26 商隊護衛(4)
時は経ち、護衛二日目の夜。月女神の寝所である月が、最も眠りやすい形の三日月となって、頭上の黒い帳の中で静かに佇んでいた。まどろむ月女神に影響されてか、今夜の月の光はいつもよりも頼りなく見える。
それをちらりと仰ぎ見たクレイオスだが、すぐに視線を落として手元の火打石との格闘を再開する。隣のアリーシャも同じように、自前のナイフの柄を使って火を熾さんとカチカチと音を鳴らしていた。
二人だけでなく、商隊の人々も急いでテントを設営したり、火の要らない簡易食糧を食べられるように加工したりと慌ただしく動いていて忙しない様子だった。
現在設営している野営地は街道から少し外れた平野にある、大人二人分の高さはありそうな丘のすぐ下だ。近くに村落があるわけでもなく、まして何度か野営に使ったことのある場所でもない。
商隊の現状は、すぐ真上に月が昇っているというのに夕飯どころか野営地さえ出来ておらず、さらにはその野営地すら予定していた場所ではないという有様である。
そうなってしまった経緯と言えば、昼を少し過ぎたころに起きた不測の事態が主な原因であろう。
最初に起きた問題は、先頭馬車の両側の車輪が街道に開いた穴にぎっちりと嵌まってしまったこと。
その街道の穴は、なぜ見逃したのかと思うほど車輪がすっぽり入るくらい細長く深さのあるもので、ハバの馬車がそれにひっかかってにっちもさっちもいかなくなったのだ。
半ばうたた寝していたハバがちゃんと前を見ていなかったのが原因なのだが、問題はあまりにしっかり嵌まりすぎていて、馬車を牽く一頭の馬が多少踏ん張った程度ではどうにもならなかったこと。
突然止まった先頭の馬車に驚いた二台目以降の馬は暴れるし、ひときわ荷物の軽かった馬車はそのせいで積み荷をまき散らしながら破損してしまうしで、順調な旅路はたった一つ生じた問題によって盛大に予定を狂わされた。
まずは馬を大人しくさせ、街道に散らばった商品をかき集めてから、どうにかハバの馬車を穴から引っぱり出す。この時、クレイオスの鉱人族以上の筋力が容易くこの問題を解決してくれたが、彼の剛腕は壊れたものをどうにかするだけの能力まではなかった。
どういうことかと言えば、後方の馬車だけでなくハバの馬車も穴に嵌まった拍子に破損が生じていたようで、車軸が歪んでまともな走行ができなくなっていたのだ。
これについては、商隊の人間が夕方までかけて二台の馬車を応急処置で修理できたのだが、その間に商隊の面々は次の問題を見つけてしまう。
進路の街道上に、先ほど車輪が嵌まった穴がボコボコと開いているのに気づいたのだ。
クレイオスらが調べてみたところ、どうやらモグラか虫などの、土中に生息する生き物による自然のいたずらだと判明。だが同時に、鍛冶神の権能のようなものでもなければ、目の前の穴だらけの街道をどうにかして解決する手段がないということもわかってしまった。
もしハバの馬車がもう一度穴に嵌まってしまえば、今後こそ走行不能になる可能性がある。だからといって穴を避けるために街道を外れて移動しようとするのは、余計に馬車へ負担がかかるかもしれない。
結果として商隊にできることは、穴に気を付けて慎重に街道を進むことぐらいだった。
これら街道に起きた自然の気まぐれによる厄介ごとのおかげで、商隊は穴だらけの一帯を乗り越えるも、日が沈むころには到着予定だった村まで到達できず。
慌てて野営地を探したが、馬車の不調のおかげでいい場所が見つからないまま日が沈んでしまい、それから少ししてようやく現在の場所に辿り着いたのだ。
背後がそれなりの高さのある段差――傾斜の急な小高い丘であるおかげで警戒する方向を絞れ、さらに周囲に死角になりやすい茂みや木々も少ないということで、ここで夜を明かすことになった。
