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素敵な声

 素敵な声が聞こえてくるのだと、ヨーコは言う。

 そのことを、どうしても会って話したいと言うから、その日、吉野智子は会社帰りに、まっすぐ待ち合わせをしているヨーコの家の近くのガストへ向かった。約束の時間にすこし遅れて智子が着くと、ヨーコはサラダバーで山盛りにした野菜と格闘している真っ最中だった。

「よ、智ちん、すっかりOLだね」

 智子に気づくと、スーツ姿が珍しいのか、ヨーコはわざとらしく、にやにやとしながら、頭のてっぺんからつま先まで何度も往復するようにして智子の全身を眺めている。

「なに言ってんのよ。そんなこと言って、ひとのことOLだと思って、バカにして。お茶汲みでもさせる気なんでしょ」

「ううん、全然、そんなことないよ。じゃさ、申し訳ないけど、ドリンクバーおごって。お茶汲んできてあげるからさ」 

「いいけど。仕事まだ決まんないの? まあ、ヨーコはフリーターも似合ってるけどね」

「最近はフリーターっていうより、ニートだよ。自慢じゃないけど、国民年金だって、払ってないよ」

「確かに。自慢じゃないね」


 ヨーコはもともと、昔からすこし変わっている。服飾の仕事がしたいのだと言って、専門学校を卒業したのに就職もせず、ときどき、知り合いだというデザイナーの手伝いで型紙を切ったり、ミシンをかけたりしているらしい。ただ、定期的にそういった仕事があるわけでもないようで、ほかにもいろいろとアルバイトもしているみたいだ。

 そのうえ、ときどき今日みたいに訳のわからないことを言い出すので、智子は正直、つきあいきれないと思うときもあったけど、それでもやっぱり、こうして連絡があればついつい会いに来てしまう。

 今度は「素敵な声」だと言っているけど、この前の「ものすごくきれいな光」のときには携帯電話のフラッシュライトの設定で、着信ごとに光る色を何通りにも変えられることを発見しただけだったし、「気絶しそうな砂糖菓子」を見つけたといって、それはどんなものかと聞いてみると、茶色い氷砂糖のようなコーヒーシュガーを置いている喫茶店を見つけて、飲み物さえ頼めば、それを、ただでいくらでもかじることができるのだと力説していた。

 要するに、いつもあまり大したことじゃない。

 しかし、ヨーコはいつも、そんなものばかりを探し出して、幻想的な大発見をしたと言っては、智子のことを呼び出していた。でも、それはたぶん「なんとなく会いたい」というのが照れくさいだけなんだろうということが、このところ、智子にもようやく分かってきた。なので、最近ではヨーコの言う大発見の内容自体は、もうあまり追求しないようになっていた。


 もし、ヨーコと会社や学校で出会っていたとしたら、智子は絶対に友だちにはならなかっただろう。むしろ、あまり関わりたくないと、避けるようなタイプだ。そんなヨーコと親しくしているのも、それこそ、ヨーコが会社とも学校とも無関係なところで知り合った友人だからかもしれない。


 ヨーコは、智子がほかの知り合いには、けっして明かしてこなかった秘密を共有する数少ない、いや、ほぼ唯一の存在だった。

 ふたりは三年前、東京ビッグサイトで行なわれていたゲームやアニメのキャラクター商品のイベント会場で偶然に出会った。ふたりは、あるTVゲームの二大ヒロインの衣装を着て、それぞれの役になりきっていた、つまり、コスプレをしていたのがきっかけだ。

 それは、ちょうど対になる設定のキャラクターだったのだけど、ふたりとも、ひとりで参加していたのだ。

 たまたま会場で出会ったふたりは、ほかの来場者たちから、その場でカメラ撮影のモデルになってほしいと頼まれた。そんな求めに応じて、一緒に並んでポーズを取ったりしているうちに、いつのまにか意気投合するようになったのだ。その上、じつは同じ歳なのだと分かると、たちまち仲よくなってしまった。

 智子はゲームやアニメ好きが昂じてコスプレまでしていることを、会社のひとにはもちろん、高校、短大のころからの友人にも秘密にしている。別にオタクが悪いとか、自分の趣味が恥ずかしいと思っているわけではないけれど、自分の周囲の人たちは、きっと理解してくれそうにもなかったから。しかも、まちがった知識で興味本位な対応をされるはめに陥るか、あるいはイチから説明しなければならなくなるのかと考えると、もうそれだけで、あえて打ち明けてみようという気にはならなくなってしまっていた。

 ふだんの生活の中では、あたりさわりのない一般的な趣味の範囲で、ドラマや映画や、流行のバンドを話題にしていれば十分だ。

 それに、コスプレだって、就職してからは、もう半年以上もご無沙汰している。学生のころより、お金は自由になるようになったけど、なにしろ時間がなくなった。最近では、出来合いのコスチュームも売られているので、そういったものを利用すれば、土日のイベントに参加することはできるけど、智子は、やっぱり自作しなければ意味がないと考えていた。

