15 旅立ち
太陽が未だ水平線に隠れている時分、カーマソス村は白み始めた空の下で朝霧に覆い包まれていた。
まだ村の人間の誰もが眠りにつく中、ある一軒の家の扉が音もなく開かれる。隣に作業小屋を擁するその家にから出てきたのは、この村随一の若き狩人だった。
新しい革衣に身を包み、その背中には少し大きな背負い袋が提げられている。それをぶら下げながら、同じく新しい革靴の履き心地を確かめる彼の装いは、狩りに出るソレではなかった。
何しろ、背負い袋には彼の持つ全ての下着と服、そして勝手に拝借した数日分の干し肉の類が詰め込まれている。それが指すところはつまり、彼はこの村を出て行くつもりだということ。
クレイオスが目覚めたその翌日である。そんな短い間に、彼はこの村を、誰にも告げずに去る決心を固めていた。
その理由は、やはり神より賜わった神託もあるが、一番は村人たちの自分への――クレイオスへの態度であろう。
別に、これまで仲良くしていたのに、突然手のひら返したように気味悪がられたことに腹を立てたわけではない。その心の動きには別段の思いも蟠りもなく、当然だろうな、という青年らしい淡泊な感想だけがある。
ならば何故――となれば、これはクレイオスなりの優しさから来る行動だった。
このままクレイオスがいつも通りに過ごしていけば、いずれは村人たちの不信感も薄れていくことだろう。幼少のころの不気味がる視線が、つい先日まで一人として存在しなかったように。
だが、それはすぐではない。
多くの村人を失い、悲しみに暮れる現在において、身内に得体のしれない存在を置いておく恐怖は計り知れないものだ。そんなものに耐えながら暮らさせることを、クレイオスは是としなかった。
今、彼らに必要なのは安息であり、我慢ではないのだ。
故に、村人たちの為に、神より賜わった神託の為に、クレイオスはこの村を去ることに決めていた。
それは確かに、理由を他に求める無責任な行動かもしれないが――青年には、これが最善に思えて仕方がなかったのだ。
置いていってしまう大切な人々のことは、もちろん気になる。しかし、もはやその決意を翻す余地はない。
だがそれでも――家主が眠っているはずの我が家の扉が、背後でいきなり音を立てて開き始めれば、流石の彼も足を止めて振り返らずを得なかった。
当然、振り返った先に立つのは、厳めしい表情の祖父。鷹のように鋭い目は少しだけ眠たげであるが、鼻を鳴らす仕草はいつも通りの威勢だった。
「どこへ行きやがる」
「……外の、世界へ」
当然の問いかけに、村人どころか祖父とも会うつもりのなかったクレイオスは言葉に詰まる。
そんな彼に、祖父はまたも鼻を鳴らした。今度は馬鹿にしたような響きがある。
「お前みたいな田舎坊主が、いきなり外へだ? 笑わせんじゃねえ。理由はなんだ、ええ?」
「――神託が、あった」
「…………あぁ?」
怒気すら孕んで問い詰める祖父に、クレイオスは正直にことを話す覚悟を決める。だが、それは片側の側面だけ。
端的に告げた孫の、予想外の返事にタグサムは数瞬、言葉を失ったようだった。常は厳しい双眸がこの時ばかりは丸くなって、唖然としたようにクレイオスを見つめている。
そこへ、クレイオスは畳みかけるように話を続けた。
「夢に、神の御声が届いた。俺の父親は、神なんだそうだ。母さんは神に見初められて、俺を孕んだらしい。だから、半神半人の俺に、やってほしいことがあると――」
「待て、待て待て待て」
立て続けに語られる衝撃の言葉に、さしものタグサムも眉間に渓谷を刻んで待ったをかけた。
口を閉じるクレイオスを前に、タグサムは暫し閉口する。皺の増える渋面に混乱と不審を渦巻かせながら、沈黙したまま考え込んでしまった。
それからたっぷり時間をかけて、やがて大きなため息と共にタグサムは口を開いた。
「アンネリーサの――お前の母親の相手が、神様だ? まったく、なんだそいつは。本当に、そいつは……クソッタレ、考えたこともなかったが、そう言われりゃそんな気がしてくるじゃねえか」
「神の御言葉だ。事実だろう。それに――俺自身の全てが、本当だということを示している」
