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うそつき

 社交辞令は苦手だ。田中浩子は、これまでにも言葉を額面どおりに受け取っては、何度もいやな思いをしてきた。


「まずいよ、試験範囲終わってないよ、昨日もラジオの深夜放送、聴いちゃってさ」

 寝不足の顔で、今日子は開口いちばん、弱音を吐く。すると、優子がすかさず、それに応える。

「でもさ、今日子はちゃんとノート取ってるじゃない、わたしなんか、英語だけで、日本史ぜんぜんやってないもん。浩子はバッチリ?」

「うーん、ひととおりはやったけどさあ、でも教科書流しただけだから」

「さすが、浩子はまじめだねえ」

 ふたりは声をそろえて、浩子を誉める。これはもう、彼女たちの間では、決まり文句みたいなものになっていた。

 そう言われると、浩子は照れくさい気もするのだけど、ほんとうは、そんなにまじめってわけでもないし、まじめ、という評価もなんだか誉められてるわけじゃないような感じもする。それでも、友だちの言葉として、ここは謙虚に受けとめておこう。

「へへへ、そうかなぁ。それほどでもないよー」

 今日子と優子は、そんな浩子の反応を見て笑う。

「でも、まだ悪あがきするから、早めに教室行こうよ」

 浩子は、ふたりを急かすと、通学路を急いだ。


 試験が終わった帰り道でも、今日子と優子は全滅だーと悲愴な声をあげるのだ。そして、浩子にも結果についての意見を求めてくる。浩子はいつも、正直に六、七割のできではなかったかと申告すると、「やっぱり、さすが」などとおだてられる。おだてられると悪い気はしないので、浩子は照れながらも、ついつい、へらへらとしてしまう。

 それにしても、このふたりがうらやましい、と浩子はいつも思っていた。もともと心配性な自分は、試験勉強でも計画を立てそのとおりにしないといられない。いきあたりばったりということができないのだ。要領が悪いというか、不器用というか、融通がきかないというか、つまりは小心者なのだ。それに比べて、今日子たちは奔放で自由気ままにふるまっているように見える。

 高校に入ってから、そんなふたりと友だちになれてほんとによかった。わたしたちは親友だ。答案が返ってくれば、お互いに点数だって隠さずに見せ合うぐらいだ。

 でも、ふたりは試験の直前も直後も、まるでできなかったようなことを言ってたはずなのに、成績はなぜか浩子と変わらないか、むしろよいぐらいだった。それが浩子はどうにも不思議でならなかった。

 いったいふたりはいつの間に勉強しているんだろう。そんな疑問を抱いてしまうことが、自分の要領の悪さを証明しているようにも思えたし、彼女たちの言葉を信じていないようで、申し訳ない気分にさえなる。


 ただ、それが試験のたびに繰り返されるので、浩子はとうとう我慢できなくなって、ふたりに聞いてみようと決心した。ちょうど、英語の答案が返ってきたばかりだ。マクドナルドでお互いの点数を比べてみると、やはり、ふたりとも点数は浩子よりほんのすこしだけ上だった。試験前にはまるでやっていないと言っていたはずなのに。

 浩子の心のどこかには、親友なのに、どうしてほんとうのことを言ってくれないんだろうという思いが生まれかけていた。自分は、これまでだって、なんでも正直に打ち明けてきたのに。

