夕方のひと
そのひとは顔を見ればよく知っているはずなのに、いったいだれだったのか、まるで思い出せない。
いかにも休日らしく、化粧もほとんどしないまま、ポロシャツとジーンズ姿でスーパーのカゴを提げ、ちょっと近所まで買い物に来ました、といういでたちだ。
幸雄が知り合う機会のある大人の女性といえば、学校や塾の先生か、友だちのお母さんぐらいのものだ。しかも二十代の女性となると、さらに限られてくる。そのなかに思い当たるひとはひとりもいなかった。
それでも、なんとか思いだそうと考え込んでいたら「幸雄、前」と、レジの列が進んでいるのを注意された。
今日は、マンガを買ってもらう代わりに荷物持ちをする約束で、母親とショッピングセンターの買い物につきあわされているのだ。そして、そのひとは隣のレジに並んでいた。
「どうしたの。だれか知ってるひとでもいた?」
幸雄は自分が若い女性をじっと見ていたことを、母親に見とがめられたんじゃないかと思った。
「ううん、なんでもない。ちょっとね」
なんだか照れくさくなって慌てて首を振ると、幸雄は買い物カゴをレジの台の上に載せた。
――それにしても、いったいだれだったっけ。もしかして、知り合いに似てるだけで、じつは別人なんだろうか。あるいは、どこか芸能人に似ていて、それで知っているような気がするだけなのかもしれない。それとも、ほんとうにテレビに出ているタレントだったりして。
だけど、どうもそんな感じじゃない。ぜったいに知っているひとだ。どこかで会ったことがあるのは確かなのだ。それがどこだったのか、思い出すことはできないけれど。
幸雄は、母親に気づかれてしまうのが恥ずかしくて、あまりじろじろと見つめるわけにもいかなくなった。今度は、横目を使って、こっそりと確かめる。買った商品をレジ袋に入れながらも考えつづけていたら、玉子のパックをいちばん下に入れそうになって、また、母親から注意されてしまった。
結局、店を出るまで、それがだれだったのか思い出すことはできなかった。それに、向こうは幸雄のことなど、まるで気にもしていないみたいだ。
知り合いだと思ったんだけど、やっぱり気のせいだったのかな。それでも、気になってしょうがない。
「ねえ、お母さん」
幸雄は、どんなささいな情報でも手に入れたくて、こうなったら手がかりを得るためなら恥ずかしいのも我慢して、思い切って聞いてみた。
「さっき、隣のレジに並んでた青いポロシャツ着てたひと、見覚えない?」
「そう言われても、分からないなあ。でも、お母さん、知ってるひとだったら、あいさつぐらいしてるわよ」
確かに。そう言われれば、そのとおりだ。
母親と一緒に買い物に来ていちばんいやなのが、知り合いを見つけると、通路の真ん中だろうと、寒くて震えてしまいそうな冷凍食品コーナーの前だろうとおかまいなしに、かならず立ち話を始めることだった。
その間、幸雄は所在なく、買い物カゴを持ったまま、となりにつっ立っていなければならない。おまけにそんなときには、たいてい「まったくうちの子は」なんて言いだして、幸雄の話題を持ち出すものだから、恥ずかしくてたまらない。
いつも決まってそんなだから、もしも、母親が知っていたなら、たとえ、隣のレジに並んでいようと、声をかけていないわけがない。やっぱり、気のせいだったのか。
「でも、きれいなひとだったわね、幸雄はああゆうひとがタイプなんだ?」
しかし、母親は幸雄の態度には気付いていたのだ。冷やかすようにそう言われると、そんなつもりは全然なかったのに、幸雄は自分でも耳まで赤くなってくるのが分かった。
「なに言ってんだよ、そんなわけないだろ」
「ああ、玉子が割れちゃう、ごめんごめん、冗談だよ」
照れ隠しに幸雄が買い物袋を乱暴に振り回すと、母親はあわてて謝ったが、その声はどこか楽しげに聞こえる。
