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眠るための方法

 その年配の女性は、まっすぐに背筋を伸ばし、じつに美しい姿勢でナイフとフォークを使う。

 諸田信二は、思わず見とれていた。

 皿に残ったソースをパンでぬぐい、口へと運ぶ所作さえ優雅に映る。品格というものは、こうした日常の、ほんとうになんでもないような仕草にこそ現れるものなのだなと感心する。

 まさに「老婦人」とでも呼ぶのがぴったりのその女性は、深夜営業のレストランで閉店間際のラストオーダーも過ぎた時刻にたったひとりで食事をしていることだけが、ふさわしくないように思える。店内には、ほかにもう一組、若い男女の客がいるだけだ。

 都心から三十分ほどの私鉄の駅の商店街のはずれにある、テーブルも五卓しかない小さな洋食店だ。オーナーシェフと言えば聞こえはいいが、週末を除けば、この時間にはフロアーを担当している妻は帰してしまって、給仕から会計まで、諸田がひとりでこなさなければならない。


「失礼いたします。デザートをお持ちしてもよろしいですか」

 食事を終え、ひと息ついたタイミングを見計らって、老婦人に声をかける。

「ええ、お願いします。お料理、とてもおいしかった。いいお店ね、すっかり気に入ったわ」

「ありがとうございます。お口に合ってなによりです。お飲み物は、コーヒーと紅茶がございますが、どちらにいたしましょう」

「コーヒーもあなたが淹れてくださるのかしら?」

「はい。エスプレッソは機械ですけれど、ブレンドコーヒーならば、わたしがドリップいたします」

「じゃあ、ブレンドコーヒーをいただくわ。あれだけおいしいお料理を作るのだもの、きっとコーヒーもおいしいんじゃないかしら」

「ええ、おいしいんですよ、うちのコーヒー。とっても」

 諸田は思わず、笑顔になった。

 彼女のテーブルのあいた皿を片付け、キッチンに戻る途中、諸田は、若いカップルの客からも呼び止められた。

「すいません、こっちもコーヒーをもらおうかな。ブレンドを、ふたつ追加で」

 ふたりはビーフカツとスパニッシュオムレツを注文して、それをつまみ代わりにしてビールを飲んでいたのだが、いまの諸田たちの話を聞いて、自分たちも最後にコーヒーを飲みたくなったのだろう。

「はい、かしこまりました」

 もうラストオーダーは過ぎていたが、諸田はふりかえると、愛想よく返事をした。

 ちょうどそのとき、若い女の携帯電話が鳴った。女は慌てて着信を確かめると、小声で電話を受けながら、店の外へと出ていった。どうやら、公共の場所でのマナーぐらいは、きちんとわきまえているようだ。

 正直なところ、諸田はたったいままで、この若い客を老婦人と比べてしまい、あまりよくない印象を抱いていた。それが、こんなほんのちょっとしたことをきっかけにして、なんだか、急に好ましく思えるようになっていた。

 たかがコーヒーの追加注文ぐらいで客を見る目がちがってくるとは、われながら現金なものだと、諸田は内心、苦笑する。


 コーヒードリッパーにペーパーフィルターをセットして、三杯分のコーヒー豆を挽いた粉を入れる。ていねいに、まわすようにして湯を注ぐと、コーヒーの粉が泡とともに盛り上がっていき、店内にコーヒーの甘い香りが充満した。

 コースメニューのデザートと、三人分のコーヒーをトレイに載せると、諸田は客席へと向かった。しかし、店内には老婦人しかいなかった。

 あの若い男は、トイレにでも行っているのだろうか。諸田は老婦人のテーブルと、主のいないカップルのテーブルに、コーヒーカップを並べた。ついでに、テーブルの上の皿を片付けていると、老婦人が諸田に声をかけてきた。

「そこの席、お連れの女性がなかなか戻ってこないみたいで、男の方も、様子を見に出て行っちゃったわよ」

 なんだか嫌な展開だな。

 携帯電話が普及したおかげで、飲食店での食い逃げは、格段にやりやすくなったことだろう。携帯なんてなかった時代なら、食事の途中で店から出なければならない理由なんて、めったにありはしなかったのだから。勘定もせず店を出ようとすれば、必ず呼び止められたはずだ。しかし、いまや、携帯が鳴れば話しをするために店の外に出ていくなんてことは、だれでも平気でする。むしろ、こんな小さな店ならば、かえってマナーがいい客だと思われるほどだ。実際、諸田だってたったいまそう思ったばかりだ。