混乱を鎮めるようにぶつぶつと悪態を吐いた祖父に、クレイオスは優しく語り掛ける。頑健な体と高い身体能力――思い出せば、神の子供である証は山ほどあるのだ。
それを、育ての親たるタグサムがわからぬわけもなく、やがて凪いだ瞳でクレイオスを見上げた。
その瞳は、やはり、いつも通りの色をしている。孫が神の子であるなどという事実を受け入れて、その上で彼は、全く己の観念を変えなかった。
「……そうかい。神の子で、神託か。なら、仕方ねえな。みみっちい村の連中の態度にビビったってんならぶっ飛ばすつもりだったが、そういうわけなら止めるつもりはねえよ」
「いいのか?」
「いい年して、爺の許可欲しがってんじゃねえよ。男なら、やりてえことやれ」
口の端を歪めるいつもの笑みを浮かべ、祖父は孫の旅立ちを静かに肯定する。
そのことが、何故だか――クレイオスの胸にどうしようもない嬉しさを沸き上がらせた。
己を肯定してくれることがこんなにも嬉しいとは。否、それが誰でもよかったわけではない。他でもない、育ての親の祖父でなければこうも胸が躍ることはなかった。
誰にも告げなければ、孤独になったであろうこの旅立ち。それが、祖父のおかげでもっと彩のあるものに変わったのだ。
だが同時に、少しだけ胸が痛い。そうして送り出してくれる彼に、全てを打ち明けたわけではないからだ。別に今すぐ旅立つ必要もなく、事実、村人たちの為と言いながら、嫌われる現状に身を置くことを恐れているのだから。
そんな複雑な薄い笑みを浮かべるクレイオスに、くるりと踵を返したタグサムは思い出したように「ちょっと待ってな」と告げ、隣の作業小屋に入っていく。
何のつもりか、と律儀に待っていると、再び姿を現したタグサムの両手には、大袋があった。それを勢いよくクレイオスに投げつけてくる。
咄嗟に両手で受け止めたそれは思いのほか重く、同時に慣れ親しんだ重量がクレイオスに中身の正体を教えた。
「革……か?」
「見てみな」
顎をしゃくって促され、言われるがまま開けば――少しの驚きがクレイオスを襲う。
中に入っていたのは、革製の水袋二つと、そして加工前の大きな革が数枚。しかも、両方とも普通の革ではない。
魔獣の頑丈な皮を使って作られた、特別な革だった。
頑丈ゆえに加工には長い時間と根気が必要で、これは恐らく二年前に仕留めた大熊の魔獣のもののはずだ。つまり、最近、完成したばかりの代物だった。
普通の革よりなめしにずっと手間がかかる分、丈夫で強い。革鎧などに加工すれば、並大抵の鉄製の鎧よりも段違いに防御力が高いのだ。
その為、メッグには信じられない高値として売れていたし、時折そのメッグが名代として訪れるセクメレル伯への上納品にもなっている。
それほど価値あるものを、クレイオスに寄越したのだ。
思わず顔を上げて祖父の顔をまじまじと見る孫に、タグサムはやはり笑みを浮かべて言う。
「男の旅立ちだ、派手に祝ってやるよ。そいつで、でけえ街の職人に頼んで鎧でも作ってもらえ。ああ、路銀に困ったら売っちまうのもいいな」
「…………いや、大事に使わせてもらおう」
「はっ、好きにしろって言ってんだろうに」
祖父の気遣いに、クレイオスは表情を緩めてその大袋もまた背負う。身長ほどの大きさがあったが、重さは苦ではない。
そうして、ようやく二人の間に沈黙が落ちる。笑みを引っ込めた両者は静かに視線を合わせ、そして祖父が静かに口を開いた。
「……気ぃつけろよ」
「ああ」
二人が最後に交わした言葉は、たったこれだけ。
だが二人にとって、これ以上は必要なかった。
✻
朝霧に包まれた村を出る。
いつも以上に足音に気を付け、気配を殺して歩いた。特に、森番として村の入口にあるテンダルの家の前を通る時には、余計に気を払う。
別に、そこから出て行かなくても村から出られる場所はいくらでもあるのだが、やはり最後に村の全てを目に収めておきたかったのだ。となれば、当然、一番多く目にした森番の家は、見ておきたかった。
思えば、テンダルもまた、タグサムと同じように己に忌避感を抱くことほとんどなかった。アリーシャと遊ぶ自分を丸っこい顔に微笑を浮かべて眺めていてくれたし、彼女に怪我させてしまったときには本気で叱ったりもしてくれた。
年齢もあり、祖父よりも彼にちょっとした父性を感じていたこともあった。