 会場でキャラクターを演じることも楽しいし、そうして注目されるのもうれしいけれど、智子もじつは、準備をして、衣装を作ることの方が好きだった。完成するのは、いつもたいていぎりぎりだったけど、それをたたんでバッグに詰め込んで、出かける準備をしているときまでで、智子の楽しみの七割ぐらいは終わったようなものだ。会場でキャラを演じるのは、もちろん最大の盛り上がりではあるけど、それは言わば、締めくくりだ。


 初めてヨーコと会ったとき、彼女のコスチュームは完璧だった。ほんとうにゲームの中からそのまま抜け出してきてしまったように、正面だけでなく、横から見ても後ろから見ても寸分のイメージの狂いもなく、どんなポーズを取っても自然だった。それは、まだ発表されたばかりの注目のゲームのキャラクターで、数週間前、ゲーム雑誌に基本的な設定画が掲載されたばかりの最新作だ。まだ、これからも仕様が変更するかもしれないような発売前のゲームの設定の衣装なんて、どこにも売っていないことは知っていたし、それを、彼女がいったいどうやって手に入れたのか、智子はほんとうに不思議に思ったものだ。

 その時、初めて自作した智子も同じゲームに出てくるキャラクターを選んでいたのだけれど、それはいかにも手作りといった、既製服のブラウスやスカートにリボンテープやレースで飾っただけの衣装で、出来から言えば雲泥の差だった。智子は、そのキャラクター画を見たときに、手軽にできそうだと思ってたまたま選んだだけだ。

 しかも、さすがに超最新作のキャラクターだっただけに、会場ではそのゲームのコスプレをしているひとは、ほかにはいなかった。おまけに、ヨーコの衣装の出来がよかった分、隣に並んだ智子の衣装も、実際よりも数段、見栄えよく映っていたようだ。

 当時はお互いに高校生だったけれど、そのころから、ヨーコは服をつくるのが大好きで得意だった。

 そんなヨーコは、いまも夢を追いかけて、就職もせず年金すら払わずに、好きな服作りをつづけている。一方で、智子は、とくに何がやりたいということもなく、ふつうに会社勤めをして、毎日、満員電車に揺られるようになっていた。かつては同じ場所で、いつでもすぐ隣に立っていたはずのふたりなのに、ずいぶんと、ちがう景色を見るようになってしまったみたいだ。

 それでも、こうして会っていると、智子も、一緒になって夜通し衣装作りをしていたころみたいな気持ちになってくる。それは、もしかするとヨーコにとっても同じなのかもしれなかった。

「最近は、智ちんともあんまり会えないしさ。イベントも行けなくてつまんないよね」

 智子が席につくと、ヨーコはいつも、妙にしみじみと話し出すのだ。

「そうだねえ。でも、新入社員はこき使われるんだよ。残業は大したことないけど、やっぱり学生のころみたいに徹夜とかもできないしさ。でも、ヨーコは時間あるんだからさ、遠慮しないで参加すればいいじゃない」

「まあね。遠慮してるわけじゃないけどさ。やっぱり智ちんと一緒じゃないと、コスも、なんか気合入んなくてさ。まっ、それはこっちの都合だけどね」

 そう言われると、智子はなんとなくむずがゆく、うれしいようなうっとおしいような気分になる。別にそういう趣味はないのだけれど、もしもヨーコが男だったら、もしかすると付き合っていたのかもしれないなと、智子は以前から思っていた。

「でも、ヨーコは自分のやりたいことがあって、それを実現しようとしてがんばってるんだから羨ましいよ。わたしなんて……」

 わたしなんて、なんなんだろう。会社で一日中パソコンでデータを入力して、伝票のはんこを確認して、お茶当番のお菓子を買いに行って、お昼にはできるだけいろんなグループの人と一緒に、仲間に入れてもらおうとして。

 わたしなんて、と言った、次の言葉が出てこない。わたしがヨーコに話したいのはそんなことなんかじゃない。

「わたしなんて、根っからのコスプレイヤーですー、腐女子ですーって、会社でもカミングアウトしちゃいなよ」

 ヨーコは、ふざけて冷やかすように言う。その声が大きくて、周りの席の客まで、こちらをちらちらと見るので智子は恥ずかしくてたまらなかった。

 たしかに腐れ女子とはいったいどんなものなのか、一見の価値ぐらいはありそうだ。

 もしかすると、いかにもOL然としたこのスーツ姿だって、アダルトゲームのコスプレぐらいには見えるかもしれない。でも残念なことに、そういうキャラはたいてい巨乳ってことになってるので、そもそも智子には無理があったけど。

 それにしても、こんなところで、大声でそんなこと言うな!

