17 セクメラーナ
斜陽の朱色に照らされる通り。
初めて訪れたセクメラーナは、二つの小さな村しか知らない青年少女の足を止めて、そして驚かせるに十分たる都市であった。
家より広い幅があるはずのメインストリートはごった返す人々で妙な圧迫感を感じるほど狭くなっていて、左右に見える建物はただの住居などではなく、職人の構える工房や店ばかり。そこに並べられる品々は、メッグが見せてくれるものなど比較にもならない美しさや精巧さを感じさせ、彼が最低限しかカーマソス村に持ってきていなかったことがよくわかった。
どうしても目を吸い寄せられる高価な品々からどうにか目を離して通りの先を眺めてみても、どこまでも続くかのような果てない人の流れと居並ぶ家屋が見えるだけ。否、遥か向こうに平原へと伸びる街道が見えなくもないが、視力のいいアリーシャを以てして砂粒のようにしか見えないのだ。
これが領主のおわす都市か、と戦慄し、通りの端で所在なさげに固まるしかない二人だったが、暫時の時間を経てからようやく少女の方が復帰を果たす。
流れ行く人々を困ったように眺めるクレイオスの背中を叩き、アリーシャは歩くように促した。
それからようやく歩き出したクレイオスは、途中途中で通りに存在する何かしらの店にいちいち反応を見せていたが、そのたびにアリーシャに腕を引かれて仕方なくついていく。
そんなやりとりを繰り返しながら、ようやく通りの中ほどで曲がり、二人は少し細い路地へと入る。
細い、と言っても、先ほどの通りに比べれば、の話だ。この通りも充分、田舎者にとっては違和感を覚えるくらいには広い。
そこは先ほどの主要な通りとは異なり、人通りもそれほど多くはない。だが、人々の気配は左右の建物から多く感じられ、看板を見ればそれらの多くには杯が描かれていることがわかった。つまり、酒場のようなものが多いのだ。
今はちょうど夕飯時であるようで、ほとんどの人がそれらの場所で騒いでいるようなのが、喧騒から見てとれる。
その様子を外から眺めながら歩くクレイオスの前で、アリーシャはいつの間にか背負い袋から引っぱり出した本を片手に開いてうんうんと唸りながら、左右の建物を確認して歩いている。
注意散漫になっていたクレイオスはようやくそれに気づき、後ろから彼女の手元を覗き込んで問いかけた。
「それはなんだ?」
「これ? 父さんが旅してたころの日記よ」
クレイオスからの言葉に、アリーシャがいくらかページをめくって見せる。
だが、気になって覗き込んだはいいものの、クレイオスは字が読めない。そうやって見せてくれても他の本との違いがわからず、とりあえず青年は「そうなのか」と答えてごまかした。
「それで、日記なんか持ちだして、意味があるのか?」
「持ちだしたんじゃないわ。父さん、旅立つときに一緒にこれを渡してくれたのよ。『旅してたころのことを細かく記録してあるから、宿とかに困ったらこれを見なさい』って。だから、父さんが一度は泊まって『いい宿だった』って書いてある宿を探してるのよ。……まあ、セクメラーナには一回しか来てないみたいだけど」
「……宿なんか、どこでもいいんじゃないか?」
日記を取り出した目的を得意げに語るアリーシャだが、そんな彼女にクレイオスは不思議そうに問う。
その表情にはありありと、野宿でも構わない、と書いてあり、アリーシャは少しだけため息を吐いた。
「あのね、野宿なんか以ての外よ。街中でそういうことするとよくない連中に蹴っ飛ばされちゃうし、衛兵にだって注意されるわ。せっかく都市に来てるんだから、ちゃんとしたところには泊まらないと」
「そういうものか」
「そういうものなの。それに、宿だってどこでもいいわけじゃないわ。高価な割に虫だらけのベッドしかなかったり、ちゃんと部屋の掃除もしないところだってあるんだから。私たち、そういうのわからないでしょ? だから、父さんの経験をお借りするのよ」
「……なるほど、な」