そんな彼とも会えなくなるのか――そんな感慨を抱きながら、しかしクレイオスは家の形を目に焼き付けて、振り返ることなく村を出る。
その家に同じく住まう少女――幼馴染のことだって気になる。ずっと一緒に居てくれて、笑ったり泣いたり怒ったり、実に豊かな表情で毎日を鮮やかにしてくれた。
今をして、何故あんなにも必死になって助けに行った衝動はわからないが、これから二度と会えないのであろうと思うと、祖父の時以上の寂寥感が胸に去来する。
まさか、彼女とこうして離れ離れになる時が来ようとは、夢にも思っていなかった。漠然と、理由もなくずっと共に居るものだと思っていたからだ。
耐えがたいものではない。だが、明確に寂しい。
そんな、胸を軽く締め付けられる感覚に、存外自分も女々しいのだな、などとクレイオスは苦い笑みを浮かべた。思ったより辛さを感じているらしい。
そんな風に、村を出たことで明確にこの場所を去るということに現実味が帯び、クレイオスは思わず過去を想起してしまって注意が散漫になっていた。そんな状態のまま、青年はぼんやりとしたまま森をまっすぐ歩いていく。
だからこそ――朝霧に包まれた森の、一本の木にもたれかかる小柄な影に気付いたのは、実に目と鼻の先に来てからだった。
その影が欠伸をするように片手を口元にあてる動きで、常は鋭いクレイオスが今頃気づき、弾けるように咄嗟に距離をとる。
彼の素早い動きで向こうもようやく彼の存在に気付き、「きゃっ!?」と高い声を上げて飛びのいた。
その声だけで相手が誰であるのか、瞬く間に理解したクレイオスは、目を見開いて動きを止める。
向こうはこちらが何であるかわからないようだが、見当はついているようで困惑したように沈黙していた。
一拍の静寂が、両者の間を通り過ぎる。
そんな間を置いて、ようやく少女の声がおずおずと呼びかけられた。
「クレイオス……?」
それは、紛れもなく幼馴染のアリーシャの声。
何故こんな時間に、こんなところに――という疑問は、祖父の存在を思い出すことで解消される。彼女も、クレイオスの出奔を見抜いていたということだ。
そんなに俺はわかりやすいか、と苦笑いを浮かべつつ、クレイオスは瞬刻、考える。
このまま逃げてしまうか、応じるか。
まるで山賊に出会った時のような考え方だが、事実としてクレイオスは焦り、迷っていた。
もし彼女と言葉を交わし、なりふり構わず「残ってほしい」などと言われたとき、自分がそれに応えない自信がないのだ。己のよくわからない感情が、決意を抑えつけて首を縦に振らせるかもしれない。
ならば、もう少女の心を傷つけることになっても逃げてしまえば――とまで考えて、クレイオスは思考を止めた。
馬鹿馬鹿しい。既に見抜かれている時点で諦めるべきだ、と臆している自分に叱咤をかけ、クレイオスは口を開いた。
「……ああ」
「もう! 驚かせないでよね」
クレイオスの返事に、安堵したような声が返ってきてから、朝霧の向こうからアリーシャが歩み寄ってくる。
そして互いに様子を確認できる距離まで近づいたところで、クレイオスは驚きに目を見張った。
装いは、狩りに出る際の革の上衣とシミ一つない美しい白い脚を露出させた下衣。背には複合弓を携え、腰には矢筒が提げられている。そして片手は、そこそこの大きさの背負い袋を握っていた。
己と大差ない恰好――そう、旅立つ装いだった。
驚くクレイオスに、アリーシャは胸を張って端的に告げた。
「私も一緒に行く」
「……なに?」
「村を出てくんでしょ。なら、私も行くわ。私は、父さんの本で外のこと、クレイオスよりは知ってるし、邪魔になんかならないわよ」
「待て、なんで――いや、アリーまで村を出て行ったら、狩人が居なくなる。それは、なんだ。困るだろう?」
動揺するクレイオスに、アリーシャはまるで散歩にでも行くような軽い声色で同行を告げた。
その衝撃に驚く思考を慌てて落ちつけながら、彼女の意思を変えんとするクレイオスだが、少女は満面の笑みで首を横に振る。
「大丈夫よ。メレアスが居るし、いざとなったらタグサムお爺さんだって居るもの」
「いや、だが、メレアスはまだ未熟で……それにテンダルが許さないだろう?」