そして、幸雄は、まだあのひとがいったいだれだったのかを、なんとか思い出そうとしていた。いちど頭の片隅にひっかかってしまうと、どうしても気になって、その謎は、まるで靴底に張り付いた、だれかが吐き捨てたチューインガムのカスみたいにいつまでもついて回って、なかなか剥がし取ることができなかった。
その日はそれから、ごはんを食べていても、テレビを見ても、お風呂に入っても、夜、寝るときまで、ずっと考えつづけて、あともうすこし、というところまで行っているような気はするのだけど、結局、思い出すことはできなかった。
もしかしたら、夢にまで見て、そこですべてが解決するかもしれないとさえ願っていたけど、そんな淡い期待も叶うことはなく、幸雄はその晩、夢も見ないほどにぐっすりと眠ってしまった。
※
幸雄は週に三日、隣町まで塾に通っている。
五年生になると、クラスの半分は塾や習い事に通うようになっていた。そうでないものも、野球やサッカーのクラブの練習に明け暮れ、放課後とくに予定もなく時間を気にせずに遊びまわれるという友だちはいなくなった。
もちろん幸雄自身も、四月からは学習塾に通っている。
塾を選ぶときには、学校の友だちも多く通っている駅前の塾にしようかと迷ったけれど、遊びに行くわけではないのだという親の意見に、幸雄もそのとおりだと思い、隣町にある個別指導で定評のある有名進学塾に決めたのだ。
塾へ向かう途中に通る、商店街の角を曲がった先の駅への抜け道では、いつもよくすれちがうひとがいる。
――なんだ、そうだったのか。
この前の週末、ショッピングセンターで隣のレジに並んでいたのは、そのひとだった。
幸雄は、ここ数日、ずっと頭の片隅にこびりついたまま、引っかかりつづけていた疑問が突然に解けると、じつにすっきりとした気分で自転車のペダルさえ軽くなったように感じられた。
いつも、仕事帰りのスーツ姿しか見たことがなかったので、髪を下ろしてジーンズを履いた姿が、記憶と結びつかなかったのだ。
わかってしまえば、ほんとうにあっけない。
それにしても、と幸雄は思う。週に三日の塾に通う日に、しかも、ときどき路地ですれちがうだけなのに、われながら、よく顔まで覚えていたものだ。
幸雄は、これまで、そのひとを特別に意識していたというわけではない。ただ、自転車ですれちがうときに、いつものよく会うひとだと思うだけで、それ以上の興味も関心も持ってはいなかった。
だからこそ、ショッピングセンターで見かけても、いったいだれなのか分からずに、あげく、何日も悩みつづけるはめになったのだ。
それが、こうして結びついたことで、幸雄はあらためて、これまでは想像すらしなかった彼女のちがった一面を知ったような気がしていた。
いままでは、疲れた顔をして駅から無表情に歩いてくる、大勢のなかのひとりに過ぎなかった。だけど、あのひとだって、自分と同じように買い物に行ったり、毎日、ごはんを食べたり、音楽を聴いたり、テレビを見ては泣いたり笑ったりして暮らしているんだ。
そんな、当たり前のことに気がついたのだ。
それは幸雄にとって、これまで考えてみたこともない、すごい発見だった。
そのうえ、たとえ、仕事で失敗をして泣きたいようなことがあったとしても、家でどれだけ楽しいことが待っていたとしても、駅から帰る道では、きっと、なにごともなかったかのような顔をして歩いてこなければならないのだから。まったく、おとなもなかなか、たいへんだ。
そんなことを考えているうちに、幸雄は、いつのまにかほんのすこしだけ、彼女に親しみの気持ちを抱くようになっていた。向こうは自分のことなんか、まったく気づいてもいないかもしれないのに。
幸雄は、もともと勉強はできるほうだったので、塾へ通うことを、それほど苦痛に感じてはいなかった。
なによりも、わざわざ隣町まで出かけることで気分が変わることも、幸雄は気に入っていた。隣町の塾には、友だちはいなかったけれど、その分かえって勉強だけに集中することができたし、塾の勉強は分かり始めると、難しい分だけ学校の授業よりもおもしろかった。だから、塾に友だちがいなくても、べつに寂しいと感じることだってなかった。