 諸田は扉をすこしだけ開けて店の外をのぞいてみた。通りに人影はなかった。この時間には、めったに車も通らない。少し離れた交差点では信号が赤色の点滅を続けている。

 遠くのほうから、短く鳴らされた列車の警笛の余韻と、単調に響く踏み切りの音が風に乗ってかすかに聴こえてきた。

 扉を閉めて店内に戻ると、これはやられたかな、と諸田は観念していた。

「ああ、おいしい。もったいないわね、こんなにおいいしいコーヒーを飲まないなんて」

 老婦人はデザートのムースを食べ終えると、ほんとうにおいしそうに、コーヒーを飲み干した。

「お気に召していただけてなによりです。あの、失礼かもしれませんが、よろしかったら、もう一杯召し上がっていただけませんか。こちらのコーヒー、このままでは冷めてしまいますので、もしもおいやでなければ、ですが。もちろん、お代はいただきませんし、こちらのお客さまの分は、戻られたら新しく淹れ直しますから」

「あら、そう。捨ててしまうのも、もったいないわね。じゃあ、せっかくだから、いただこうかしら」

 諸田は、一杯を老婦人のテーブルに運び直し、もう一杯は自分で飲むことにした。

 コーヒーはもうそれほど熱くはなかったが、まだ風味は十分に味わえる。かえって飲みやすいぐらいの温度だ。


「えらいものだわ」

 キッチンの入り口に立ったまま、店の扉をぼんやり眺めながらコーヒーを飲んでいる諸田に、老婦人が話し掛けてきた。

「え?」

 諸田は何を言われたのか分からず、思わず聞き返していた。

「そんなふうに、戻ってくることを黙って待っていられるなんて、えらいと思うわ」

「いやいや、そんな、たいしたことじゃありませんよ。待つしかないですから。もしも逃げるつもりなら、もう、とっくに遠くまで行ってるでしょうし、それに、本当にただ電話をするために出て行っただけで、ちょうど警官でも呼んだところに戻ってきたりしたら、それこそバツが悪いじゃないですか」

 ただ、それにしても、なにも姿が見えなくなるほど遠くまで行くこともないのに、と思ってはいたが。諸田は信じるというよりも、願っていた。どうか、きちんと勘定を払いに戻ってきてくださいと。

「まったく。そのとおりね」

 老婦人は、両手でコーヒーカップを包むようにして持つと、遠くを眺めるように店の扉へ視線を向けた。まるで、扉の向こうにつづいている人通りの絶えた深夜の通りを見つめているみたいに。

「それにしても、困ったわね」

「ええ、困りました」

 閉店時間の深夜零時までは、あと十五分ほど。

「なんだか、このままでは気になってしまって、家に帰っても、すぐには寝つけそうにもないわ。ねえ、わたしも、あのおふたりが戻ってくるのを待ってみてもいいかしら」

「あ、ええ、もちろんかまいませんよ。でも、閉店時間までお待ちになって、それでも戻らなければ、残念ですが」

 諸田は、わざわざ警察を呼ぶつもりはなかった。今晩は店を閉めて、明日、仕込みの前にでも近所の交番に寄ってくれば、それで十分だろう。たかが食い逃げぐらいで、すぐに捜査網が敷かれるわけでもないのだ。

 どうせ捕まるわけがないとは思ったけれど、それでも、通報だけはしておいた方がいいだろう。

「そうね。じゃあ、せっかくだから、賭けてみません?」

「え、賭けるって、どっちにですか」

 老婦人の表情は、さっきまでより、とても若々しく見えた。まるで、いたずらをしかけて、からかってでもいるような目で諸田のことをじっと見ていた。

 若い頃は、さぞかし魅力的だったにちがいない。そう思うと、諸田はついつい視線が泳いでしまった。老婦人はそんな諸田にはおかまいなく、話しをつづけた。

「あなたは、すこしぐらいは、ふたりがこのまま、戻ってこないかもしれないと、疑っているわね」

「ええ。まあ……、半分ぐらいは」

「じゃあ、一度は疑ったのに、ふたりが戻ってきてあなたの勝ちというのでは、納得いかないわ。ふたりが戻ったら、お勘定は払ってもらえるけど、あなたは負けっていうことでいいかしら?」

「ええ、そうですね。それで賭けにも勝ったって言うんじゃ、いいことづくめですものね」

「そうしたら、もしふたりが戻って来たら、あの人たちにも、このおいしい淹れたてのコーヒーを、サービスしてあげてちょうだい」

「わかりました、それぐらいで罪滅ぼしになるのなら」

「ふたりが戻って来なかったら、わたしが負け。あのひとたちの分のお勘定を払わせていただくわ」

 老婦人の提案に、諸田は驚いた。

「でも、それじゃあ、あまりにも申し訳ありません。そこまでしていただくわけには」

 そうすれば、賭けに勝っても負けても、店に損害が出ることはなくなるが、彼女にそこまでしてもらう理由がない。

「あら、まだ分からないわよ。だってわたしは、戻ってくるほうに賭けたんだもの。それに、何万円分も料理を注文しているってわけじゃないでしょ。こんな年寄りが、ちょっとしたスリルを味わうには、手ごろな金額なんじゃないかしら」

