異界の獣
獣が走る 六匹の獣が
幾秒か、幾分か、或いは幾日経ったのか。
随分長いこと闇の中に包まれていた気がする。
不思議と悪い気分ではなかった。
体に重力を感じ始める。
足下に大地の感触。
植物の匂いが鼻腔をくすぐる。
もはや慣れ親しんだ闇と離れるのが幾分か寂しいような気もした。
そして、目を開けると闇が広がっていた。
「……ん?」
いや、違う。これはさっきまでの闇じゃなく、ただの宵闇だ。
目を凝らすと生い茂る草木が見える。
そう言えば、闇に包まれる前、紫色の闇が死に場所はゼラス、とか言っていた。ここの地名だろうか?
明らかに日本ではないだろう。
ゼラス……聞いたことがない。
空を見上げると月が見える。ワインの様に濃い紅色だ。
更にもう一つ月があった。こちらは青みがかった白。
月が二つ。
ここは地球ではないのかもしれない。
寡聞にして月が二つある土地なんて聞いたことがない。
そもそも、私だって不可思議な闇に包まれて工事現場から森の中に転移した身だ。
例え地球じゃなかったとしてもそう驚くことではない。
それに、ここがどこであれ、ここに加納敬志がいるのなら何の問題もない。一向に構わない。
気分はひどく落ち着いている。
左腕がある。右手も問題がない。右足だって動く。左目も見えている。コートはボロボロだが、ナイフまである。
少し違和感があるが万事オーケーといっても問題ないだろう。
「すー、はー」
深呼吸。
少し肌寒いが空気も澄んでいて美味しい。酸素濃度も問題ないようだ。
だが、問題というなら一つ。とても腹が減っていた。
どうせなら闇のなかで栄養も補充してくれたら良かったのに。
いや、手足を生やしてくれただけでも十分ありがたい話だった。
なんといっただろう、あの紫色。
名前は――――
「ネキア、だったか?」
「――――呼んだか?」
ヌッ、と私の足下からいきなり紫色の闇が出現した。
驚きのあまりしりもちをつく。
「いて。……近くにいたのか」
「呼んだのはお主だろう?出て来て何が悪い」
悪いとは言っていない。
……どうにも気安いな。まるで永年の知人であるかのような親しさを感じる。
「ふふ、今までずっと我の体内にいたも同然だからな、気安くもなる」
そうか、こいつは心を読むのか。
……体内。
闇が私の顔を覗き込みながら言う。
「我の体内は心地よかったようだな」
言い方がいやだった。
率直に生理的に気持ち悪い。
「生かしてやったのに気持ち悪いとまでいう奴がおるか」
闇が体を震わせて抗議する。確かにそうだ、と思った。
怪我を治してくれて感謝する、ありがとう。
軽く座り直し礼を言った。
「気にするな、餞別代わりだ。それに、怪我はまあ……」
餞別ということはもう去るのだろうか。
「いや、我はお主に着いていくぞ」
……ほう?
闇を傍に侍らせて街中を闊歩する自身の姿を想像した。
とてもファンタジックだ。
この世界じゃ闇を連れているのは普通なのだろうか?
「そんな気持ち悪い世界があるか。人前では隠れたり化けたりするから、そう気にするな」
ほう。ならば何が餞別なんだ。
「もう手足を生成したりはせんということだ。できんしな」
ほう?
「この我はスタンドアローンな端末にしか過ぎず、ネキアそのものは遥か天界におる。なので、我はスプーンとフォークを持つくらいしかできんから頼りにせんでくれ。言わばお喋りロボットじゃ」
お喋りロボット……。見た目は口のついた闇そのものなのだが……。
「我はお主が犬に食われようが、奴隷市場に売られようが、餓死しようが、傍観してついていくのでよろしく頼むぞ!」
……闇にそこまでの期待はしていないさ。
「我を闇などと呼ぶな。我は神だぞ」
なんだ、神なのか。悪魔か何かかと思っていた。
望みを叶えたあかつきには魂を取られるとばかり。
「魂を取るのは、ある意味間違っておらぬが……」
神も悪魔も同じようなものか。別にいいが。
……だが、どうりで色々できたわけか。
ってことは、加納敬志を連れていったのも。
「左様じゃ。忌神マリス。この世界の敵といってよかろう」
世界の敵……穏やかじゃないな。
何をして敵になったんだ?
闇は少し溜めて、口を開いた。
「……大戦争の引き金を引いた。奴は人の子らが互いに殺戮をするのを好む。忌まわしいことじゃ」
なるほど。それで忌み神、か。
じゃあ、加納敬志はその手伝いをするために転移して……。
……この近くにいるわけじゃないのか?
