28 商隊護衛(6)
月女神がまどろむ三日月の下、暗い街道を異常な速さで駆け馳せる馬車の列があった。
馬車たちは皆一様にボロボロの有様で、時折大きく跳ねるだけで不穏な軋みを盛大に響かせ、そして細かい積荷を暗闇に零す始末。しかしそんな状態であるもかかわらず、一切頓着せずに何かに追い立てられるように一群は走り続ける。
先頭を行くは、珍しい浅黒い肌を持つ男が手綱を握る馬車。その屋根の上には紅蓮の髪を躍らせてしがみつく青年が居て、彼は激しく上下左右に揺れる中でも油断なく周囲を睨み付けていた。
そう、ハバの商隊が、野営を放棄して逃げるように街道を走っているのだ。
こうなったのも当然、緑の魔物による襲撃が原因。どうしても倒しきれぬ連中から逃げるために、こうして馬の負担を考慮しない疾走をしている――わけではない。
異形どもに関しては、クレイオスが神槍を抜いてからすぐに片が付いていた。恐るべき切れ味と手に馴染む使用感は青年をして魅力すら感じ、かつての『狩り』を思い出しながらあっという間に皆と協力して残党を殲滅したのである。
問題はそこからで、伏兵はもう居ないと見るや、商隊は疑問も混乱も全て腹の底に飲み込んで野営地を飛び出した。
幸いにも全ての馬車を牽ける程度には馬は無事だったので、皆一緒になって走行することに問題なかった。ただ一頭だけ脚を深々とやられてしまっていて、楽にしてやるべく冥府に送ることになったが、これも致命的な問題ではない。
もっと深刻なのは、矢に射られた人間。ミアラ司祭含め、五人が重軽傷を負っていた。
矢を引き抜いて塗り薬――薬師が調合した痛み止めと血止めの効果がある――を塗り込み、包帯を巻いて処置したものの、所詮は旅人の応急処置。すぐにでも神殿か教会に駆け込み、治癒の権能を揮ってもらう必要があった。
応急処置をせざるを得なかった通り、この商隊にその治癒の権能を授かった人間は居ない。魔法には傷を治す類のものは――魔法神の性格上――存在しない為、イドゥが頼りになることはないし、なにより彼女の方も異形の殲滅を見届けるや否や気絶している。怪我はしていないので、気が途切れてしまっただけなのだろう。
野営地に怪我人と護衛を残し、一人が馬に乗って最寄りの村から治癒司祭を連れてくることも考えたが、肝心の村が遠くその間に襲撃があるかもしれないという恐怖に苛まれるくらいなら――と商隊全員の意向で出立を決めた。
故に、怪我人を救うためにハバは馬車と馬がダメになる危惧を振り払い、全員で村に向けて走っている。
そうして、ついに三日月が遠い西の空に姿を消したころ。緊張と疲れから誰も口をきかない休憩を二度ほど挟み、ようやく商隊は街道沿いにある最寄りの村に辿り着いた。
東の空から太陽神の気配を感じ始める時分であった為、既に起き出していた数人の村人にどうにか事情を話すと、すぐに教会にすっ飛んでいってくれた。
そのおかげで村の豊穣神の治癒司祭がやってきて怪我人を診てくれることになり、ようやく長い夜を駆けた強行軍は終わりを迎える。
焦燥と混乱、緊張を抱いたまま続いた一晩から一息つけることになり、商隊の無事だった人々は崩れ落ちるように安堵の息を吐きだした。
それにはもちろん頭のハバも含まれていて、自身の馬車の車輪によりかかりながら濃い疲労を押し込めた重たい息を吐く。旅用とはいえ、それでも仕立てのいい服が泥で汚れるのも気にしない辺り、本当に疲れているようだった。
否、元より自分の財産を気にする性質でないので、汚れなど欠片も意識していないだろう。
そんなハバの性格は、壊れかけの馬車で一晩走るのを躊躇しなかったところから、先日出会ったばかりのクレイオスにさえわかっていた。先ほども、この村の教会にきちんと寄進することを密やかに司祭に約束していたのだから尚更だ。
唯一知る商人メッグに今は良い印象がないせいで同じ商人のハバにも先入観を抱いてたのだが、クレイオスは反省すると共に考えを改める。少なくとも、この浅黒い肌の男は人情深い人物らしい。
そんな悠長な感想を抱く紅蓮の青年は、周囲とは違って表情にさほどの疲労を溜めていなかった。疲れていないわけではないのだが、感情と同じく恐ろしく表面に出にくいのが生来の性格である。
その為、クレイオスの隣で腰を落としたまま立ち上がれないディルは、戦慄の表情を浮かべて彼を見上げていた。
「クレイオス、君、ほんとタフだなぁ。力は強いし、足も速くて、その上戦神さまみたいな戦いぶりときてる。本当に旅に出たばっかなのか?」
「ああ。数日前までただの狩人だった」
「俺の知ってる狩人と違う……」
彼の心底から感嘆している呟きに、クレイオスが言葉少なに言葉を返す。しかし、野営地での戦いを見ていたディルは、苦笑いしながら「信じられない」という意味を込めてそんなぼやきを漏らした。
