人族の森において、奥からやって来る成人の人影など論ずるまでもなくここの住人しかいない。
だからこそ、今この瞬間で奇妙なことが起きていた。
いくらクレイオスが狩人として一流の気配察知術を修めていたといえど、ここは見知らぬ森の中。しかも夜目の効くアリーシャですら簡単には見通せぬ暗闇である。
そんな中で――どれほどクレイオスらに気をとられていたといえど――森に住まう森人族よりも先に何かの気配を探知できるはずがない。必ず、同族が近づく気配を目の前の男は察知していたはずだ。
ならばなぜこのような事態が起きたのかと言えば――それは、近づいてきた森人族の姿が説明してくれていた。
右の肩口から左の脇腹まで走る、深い深い裂傷。裂けた脇腹からは腸のような内臓が零れ、それを落とすまいと右手が必死に押さえている。一方の左腕は暗闇の中でなお黒く染め上げられ、だらりと力なく垂れ下がっていた。
そんな死に体の人物から発せられる生気はもはや皆無に等しい。故に森人族の男は仲間の存在を察知することができず、対するクレイオスはその血臭をいち早く嗅ぎ取っていたのだ。
「アトアーデっ!? 何があった、お前がこうもやられるなど……ッ」
男は姿を表した森人族の女に慌てて駆け寄るも、それよりも早く彼女はその場に崩れ落ちてしまう。
その身体に取り付いて傷の具合を確かめる男だが、すぐに拳を握りしめて歯を食い縛った。
完全に、手遅れ――治癒の権能があっても尚、と考えてしまうほどの傷だ、どうしようもない。
そんな致命傷のアトアーデという森人族は、息も絶え絶えになりながらも唇を開く。それが言葉を発そうとしていると理解した男は、その口許に耳を寄せた。
「……おく、に、救援を――やつ、をたお、せ、ない」
「やつとは、やつとは何なんだ? ……アトアーデッ!」
男は必死になって呼び掛けるも、もはやその時にはもうアトアーデが最後の吐息を漏らした後だった。
新緑の瞳は急速に色を失い、優しげな緑色をした髪は枯れ木のように萎びて茶色く濁る。まるで一本の樹木が枯れたかのように、森人族の女は静かに息絶えていた。
彼女の血塗れの右手を取り、自らの胸に押し当てて男は黙りこくる。ぎりり、と歯をきつく噛みしめる音が痛々しいほど森に響いた。
その一方で、クレイオスは力尽きた森人族に近寄ってその左腕をとる。
暗闇の中で一層黒く染まった左腕に触れてみれば、何かの欠片がボロボロと崩れ落ちた。鼻を寄せて匂いを嗅ぎ、クレイオスはすぐにその正体に行き着く。
「――灰。焼かれたのか」
ポツリとこぼした言葉に、森人族の男はジロリとクレイオスを睨み付ける。が、すぐに勢いを失して目を伏せた。
それから同じようにアトアーデの左腕を取り、暗闇も見通す深緑の瞳で検分する。
「……服ごと炭化する火力で一息に焼かれている」
「――妙な話、ね」
森人族の女に向けて死神の祈りを済ませたアリーシャが、男の呟きに疑問を投げた。
それに呼応するように、クレイオスも疑問の理由を言葉にする。
「小鬼も赤い魔物も、火を吹いたりはしない。だが、松明なぞを押し付けたとてこんな有り様にはならない。つまり――」
――新手が存在する。
狩人の青年が発したその言葉は、不気味な響きを以て闇の森に木霊した。
その事実に行き着いて、思わず沈黙する土人族二人。そんな彼らに、ようやくにして立ち上がった男が視線をアトアーデに釘付けにしたまま語り出す。
「アトアーデは、我らの中でも選ばれし戦士であった。弓に優れ、剣に優れ、森神様にも愛された、誇り高き森人族だったのだ。その彼女が、深手を負いながらも戦線を離れ、助けを求めた……尋常の事態ではあるまい」
「…………」
男の口から紡がれるは、ひたすらにアトアーデという戦士を讃える言葉。どれほど彼女を認め、慕っていたかがわかる口ぶりであった。
一息言葉を切り、それから男はクレイオスとアリーシャに向けて面を上げる。深緑の瞳には、固めた決意の光が宿っていた。
「故に。故に、勇猛なりし戦士の土人族よ。我が名グアランスに懸けて、今生の恥として頼む――共に戦ってくれ」
男は、グアランスはそう言って僅かに頭を下げた。
僅かであっても、気高き森人族が頭を下げた。その意味ははかり知れず、そして言葉もまた同様に重い。
自身の名を明かし、その上で共闘を頼み込んだのだ。それは、約束に背けばどのように吹聴されても構わないという、誇り高き種族にとって不退転の覚悟である。
その意味が分かるアリーシャは僅かに息を呑み、それからすぐに頷きを返した。
「――もちろん。森の番人グアランス、あなたの真の覚悟、確かに聞き届けたわ。テンダルの娘アリーシャが、森神様の加護を賜わった者として全力で協力する」
「アンネリーサの息子クレイオスが誓おう。出せる力の総てで以てお前に助力することを。その代わり、子どもは必ず助けさせてもらう」
二人もまたその覚悟に応える。自身の名と共に親の名を明かすことは、無教養の者であってもとれる最大級の礼だった。
己に対して全力で応じてくれると理解したグアランスは、ようやくその顔に薄い笑みを浮かべる。
その笑みを押し隠すようにすぐに引き締め、男はくるりと背中を向けた。
「行くぞ。戦いはこの先で行われている。同胞が逃していないのなら、子どももそこだ」