蟹の刺身
求めよ
「――ケイブ・ダウン!」
呪文なのか技名なのか、その言葉を叫ぶ必要があるのかは分からなかったが、その言葉が聞こえた瞬間、爆風に飛ばされ、その上、瓦礫に視界と全身の動きを奪われた。多少潰されているところもあるが、感覚的には致命傷や動かない部分はなさそうであった。
収まらない闘争本能、破壊衝動を瓦礫の重量によって押さえつけられる状態になったが、それでも何とか抜け出そうと暴れる。
そこで、少しだけ左腕が少しだけ動かせるようになったのに気付いた。しかし、それはいつも通り動かせる、という感覚とは何か違う。腕とは何か違う部分を動かしているような……。
動けないせいもあってか、段々と真っ赤に燃え上がったかのような闘争本能が少しだけ収まってきていた。そこで一つ思案してみる。左腕は怪力では全く動かせない。でも、何故か少しだけ動く。怪力とは別の方向に……。
そこで何かが噛み合った。左腕が膨張するような感覚。
少しだけ瓦礫を持ち上がり、どこかの瓦礫が転がったような音がして、――地面がなくなった。
ケントは知る由もないが、魔人が『抜け道』を開いたのである。
穴の中はなだらかに斜めになっていった。
上からはケント共に落ちた瓦礫が追い付こうとしている。
この勢いで瓦礫に当たったら流石に死にそうだった。
ダンゴムシのように体を丸めて衝撃を和らげ、体が壁と垂直になった瞬間、痛みをこらえて走り出した。壁の角度はおよそ、60度。ほとんど落下だ。というか、足の回転が追い付かず、ひたすら加速する。
そして、穴から飛び出した。
瓦礫どころか加速だけで十分死ねそうなスピードをせめて鉛直方向に曲げようと左腕を地面にぶつけ、強引にベクトルを水平方向にねじ曲げる。左腕がグジュリと骨が砕け肉が潰れるような水気のある音を立てるが、何とか落下死を防ぎ、ゴロゴロと地面を転がる。
その直後に背後で大量の瓦礫が落ちてきた。
ひとまず、自分が生きていることを確認して一安心したのち、左腕を確認する。
膨張したような気がしたが、左肩から先についているのは普通に二の腕を突き破って開放骨折した左腕だった。
しかしそれもあまり痛まず、みるみるうちに治っていく。赤い肉が絡まる中に白を輝かせた骨はゆっくりと体内に戻り、折れた部分は次第にどこが折れたのかわからないほど綺麗に結合した。筋肉も神経も血管も傷口から伸びて、勝手に繋がっていき、最後には皮膚も閉じた。
それは治るというよりも、ただ変形しただけのようだった。
形が変わったから元の形に戻した。
ことここに至ってケントは痛感した。
左腕は再生したわけではない、というシアンの説明。
神の肉を喰らったということの意味。
自分の中に何か別の物が混ざったという不安感。
自分の感情が別の何かに突き動かされているという事実。
ケントは、自分が激情家ではないと知っている。
事前に決めたことはやり通すし躊躇はしないが、出来るだけ穏便に済ませることを心掛けている。
盗賊だからといって、命乞いにも耳を貸さず問答無用で殺害なんてしないし、自分に命の危機が迫ったからといえども特攻なんてしない。
ここに来てからのことだ。薄々気付いていたが、軽いストレスがすぐさま逸脱した激情を呼び起こし、常軌を逸した行動に追いやる。
それは、職業柄日本でも何度か見たことがある異常。
泣いた子をしつけと称して焼いた親。
合格したことを喜ぶ学生を殴った浪人生。
騒がしいという理由で知らない小学生を打った老人。
商品に不具合があったと言って店員を突いた主婦。
テレビゲームを消されたからと母を刺した青年。
この胸の裡に巣食ったのは、――――狂気だ。
私が喰ったのは、決して呑まれてはいけない狂気。