そんなやり取りを交わしてから、肺腑から全ての空気を吐き出すような重量のある息を吐き出して、ディルが地面に仰向けに崩れ落ちる。剣士の青年はその碧眼で、白む空をじっと見つめていた。
見つめる先、夜の気配はもはや薄いものの、先ほどまで月の支配する刻であったのは太陽と月の兄妹神が産まれてから変わっていない世の摂理だ。
それがわかっている故に、今まで胸にしまい込んでいた疑問がどうしたって零れ落ちる。
「なんで、襲撃されたんだろうな」
ディルがぽつりと漏らした疑問は、商隊が村の傍に作ったこのキャンプ地に驚くほどの明瞭さで響き渡った。
疲労困憊で蹲る商隊の皆がそれを耳にし、ピクリと反応を返す。それは誰しもが今まで口に出さずとも、襲撃を受けた瞬間から思っていたことだ。
イドゥの眠る馬車の傍で座り込むアリーシャもまた同じく彼の呟きを聞き、思わず村の方角を見やる。怪我人が運び込まれていった村の集会所はここから見える場所にあり、そこではもちろん『彼女』も治療を受けているはずだ。
『旅守』の、ミアラ司祭が。
「『乙女の安全を守る』権能、そう言っていたな。特に夜であれば、その力は強まる、とも」
同じくそちらの方角に視線を投げながら、クレイオスも昨日の朝のことを思い出しながら呟いた。他ならぬミアラ本人が教えてくれたことである。
だが一番に矢を受け、現在治療を受けているのはその彼女だ。
これでは、彼女が本当に『旅守』であったのかということにさえ疑問を抱いてしまう。この事態こそが何よりも、権能が機能していない証拠なのだから。
とはいえ、保護司祭というものに関してクレイオスには知識がないものの、そう簡単に騙っていい名ではないのは彼とてわかる。
ミアラが信奉すると言ったのは、『テラリア十四柱』において最初に産まれた『原始三柱』の一柱たるかの月女神だ。
星神の母でもある彼女の名を借りた詐称など、どんな馬鹿でもやりはしない。なにより、大地の上で最高峰の信者を持つ月女神神殿の目を誤魔化していられるわけがないのだ。
故に、ミアラ司祭の能力が嘘やまやかしとは思えない。それは誰しも行きつく結論となるのだが、すると今回襲撃を受けたという事実が、矛盾を押し付けてくるのである。
それがわかっているディルは低く唸り、眉根を寄せて天空を睨み付けた。
「それなのに、この有様なのか。もう、訳がわかんねえ……」
疲れた頭がうまく働いていないのか、彼は左手で自分の頭をかき回しながらそう吐き捨てる。ちょっとしたトラブルから始まったこの事態に、遅まきながら混乱が波涛の如く押し寄せてきていた。
それは誰しも同じこと。真実を正確に把握している者は誰も居ない。
わからないことを延々と考えていても仕方なく、ますます消沈する場。それを察したアリーシャは今回の件のもう一つの疑問を口に出すことで、ミアラ司祭へ向きかねない淀みを払おうとする。
「一番おかしいのは、襲ってきた連中よ。魔獣じゃない、人族でもない――魔物としか考えられないわ」
「――やっぱり、アレが魔物、なんだよ、な」
ディルのほぼ対角にある場所からアリーシャがキャンプへと投げた言葉に、彼は呆然としながら復唱した。思考は切り替わったらしいが、信じられない、という気持ちを抱いているのには変わりがない。
なにしろ、襲撃者だったのは年月もわからぬほどの過去の神話でようやく語られる存在だというのだ。
それを目の前にしてディルの揮う太刀筋が鋭さを保っていられたのは、相手が野盗より少し厄介な程度でしかなかったから。盾で受け、そして放った反撃の一閃に他愛もなく倒れた相手に驚くと同時に、安堵できた。
その弱さも含め、魔物だということ自体に疑いを抱くものだが――不思議と、誰も口にはしないがこの場の全員が、「かの異形は神の敵である」という確信を持っている。魔獣は群れを作らないだとか、人族の姿をしていないとか、そういう根拠を持つ見解ではないのが奇妙なところだ。
そんな認識があるからこそ、ハバはぽつりと言葉を零す。
「なるほど。道理で、ミアラ司祭の御力が通じなかったわけか」
「どういうことだ、ハバ」
思わず漏らした言葉なのだろうが、静かなキャンプ地にはよく響く。当然、何かを知っていそうな言い方にクレイオスは問いを返した。
疲れているのか、ちらとだけ青年の方を見てからハバは重く口を開く。
「これは商人の噂話で聞いたというくらいの、そんな話なんだが。保護司祭の権能を打ち破るということも、不可能ではないらしい」
ハバは前置きするようにそう口火を切り、周囲を見渡す。誰もが黙りこくりながらも話の続きを促しているのを見てとると、悄然とした様子で続けた。
