悪鬼異行
赤黒い闇が嗤ってゐる
「加納敬志ぃぃぃぃ!!」
男の怒号がゴーストタウンの夜に響き渡る。
「……そんなに吠えなくても聞こえてんだよ」
加納が呆れた声をあげる。ドラム缶から飛び降りて、ジロリと男の顔を見る。
男の顔は修羅もかくやという憤怒の形相を返り血で赤く染めていた。
工事現場を照らすライトでは細部まで見えなかったが加納はある男の面影をそこにみた。
以前見たときとはだいぶ違っているが。
「アンタ、もしかしてあの時の検事さんか」
なんだっけ。そうだ。
「阿妻剱仁って言ったか?」
「……」
男は無言。それは肯定に等しい。
こいつはおもしれぇ、と加納は大声をあげて笑う。
たった一人で俺の組の連中何人殺してまわるんだよ!すげぇぜ!
加納は本気で男の行動を面白がる。
だけど、
「けどよぉ、検事さん。俺なんかアンタにしたっけ?(笑)」
男が目を見開き叫ぶ。
「貴様ッ!貴様がぁ!!殺してやる!!」
残弾9発のアサルトライフルを手に男が駆ける。
アサルトライフルが火を吹き9つの弾が壁となり加納に迫った。
それに対し加納は目を細めゆらりと体を揺らしながら弾丸を「避けた」。
にやりと加納が笑う。
加納に対する逸話は多い。
伊達に一代で日本最大の暴力団の幹部になったわけではないのだ。
曰く、2000カラットのダイヤを拳で砕いた。
曰く、ウィスキーを樽ごと飲んでも酔わない。
曰く、チェスで世界チャンピオンに勝った。
曰く、熊を素手で殺したことがある。
曰く、飛んでくる銃弾を素手で掴む。
曰く、人ではなく悪鬼である、と。
男もそのような逸話を知っていたが、まさかそれらが例え一部であっても真実だとは思っていなかっただろう。
しかし、男には関係がなかった。その程度、男を止める理由にはならない。
アサルトライフルを捨て、拳で殴りかかる。
だが、それは弾丸を見切る加納には遅すぎるというものだ。
男の拳は空を切り、加納の蹴りが男の左腕のガードごと5mも飛ばした。
「ぐっ」
数回バウンドしてやっと止まる。
「ああ!」
加納が得心がいったという声音で男に喋りかけた。
「そう言えば、」
その顔が醜悪に歪む。
「アンタの奥さんと娘さん、殺させたんだっけ」
道理で怒っているわけか、がははははは、忘れてたぜ。
加納の声が響き渡る。
「……忘れていた、だと」
男が立ち上がる。口元からは血が垂れている。
「……じゃあ、なぜ殺した!」
加納が待っていたかのように笑いながら答える。
「まあ、ちょっとイラついてねぇ。今思えばすまないとは思っているんだがな?ジジイがポスト用意してくれるっつうから、しゃあなしブタ箱には入る予定だったんだけどよぉ。軽い憂さ晴らしっつうか?」
あの頃は若かったぜ、はははは。加納が笑う。
入る予定だっただと?じゃあ、妻と娘の死には何の意味が……何の意味も……。
「で、丁度いいところにくそみてぇな検事がいたからよぉ。殺させたんだ」
殺させた、貴様が、貴様が俺の妻と娘を。イラついたから。
加納の言葉が頭を掻き乱す。耳障りな声だ。不愉快な面だ。この手で引き裂いてやりたい。
殺さねばならない。私は奴を。
――――そうだ。
「殺す!殺してやる!!」
「そいつはさっきもう聞いた」
男がまた走る。
「お前が殺したんだ!」
「そうだ、俺の機嫌を損ねたから、俺が命令して殺したんだ」
男の拳が唸り加納に迫る。だが、やはり遅い。
「お前が、妻と!娘と!私と!俺を!」
「はあ?てめえは生きてるだろうが」
避けた加納がまた蹴りを放つ。
「違う!」
だが、その蹴りの衝撃を今度は男の左腕が流しきった。
代償に二の腕から砕けた骨と血が噴き出す。
加納が微かな驚きを目に浮かべた。
「麗佳には俺の人生の半分をやった!」
ちぎれかかる左腕を気合いで動かし加納の足を抱え込む。
「知幸には残りの半分を全部やった!!」
右足を踏み出して加納の左足の後ろに掛ける。
「その二人を殺した貴様は……」
「知るかよ、離せ!」