アリーシャのしっかりした考えと言葉に、クレイオスはつくづく己の考えの甘さと知っておくべき知識の欠如をありありと感じた。
そもそも、文字さえ読めぬクレイオスがこうして旅をするのはかなり無理があったのだ。できないことはなかろうが、障害は多すぎる。それを頭から取っ払ってくれるのがアリーシャとその知識で、本当に彼女についてきてくれてよかったと思える。
それを考え、自身の見通しの甘さにクレイオスは少しだけ苦い笑みを浮かべるが、前に向き直ったアリーシャが「あった!」と喜色の声を上げたことですぐに表情を切り替えた。
そしてアリーシャが見上げる存在を一緒に見れば、それは村では見たこともない二階建ての大きな建物だった。奥行きもかなりあるようで、それだけでもカマッサの家より長い。
宿というのはこんなに凄いものなのか、と表情を変えずに呆気にとられるクレイオスの横で、アリーシャが入口のすぐ横に打ち付けられた看板の文字を読む。
「『白鳥の羽休め亭』、ね。合ってる!」
笑顔を浮かべ、意気揚々と扉を開けるアリーシャについていくと、一番最初に見えたのは恰幅のいい女性が向こう側に居るカウンターだ。建物の奥行きの割には入口のすぐ前にカウンターがあり、その後ろには少しのスペースと壁があるだけ――と、入ってすぐの空間は随分と狭さを感じさせる。
左手側には上階へと続く階段が見え、おそらく二階に宿泊できる部屋があるのだろうと把握できた。
そうやって物珍しげに周囲を見回すクレイオスの前で、来客に気付いたこの宿屋の主らしい女性とアリーシャが、彼にはまるで分からないやり取りを交わしていた。
「こんばんは。たしか、ここって鍵付きの部屋があるのよね?」
「いらっしゃい。あんたたち初めて見る顔だけど、よく知ってるじゃない。でも、少し前に全部の部屋に鍵つけたから、どの部屋も大丈夫よ」
「そうなの! じゃあ、二人部屋でとりあえず三泊お願いできる?」
「あいよ。ご飯はどうするんだい?」
「ごはん?」
すらすらとやり取りしていた両者だが、恰幅のいい女性の言葉にアリーシャが首を傾げる。
その反応に、あら、という風に驚いた表情を作った女性だが、すぐに笑みに変えて左手でクレイオスたちの右方を指し示した。そこには、カウンターのすぐ隣に扉がある。
「そこからうちの食堂にいけるんだよ。決まった料理と酒しかだせないけど、朝食と夕食は用意できるからね。宿泊代に追加料金出してくれれば、こういうサービスもしてあげられる、ってことさ」
「そ、そうなの。いくら?」
おそらく、こちらが旅慣れていない人間だと気付いたのだろう。丁寧に説明してくれる女性に、少しアリーシャが赤くなりながら値段を問う。
その後ろで、クレイオスはこの建物の奥行きの正体は食堂か、と理解していた。ああして、一階を大きな食事処にすることで、その上の階に設置できる部屋の数を増やしているのだろう。
面白い構造だな、と感心するクレイオスをよそに、二人のやり取りは続いていく。
「素泊まり一泊で十フォル銅貨で、一食五フォル銅貨だね。酒が欲しいなら一杯三フォル銅貨になるよ」
「えっと、そうね……食事って、あとからお金出したらもらえるの?」
「うーん、そうさねぇ……その時によるかね。ご飯を希望した客の分だけ作っとくから、キャンセルされて余ったら出せるけど、そうでなかったら外で食ってもらうしかないね。うちも残飯は出したくないからさ」
「そうよね。じゃあ、とりあえず三泊と、ご飯は今晩と明日の朝、晩の分で、四十五フォル銅貨でお願い」
「あいよ。それじゃ、ここに名前と人数書いとくれ」
アリーシャがテンダルから貰った資金袋から、数えて四十五枚の銅色の貨幣を渡せば、それを受け取った女店主がカウンターの下から分厚くて大きな本を引っぱり出した。開かれたページの空白の欄を指さし、そこにアリーシャが借りた羽ペンでさらさらと自分の名前、人数を書き込む。
その横に女店主が何事かを続けて書き足して、ページを開いたままの書物を脇に退けてから彼女は掌に収まるサイズの何かをカウンターに置いた。