「簡潔に言えば、権能にはより強い権能を――ということだ。より信仰が篤く、より強力な権能を抱く者による害意は、保護の権能の効力を無視して害を与えられる、らしい」
そうして商隊頭が開示した事実は、誰もがすぐには信じられない。そんな馬鹿な、と口にした者も居たが、あまりにも小さな声はたき火の爆ぜる音にさえかき消される。
なにしろ、保護司祭がもたらすのは人ではなく神による護り。この大地の上で生きる誰もが寄せる、絶対的な信頼を持つ代物だ。破られる可能性があるとなれば、「へえ、そうなんだ」などと楽観的に見ては居られない。
一様に不安と懐疑を表情に浮かべだした商隊をちらりと見やって、ハバは小さくなるように肩を竦める。
「う、噂話だと言ったろう。神殿が広く知らしめている内容じゃないんだから」
「その話が事実だとして、神殿は広めるわけないわよ。人々の信頼――いえ、信仰にかかわる話だもの」
自身の言葉を嘘にしたいハバに、アリーシャは酷薄にそう告げた。ハバの話は事実だ、と信じた彼女の言葉は、重さを孕むかのようにキャンプ地の雰囲気を沈痛なものとする。
彼女の言も当然であり、神の護りの絶対性を自ら否定する司祭は居ない。誰よりもその護りを信じる神殿は、例え知識としてわかっていようと自ら口に出すことはあるまい。自らが信じる神の威光に影を落としたくはないからだ。
それが分かるアリーシャは、その表情を重く憂鬱なものにしてたき火の炎をじっと見つめる。彼女だけではなく多くの者たちも同じような表情を浮かべているのは、この話が先ほどの『何故襲撃が起きたのか?』という疑問にこれ以上ないほどの明快な答えにもなっているせいだ。
だが、少数はまだわかっていないのか、眉根を寄せてキャンプ地の空気に戸惑っている。その中に混じるクレイオスが、知っていそうなアリーシャへと疑問を投げかけた。
「魔物が、司祭よりも強力な権能を持っているというのか?」
「……そっか、クレイオスは簡単な神話しか聞かされてなかったものね。知らなかったっけ」
幼馴染の問いに数瞬目を丸くした彼女だが、クレイオスの育った環境と己の育った環境が微妙に違うことを思い出し、表情を柔らかくした。
大地に生きる者の誰もが知る『テラリア神話』は、ずっとずっと昔にとある人族の司祭が、神の時代に何が起きたのか教えてほしい、と神に乞い、それにお応えになった神の話した内容を仔細に記したものだ。
その人族の種族も彼の信奉した神も今の時代ではわからなくなっているが、それでもこの大地の端々までその神話は口伝や本を通して伝わっている。
だが、その内容までが全て統一されているわけではなく、子どもに寝物語に聞かせるために大きく簡略化されたものが多い。特に、魔物との戦いは『神々が勝利し、封印した』というものだけで終わってしまうのがほとんどだ。
こうなると、その簡略化された神話だけしか知らぬ者と、大人向けの長さと詳しさで語られる神話も知る者の差が生まれる。特に、長い神話を口伝で伝えきれない僻地の村では、短い神話のみ知られていることが多い。
クレイオスとアリーシャも同じ村で育ったが、彼女の場合は父テンダルの蔵書に長い方の神話があった為、幼馴染と認識に差異が生じていた。
わかっていない商隊の一部も、同じようなものだろう。軽くキャンプ地を見回したアリーシャは、知る者の重たい表情の理由を語る。
「神話に出てくる魔物は確かに残忍でおぞましい連中だけれど、それだけで神々を苦しめられたわけじゃないわ。時には仲間を喰らい、時には神そのものやその身体の一部を喰い、そうして身に着けた力によって、神々と真正面からぶつかることが出来ていたらしいの。その力は神の力を由来とすることから、その名を邪なる権能――邪権能、と呼ぶのよ」
「邪、権能――」
彼女の言葉に、クレイオスは燃える焔を眺めながら上の空でその名を噛みしめた。
邪権能、神の如き力を発揮するソレをクレイオスは――見たことがある。そう、かの邪龍が纏う風の鎧と、口から放った烈風だ。
アレが神を由来とする能力であったとは思いもよらなかったが、アリーシャに改めて聞かされれば、確かに納得のできる。おそらく風神との因縁があろうが――しかし今は思考の隅に追いやった。
邪なれど、神の力の一端という意味では権能だ。ならば、目に見えぬ形であれどそれを担う魔物は、ミアラ司祭の保護の権能を破ることも可能であろう。
だが、これは大きな問題だ。商隊の面々は表情をより一層暗くして地面に視線を落とし、重たい危惧を抱く。
魔物どもは司祭ほどの信奉者の権能を簡単に打ち破って攻めてくる存在。ならば、どんな護りも信じられないではないか――と、根拠をもとに改めてそう思い込んでしまっていた。
今回は無事だった。だが、次はどうなるのか?