「ねえ、今日子ちゃんたちさあ、いったいいつ勉強してるの? なんかすごいよね、試験前も全然やってないで、わたしより点数いいんだもん」

 浩子はできるだけ厭味にならないよう注意しながら、言葉を選び、声の調子だって精一杯明るく聞こえるように気をつけた。

「えー、そんなこといってもねえ。なんとなくだよ」

 そう言うと、今日子と優子は、互いに顔を見合わせて笑った。浩子はそれが、ふたりが自分に対してまじめだからと言った後の笑い方と似ているような気がした。

 なんとなく、じゃあ納得がいかない。でも浩子は、ここでもう一歩踏み込んで、さらに質問をつづけてはいけないような気がした。

 なんだか、自分だけが仲間はずれにされているような気分だ。わたしたち親友だよね、と念を押したくなるのを、ぐっとこらえて、浩子はシェイクのストローを吸った。

 なんだか、ふたりが急に遠ざかって行くみたいな気がする。

「あー、ごめん。今日、お母さんが出かけるんで留守番頼まれてたの忘れてた。いま何時だろ、もう行かなきゃ」

 浩子は、なんとなく居心地が悪くて逃げ出したいような気持ちになってきて、とっさに嘘をついてしまった。

「えー、そうなの。じゃあ、わたしたち、まだいるね」

「うん、いて。ごめんね、お先。また、明日、学校でね」

 ふたりはにこにこしながら、浩子に手を振る。浩子も、明るく「じゃあね」と言って席を立った。


 今日子たちと別れて、ひとり家路についていると、浩子はなぜかわけもなく泣きたくなってきた。思わず涙がこぼれてしまいそうだ。なんだか急に、とっても寂しくなってしまったのだ。

 とうとう我慢できずに、めそめそしながら歩いていると、ときどきすれちがうひとたちは、驚いたような顔をして泣いている浩子の顔をじっと見つめたり、ぜったい気づいているにちがいないのに、まるで気にもとめていないようなないふりをして通りすぎていく。

 そのどちらの反応も、いまの浩子にとってはありがたいような、わずらわしいような気分だ。それでも、そんな風にめそめそと歩いているうちに、浩子の気持ちも、だいぶ落ち着いてきた。わけもなく寂しくなってしまった気分も、だいぶ薄れてきたようだ。でも、目はひどく腫れていて、たったいままで泣いていたことはバレバレだ。

 こんな顔で家に帰ったら、今度は、お母さんから根掘り葉掘り聞かれることになる。コンビニで立ち読みでもして、まぶたの腫れが引くのを待ってから帰ろう。家の近くのコンビニに寄っていこう。ついでにそこで目薬も買えばいい。

 街道沿いにあるサンクスに入ると、そこにはすでにもうひとり、浩子と同じ制服を着た女子高生がいた。

 同じ中学から高校に進学してきた同級生の浦河みどりだ。中学時代にはほとんど口を利いたことがなく、高校で同じクラスになって、初めてちゃんと会話を交わしたのだけど、どこかこわい感じがするというか、浩子とはちがって、ひとりでも強く生きていけそうなタイプだ。そんなところを浩子は、すこし苦手に思っていて、仲がいいというほどではなかった。

 雑誌売り場に向かおうとして、足が止まってしまった浩子に、浦河さんのほうから声をかけてきた。

「どうしたの田中、泣いてんじゃん。テスト、そんなにひどかったの」

 いきなり、なんの遠慮もない。それに、テストの点だって、泣きたいほど悪かったわけじゃない、失礼しちゃう。それでもそんな、なにも取り繕いもしない浦河さんの態度が、いまの浩子にはなぜか、かえって心地よく感じた。

「そんなでもないよ。自分でもよくわかんないけど、涙が出ちゃって。コンタクトかな」

 浩子は、てきとうにごまかしてみたが、理由を聞かれてあらためて考えてみると、自分でもなんで泣いていたのか、じつはよく分からなかった。

「ふーん、まあいいけど。田中さあ、すこしは友だち選んだほうがいいよ」

 え、なんだろ、いきなり。それって大きなお世話?

「あんまりさあ、ひとの顔色うかがったり、周りの目ばかり気にかけてると、うざがられるよ。そういうの、得意そうじゃないのに。まあ、わたしには関係ないけどさ」

 浩子はどこからか、今日子たちのくすくす笑う声が聞こえてきたような気がした。でも、そんなのは気のせいだ。それにしても、このひとはなんでそんなこと言うんだろう。

「えー、そうかなあ。でも、忠告してくれて、ありがとう」

 浩子の答えに、浦河さんは、ふうとため息をひとつついた。

「ほら、それだよ。ふつう怒れよ。せめて、同じこと言うんでも、もうすこしいやみったらしく言ったほうがいいよ。なめられちゃうよ、そんなんじゃ。ま、いいけどさ」

 浦河さんは言いたいことだけ言うと、もうどうでもいいとでもいうかのように、なんて返事をしたらいいのか困っている浩子を置いて、さっさと行ってしまった。

 浩子は置いてきぼりにされ、ぼうぜんと立ち尽くしていた。

 いったい、いまのはなんだったんだろう。いやがらせかな。でも、浦河さんはそんな感じのひとじゃないし。浩子のために言ってくれていることのようには思えた。

 しばらく、ひとりで週刊誌のページをめくっていたが、記事の内容なんてまったく頭には入ってこない。浩子は、浦河さんの言ったことばかりを考えていた。

 それにしても、友だちっていったいなんなんだろう。どこまでが友だちで、どこからが友だちじゃないのだろう。今日子たちは友だちだけど、浦河さんは友だちになるのだろうか、などと。