三日月と星々の輝き、そしてイドゥによる一時的に蝋燭程度の光源を生み出す魔法を頼りに、クレイオスはどうにか手元を確認しながら火打石を打ち付け、両手足の指では足りない回数の挑戦の末に、ようやく生じた火花が木っ端に火をつけた。
あとは昨晩ディルに教えてもらった通り、野営地全体に明かりが行き渡るまで火を大きくしていく。
やがて炎の橙色が暖かく周囲を彩るようになると、ようやく人々はそろって安堵のため息を吐いた。
司祭ミアラもほうぼうを手伝っていたようで、かわいらしい顔立ちに疲労を滲ませながらクレイオスの隣で地べたにへたりこんでいる。
一方で基礎体力の違うアリーシャはそこまでの有様ではないが、片足に体重をかけた立ち姿で黙々と簡素な夕食を食べている様子は、クレイオスからしてみれば随分気だるそうに見えた。
イドゥも日が落ちてからしばらく明かりの魔法を行使し続けていたおかげで顔色が悪くなっている。他方のハバは商隊への指示をずっと行っていたためか、疲れを押し流すように水袋を一息に呷っていた。
多くの商隊の面々も同じような様子で、先日のにぎやかさは鳴りを潜めていた。まだ元気そうなのは、クレイオスとディルくらいである。
キャンプ全体がそんな疲労に包まれた有様の中、夕食を腹に詰め込み終えたハバが疲れた声色で全員に呼び掛けた。
「みんな、今日は遅くなってしまったが、明日はいつもよりもっと早くに出発しなければならない。今日のところはしっかり寝て、体力を回復してくれ。明日はもっときつくなるからな」
そう言って、ハバは疲れを多分に含んだ重い息を吐き出してから自身の馬車へと引っ込んだ。そんな彼の呼びかけに、商隊の人々も文句は言わないが返事も寄越さず、ただ気だるげな様子で自身の寝床へ向かっていく。
昨日よりも遅い就寝時間であるが、だからといって明日の出発が遅れるわけではない。むしろ、今日の遅れを取り戻すために早く起きねばならないのだから、今の内から気が重くなるものだ。
そんな彼らを見ながら、アリーシャが小さくため息を吐いた。
「『馬車に乗ってるだけでいいなんて楽な仕事』……なんて思ってたけど、そうはいかないものね」
「そうだな。想定外、なんてものはどこにでも転がっているらしい」
自身の甘い見通しを一笑に付すアリーシャに同調しながら、クレイオスは肩を竦めた。
世の中、うまくいかないものなんだな、と新たに学習しながら、テントへと向かう彼女の黒髪を見送って自身は夜番の為にたき火の傍へ行こうとする。
が、そこで視界の端に映る、勢いよく翻った司祭の外套。同時に「あっ」というミアラの焦りを含んだ小さな悲鳴を聞いて振り返ると、足がもつれたのか勢いよく転びそうになっている司祭の姿があった。
反射的に距離を詰めてその矮躯を正面から支えてやると、数瞬後の地面との激突を予期して目をぎゅっと閉じていたミアラが、恐る恐る目を開いてから瞬かせ、ポカンとする。
疲れが溜まっているのか、しばらくクレイオスの逞しい腕に支えられたままぼんやりしている彼女に、思わず心配になって声をかけた。
「大丈夫か?」
「あっ。すみません、ありがとうございます――」
彼の言葉にようやく復帰したミアラが、自分の現状を理解したのか、恥ずかしそうに耳を赤くしながら礼を言う。
――その、直後。
ヒゥ、という極小の音が、クレイオスの聴覚を刺激した。
反射的に顔を上げた先、明かりの届かない暗闇の中から小さい何かが鋭く迫る。
それを視界に捉えると同時、クレイオスは腕の中のミアラを勢いよく自身の背後へと引っ張り込むも、その動きよりも早く何かは二人のもとへ到達していた。
とんっ、という軽い衝撃と共に――ミアラの背中に、細長い木の棒が突き立つ。