それは上部に銅貨のような平たく丸い物が取り付けられた、小指くらいの太さの金属製の棒だ。下部にはいくつか左右へと突き出る棒が出ているのだが、青年にはまるで用途が分からない。
まじまじとそれを見るクレイオスを見て苦笑いしながら、恰幅のいい女性は続ける。
「これがあんたたちの部屋の鍵。頭に刻んである文字と部屋の扉の文字が一緒だったら、その部屋の鍵ってことになるからね。くれぐれもなくすんじゃないよ」
「ええ。ありがとう。それで、ご飯ってどのくらいから?」
「ああ。そろそろ――」
と、女性の言葉の途中で、この宿屋の外の遠くから、何かが聞こえた。
高い音から低い音で何度も響き渡る、重厚な金属音。一定のリズムで何度か鳴り響くと、今度は別の方向から少しだけ甲高くなって同じような音が聞こえだす。
この音はどうやら街中の高い場所から響きだしているようで、混乱するクレイオスをよそに、女性とアリーシャはこれが何なのかわかっているようだった。否、アリーシャも一瞬キョロキョロとしていたが、すぐに何かに思い当って大人しくなっていたのである。
未だ外で、低くも高い音が残響する中、女性が続きを話し出した。
「そうそう、夕飯が食べられるのは、この夕刻の鐘が鳴ってから、次の月の出の鐘が鳴るまでだよ。朝食は、日の出の鐘と朝日の鐘の間になるから、寝坊したら食べらんないからね」
「わかったわ。じゃあ、荷物置いてきたらすぐ降りてくるわね」
「そう急がなくてもいいよ。こっちも増えた人数分、料理をどうにかしなくちゃいけないからね」
「そう? じゃあ、ちょっと休ませてもらおうかしら。それじゃ、行きましょ、クレイオス」
やり取りに使われる言葉の一つ一つがさっぱりわからず、立ち尽くすクレイオスにアリーシャが催促して階段へと押しやる。その際、ようやくクレイオスの背中に気付いた女性が、その銀の槍に目を丸くしていたが、特に何も言われることなく二人は上階へ上がった。
そして、上がった先には左右にいくつもの扉が並ぶ廊下が伸びていた。そこを先ほどの円盤と棒のくっついた金属を片手にアリーシャが歩いていく。そして間もなく、円盤に刻まれた模様と同じ模様が扉にある部屋の前に辿り着いた。
その扉の、取っ手のすぐ下にある妙な形状の穴にアリーシャが金属を滑り込ませ、手首を捻るとカチャリという快音が鳴り響く。そして扉を押せば、白いベッド二つと簡素なテーブルが一つだけある部屋に入ることができた。
アリーシャに続いて部屋に入ったクレイオスは、勝手がわからないながらも部屋の隅に荷物を放る彼女に倣い、自分の荷物も壁際に立てかけてようやく一息つく。
初めての都市と、初めての宿屋。訳の分からぬこと続きで、新鮮で面白いのはいいが気疲れしてしまう。ごく自然に色々とできていたアリーシャが、まるで別人のように見える始末だ。
そんな風に弱ったクレイオスを見て、ベッドに腰かけたアリーシャが面白がるように話しかける。
「どうしたのよ。珍しくため息なんかついちゃって」
「……いや、知らないことが多すぎてな。さっきの外の音も、そのカギ? とやらも、宿屋の仕組みも……金のこともわからない。少し、自信をなくすな」
「あー、そう、ね。それもそうよね……」
クレイオスの心底困ったような言葉に、アリーシャも数瞬、戸惑ったように視線を泳がせた。
幼馴染の珍しい弱気を茶化すことはできない。彼女とて外の世界に期待と不安で胸いっぱいで、余裕ある振る舞いは頑張ってそう見せかけているだけなのだ。
故に、真剣に悩んで、そしてふと名案を思い付いたように笑顔を咲かせて両手を重ねた。
「私だけ知ってても、いざってとき困るし……よし。父さんに教えてもらったこと、クレイオスにも全部教えたげるわ」
「本当か」
その言葉に、クレイオスも少しだけ驚いたように目を見開くも、すぐに薄い笑みを浮かべて「頼む」と告げる。幼馴染の山道に、アリーシャは笑顔を深めてベッドから立ち上がった。