 けれど、そのうちだんだんバカらしくなってきて、そんなことは、どうでもいいように思えてきた。立ち読みしていた週刊誌もろくに読み進まないまま棚に戻すと、充血に効く、とパッケージに大きく書かれた目薬を選んで、レジへと持って行く。すぐ表の駐車場で点そうと上を向いたら、そこには真っ青な空が広がっていた。小さな雲が、ひとつだけ離れたところに浮かんでいるのが、まるで自分みたいだと思って眺めていると、だんだん薄くなって消えていってしまった。それがなんだかおかしくて、浩子はずいぶんとすっきりした気持ちになって、足取りも軽く家へと歩き出していた。


 結局、浩子はその後も今日子たちのグループから離れることもなく、浦河さんといままで以上に親密になることもないまま、同じような毎日を繰り返しては、高校生活の三年間を過ごすことになるのだ。


 高校を卒業すると、しだいに今日子たちや浦河さんとも連絡を取り合うことはなくなっていった。浩子は、短大に入っても、新しい友だちと似たようなつきあい方をして、たぶん周りからも、高校時代と似たような評価をされているのだろうと思うようになった。

 それは就職しても、あまり変わることはなかったみたいだ。

 それでも、世の中にはどうやら社交辞令というものがあって、なんでもかんでも額面どおりに受け取ってしまったり、ほんとうのことを言ってしまうと、ひとを傷つけたり、自分が傷ついてしまうこともあるのだということは、浩子にもなんとなく分かるようにはなってきた。

 ただ、そういう気の使い方をするのは相変わらず苦手だったし、思ったこともすぐ顔に表れてしまうのだけど。


     ※


 会社に入ってからも、同期の女子社員同士のランチの誘いや、お茶やお菓子の当番を決めるとき、みんなはいったいどこまでが本心なのか、浩子にはまるで見当がつかなかった。遠慮したほうがいいのか積極的になるべきなのか、その場でいったいどう振舞えばいいのか、いつもいまひとつ自信が持てないでいた。

 それでいて、浩子はいまだに自分の気持ちだけは、どうやらすぐ表情に出てしまうらしい。できるだけ無表情を装おうと心がけているのに、うれしいことやいやなことがあると、どうしても、すぐに反応してしまうのだ。

「で、浩子はどうする?」

 ランチサービスのアイスティーのグラスに残った氷を、ストローで回しながら、同期入社の石井由美が聞いてきた。

「でも、わたし、行ってもいいのかな」

「いいに決まってるじゃない。来なよ」

 今日の帰り、営業所の女子社員同士で、雑誌に載っていたベトナム料理店に行くという。その話題は浩子も午前中に耳にして、少しうらやましく思っていたのだけど、いざ誘われると、今度は自分は気をつかってしまい、結局は楽しめないんじゃないかと迷っていた。

「じゃ、決まりね。桜子と吉野さんで、四人で予約しとくから」

 浩子が迷ってぐずぐずしていると、由美はいつもどんどん話を決めていってくれる。そんなところを浩子はありがたく思っていたし、由美とつきあうことを気安く感じさせてくれる。

 それに由美も、ランチにはたいてい浩子に声をかけてきて、いつもふたりで出かけるのだから、彼女の方も浩子に対して、悪い感情を持ってはいないのだろう。


 由美はなんとなく、中学、高校で一緒だった浦河さんに似ている。浩子も、昔ほどには、こういったタイプのひとを苦手に思うことはなくなっていた。

 一緒に行くという染谷桜子は同期で、おとなしい子なので苦手ではないけど、吉野智子は元気がよく、ずけずけとものを言うたちで、一年後輩なのに浩子にとっては気後れしてしまう相手だ。自分は、あんなに明るくはなかったけれど、どことなく昔の自分を見ているような気がしてしまうのだ。いや、もしかしたら、昔の自分じゃなくて、まるで似ているところなんて全然ないのに、なぜか今日子たちを思い出してしまうのかもしれない。