――これは矢だ、ミアラに刺さった、なぜ、彼女は旅守のはず、権能が、怪我の具合、まずい――
突然目の当たりにした異常事態に、現状への混乱と習性になっている状況把握が、クレイオスの頭の中をかき乱す。しかし、それでも彼は思考の全てを制し、硬直する身体を奮い立たせて必要な行動を起こすことができた。
すなわち、咄嗟に腕を振り上げながら、焦燥を押し込めた叫びを喉から破裂させる。
「――襲撃だッッ!」
黄金の篭手で己の眉間を狙う矢を弾き飛ばすのと同時、周囲に次々と飛来する十数本の矢。
それらはテントを突き破り、馬車に弾かれ、大地に突き立つ。そして――意表を突かれた人々に、直接的な猛威を振るった。
「きゃあああっ!!」
「い、いでえッ――!?」
錯乱し、悲鳴をあげる人々の声が野営地を包む。先ほどまでの静かなこの場所は一転、恐怖とパニックが渦巻く危地に変わっていた。
本来ならば、『旅守』の権能が守ってくれるはずの安全が、音を立てて崩れ落ちるかのよう。いの一番に矢を受けたのがその旅守であるということを、その守護を信じる人々の誰が受け入れられようか。
しかしその中で、明確に平静を保ち、素早く動き出せる者たちも居た。
クレイオスが地面を爆散させる勢いで大地を蹴飛ばし、ぐったりするミアラを抱えて馬車の裏へと後退していく。ディルが矢の雨が止んだ一瞬の隙を突き、たき火の方へと突撃する。アリーシャが二本の矢を弓に番え、弦をピンと張り詰めて矢の飛んできた暗闇に向かって構える。イドゥが馬車の陰に退避しながら、その喉から朗々たる言葉の羅列を紡ぎ出す。
そしてそれらに一拍遅れて、表情に焦りを多大に含んだハバが、混乱に渦巻く商隊に大音声の喝を叩きこんだ。
「無事な者は怪我人を馬車の陰に! それから馬車の下へ隠れろッ!」
彼のその一声で、パニックに陥っていた人々が我に返ったようにその動きを変える。無為な悲鳴が消え、右往左往していた者たちは怪我人を二人がかりで担いで足をもつれさせながら退避せんとしていた。
もとより彼らは商隊。危険には何度も立ち会ってきた。今回は旅守が居る中での襲撃という異常に即応できなかっただけで、すべきことはその身に沁みついている。
だが、その変化を簡単に見過ごすほど、襲撃者たちは手緩い相手ではなかった。
再び、ヒゥ、と風を切る無数の音が野営地に届き、襲撃者どもの第二射が迫る。
こちらに明かりがある為、向こうは野営地の様子をつぶさに見てとれるだろうが、しかし逆はそうならない。手元に炎がある分、暗闇はより黒く染まり、その向こうを見通すことを許さなくなるのだ。
故に、アリーシャは咄嗟に構えた矢の放つ先を見据えられぬまま、苦渋の表情で停止し、襲撃者に二の矢を許してしまった。
まだ避難の進まない状況下で迫る、弓矢の一斉射。馬車の陰に一足早く着いたクレイオスが、どうすればいい、と熱に浮かされたようにうまく回らぬ頭をフル回転させるも、矢の雨から人々を救う手立てが思いつかない。
優れた動体視力が迫る矢の一本一本を見分けながらも、何もできない己に歯噛みした――その瞬間。
蒼い顔をさらに蒼褪めさせながらも、一瞬たりとて滑らかな言葉を途切れさせなかったイドゥの詠唱が、今ここに終わりを見せた。
「『――堅き骨よ、硬き皮よ。その身を束ね、纏い、砕き、重ね合わせ、何物をも徹さぬ固き護りを今ここに。汝、我らを蓋う物。汝、我らを護る者。魔法神の名のもとに、その威を示し、顕れよ!』」
両手を開いて矢へと突き出し、イドゥが臓腑から吐き出すような、重々しくも力ある言葉を発した瞬間。
山なりの弧を描いて迫っていた矢の雨が、目に見えぬ巨人の腕で薙ぎ払われたかのように――その全てが弾き飛ばされた。