そして、テーブルの上にいつの間にか置いていた金属の棒――鍵をつまんでクレイオスに見せる。
「それじゃあ、まずこれね。鍵、っていうの。こういうの、村にはなかったからクレイオスは知らないのよね」
「ああ。何のためのものなんだ? それがこの宿屋にあるかどうかの確認もしてたみたいだが」
「ええ。これはね、扉を開かなくするためのものよ。見てて」
クレイオスを手招きし、アリーシャは再び部屋の扉の前に立つ。扉には、先ほど部屋の前で見た穴がやはり存在し、そこにアリーシャは鍵を突っ込んで手首を捻り、また戻して鍵を引っぱり出した。
一連の行動に、クレイオスは意味があるように思えなかったが、アリーシャの「扉を引いてみて」という言葉に従ってみる。すると、固い手応えと共に扉がガタンという音を立て、開かなかった。もっと力を込めれば無理やり開けそうだったが、とりあえずやめておく。
扉を開くことができず、アリーシャに振り返るクレイオスに彼女は手の中の鍵を見せた。
「こういうこと。差し込んで捻って、手応えがあれば鍵を閉めたことになるの。こうすれば、知らない人が勝手にこの部屋に入るのを防ぐことができるし、寝ている間や外出中も安全なの。つまり、鍵のある宿屋は安心できる、ってこと」
「……これはまた、開くようになるのか?」
「ええ。またこの鍵を同じように使えば、今度は開く仕掛けになってるの。面白いでしょ?」
アリーシャの説明を聞いて納得しつつ、しかし二度と開かないのでは、と危惧するクレイオスに、アリーシャはまた同じ動作を扉の穴に行ってみせた。そして取っ手を引けば、抵抗なく扉が開く。
その様子に、目を見開いたクレイオスは、酷く真面目な顔で真剣にのたまう。
「これは、魔法か?」
「ぶふっ……ち、ちがうわよ。魔法神さまの御力は関係ないの。ほら、メッグが昔見せてくれた、オルゴールみたいな感じでカラクリがあるってこと」
「そう、なのか」
彼女の言葉にようやく納得を見せたクレイオスは、今度は彼女から受け取った鍵で自分で扉の施錠を試してみる。加減が分からず手首を捻っても手応えがなかったが、何度か繰り返すうちにどうにか手応えのあるやり方を把握することができた。
感心するように息を漏らす彼を微笑ましそうに眺めながら、アリーシャは続いて資金袋を取り出す。その中から、銅色の硬貨と銀色の硬貨を一枚ずつつまんでテーブルに並べた。
鍵からそれに興味の移ったクレイオスがそこに近づくと、アリーシャは銅の硬貨を指さして話し出す。その表面には何かの紋様が描かれており、隣の銀のソレも同じものが刻まれているようだった。
「これが、フォル銅貨。一枚で一フォル銅貨って言って、そうね……父さんによると、都市の市場ではリンゴ一個か二個分と交換できる価値があるらしいわ」
「そんなものがか?」
「都市っていうのはそういうところなの。村では物と物を交換することで成り立ってたけど、貨幣の出回る都市の市場では、貨幣と交換することで欲しい物を手に入れるのよ。もうここはカーマソス村じゃないんだから、こういうのに慣れなきゃダメよ」
「……努力する」
アリーシャの説明に、貨幣経済を理解しきれないクレイオスは実に渋い顔をするが、どうにか頷いて先を促す。
それに満足げに頷きながら、アリーシャは銅貨を手に取って指で弾いた。それは放物線を描いてクレイオスの胸に当たり、自由落下し始める銅貨を彼の左手が空中でかすめ取る。
彼の手に収まった銅貨を指差して、アリーシャは話を続けた。
「でね、そういう貨幣は土人族の国でならどこでも使えるものなの。幸運神さまの取り決めでそうなってるから。でも、だからといってどこでもその一枚だけでリンゴ一個や二個と交換できるわけじゃないわ」
「どういうことだ?」