「すまんな。マリスの居場所なら分かるが、加納の転移先までは分からなかった。それに下界のことはさっぱりでな。我、信者いないし。お主だけじゃし」
ほう、神は信者の心の中にしかいない、というのが私の持論だったのだが。
信者がいなくても神様か。現に存在しているものな。
「ほざけ」
加納の居場所が分からないなら探すしかない。
戦争が目的ならば、その中心に加納は出てくるだろう。
それまでは、この世界で生き、そして、待つ。
ということは、今のところはとりあえず。
ぐぅ、と腹の虫が鳴る。
飯だな。
「ふふ、それがよいだろう。では、またな。我は方向とかも何も分からん故、くれぐれも期待するなよ」
あまりにも頼りにならないことを言い残し、ネキアは私の影の中に消えていった。
さて、どうやらこの世界には戦争が起きる程度には人がいるらしい。
情報を集めるなら、やはり街に向かうのが最適か。
「ハァハァハァッ」
全力で走っているにも関わらず、ケントの背後に迫る獣はますます速度をあげて近付いてきていた。
その獣の息遣いに、背中に嫌な汗が伝う。
どうやら、闇とのお喋りは想像以上にケントをリラックスさせていたらしい。
普段の彼ならば真夜中の見知らぬ森を目的地も分からないまま歩きだす、などということになれば必要以上の注意をして歩いていただろう。
柄にもなく浮かれていたようだ、とケントは反省する。
臨死体験で脳味噌にストレスが掛かったせいか思考が不明瞭だったところに、どこか懐かしい紫色の声を聞き、異世界という妻の薦めでよく読んだ児童文学の舞台で息をしている、という一連の状況の非日常がそうさせた。
その結果がこれだ。
現在ケントは何の用意もなく四匹の野犬に襲われていた。
(このままでは、ジリ貧だな)
逃げるか、戦うか、決断を迫られ、ケントは戦うことを選択した。
具体案は何もないが、とりあえず実行するのみである。
ケントが根の少ない平坦な足場で立ち止まると、同時に直近にいた野犬が飛び掛かった。
瞬間ケントは反転し、横にかわしながらナイフで野犬を突き刺しながら押し飛ばし、噛みつこうとした二匹目を流れるように蹴り飛ばす。
キャン、と鳴いて二匹目が転がる。
ここまでは予定通り。
しかし、ここで片足になったことで隙が生じ、蹴り足を三匹目に噛みつかれた。
「くっ!」
鋭い牙がケントのふくらはぎを侵襲し声が漏れるが、左腕を引きちぎられる痛みに比べれば何ということもない。
あくまで冷静を保ちナイフを逆手に持ち替え思い切り三匹目の脳天に振り下ろした。
そして、迫りくる四匹目に対しナイフを向けようとしたが、ナイフが三匹目から抜けず、押し倒される。
野犬の牙がケントの首もとに迫り危険なところだったが、ここでも慌てず犬の顎と頭部を掴み、首を思いっきり捻った。
ゴキッ、という音がして四匹目も動かなくなる。
……意外と何とかなるものだ。
乱れた息を整えようとした瞬間だった。
まるでこの機会を狙い澄ましたかのように、倒れていた二匹目がいきなり飛びかかってきた。これに対しケントはとっさに左腕を盾にすることしかできず、またも押し倒される。
ガブッ、と四本の牙が深く左前腕に突き刺さり血が滴る。
土の匂いと植物の匂いに生臭い獣の吐息が加わり鼻がもげそうだ。
さっきのように首を折れないし、ナイフもない。手で周りを探るが手頃な石もない。拳しかなかった。
(どうすればいい!)
悩むが、何も思い付かない。
その間にも野犬が首を振りながら牙を更に食い込ませる。
左腕がミシミシと音をたてるが不思議と痛くはない。
代わりに、脳裏にノイズが走る。
森の中、闇、土、生首、妻、娘。
フラッシュバックしていく。
冗談じゃない!
ここまできて、獣ごときに!!
左腕に力が宿る。
無理矢理に腕を振って野犬を地面に押し付けた。
そして、右腕を大きく後ろに引き絞る。イメージは、俺の、左半顔を一撃で抉り飛ばした硬く重く強靭な右手。
かつて一度消滅した右拳が体内から金属に侵蝕されるように硬質化していき、鈍く赤と青の月光を反射する。
そして、
「うおおッッ!!」
裂帛の気合いと共に右手が振り下ろされ、その強大な圧力でもって野犬の胴体を爆裂せしめた。
絶命した野犬が左腕を離す。
左腕には四つの深い穴が開いているのに、痛みはなく、血も出ていなかった。
立ち上がり、三匹目に突き刺さったままのナイフを引き抜いて仕舞う。これは日本から持ち越すことができた唯一の武器だからな。
そして、自分の右手が引き起こした惨状を見回す。
大地、植物、木の幹にまで血が飛んでいる。
ケントは一瞬、「加納との戦いにより私の潜在能力が目覚めたのか」、とも思ったが、すぐに考えを撤回した。
明らかに人間の限界を凌駕していた。
右手を見る。肌色というより、鈍色である。
左手を見る。穴がふさがり始めている。
これは……なんだ。
「――――ネキア?」
聞いてみなければ。
耳を澄ます。
(ピー、我は今寝てるのでご質問は後で受け付けます)
おい。
もう何度か呼び掛けるが、留守電(?)が応答するのみで一向に返事がない。
どうやら助けは得られないらしい。わりと本当で頼りにならないことが判明してしまった。傍観どころじゃないじゃないか。
じゃあ何のために着いてきているんだか。
仕方なく、この手が何なのか一人考え始める。
が、すぐに思考が中断された。
「グルルル……」
低木を割り、野犬が一匹顔を出す。
ゆっくり考える暇はくれないらしい。
ケントが撒き散らした野犬の血液は揮発し一帯に臭いを散乱させていた。
ケントが知るよしもないことだが、この血には一つのメッセージが載っている。
すなわち、ここに敵がいるぞ、である。
かくして、臭いに釣られ野犬の群れ、その数二十匹が集まり始めていた。
第二ラウンドが始まる。
野犬って、めっちゃ強い