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吉田係長の災難

 ほんの少し姿勢を変えたいだけなのに、腕を上げることもできない。

 これでも、数年前よりはましになったとはいうのだけれど、朝の急行電車は相変わらずの混雑だ。さっきから吉田徹也は、腰のあたりにだれかの鞄が当たっていて、車両が揺れるたびに押されるので、痛くてたまらない。わざとでないと分かってはいても、自分がどれだけ他人に迷惑をかけているのか気づこうともしない鈍感さには腹が立ってくる。おまけに、体をひねってかわしたくても、身動きひとつとれないのだ。

 それでも、あと十分ほどの辛抱だ。さっきの駅を出たら、もう終点までは停まらない。

 窓の外に目をやれば、気持ちよく晴れ渡って日の光がまぶしい。高架線路の上からの眺めは、空が広く遠くの景色まで見渡すことができる。すがすがしい三月の朝の風景だ。十両編成の車両の中には、紺や灰色の背広を着て黙りこんだ男たちが、ぎっしりと隙間なく詰め込まれているというのに。

 吉田の目の前には、いまどきめずらしい、きっちりとポマードで整髪した後頭部がある。その甘い匂いにも閉口するが、揺れた拍子に鼻の頭にポマードが付いてしまいそうで、吉田はついついのけぞるような姿勢になる。そうすると、今度は後ろから、鞄が背中に食い込んでくる、という寸法だ。

 車内の空気は澱んで、じっとりと汗ばんでいる。クーラーとまで贅沢は言わない、送風ぐらいしてくれればいいのに。吉田は、せめて外の空気でも入れてもらえないかと思ったが、だれひとり、窓を開けようとするものはいなかった。

 みんなが首筋や鼻の頭に汗を浮かべて、ネクタイだって緩めているくせに、どうしてだれも自分から、この事態をなんとかしようとしないのだろう。自分が窓際に立っていたら、すぐにでも窓を開けるのに。だれもかれも、自分が目立つことが嫌だというだけの理由で、この不快な状況を我慢しているのだ。

 こいつらはみんな、仕事でもきっとそうなんだろうな。けっしてでしゃばらないようにして、目立たずに、言われたことだけをやっているにちがいないんだ。会社の部下の腰掛けOLたちとまるでいっしょだ。言われなければなんにもしない。それでいて、細かく指示をすれば文句を言う。ほんとうにまったく救いようがない。


 吉田は、部下のOLたちが費目の分類が難しい伝票のチェック方法を理解できるようにと、自分の経費伝票の分類作業をさせてみたときのことを思い出し、よけいに腹が立ってきた。

 現場から回ってくる伝票の申請書類の処理でミスが目立つので、実際に自分で費目分類をやらせてみて、チェックするポイントを分からせようとしたのだけど、そんな思惑も空回りするばかりで、部下の彼女たちにはまるで理解されることはなかった。ただ、吉田が楽をしたいために仕事を押し付けているとしか思われていないのだ。結局、言いつけられた仕事をめんどくさそうに処理して、まちがいを指摘しても、なんでまちがえたのかと考えることもしなかった。

 ひとととおり順番に、全員に頼んでみたのだけれど、だれひとり、そこから学ぼうなんて姿勢はみじんも見られなかった。もちろん、こちらの意図を説明した上でやらせてみてもよかったのだけど、そうした日常の業務のなかからでも、なにかを身に着けようという姿勢も養ってほしかったのだ。

――そんな上司の思いを知りもしないで、きっと、ランチのときには、おれの悪口で盛り上がったりしているんだろうな。もっとも、それも中間管理職の仕事のうちなのだろう。それでもまだ、部下に手を出してるかのように言われて、セクハラだとか、不倫だとか騒がれるよりはよっぽどましだと、あきらめるしかない。

 そんなことを考えているうち、部下への不満もあいまって、吉田はだんだんと自分以外の満員電車の乗客全員に対して腹が立ってきた。鞄を押し付けられている背中の痛みも、もうこれ以上は耐えがたいほどだ。おまけに、このポマード頭から立ち上ってくるアブラっぽく甘ったるい臭いにも、胸が悪くなりそうだ。

 まずは、振り向いて文句のひとつも言ってやろうか、そのときついでに、このポマード頭には、おかえしの嫌がらせで背中に肘をぐりぐりと押し付けてみるか、などと考えているうちに、吉田はほんとうに、いまにも不満が爆発しそうなほど、怒りがこみ上げてきた。


「おい、ちょっといいかげんにしろ!」

 同じ車両の向こうの方で、揉め事が起こった。けっして大声ではないが、怒気をはらんで尖った声だ。たちまち、車両中の耳がその声のする方向へと向けられた。

「なんですか、混んでるんだから、我慢しましょうよ」

「さっきからふらふらして、ちゃんと立てよ」

「そんなこと言ったって。混んでるんだからさ」

 吉田は、怒声をあげているのが、まるで自分のような気がしてきた。しかしどうも、迷惑そうに言い訳をしているほうが、言っていることは正しいように聞こえる。

「まあまあ、ほら、みんな狭いんだから、お互いさまだからやめてください」と仲裁に入る声も聞こえてきた。

「お前も、迷惑だから静かにしろよ」と、どこか遠くのほうからは、さらに不機嫌そうな声で横からよけいなことを言うものもいた。

 最初に文句を言ったあいつ、いまごろ、気まずい思いをして恥ずかしいだろうな。その上、これから、まだ終点までは、身動きひとつできないで、そのまんま隣合ってなきゃいけないっていうのに、バカだなあ。