 でも由美がいてくれるから安心だろう。いろいろ考えすぎて、また知られなくてもいい気持ちまで顔に出てしまわないよう、よけいなことは、もう考えないようにしよう。

「じゃあ、由美に予約お願いしてもいいかな。お店の場所よくわからないから、一緒に行こうね。出るとき、声かけてね」


 ベトナム料理店には行列ができていた。三人は、昼休みのうちに予約を入れておいた由美の手際を誉めた。行列を追い抜いて入店できたことが、ほんのすこし誇らしくて気分がよかった。

 運ばれてくる料理はどれもめずらしいものばかりで、食事中は、もっぱらその料理とベトナムという国についての話題に終始していた。ベトナム産だというワインも飲みやすく、エスニックな料理にもよく合う。伊達にフランスに統治されていた歴史があるわけではないなどと軽口を叩きながら、ボトルはあっという間に空になった。すかさず、二本めには白がいいと吉野智子が言う。


 そろそろ、デザートを注文しようかという頃には、みんなすっかり酔いが回っていて、話題は職場の不満や噂話へと移っていく。

「だけど、田中さんって、ちょっとカッコいいですよ」

 そんなとき、ワインを飲んで、ふだん以上に直截になった吉野智子の唐突な発言に、絡まれるのかと浩子は構えた。

「どうして? わたしなんかどじばっかりで、いいことなんかなんにもないじゃない」

 最近、浩子は、本気でそう思っているのだ。

「そんなことないです。田中さん、わたしいっつも見てますから!」

「カッコいいかどうかはともかく、浩子ってマイペースっていうか、あんまり周りに頓着しないところあるよね。そういうところは、わたしもあやかりたいかも」

 すでにずいぶん酔ってしまったらしい吉野智子を見かねてか、由美が話しを継いだ。

――わたしが周りに頓着しないって? それをいうなら、吉野智子のほうがよほどマイペースじゃないか。わたしなんか、いっつも人の顔色ばっかりうかがってるのに。まあ、結果としては、真意を汲み取ることはできないんだけど、もしかして、そのことへの厭味なのか。

 でも、ふだんそんなことは言い出さない由美の言葉だけに、あるいは、これもまた社交辞令なのかしらと浩子は悩み、どう答えていいのか迷ってしまった。

 いったい、わたしのことをどう思われているのだろうと考え出すと、とたんに、暗澹とした、なんとも暗く孤独な気持ちが、浩子の心を覆い始める。

 ああ、まただ。いつも突然に、自分がどこにいるのか分からなくなってしまうような、この感じ。まるで、ずっと昔の、わけもなく泣きながら、ひとりで帰ったときみたいな気分だ。

 ほんの少し指先を動かすだけで、取り返しのつかないことをしでかしてしまいそうな気がして、浩子はもう身動きひとつできなくなる。黙りこみ、だれかがなにか話しだすまでじっと待つ。

「ほら、この前、吉田係長が伝票の整理をいいつけようとして、浩子が思い切り不機嫌そうな顔したもんだから、結局、自分でやってたことあったじゃない」

「そうそう、吉田のやつ、あたしたちのこと雑用係ぐらいにしか思ってないんだから。自分の経費伝票まで言いつけるのなんて腹立つよね。あたしも前に手伝わされて、説明がめんどうだからって、費目とか適当にやっとけって言うくせに、後になってあーだこーだ、直させるんだもん。それなら最初っから言えって感じだよね」

 由美に続いて、いつもはおとなしい桜子までが、吉田係長への不満を口にしだした。浩子は、桜子もそんなことを考えていたのかと驚き、やっぱりわたしは人のことがまるでわかってないや、とあらためて思う。