鬱陶しいとばかりに顔をしかめ、加納が不安定なバランスのままながら、されど必殺の右手を後ろに引き絞ると共に、男の右腕が加納を掴んだ。
「……俺の全てを殺しやがった!!!」
そして、男が右足を引くと同時に全力を込めた加納の右手が振り抜かれ、
男の左目を潰し
頬骨を抉り
蝶形骨を割り
側頭骨を砕いた。
だが、強力すぎる加納の拳は男の左眼窩をほとんど貫いたが、それ故に男を止めることはついにかなわなかった。
激痛を、恐怖を、肉体を、本能を凌駕する鋼鉄の意志。
千載一遇の好機に逃げようとする自分自身を意志で押さえ込み、残った右目がただ一つの<可能性>を射抜き、進む。
そして、男が全体重を右手に掛け渾身の頭突きと共に、
「ッ!!おおおおおおおおおおおおお!!!!」
加納を地球に叩き付けた。
「……カハッッァ!!」
加納の肺から空気が抜けていく。
その間にも男の左眼窩から夥しい量の血液が流れ出る。
明らかな致命傷。
生命が零れ出て死が体内に入り込むのを、男は全身で感じた。
もう、動けない。
だが、それは許されない。
復讐を遂げろ、と。
頭蓋骨を砕かれ、外気に触れて崩れ落ちそうな脳の、その一番奥で生首になった妻と娘が目から黒い血を流し真っ黒で大きな口を開けて叫んでいるのだ。
即座に男は二つ目の手榴弾を取りだしピンを歯で引き抜いた。
殴られて緩んでいたのか、歯までもが抜ける。
そして、加納の胴体に両腕を回しがっちりと絶対に離すまいと両手を繋ぐ。
その手に握った手榴弾はピンを抜きレバーを離してからおよそ5秒で爆発し半径15mをキルゾーンに変える。
「……かはっ、てめぇくそ離れやがれ」
「ここで、貴様は死ぬ」
一瞬意識を失っていた加納が動き始めたがもう遅い。
すでにカウントダウンは始まっていた。
5 加納が暴れるが決して手は離さない。
「離せよ、確かにアンタの妻と娘は殺したが、」
「俺が貴様を殺す」
4 加納が俺の顔面を叩き、脳がぐちゃぐちゃに揺れる。
「てめぇだって俺の仲間皆殺しにしただろ!!」
「決して逃がさない」
3 加納が俺の左腕を両腕で掴んだ。
「俺とてめぇはまだ生きてるッ!だから」
「貴様に味方する奴らもすべからく」
2 左腕の肉を銃創から引き裂かれ剥ぎ取られる。
「生きてたらやり直せる、なぁそうだろ!?」
「―――俺は貴様が妻と娘を殺した時に死んだ」
1 ヒビだらけの上腕骨を凄まじい握力で粉砕される。
「そんな話をしてんじゃねぇぇぇぇぇぇぇ」
「妻と娘が呼んでいるぞ」
みちみちと異様な音をたてて加納が俺の左腕を引き千切って立ち上がろうとした瞬間、俺の右手が消滅、口元がにやける。
そして、手榴弾が爆轟して無数の死の欠片を撒き散らした。
右半身に数え切れない破片が食い込み、視界が三度回る。
もう認識は不可能だったが、回る視界の隅に全身から血を撒き散らして飛ぶ加納がいた気がする。
右目の2mほど先に加納が落ちてきた。
呼吸はしているが全身から血を流しており、特に腹部が原型を留めないまでに破壊され、内臓を散乱させている。
確実に致命傷だ。
考えることはもうできなかったが、とても安心した気持ちになった。
まばたきすらできずにいると、ゆっくりと視界が暗くなってくる。
全身の苦痛はすでに消え去っていた。
更に暗くなる。更に。更に更に、闇に。
だが、加納だけが暗くならない。
気付くと、加納の側に何者かが立っている。
それは、どこまでも赤黒く、一切の黒に血を一滴混ぜたような、忌まわしい悪意そのもののような闇だった。
それが加納の顔をゆっくりと覗き込むと、加納は軽く頷いたように見えた。
そして、それが加納の上に手をかざすと、同様の闇が粘度をもって加納を覆っていく。
――行かせてはならない、と思った。
線香花火の最後の灯火のように儚い生命に、ありったけの感情が未だに燃えている。
そいつはまだ死んじゃいない。この目でそいつの死を見なければならない。
そいつをどこに連れていく気だ。
――そいつをどうするつもりだ!!