彼女の、いっそ清々しいとまで言える他人任せな返答に困惑しながら、クレイオスが一番の心配を告げる。
娘を溺愛する彼のことだ、何を押してでも追いかけに来るだろう。そうなれば、困るのはむしろこちらであり、そのことをアリーシャが分かっていないはずがない。
だが、彼女はにんまりと笑みを浮かべて背負い袋から一つの革袋を取り出した。上下に揺らすと、じゃらりという金属のこすれあう音がする。
それが、かつてテンダルやメッグに何度か見せてもらった貨幣特有の音だと気付いて、クレイオスは再び驚きに包まれた。
「これ、父さんからの餞別よ。『怪我に気を付けて、いってらっしゃい』ですって」
「……あの、テンダルが、か?」
「ええ、ホントよ。父さんも貴方が村を出てくのわかってたみたいだから、反対しなかった。まあ、凄く渋い顔してたけど……」
信じられないようなクレイオスに、アリーシャは苦笑いを浮かべながら革袋を背負い袋にしまう。
父の秘蔵の貨幣を、くすねてくるような娘ではない為、彼女の言うことが本当だとわかった。だからこそ、クレイオスは焦りながら彼女を説得する他の言葉を探し――不意に、思考を止める。
別に、いいのではないか、と。
彼女が来ることで、村が困ることはいくつかあるが、どれも致命的なものではない。そして、己にとって彼女の同行は――無上の喜びがあるのだ。
なにより、彼女も祖父も、言葉を尽くして己を止めようとはしなかった。そんな自分が彼女の出立を認めないなど、笑い種としか言いようがない。
これでは、断る意味がない。
それを理解してしまえば、クレイオスには語る舌などない。
小さく肩を竦め、アリーシャに頷きを返した。
「わかった。行こう」
「決まりね!」
彼の言葉に、アリーシャは花が咲くような笑みを浮かべる。
その表情には喜びと期待がありありと感じられ、クレイオスもつられて少しだけ笑みを浮かべる。図らずも、彼女にも外の世界を見せられることになったからだ。
それから隣にやってきて肩を並べ、歩みだす彼女の横顔をそっと伺う。そこには村を出る不安よりも、自分の世界が広がっていく喜びに満ち溢れているようだった。ならばいい、とばかりにクレイオスは前に向き直る。
予想外のことが二度も起きたが、しかしどちらも悪い事ではない。孤独だった旅立ちは思いのほか充実した形になって、寂しいはずの旅路は楽しいものになる予感がする。
その事実に少しだけ、クレイオスの固まりかけていた心は、安らぎそうだった。
✻
「寄るべき場所がある」と簡潔にアリーシャに告げて、クレイオスは邪龍の洞穴にやってきていた。
流石に、悲惨であった入口は体裁を整えられ、血臭も感じない程度に綺麗になっていた。自然の自浄と村人たちが死者を弔うために頑張ったおかげだろう。
そんな場所をすぐに通り抜け、暗い洞穴に入る。中の蛇人間たちの死体は消えていて、暗い中で黒い染みだけが残っていた。獣に食われたか、或は煙のように消えてしまったか。わかりはしないが、死体に足を取られる心配はなかった。
そうして暗い中をゆっくりと進み、やがて夜光石のある空間に到着する。
そこには、未だ重なり合って頭蓋に穴を開ける、邪龍の骸があった。いくらか腐りかけているものの、やはりその威容は健在だ。
その巨影に息を呑むアリーシャを横目に、クレイオスは周囲を軽く見渡す。
神の言葉によれば、ここにある神槍と篭手を回収せよとのことだが、それらしきものは見当たらない。そもそも、そんなものがあれば死闘の際に見つけているはずだ。
さてどうしたものか、とクレイオスが困惑を表に出したところで――唐突に、空間に変化が訪れる。
中央に座す、祭壇の如き巨大な台座。その上で、閃光が炸裂した。
仄暗さに慣れ始めていた視覚を貫き、痛みすら感じる光に二人が思わず顔を背けた瞬間、続けて陶器の割れるような甲高い音が鳴り響く。
目を細めて視界に飛び込む光量を制限しながら、どうにかクレイオスは光の根源を窺った。何が起きているのかわからない。だが、不思議と危険は感じない。
そうして見えた光景は――想像の範疇にない、理解の外のものだった。
キラキラと零れ落ちる、瑠璃の砂。祭壇の頂上に少しずつ山を作っていくソレは、そのすぐ上――砕けた空間から落ちていた。