「ちょっと、やめてよ。冗談。そんなの無理無理、ぜったい」

 ああ、でもやっぱりヨーコといると、気が楽。無理に元気でハツラツとした女の子を演じることもない。たしかに元気は余ってるほうではあるけど、わたしだってそんなに、いつも爽やかなばかりじゃないのだ。けっこうウジウジしたり、意地悪だったりもする。

 なにより、ヨーコとは好きなアニメやゲームの話だって、気にせずにできる。

 智子がヨーコと一緒にいたいと思うのは、無理に自分を演じたりしなくてもいいからだ。ヨーコには本当の自分を見せられるし、智子のことだってちゃんと分かってくれている。

「それでね、この前発見しちゃったんだ。これ聞いたら、智ちんも感動もんだよ」

「えー、マジすか? それが素敵な声ってやつ?」

「そうそう、もう、チョー素敵。もうじき来るよ、多分。ほら、来た! これこれ!」

 小声ながら、ヨーコの言葉に力がこもる。ヨーコはなぜか、テーブルに伏せるようにしながら、人差し指を立てて天井を指差している。

 店内のBGMが、騒々しい音楽に変わると、「ガスト秋の限定HOTメニューキャンペーン」を告げるコマーシャルのアナウンスが流れ始めた。とくに個性も感じられない、甘ったれたしゃべり方をする女の声が、シチューとハンバーグのプレートがオススメだと、早口でまくしたてるみたいに話していた。

「ん、これが素敵な声? なんか、普通じゃない?」

「えっ、そっか、やっぱり自分じゃわかんないんだ。この声、智ちんにそっくりだよ。ってゆうか、最初、智ちんがついに声優デビューしちゃった、って思ったんだから。で、チェーンの本店の宣伝担当とかの人にまで電話して、この声の人調べてさ。名前はちがったんだけど、もしかしたら芸名かもって。事務所探してプロフィール確かめたりしたんだよ。もしそうならお祝いしなきゃって」 

「えー! わたし、こんな声してるかなぁ?」


 智子は、初めて自分の声を聞いた日のことを思い出す。

 中学のころ、携帯の留守伝メッセージを自分で入れて聞きなおすと、携帯電話の録音機能はなんて音が悪いんだろうと思った。


――まるで他人みたいな、いやな声。


 だけど、翌日、学校でそのことを友人に話して、聞かせてみると、それは智子の声そのものだという。だれでも、自分の声は思っているのとちがうものなのだと言われ、友人の声と一緒に自分の声を録音してみると、ひとりだけ知らない声が混ざっている。それが智子の声だった。ほかの友人たちの声は、ふだんの聞きなれたそのもので、携帯電話の録音機能のせいではないことを、無理やり納得させられたのだ。

 智子は自分の声が気に入らなかった。いままでずっと、こんな声で、友だちに冗談を言ったり、悩み事を相談していたのかと思うだけで、ぞっとする。わたしは、こんないやらしい声で話したりなんかしていない。こんな声はわたしじゃない。わたしのはずがない。


「そっかな、でもなんかやだな。わたし自分の声ってあんまり好きじゃないんだ」

 智子は、自分の声についての話題は、その嫌いな声で話さなければならないことさえ、あえて意識させられてしまうようで、いやだった。

「なんで? かわいい声してるのに。ほんと智ちんの声って素敵だよ。わたしは好きだよ。なんか、安心するっていうか。和む声だと思うけどなぁ」

 これだけ誉めても、智子の反応がいまひとつなので、どうやらヨーコはつまらなそうだ。何度も繰り返されるアナウンスを聞きながら、しまいに智子は黙り込んでしまったので、ヨーコもついには、もうそれ以上この話題をつづけることをあきらめた。

「じゃ、ドリンクバーでも行くか、智ちんはコーラでいいんだっけ。持ってくるよ」

「うん」

 智子はできるだけ言葉数が少なくて、ほとんど声をださなくてもすむように、返事をした。


 それにしても、わたしって、やっぱりあんな声してるのかなあ。

「あ〜あ、なんか、やんなっちゃうな」

 ひとり席に残されてから、智子はわざと声に出してみた。

 いまのこの声だって、自分で思っているのは、ホントじゃないのかな。ホントの声は、自分で考えているのと違っているんだ。だけどホントの声って、いったいどっちなんだろう。

 智子は声だけでなくて、もしかしたら、ふだんの行動だって、自分が思っているのと、まわりからの評価は、まるでちがっているんじゃないかという気までしてきた。

 わたしが思ってるほど、わたしはうまくやってるわけじゃないのかもしれない。いやらしい部分や、意地の悪い面を隠せていると思ってるのは、自分だけなんじゃないだろうか。そう考え出すと、途端に自信がなくなってきて、ホントの自分っていったいなんだろうという思いさえよぎる。

――ホントって、いったいなんだろ。

 みんなが聞いているわたしの声はホントのわたしの声じゃないけど、まわりの人にはホントの声。コスプレをするのはホントのわたしじゃないゲームのキャラクターになりきるのが楽しいんだけど、それをしている時間は、わたしにとってはホントのことだ。

 ホントのわたし。ホントにやりたいこと。ホントに分かってくれる友だち。ホントの……。


「う〜ん、わたしってばいったい、なに考えてんだか」

 ヨーコが、ドリンクバーでコーラを入れたグラスに、レモンスライスを入れるしぐさをしてこちらに合図している。智子は大きくうなずくと、指でOKの形を作った。

 なみなみとコーラを注いだグラスを両手に持って、こちらに歩いてくるヨーコの姿は、なんだかすこし滲んで見えた。

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