狂気の神、ネキア。
神の肉を喰って、私は何を喰われた。
私は、正気を喰われたのか。
目眩がした。
しかし、それはすぐに収まった。
何故なら、復讐に身を落とした時点で私はすでに狂気に魅入られていた。
誰を巻き込んでも何を犠牲にしても、復讐することを自分に誓った。
ならば、そのための狂気は私自身が許したものだ。
だから、その狂気は正当化されている。
その狂気を正気と保障しよう。
ただ、それが復讐に向けられる限り、いかなる狂気も私の正気となる。
そこに思い至ったとき、目の前に紫色の闇が立っていることに気付いた。
立って、広がり、覆い抱こうとしていることに気付いた。
闇が、ネキアが、囁く。
暖かい声で、我が子を抱き締め、その耳元で祝福を与えるように。
(我が裁き、我が救い、我が狂わす)
(人の子よ、貴様は資格を得た。狂信者の資格、我が加護を与えるに足る狂気を)
(求めるか、狂気の加護を、最果ての祈りを)
(貴様は何を求める)
――――私はとうに答えを出した。
――――何に成り果てようとも必ず復讐を果たす。
(ならば、与えよう。我が貴様の狂気を保障しよう)
(我が名はネキア、狂神ネキア、狂気の繰り手にして正気の信奉者、心の果てに近き者)
蕩けるような闇が私の中に入ってくる。
それはきっと転移の時からずっと私の中に入っていたもので、今それがようやく動き始めたのだろう。
馴染んでも同化はしていなかったネキアの肉が全身に溶け出していく。明確に別れていたネキアとケントが境界線を失う。
同化はほぼ一方的に行われた。ネキアからケントへ、であり、元々ネキアの肉で構成されていた部分はそのままだった。最終的に元々の肉体の約5分の2がネキアの肉に取って代わられた。
おそらくこれがゼラスに干渉できる限界なのだろう。
その後、ひどい頭痛に襲われた。
脳みその中を直接素手で弄られるような。
そして、それが終わると、この体に備わった能力が直感的に理解できた。オーブによる摂取より直接的で感覚的な記憶である。
肉体の変化はこれで終わりのようだ。
実際の使い方は実戦で試してみることにして、上を目指すことにした。
ここが何階かは分からないが、恐らくそう簡単には負けないと思える程の全能感を覚えた。
ただ、問題は地図がないことだ。周りにジョシュアが見えない。
ジョシュアに着いていくつもりだったので帰りのことは考えていなかった。
ケントはため息を抑えて進むことにした。
踏み込む。至近距離に迫る魚人の頭を刀剣状にした右手で引き裂く。死に体となったその魚人を盾にして槌を振りかざした次の一体に近付き、そいつによって振るわれた槌で盾にした魚人の頭が弾けるのを尻目に、限界まで硬質化した左腕で槌を振るった巨体の魚人、その鎧をつけた土手っ腹に大穴を開ける。
刀剣状への変形はクリア。硬質化も問題ない。
次は最後の項目。
一歩で間合いをゼロにして左腕で掌底を打ち込む。
同時に左腕前腕の内部に形成した杭状の骨を、手首から杭の後端に張った筋肉に力を込め、かつ、後端から肘に張った筋肉を固定する。手首側の筋肉に十分に力が溜まるのを感じ、肘の筋肉を切断、押さえ付けられた力が解放されて手首付近の掌から杭を撃ち出す。
体内製パイルバンカーである。
甲殻ごと貫かれて、最後に残った巨大な饅頭のような蟹が絶命する。
三体の魔族が魔石になるのを見届けてゆっくりと杭を体内に戻していく。
よし、上手くいった。
複雑な変形と伸縮もクリア。
変形、硬質化、伸縮。
戦闘で使えるのはこれくらいか。
「ふむ、贈り物はなかなかに活用できているようじゃな」
後ろを見るとシアンが立っていた。
おや、真っ黒なのは同じだが、服装が変わっている。