 たしかに、彼女の言うとおり、金額にしては大した額ではない。ふたり分合わせても、コースで注文した彼女ひとり分の料金と大差はなかった。

「でも、いいんですか。本当に」

「あら、あなた、やっぱりふたりが戻って来ないと疑っているのね。いいわ。ねえ、その理由を教えてさしあげましょうか」

 彼女はまっすぐに、諸田を見ている。

「さっき、あなたがお店の外を見に行ったとき、暗い通りには、だれもいなかった」

「ええ、そうです。見渡すかぎり、猫の子一匹」

「そのせいだわ」

 自信に満ちた表情で断言する。だけど、諸田には、それがどう関係があるのか、よくわからなかった。

 ただ、年齢を重ねた女性から、強い意志をもってなにかを言い切られたりすると、たいていの男はそれだけでなんとなく抗えないものを感じてしまうものだ。近頃、話題になっている女性占い師が、どう聞いたところで、ただ単に、無責任で感情的なことを言い散らかしているだけなのに、テレビでは「ズバっとものを言う」などともてはやされてしまうのも、きっとそのせいなのだろう。

 諸田も、老婦人がこれからさらに言い切るであろう言葉を、耳にする前から、もう受け入れるつもりになっていた。

「そんな秋の夜の空気が、あなたの心のなかに入り込んだせいよ……なんていうと、ちょっとおかしいと思うかしら。でも、あんまり寂しい風景を見てしまったものだから、それが、あなたの考えにも影響したんだわ。なんだか、ひとりぼっちで置き去りにされてしまったような、心細い気分になったんじゃないかしら。その印象が、あのふたりに重なってしまっているのよ、きっと」

 なるほど、そういうこともあるかもしれない。

「それでは、あなたはどうして、ふたりが戻ってくるとお考えなんですか」

 老婦人は意外そうに、なにをいまさらという顔をしたが、小さくうなずくと、さんざん繰り返した説明を、もういちど始めからするみたいに話し出した。

「あら、だって、あのおふたり、とっても楽しそうにお食事をしていたんだもの。それにとてもおいしそうに召し上がっていたわ。お金が無くて逃げるつもりだったら、あんなに幸せそうにお食事はできないんじゃないかしら」

 そういえば、ふたりのテーブルの皿は、きれいに空になっていた。

 諸田は思った。このひとはきっと、世の中のいろいろなところに隠されている、素敵なものを見つけ出すことが、とても上手なのだ。それは、純粋な心を失なっていないからというよりも、たぶん、歳を重ねていくなかで、不純なものを見分ける方法を身に着けるようになったからなのではないだろうか。

 まるで少女みたいに微笑む彼女を見ていると、諸田は、自分の気持ちのなかにも、やさしいものが生まれていることに気がついた。それは、さっき夜の空気が入り込んでしまったみたいに、今度は、彼女のまわりに漂っているなにか温かくやさしいものが、心のなかに流れ込んできたのかもしれない。

「あなたはきっと、素敵なものを見つけ出すという才能がおありなんですね。それに、とっても、おやさしい」

 諸田は感じたことを、そのまま口に出していた。

「まあ、こんなおばあさんをおだてても、どうにもなりませんよ。でもね、素敵なものについては、若い頃から、いっつも探してきたから、少しだけ自信はあるのよ」

 そう言うと、彼女は得意そうに微笑んだ。

「それじゃあ、これまでにも、さぞかし素敵なものを、たくさん見つけてこられたんじゃないですか」

「ところが、それがけっこう、こじつけばっかりなの。『ものすごくきれいな光』とか『気絶しそうな砂糖菓子』なんて、名前にばっかり凝ってみて、お友だちにもあきれられたりして。でも、そのお友だちの声だけは、本当に、とっても素敵な声をしていたわ。あの子の声が、わたしの一生の中で、いちばん素敵なものだったのかもしれないわ」

「仲のいいお友だちだったんですね」

 話している途中から、老婦人の表情はなぜか曇っていった。

「そう、だったの。その子とも、もうずいぶん会っていないわ。もう何十年でしょう。そうなってしまったのも、わたしが信じて待ってあげることができなかったからなの。だから、わたしはそのことに気がついてからずっと、もしも、だれかを待たなければならなかったり、信じてあげなきゃいけないときには、わたしが待ったり信じたりしてあげられるうちは、必ずそうしようって、決めているのよ、……なんてね」

 最後は冗談めかして笑っていたが、彼女の瞳は、すこし潤んでいるみたいに見えた。


 そのとき、店の扉が開いた。

 老婦人は諸田に向かって、「ほらね」と、声を出さず、口だけを動かす。

 諸田は、コーヒーを淹れるための湯を沸かさなければと、キッチンへ戻っていった。

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