「狩人にとっての矢と、農夫にとっての矢が、それぞれ価値が違うのと一緒よ。私たちにとって矢は獲物を仕留める大事なものだけど、農夫にとっては使えもしない要らないものになる。つまり、その場所によってはリンゴが貴重品だから、たった一枚じゃ交換してくれないかもしれないし、逆にたくさんありすぎる場所なら腐る前に交換したいからって三個も交換してくれるかもしれない。人と場所によって、物の価値が変わるってこと」
「……難しいな」
「そ。だから、場所によってどれだけ銅貨の価値が違うか、それを見極めるのが旅人を続けていくコツである――って父さんが言ってたわ」
手の中の銅貨を眺めるクレイオスに、アリーシャはその価値を説く。場所によって異なるという概念に頭を悩ませる彼に、アリーシャは苦笑して「私も最初はわかんなかった」と肩を竦めた。
こういうものは実地で理解を進めた方が早いため、今はとりあえず記憶に留めるのが一番。そう思ったアリーシャは、続けて机の上の銀の硬貨を手に取った。
「さて、これはなんでしょう?」
「……同じ模様があるし、フォル銀貨、といったところか?」
「大正解! これ一枚で、そのフォル銅貨百枚分の価値があるものよ」
「百枚?」
アリーシャの問いに見事答えて見せたクレイオスだが、続けられた言葉に眉根を寄せて理解できていないことを示す。
銀貨一枚が銅貨百枚と等価であるということがわからないのもそうだが、そもそも貨幣を貨幣によってその価値の表現をすることにも慣れていないのだ
それに気づいたアリーシャが、一瞬宙に視線を彷徨わせて思考し、そしてこう例えた。
「魔獣の革一枚で、ただの獣の革十枚分の道具と交換できるのと一緒、ってこと」
「ああ、なるほど。そういう意味か」
「わかった? 銅貨を百枚用意しなきゃいけないものも、これ一枚で交換できるってことよ。それだけ貴重なものだから、私もこれ一枚しか持ってないわ」
納得するクレイオスにそう言うと、アリーシャは大事そうにそれを資金袋に戻す。
その様子を見ながら、クレイオスは銅貨を眺めて思い出すように呟いた。
「なら、宿泊費も結構なものだな。四十五枚、だったか」
「そうなのよね。このままこんな風に続けてくのは厳しいから、どこかでお金を稼がなきゃ」
「何か物を売る以外に方法があるのか?」
「父さんの日記によると、いくつかあるみたい。でも、それは明日にしましょ。先に、さっきの外の音について知っとかなきゃ」
そう言うとアリーシャは、荷物袋から再び本を取り出し、ページをめくり出す。
やがて目的の場所を見つけたのか、指を紙に這わせて読み上げた。
「『太陽神神殿と月女神神殿のあるほとんどの都市では、決まった時間に神殿の鐘を鳴らしている。それに合わせ、他の神の神殿も鐘を鳴らし、街全域に時間を知らせる仕組みになっている』、ですって」
「じゃあ、さっき言っていた夕刻の鐘だとかいうのは、神殿が鳴らす鐘の音ということか」
「そういうこと。太陽神神殿が、日の出に一度、その後に朝日が少し昇った頃に一度。そして太陽が真上に昇ったお昼に二度鳴らして、太陽の沈む夕刻に一度鳴らすの。そして、月が高く昇った頃に月女神神殿が一度鳴らすらしいわ。都市はだいたい、その音に合わせて生活してるんですって」
「食事の時間にも利用されているようだし、覚えておかないと後で面倒なことになりそうだな」
覚えることは多そうだ、と渋い顔を見せるクレイオスに、アリーシャはくすくすと笑って本を閉じる。
というのも、彼女でさえ、これほどまでに感情豊かなクレイオスの顔は見たことがない。薄く笑うか、薄く困った顔をするか、薄くキョトンとするか。そんな程度の変化しかなかった彼が、こうして大きな街に来れたことで大きな変化を見せている。
それがアリーシャには嬉しくてたまらず、半日の歩き旅の疲れも吹き飛ぶ思いだった。
なので、ついこんなことまで言ってしまう。
「そうね……どうせなら文字も読めるようになりましょ! ノードゥスを出るまでに書けるようになってれば最高ね!」
「…………勘弁してくれ」
満面の笑みの発案に、クレイオスが珍しく嫌そうな顔で拒否する様子を、やはりアリーシャはニコニコと見つめるのだった。