 それにしても、あのときも顔に出てしまっていたのか。

 まあ、多分そうだろうとは思ったけど、やっぱり。しかも、事務所にいたみんなにもしっかりと見られていたというわけだ。きっと、いまこの瞬間も、わたしは「しまった」って顔をしているんだろうな。気をつけないと、慎重に。うかつなことを考えていると、きっと、とんでもないかんちがいを招いて、周りも自分も傷つくことになるのだ。

 浩子は、視界がどんどん小さくなっていくような、目の前のものがなんだか、遠ざかっていくような気分になる。身の回りの出来事が、まるでテレビの画面に映った風景のように思えてくる。とたんに、それまでの楽しげで、親しみを感じていた雰囲気も、まるで、みんなすりガラスの向こうに行ってしまったかのようだ。

 浩子は、自分の気持ちの変化を気づかれないよう、少し飲みすぎて酔ったみたいだと言って、コーヒーを注文した。


 自宅近くの駅からの帰り道でも、浩子はまだ後悔していた。

 わたしはいつも、自分の思ってることや考えを、どうしてうまく伝えられないのだろう。知られたくないような気持ちの変化はすぐにばれてしまうのに。

 今日も食事をしている間は楽しめていた。それが吉野智子ばかりでなく、由美や桜子までが、考えていることと話していることが本当はちがうんじゃないかと疑い始めたとたんに、寛げなくなってしまった。

 どうして自分はいつも、こうなんだろう。こんなことになるなら、やっぱり食事になんか行かなければよかった。いや、今夜は、みんなも酔っていたし、そんなに気にして深刻になるほどではないのか。

「ああ、やだやだ。なんだかいつもの堂々巡りの自己嫌悪ばっかり」

 夜道を歩きながら、思わずひとり言が漏れる。

 無視されるのが怖くて、他人の心にもないような言葉にもすがってしまうのが、わたしだ。それでいて、すぐに、それが本心からの言葉ではなく、うわべだけなのだと疑っている。いや、たぶん、嘘だと思いながら、本心だと信じようとしているのだ。

 不毛だ。わたしはなんて不毛なことばかりを繰り返しているんだろう。

 浩子は人通りの少ない道を選んでは、ときどき、言葉にならないようなうめき声を上げながら歩いていた。自分でも間抜けだなと思いながら。

 そんな風に、回り道をしながらも、角を曲がって駅からの抜け道になっているいつもの帰り道の路地に入ると、背後から、自転車のベルが鳴った。

 もしかしてひとり言を聞かれたのではないかと、ひやりとする。道の右へ寄ると、自転車に乗った小学生が追い越していく。

――なんだいつも、この路地ですれちがう男の子だ。今日は塾からの帰りなのか。こんな遅くなのに、小学生も楽じゃないもんだ。

 浩子がそんなことを考えかけていると、突然、やけくそみたいに元気よく挨拶する声が聞こえてきた。


「こんばんは!」


 これまでいちども挨拶なんか交わしたことはなかったのに、その小学生は、追い越しざまに浩子に初めて声をかけてきたのだ。

「こんばん、は」

 浩子はとまどいながらも、一応、返事を返す。すこし考えてから、浩子は遠ざかっていく彼の背中に向かってもう一度声をかけた。

「遅くまで、たいへんね」

 小学生はびっくりしたように、ブレーキをかけて振り返って、一瞬ためらってから思い切りわざとらしく愛想笑いをつくると、すぐに前を向いて自転車をこいで去って行った。

 そのつくり笑顔がおかしくて、浩子も思わず笑ってしまった。

 きっと、とっさになんて答えていいのかわからなくなって、とりあえず笑顔で返そうとしたのだろう。

 顔見知りといえば、顔見知りではあるけど、ただ道でよくすれ違うだけの相手に挨拶をするのには、きっと勇気がいったにちがいない。夜道だからと、子供なりにも気をつかったのだろうか。あるいは、わたしがベルを鳴らされて、気分を害するとでも思ったのかもしれない。

 でも、挨拶だけじゃなくて、ひとこと声をかけてみてよかった、と浩子は思った。無理やりの引きつった笑顔も、そう悪いもんじゃなかったな、と。

 浩子は、さっきまでのもやもやとした気持ちが、たったそれだけのことで、ずいぶん軽くなっていた。

――よしっ。帰ったら、すぐに熱いお風呂に入ろう。今日は、それでなんとかチャラにできそうだ。

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