紫の闇
我が名は
グシャリ、と野犬の頭蓋が砕ける。
声もなく飛び掛かる獣を硬質化した右手で迎え撃つと、あっさりと野犬の命が散る。
ケントの動きはますます速く鋭くなっていた。
右の手は叩き潰し、左の手は軽々と20kgはある野犬を投げ飛ばした。
馴染んできた、とケントは感じた。
闇に連れて来られてから感じていた全身の違和感が薄れてきていた。
しかし、それでも決して簡単というわけではない。
いつしか、野犬は十匹にまで減っていた。頭を潰され、ナイフで切り裂かれた獣たちの血生臭い臭いが十匹分漂っていた。
だが、それでも野犬たちはより一層果敢に襲いかかってくる。仲間の血が野犬を疲れ知らずの餓狼に変えているのだ。
――――呼吸が足りない!
いくら息を吸っても肺が満たされない。
酸素が足りないせいか感覚が鈍り、右手の一撃さえ必殺にならない。
体が馴染んできたといえども、すでにケントの体力は全力で森を駆け、四匹の野犬を命からがら倒したところで幾ばくももたない状況にあった。
それから更に十数匹、人より鍛えていたといってもケントの体力はとうに限界を超えていた。
「……っ!っ!」
殴った野犬を踏みつけて潰す。そこでついに、右足に牙が食い込む熱い感触が走り、続いて左肩にも同様の感触が走る。
「ああああっ!」
歯を食い縛り、左肩の犬の眼窩に指を突っ込み、両手で投げ飛ばし、そこで力尽き膝をつく。
体から痛みと感覚が抜けていく。
ケントは、空気中にも関わらず溺れているに等しい状態にあった。
体が意思に反して動きを止め、本能が強制的に酸素を取り込もうとする。
しかし、その本能が今は生存の邪魔をする。
残り五匹……。
目の前の一匹が唸り声をあげ、飛び掛かる。
牙の一つ一つ、荒々しく蠢く舌の動きまではっきりと見える。
まだ、この体が止まるわけがない……!
――――動かなければ!動け!動け!動け!動け!
視界が明滅を繰り返す。
世界が遅れていく。
大きく開けられた顎がゆっくりと首筋に迫る。
―――足下から闇が放射状に広がり、蜃気楼のように立ち昇る。
背中に鈍痛が生じる。左の二の腕と脇腹に撃ち抜かれる痛みが走る。左腕に千切られる激痛が。眼球が、左顔面が抉り飛ばされ、右手が燃え上がり、右半身に電撃が直撃する。
あの時の痛みが再現される。走馬灯。声も出ない。命の危機。
全身の痛覚神経が悲鳴をあげて限界を超え、溢れ出した痛みが存在しない神経にまで流れ込む。
例え神経が焼き切れようとこの幻想の痛みは決して逃がしはしない。
そして、その副産物として与えられるのは、遅れた世界でなお動くことのできる権利。
アドレナリンの過剰分泌とエンドルフィンの生成。
肉体が何かと混ざり、その肉に酸素は要らなかった。
まるで隙間なく異物を埋め込められたかのように間断なく脳を掻き乱す苦痛に耐え、右手が掴み、左腕がナイフを走らせて反応すら出来ずにいる眼前の獣の首を断つ。
その首が落ちる前に更に右足に噛み付いた獣の首をもぎ取る。
全身の皮膚を剥がれたような痛み。
空気さえも灼熱となって牙を剥く。
それでも、止まれない。
刃渡り23cmのナイフを閃光と化して野犬の首筋に叩き付ける。
「がああああああああ!!!!!!」
最小限の動きで近付き、三、四と一刀のもとに断裂せしめる。
一切の無駄は即、苦痛を長引かせ、俺の正気を殺してしまう。
そして、最後の一匹の首がボトリと地に落ちた。
世界が時を取り戻し、忘れていたように野犬の頭部と首なし死体がその断面から血を吐き出す。
「ハッハッハッハッハッハッ……ハァ、ハァ、ハァ……」
無呼吸状態から解放され、浅い呼吸が止まらない。
ひとしきり肺を満たしたところで、全身を苛んだ地獄の責め苦が終わっていることに気付く。代わりにひどい頭痛がしていた。
なので、草木を赤く染める野犬の生首を拾いにいく。
断面は我ながらとても綺麗なものだ。
刃こぼれだらけのシースナイフでやったとはとても思えない。
手早く観察したあと、俺はそれらを丁寧に地面に並べた。
生首が五つ口を開けている。
大合唱が聞こえる。
それから、数歩歩いて、気絶した。
「こっちだよ!きてきて、はーやーくー!ゴードン!!エディ!!」
「……何があるんだ?」
「分かんないけど、誰かいるっぽい!!」
「アーシェ、どこまで行くんだい?」
「すぐそこかなー?」
「私は危なそうならお前を置いてすぐ逃げるからな」
「エディひどい!」
「待て、何かいるぞ!……眠っている男と……女の子?」
「むむ!待っておったぞ、冒険者よ。早く我とこの愚図を連れていくがよい」
倒れた男の隣には夜中の森には場違いな黒いドレスを着たこの世のものとは思えない美しい少女がいた。
ガタン、と大きく荷台が揺れた。
「いてっ」
なんだ?頭を打ったようだ。
「あ、起きたー?」
目の前に女の子がいた。
ここは、どうやら車?の荷台のようだ。エンジンがやかましく振動している。
かなり大きい車だ。電車の車両半分くらいはあるだろうか。
後方に煙突があり、もうもうと黒煙を吐き上げている。石炭の燃える臭いがした。
「えっとねー、森の中にいたのを拾ったの!」
ほう。笑顔の可愛らしい女の子だ。
それに猫のような耳がついている。
ほう。うむ。ほほう。
けど、知らない言語だ。何を言っているのかわからない。
(起きたな。その娘は地に這いつくばって獣のように眠る薄汚い貴様を慈悲深き我が森の中で拾ってやったのだ、感謝しろ、と言っておる)
ネキアの声が頭に響く。ネキアも近くにいることが分かって少し安心した。
愛らしい笑顔のわりにキツいことを言う子なんだな。
それでは、ありがとう、ってなんて言うんだ?