起きたのか。おはよう。
「うむ、おはようじゃ」
ダンジョンに着いたシアンとケントは共にダンジョンに入ろうとしたが、「未登録の方はセカンダリ以上の冒険者が同伴しない限りご入場できません」とシアンは入口の衛兵に止められたのである。仕方なくシアンはケントの影の中に隠れて侵入することになった。
ダンジョン内に入ると、シアンはモンスターを一目見るなり「可愛くない」と言ってケントを放置して寝始めた。
そして、現在に至る。
「どれどれ、ふむ。肉体も綺麗に繋がっておるな。マニュアルもちゃんと入ってあるし、さすが我じゃ。ん?あれ……?」
シアンが私の頭の中を覗いている気配がする。
ほう、考えを読むだけじゃなくて記憶も見れるのか。
じゃあ逆にシアンの考えも覗けるのかな、と疑問に思いシアンに集中し――――
「ぬ、バカもの!信じられん!乙女の内心を暴こうとするなどプライバシーの侵害じゃぞ!」
――――甲高い声で怒られた。
「ほんともう、マジありえん。デリカシーなさすぎ!変態!」
シアンが可愛らしく顔をしかめ、ツンとそっぽを向く。
……そういうものかな。うん、そうだな。
というか、乙女だったんだな。
「はあ?見て分かるじゃろ?」
確かに見た目は女の子だが、そういう話じゃなくて……。
「ふん、ネキアが我を作るにあたり参考にしたのはお主の記憶じゃ。そして、その記憶から最もお主と円滑にコミュニケーションが取れそうな人格を与えられておる。つまり、お主は我のような娘が好きでたまらんということじゃ、変態」
くっ……詰り方が妻と似ている。
こういう時は話を変えよう。
あー、その服可愛いじゃないか。
「ふん。見え透いた世辞じゃな」
それでもシアンは少しだけ機嫌を直してくれたようだった。
そして、シアンはそのまま影の中にまた消えていった。
シアンの考えを読もうとするのはもうやめるよ。
(……もう少し起きているので聞きたいことがあったら聞くがよい)
うん、ありがとう。
前方に敵影発見。後方にも二つ。
ネキアの左目は脳構造を最適化されたことによって、機能が一つ増えたようだった。
背後から近づく魚人の槍を振り返りもせずにステップで避け、さっき奪った槌で殴り飛ばす。
ネキアの左目は今や全方向からの魔力を感光して網膜に映すことが出来た。全眼とでも呼ぼうか。
これによって、ある程度までは正面で見ずとも対処できる。もっとも優れた動体視力を発揮できるのは実際に目で見える範囲のみであるらしく、見るにこしたことはない。
これにより、奇襲も背後からの攻撃にも反応することができて、大いに助かった。
殴り飛ばされた魚人と入れ替わりに突っ込んできた槌をもった巨魚人と自分の槌を打ち付け合う。この槌はどうやら打ち付け合うようには出来ていなかったらしく、衝撃と共に砕け散った。その隙に左腕を剣に変えて巨魚人の胴体を袈裟斬りに両断する。
最後に前方に現れた魔物、大蟹を魚人の槍を拾って、思いっきり突き立てる。が、大蟹の甲殻は異常に硬く、貫けない。
蟹がやたらと大きなハサミを向けるのを後ろに下がってかわし、踏み込みながらパイルバンカーを頭に撃ち込んで戦いを終わらせる。
これで終わりか。
全眼のおかげで奇襲は受けないし、攻撃も止まったように見えるので軽く避けれる。その上、身体能力もネキア肉が同化したことによって数倍の性能に底上げされている。私のダンジョン行はますます順調だった。
魚人と巨魚人の魔石を拾い、大蟹の消滅を待つが、なかなか消えない。
消えるどころか消滅が完全に止まった。ということは、この蟹は冒険者を食って消えなくなった『生命』ある蟹ということか。
ぎゅるるる。