ズッ。
手首から先のない右腕が動いた。
右足は神経が切れているのか、あるのかさえ分からない。
だが、左足は動いた。
ズッ。
ゆっくりと這う。
全身から血が流れ出ているのが分かる。
左腕は根本から血が溢れ出している。
右半身は半ばミンチだ。
頭蓋からは脳漿が転び出ている。
どうせ死に行く体に意志がしがみついているだけだ。
いくら鞭を打とうと、それこそ死んでも構うものか。
闇がやっと気付いたかのようにこっちを見た、気がした。
自らの右目に思う限りの呪詛と罵詈雑言を込めて睨み付ける。
そいつは俺のものだ。
貴様が死神だろうとなんだろうと、そいつの死は俺が下す。
決して、行かせてなるものか。
ズッ。
加納の体のほとんどが闇に包まれゆっくりと沈下していく。
その前に俺の右手がたどり着いた。
しかし、奴を掴めない。そりゃそうだ。右手がない。
どうにか止めようとするが沈下が止まらない。
くそ!
畜生!
右手がダメなら歯だ!
ああ、けどだめだ。加納が沈下していく。
もう、止められない。
右目と、潰れた左目から涙が溢れてきた。
そして、闇が明らかに嘲笑いながら、溶けるように消えていった。
いつまでそうしていただろうか。
まだ死んでいなかったということはきっと数秒のことだったのだろう。
先ほどと同じような闇が私の顔を覗き込んでいた。
だが、さっきのとは違う。
禍々しさでは勝るとも劣らないが、悪意は感じられない。
それにさっきのが赤黒いとすればどちらかというとこちらのは赤と青が狂ったように混じり合う紫。
それを認識すると、闇のなかに口が浮かんでいるのが分かった。
その口がゆっくりと動いた。
練習するように数回動いてから、頭に響く声ではっきりとこう言った。
(加納敬志は、生きている)
やはり。
鼻の奥がツンと痛くなる。
では、殺さなければならない。生きているなら殺しに行かなくてはならない。何処だろうと、何になろうと、何をしてでも。
しかし、この身はすでに死に行く物である。
それが例えようもなく悲しい。
だが、加納敬志が生きているのならば―――。
目の前の闇を睨む。
お前もさっきのと、同じものだろう。
例えさっきのとは違っていても、同種の存在だろう。
ならば、私を連れていけ!
俺がどうなろうと何に成り果てようと、必ず奴を殺してみせる!
この悲願果たせないならば、代わりにこの目二度と閉じず幾億年かけても貴様を睨み殺してやる!
すると、紫色の闇は口を閉じてにやりと笑った。
私も応じひび割れた口の右端を歪める。
闇が私の上に不定形の手をかざすと、全身を闇が覆っていく。不思議と悪くない気分だった。
視界の全てを覆われた時、また声が聞こえた。老若男女のいずれとも分からない声だった。
(我が名は<ネキア>。人の子よ、貴様の狂気、聞き届けた。貴様の次の死に場は<ゼラス>。人の子よ、可能性の子よ。ふふ、悲願の成就を祈っている。また会おう)
そして、私、阿妻剱仁と加納敬志の物語が輪転を始める。
プロローグ終了