そんな恐怖に圧し包まれるのも無理はなかろう。あそこで打ち斃したのが、復活した魔物全てだとは誰も思っていないのだから。
やがて重く淀んだ空気の中で、黙り込んでいたハバが憔悴した表情のまま、商隊に向けて言葉を発する。
「……まずは村長に今回の件を伝え、周辺の村に危機を触れ回ってもらうよう要請しよう。それから昼まで休憩して、それからすぐにここを発つぞ。可能な限り急いでカリオンまで向かうことにする」
「ハバさん?」
いきなり今後の方針を話し出した彼に、ディルが訝しげな視線を向けた。じっとたき火の火を見つめる浅黒い肌の商人の様子は、不安と焦りに揺れているようにも思える。
「もう、どこも安全じゃない。なら、せめて街に行って、討伐ギルドやほうぼうに伝えて閉じこもるしかないんだ」
無力な人間であることを嘆くような、そんな恐怖を吐き出してハバは首をゆるく左右に振った。神話でのみ知る魔物の真の脅威性を目の当たりし、彼は委縮しきっている。
それを誰も咎められるわけもなく、むしろ賛同するように短い応えを返した。その中で、クレイオスが短く問う。
「……怪我人は馬車には乗せられない。それはどうするつもりなんだ」
「何人かと馬車二台を残していく。治ってから、カリオンまで来たらいい。荷物もほとんどないなら、昼に出ても夕刻の鐘が鳴るまでには到着できるはずだ」
「護衛は残してやるのか?」
「――いいや、残せない」
淡々と返す言葉。二つ目の問いにも商人がそのように答えると、ディルが勢いよく上体を起こして信じられないものを見るかのようにハバを睨んだ。
「お、おいハバさん、何を――」
「仕方ないだろう? 護衛のメンバーがいつも通りなら残すこともできたが、そこの二人はカリオンまでの話なのだから」
「――っ、そう、だったな」
そのまま声を荒らげんとした青年に、先んじてハバがため息と共にそうせざるを得ない理由を告げる。
ディルとイドゥはハバと直接契約を交わす雇用関係にあるが、クレイオスとアリーシャはそうではない。雑務ギルドを介した依頼者と解決者の関係でしかなく、カリオンに着けばなんのつながりもなくなる。
だからといってこの二人を村に残らせるということはハバには出来ず、ならばディルとイドゥを、となると自分の首を守る者はカリオンの時点で居なくなってしまうのだ。
なら二人のうち一人だけ残す、というのも、悪手。ディルとイドゥは二人そろってはじめて真価を発揮する。イドゥはこうして倒れる可能性があるし、それを守るディルは逆に言えば一人では商隊の怪我人全てを守り切れると言い難い。誰しもがクレイオスのような、一騎当千の勇士ではないのだ。
それを理解したディルは、ハバの言葉に勢いを鎮火させ、俯く。そして彼は色々と考えるように、火を見つめたり自らの剣に視線を向けたりしていたが、結局それきり口を開くことはなかった。
*
そうして結局、ハバの方針が覆ることなく時間が経過し。
不寝番を途中まで務めたクレイオスは、交代の後にようやく眠りにつくことができた。
そして――覚悟していたはずの神からのお告げは、なかったのである。