([ありがとう]、だ)
「アイ、ガアト」
「うん?」
「ありがとう、と言っておる。そやつは極東の出身でな、こちらの共通語が上手く喋れんのだ」
「そうなんだー!へー、ほんとだ。霊脳着けてない人なんて今時珍しいね!」
「れいの……?うむ、着けておらん、着けておらんのだ」
猫耳の女の子が黒い服を着た女の子と喋っている。
ネキア、何言ってるのか通訳してくれないか?
(今アーシェと喋っておって忙しいのだ、後にしろ)
今アーシェと喋って?
(アーシェは猫耳娘のことだ)
ほう。じゃあ今喋ってるのって……。
「そういえば、あなたも霊脳着けてないね!兄妹揃ってなんだー」
アーシェが額に飾っているアクセサリーを指差す。
「して、その霊脳とはどういうものなのだ?」
「え!?知らないのー!?ふふふ、教えてあげよー!なんかねー、着けるとシュッて頭よくなるの!頭にグイってやってバババってしゅじゅちゅして!それからデータを入れたらすぐ色々覚えられるようになるよ」
「おお、それはすごいな!!」
アーシェが腕を大げさに振って黒い服の女の子に何かを伝えている。
この女の子は、いや本当にそうなのか。
そういえば、横顔しか見えないが誰かよく知っている人に似ているような気がする。
(お主、これじゃ!霊脳とやらをお主の頼りない脳みそに入れるのじゃ!魂に魔法的なネットワークを接続するとは、やはり下界は進歩がすごい!降りてきた甲斐があるというものじゃ!)
ネキアが嬉しげにこちらを向く。
脳髄に衝撃が走る。
その顔は、まるで。
その顔は、私の妻と娘にとてもよく似ていた。
妻と娘に似た顔が嬉しそうに笑っていて、その顔を見ると嬉しさと悲しさが混在した強烈な感情が身を貫いた。
ネキアを睨み付ける。
どうして、貴様がその顔をしている!!!
「ふぇ、二人ともどうしたのー?」
「気にするでない、アーシェよ」
ネキアは依然澄ました顔をしている。
(お主が言いたいことは分かるぞ。それはな、我がお主に寄生して現界しておるからだ。あえて言うぞ、この顔の造形はお主が自分の妻と娘に会いたいと願ったからだ)
……。
(見た目の変化もお主を経由しておるから、我にもあまりコントロールできぬ。お主の妻か娘か、それによく似た姿にしかならぬ。目障りだろうが許せ)
……。
私が望んだから、か。
そうか。
不覚にも涙が溢れてきた。
いや、いいんだ。
からかっているのか、慰めのつもりか、なんて思っただけだ。
そうじゃないなら、いい。怒ってすまなかった。
(うむ、気にするな。我も説明しておけばよかったな)
会いたいに決まっている。
そこはどうしようもないから、仕方ないさ。目障りなんかじゃないよ。
「え、泣いて、え、なんで?!」
アーシェがおろおろしている。
慰めようとしているのか手を伸ばしたり、引っ込めたりしている。
私は年下の娘に慰められようとしてるようとしているのか、大人失格だな。
軽く目元を拭いて、アーシェに微笑みかける。
アーシェもそれを見て、少し首をかしげ、
「まあ、なんとかなったみたいだね!」
といって気にしないことにしたようだ。
「そういえばさー、名前、聞いてなかったね!」
「名前か。うむ、それはなー」
(おい、お主。我の名前が決まっておらんのだ。決めてくれんか)
ん、名前?ネキアじゃないのか。
(それはまあ、そうではあるが、ネキアは本体の名前じゃろう?
我はスタンドアローン端末として分離されておるから、本体とは厳密には違うのだ。
それに、本体と一緒にされるのは少し不愉快じゃ)
嫌なのか。なぜだ?
(ネキアは性格と趣味が悪いのでな)
そうなんだ。
(なので、我に新しい名前をつけろ)
安直でいいか?
(構わぬ)
紫色の闇、紫闇、でどうか?
(安直だな、気に入った)
「アーシェ、我が名はシアン。道中よろしく頼む」
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