そう言えば、今日はアーシェにもらった干し肉しか食べていない。
目の前を見ると、身の詰まってそうな大きな蟹が落ちている。
蟹か。新鮮な蟹で量も多い。
ふむ、と少し思案。
リフィユが『迷宮食い』に出てくる魔物料理はなかなか美味しいと言っていた。しかし、そこにはダンジョンで取れた物は使っていないとも言っていた。けどそれは別にダンジョン産の魔物が不味いからという理由ではなく、冒険者を食った魔物を食えば実質的には共食いっぽくなるから精神衛生上ダンジョン産は出さない、といったニュアンスだった。
つまり、味や栄養を問題にしたわけではない。
ほら、食われた冒険者だってこのまま放置されるより食べられた方が浮かばれるんじゃないかな。自然の摂理だし。
とすれば、うん、完全に問題ないな。
(……問題だらけじゃろう)
シアンの声は聞こえないことにした。
食べ方についてはあまり選択肢がない。火がないので生だ。
まあ、私ともなると肉は生で食うことの方が多い。生肉大好き。それに、ネキアと同化したこの体がそう簡単に食中毒になるとは思えない。
(その点は安心してよいぞ。毒はおよそ効かぬし、致死性の毒も腹を下す程度で済むじゃろう。動きは鈍るかもしれんがの)
もはや、止まる理由がなくなった。
(……共食い!)
聞かなかったことにした。
大蟹をひっくり返し、右手の人差し指と中指を鋭利なナイフ状に変えて、ハサミの根本に切れ込みを入れて両手で力任せに引っ張る。
バキっと音がしてハサミが根元から外れた。甲殻も関節部分の強度はそこまででもないようだ。
ハサミは人間の胴体くらい容易く千切ってしまいそうな大きさだった。そんな出力があるならこの中身もはち切れそうなくらいに詰まっているのだろう。
このまま指で掻き出しても十分に食べられそうだが、やはり食べにくい。
なので、殻を握り壊そうとしたが尋常じゃなく硬くて壊れなかった。多少面倒だったがパイルバンカーの先を平らにし力を弱めて叩くと、若干消えていた部分から綺麗に割れた。
ふふふ、奥歯の横から唾液が溢れてきた。
パカリと開いたハサミの内側は溢れんばかりに詰まった赤茶色の筋肉。火を通していないから身は真っ赤とはいかない。ゼラスの蟹が熱で赤くなるのかは知らないが。
それを右手で鷲掴みにして持ち上げて口に運ぶ。
ゼリーのようにとろけた舌触りながらも一つ一つの筋繊維が弾ける。この大きさだからこそ分かる筋繊維のコシだ。
味も申し分ない。蟹独特の深みのある旨味。とはいえ、海水の中にいないからか、少し大味で土のにおいがするのは刺身としては減点だった。
刺身よりは土瓶蒸しや鍋で食べたい味だ。これなら焼いてすき焼き風にするのもいいかもしれない。
冒険者を食ってこんな味わいが出せるとは、魔物も天晴れだな。
もしゃもしゃと食い続ける。
流石に量が多い。
手を伸ばすとシアンと手が重なった。
「あれ、出てきたのか」
シアンが私のように蟹を鷲掴みにしていた。
「我も食ってみたいと思ってな」
そうか、と頷きしゃがみこんで黙々と蟹を食べる。
やっぱり美味いな、これ。
「お主、これ割って」
片方のハサミを食べ終わり、シアンがもう片方を指差す。
「ん、わかった」
バキッとハサミを折ってパイルで割って渡す。
受け取ったシアンが無言で食べる。
「……美味しい?」
「うむ、美味ぞ。ご馳走さまじゃ」
満足げにシアンが影に入っていった。
腹も膨れたし、なんとなく私も満足した。
この7年で、ここまで穏やかな気分になれたのは初めてのことかもしれない。それが、ダンジョンの中で更にその何処とも知れないというのは少し愉快だ。
さあ、先に進もうか。
ケントさんの料理は生か、茹でるか、焼くかだけ。そのわりには味にうるさい。