否、違う。そうではない。宙天を睨むクレイオスの目には、『それ』が見えていた。
野営地を半球状になって包み込む、浅葱色の薄い『膜』――それが矢の行く先を遮断し、ぶつかった全てをあらぬ方向に弾いたのだ。結果として、斉射の猛威は商隊に微塵も影響をもたらさない。
これが、魔法。城壁も鎧もいらない、盾すらも必要ない。十数人を、ただ紡いだ言葉で護ることを可能とする力。
魔法神の特権たる超常現象を目にし、その凄まじさに打ち震えるクレイオスだが、視線の先の『膜』が数瞬もせずに消え去ったのを見て思わずイドゥに視線を落とした。そして、そこで地面に両手をついて蹲る彼女を見て、二度驚く。
ただでさえ青かった顔は生気を感じられぬほど白くなり、震える唇は紫色になりかけるほど消耗している様になってしまっていた。まるで冬の川へ落ちた者のような有様に、しかしクレイオスは納得を覚える。
魔法は元はと言えば神の力。権能によって行使を許されると言えど、その負担は普通の権能とは比較にならないのだろう。
村に居た司祭ウッドナールも、力を揮いすぎれば寝込むことがあった。正確には、己の生体魔素の欠乏による、著しい体調不良を起こしたのである。彼女もまた、同じなのであろう。
それほどの消耗を覚悟して、彼女は矢の雨を凌いでくれた。おかげで商隊の人々は馬車の陰に逃げられるだけの時間を稼げている。
その千金の価値を無駄には出来ない。
クレイオスが近くの女性にミアラを預けるのと同時、降り注がんとしていた矢の雨を前にしながら、一切足を緩めなかったディルがたき火の傍に到達した。
そして引き抜いていた長剣を火の中に突き立て、切っ先に燃える薪突き刺す。そして、その剣を思い切り振り抜くことで襲撃者の居るであろう方向に放り投げた。
燃え盛る紅蓮は弧を描き、闇夜を照らしながら宙へ。同時に、素早く照準を変えたアリーシャが、引き絞った一本の矢を放つ。
風を切り裂き、その矢は宙にある炎の塊に直撃。そのまま勢いを少しだけ減じながらも、火のついた薪を引っ提げた矢が遠方に着弾する。きっと投擲だけでは足りなかった距離を、アリーシャのサポートが埋めたのだ。
二人の機転で、赤々と燃える炎は傍の木の葉に火の粉を散らしながら、襲撃者の居るであろう方向を照らし出す。
それは運命神のお導きか、奇しくも襲撃者の姿をすぐさま明るみにしてくれていた。
故にその姿を目にすることが出来てしまい――誰もが、驚愕に息を呑む。
土人族の子どもほどしかない背丈。
栄養失調に陥っているかのような、ガリガリの胸部とその下の膨らんだ腹。
手足は骨と皮しかないかのように細いくせに、弓をしっかりと構え、その背中には剣や斧が提げられている。
そして最も恐ろしさを覚えるのは、その頭。矮躯に相応しくないぐらい比率の狂った、大きな頭だ。
この頭の下半分を占めるのは、子どもの頭をまるかじりできそうなほど横に裂けた口。半開きのソレからは長い紅色の舌と、黄ばんだ鋭い牙の群れが除いている。その上にはこれまた大きな鷲鼻と、落ちくぼんだ真っ黒な目が二つあった。
その異貌をつぶさに見てとれるくらい、ぶかぶかでボロボロの革鎧をまとったそいつは、その肌の色全てが薄汚い緑の苔色である。そして、見られたことを知ってか知らずか、ニタリと醜悪な笑みを浮かべる。
同時、その異形の周囲に、無数の気配が寄せ集まった。
そのおかげで火の明かりに照らされて見えたのは、同じ姿をした十数体の緑の異貌。一様に弓矢を構えるその様に、商隊は襲撃者の正体を知った。
だが、誰が想像できようか。
魔獣程度しか、明確な脅威のないこの平和なノードゥスで。
まさか――『魔物』の群れが襲ってくるなどと。
そんな驚愕に忘我する商隊に、魔物どもは容赦なくその矢を撃ち放った。