 もしかしたら、もうすこしで自分もああなっていたのかもしれないのだ。短気を起こさないでよかった、と思うと、吉田の苛立ちもすこしずつ紛れていった。諍いは、どうやらたいしたこともなく収まりそうだ。もっとも、どうせろくに身動きもできないのだ。言い争い以上に発展するのは難しい、というよりもどだい無理な話しなのだ。


 終点まで、駅にしてあと、たったの二区間分だ。もう五分かそこらで、この苦しみからも解放されるはずだ。ポマード頭越しに、朝日の当たる家々の屋根を眺めながら、吉田はもう何も考えないように、終点の駅に着くまで、じっと耐えることにした。

 そう思った矢先、列車はブレーキをかけ、みるみる速度を落としていく。ラッシュ時の過密ダイヤで、前方の線路に列車が詰まってでもいるのだろうか。吊革をつかむこともできないでいた大多数の乗客たちは、ゆるい塊となって車内を流れだす。吉田も押されるままに、転ばないよう、みんなと一緒になって小さな歩幅で横へと移動した。

 すると、それまで一杯だったと思っていた車内も、どこかにあった隙間が埋められでもしたのか、吉田の周りにほんのすこしだけ空間が生まれた。しかも、運よくポマード頭や背後の鞄からも逃れることができた。

 なんだ、そうそう悪いことばかりでもないじゃないか。よけいなことなんかしないでも、じっと待っていれば、いいことだってあるもんだ。

 吉田は、つい先ほどとは、まるで逆のことを考えていたが、自分ではそのことに気づいていない。

 列車はさらに速度を落としていく。そして完全に停車してしまうと、車内のどこかでだれかがためいきをつき、何人かが舌打ちをした。

 この毎朝の苦行から、もうすこしで開放されると期待していたのに、こんなところで停滞してしまったことに落胆したのだ。おあずけを食った犬が、そのうえ目の前でえさを取り上げられてしまったみたいなものだ。それはきっと、いまこの列車に詰め込まれている数千人の背広姿の男たちに、確実に共通する思いにちがいなかった。

 この車両に詰め込まれている全員の落胆が、みるみる膨らんでいって、圧力を高めて、いちばん薄くなっていたところから破け出して、だれかの口からこぼれていく。満員電車のサラリーマンたちの、ぎゅうぎゅうに押し固められて、澱んで湿った不満が、ひとつの方向に向かってあふれ出たのだ。

 すると、それを合図にしたかのように、車両の先頭の方でだれかが窓を開けた。さらに、つぎつぎと車両のあちこちで窓が開けられていく。外の涼しい風が車内を吹き抜ける。

 三月の朝の新鮮な空気が、あっというまに、澱んで不満だらけの、ためいきや汗の臭いと入れ替わっていった。


 列車は時刻表より三分遅れで終点の駅についた。扉が開くと、改札までの間に遅れた到着時間を取り戻そうとするかのように、サラリーマンたちは押し合いへし合いしながら一斉に駅のホームへと流れ出していく。

 吉田も、まるでだれかと競争でもしているみたいに、すこしでも早く乗り換えの地下鉄のホームに着こうと、改札口へ向かって急ぎ足になる。前方にちょっとでも歩くのが遅いのがいれば、その横に出て、すばやく追い抜いていく。混雑のなかで左右に進路を変えていくと、鞄や肩があたるが、そんなことにかまってはいられない。一、二本あとの電車になっても遅刻をするわけではないけれど、いつもどおりの、同じ電車に乗るのだ。そう決めたのだ。

 そんなとき、だれかが後ろから吉田の肩を叩いた。吉田は、この急いでいるときに、いったいだれだと不愉快になった。もしかして、肩がぶつかっただれかが、文句でも言うつもりなんじゃないかと警戒した。そんなことに巻き込まれたら、確実に乗り遅れてしまう。

「もしもし、落としましたよ。これ、あなたのでしょう」

 振り向くと、ポマードで髪を固めた年配の男が、人の良さそうな笑顔で皮製の小銭入れを差し出していた。ほんの五分前まで目の前にあった、あのポマード頭だ、まちがいない。

 そのポマード頭が手にしているのは、吉田の小銭入れだった。たぶん、歩きながら定期入れをポケットから出したときに落としたのだ。

「あ、はい。そうです」

 まるで予想もしなかった事態に、吉田はただ、そう答えるだけだった。

 ポマード頭は、定期入れを持った吉田の手の中に小銭入れをねじ込むと、笑顔のまま、すぐに雑踏の中へと紛れていった。吉田は口の中でもごもご言うばかりで、きちんと礼を述べることもできないでいた。

 改札へ向かうひとごみのなかで立ち止まっている吉田の両脇を、大勢のサラリーマンたちが、つぎつぎと邪魔そうに追い越していく。反対側のホームで、下りの急行列車のドアが閉まると、まるで、ターミナル駅のせわしない空気をすこしでも郊外まで運び出してしまおうとするかのように、がらがらのままの車両がゆっくりと動き出した。その空いたホームには、もう次の上りの準急電車が、背広姿の男たちをぎゅうぎゅに詰め込んで入ってくる。

「まあ、たまには、のんびりと行くのもいいかな」

 吉田は自分に言い訳をするみたいに、わざわざそう声に出してみた。

 そして、大きく息を吸ってから、「ミルクスタンドでコーヒー牛乳でも飲んで行こう」と、さらにつづけた。、吉田は、ひとごみの流れから抜け出すと、さっき手渡された小銭入れを開いた。

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