まるで欠けた陶器のように、景色が鋭角的にくり抜かれているのだ。そして、そのくり抜かれた枠の内側には、満点の夜空に勝るとも劣らぬ光の瞬きが一面の群青色の中に無数に輝いている。
仄暗い空間に炸裂する光の中、それはまるで絵画のように宙で静止していた。
だが、直感がそんなものではないと告げている。本当に、あの場所だけが割れているのだ。
そんな超常の現象を前に、何もできない二人を差し置いて状況は変動する。
何の前触れもなく光が失せ、そして――何かが、その割れた景色の中から無造作に落とされたのだ。
ソレは瑠璃の砂が作る山に突き立ち、白銀と黄金の輝きをほんのりと放つ。
クレイオスの身長ほどもある長さ、随所に散りばめられた鉱人族の生み出す工芸品の如き装飾、そして砂の山に突き立つ白亜の穂先。
神の槍――そう形容するに相応しい、白銀の美しさを誇る槍がそこに突き立っていた。
そして、その長柄の中ほどには、それを握りしめる主なき黄金の篭手が存在している。こちらもまた美しい黄金であり、刻まれた意匠は神々への献上品と称されても違和感などない。
銀と金。二つの神々しい輝きが、今度は仄暗い空間に弱々しくも確かに存在していた。
そして、それを唖然として見守るうちに、割れていた景色はいつの間にか煙のように薄くなって消える。後に残ったのは、瑠璃の砂と白銀の槍、そして黄金の篭手だ。
言葉もなく顔を見合わせた二人は、そのまま無言で祭壇を登る。辿り着いた頂上で、より近くで見る二つの存在は確かに、神の代物であることを根拠もなく信じさせた。
クレイオスが無言でそっと手に取ろうとして、二つに刻まれる意匠の中に、明らかに文字のようなものがあることに気付く。
クレイオスは文字が読めないので、同じく目を付けたアリーシャと視線を合わせて頷きあった。彼女は読み上げるようために、おもむろに口を開く。
篭手の甲の端に刻まれたものは、
「『誠実たれ』」
そして、槍の穂先の根元に刻印された文字は、
「『慈悲を持て』」
いずれの言葉にも、妙な重みが存在していた。
これこそが、両方の銘であるのだろう。同時に、所有者への戒めでもある。
神は、これらを背負って行け、というのだ。そのことに、クレイオスは少しだけ笑みを浮かべて今度こそ手を伸ばす。
黄金の篭手に触れた瞬間――か細い金属音がしたかと思えば、転瞬、篭手が無数の金属片に分解した。
「ッ!?」
驚いて咄嗟に手を引くも、それより早く金属片の波がクレイオスの右手にとりつき、宙に黄金の軌跡を引きながら全ての輝きが集中していく。そしてあっという間に金属片は元の篭手の形に組み直され、その内側にクレイオスの右手を収めていた。
訳の分からぬ現象に二人して混乱するも、クレイオスは思いのほか心地いい装着感にすぐに平静を取り戻す。まるで己のためにあつらえられた革靴のようで、まったく違和感がない。先ほどの意味不明の現象はこのように違和感なく装着する為であったのだろうか、と納得しながら気を取り直す。
手の外側は堅牢な黄金の金属で覆われ、関節を邪魔しないよういくつかの部品に分かれており、その下の皮膚には直接、吸着性を感じる材質の黒い何かが覆っている。
よく見てみればそれは非常に細かく小さな鎖で編まれていて、革手袋のような質感ながら金属のようでもあった。当然、掌全体をその黒い金属の手袋で覆われていて、その上から黄金の金属が篭手の形を成しているのだ。
右手の様子を確認した後、今度はその篭手で槍へと手を伸ばす。神が言うにはこの篭手が槍を揮う為にあるらしい。ならば、この状態で触れるべきだろうという考えからだった。
それを肯定するように、篭手に包まれた手は何一つの問題なく、吸い付くようにその槍を握りしめた。
そして力を込めて星の砂から引き抜けば、思いのほか存在する重量に驚きつつも、体幹を揺らさずに無事に片手で持ち上げることができる。
静かに掲げれば、穏やかな輝きは少しだけ光を増して、仄暗い空間に金と銀を照らし出したのだった。
✻
これにて、全ての始まりは終わり。
始まった旅路は青年に、多くの困難を課し、多くの試練を与えることだろう。
だが、そのいずれもを乗り越えてこそ――英雄譚なのである。
第0部・了
次回、第1部の更新は現在未定です。