そんな幸雄に、新しい楽しみができた。
駅への抜け道ですれちがう、あのひとのことをもっとよく知るようになることだ。
もともと、住宅街の中の抜け道を使うひとはあまりいない。いつもこの道ですれちがうひとは、だいたい決まっている。あの女のひとのほかには、いままでにも二、三人しか見かけたことはなかった。その中でも、ほぼいつも決まった時間にすれちがうのは、あの女のひとだけだ。
幸雄は、塾に向かう途中、路地の向こうから歩いてくる人影に気をつけて、相手を確かめるようになっていた。
そして、それはたいていあのひとだった。
幸雄は彼女のほんのささいな変化も見逃さないようにと注意して、そこからなにかの意味を見つけ出そうとしていた。そうしてみると、いままでは、いつも同じようにしか思っていなかった彼女の持ち物や服装にも、幸雄は変化を見つけることができるようになっていった。
――スーツは同じように見えるけど、じつは、すこしずつデザインのちがうものを三着は持っているらしい、とか、最近はコートを着るようになったけど、あれは今年になってから新調したものだろうかとか。ふだんは、歩きやすそうな革靴を履いているのに、月に一日か、二日だけは、ヒールの高い靴を履いていることがあって、その日は化粧の感じもすこしだけちがって見えるような気がすることとか。
そして、幸雄は、そうしたほんのちょっとした変化を見つけると、塾へ着くまでの間に、それぞれに、ふさわしい物語を思い描いてみるのだ。
幸雄は、心の中で彼女のことを「新人OL」と呼ぶことにした。
まずなによりも、名前がないのはなんとも不便だ。それで、服装や見た目の年齢から、きっと新入社員のOLにちがいないと思い、そう呼ぶことに決めたのだ。でも、ほんとうに新入社員なのか、そもそもOLなのかどうかさえも、じつのところあやしかったのだけど。
いったいどんな仕事をしているのか。家族と暮らしているのか、一人暮らしなのか。とてもそうは見えないけれど、もしかしたら結婚していて子供がいるということだって、ありえないわけじゃない。若そうに見えるけど実際の年齢はいくつなのだろう。正直なところ、小学五年生から見れば二十歳と三十歳のちがいさえ、ほんとうは、はっきりとはしなかった。
でも、幸雄はそんなわかるはずもないことを、いろいろと空想するのが楽しみになっていた。ある日、彼女が菓子がいっぱいに詰まったコンビニの袋を提げて帰ってきたときには、もしかして、仕事で失敗して上司に叱られ、落ち込んでやけ食いでもするつもりなのではないだろうか、そのときはきっと、すべてのお菓子を順に並べた前に正座して、もう食べきれなくなるまで、ずっと食べ続けるにちがいない、などと、ときに妄想のような内容にまで発展していくのだ。
それにしても、幸雄は彼女のことを、じつはなにひとつ知りはしなかった。
もちろん、結局のところ、いくら想像してみたところでけっしてたどり着くことはないのだという、あきらめにも似た気持ちも幸雄にはあった。
テレビやマンガでは、よく名探偵や刑事が、ちょっとしたきっかけを元にして、誰かが隠している秘密や真実を言い当てたりするけれど、現実にそんな都合のいい話は、そうそうあるもんじゃない。実際、幸雄だって半年以上もすれちがい続けていながら、彼女について分かった確かなことなど、なにひとつなかったのだから。もっとも、その分、自由で無責任な妄想を繰り広げてもいられるわけだ。
そんな「新人OL」チェックは、すっかり、塾へ行く途中の幸雄の日課になっていた。
たまにすれちがわない日があると、次の塾の日まで、なにか忘れ物でもしてしまったような気分になる。逆に、ちょっとでも変化や新しい発見があると、幸雄は彼女のことを、すこしだけ理解することができたように思えた。それでも、いろいろとその理由を考え始めると、じつはなにも知らないということが、よけいにはっきりするだけだった。
※
近頃は、すっかり日が短くなって、塾に向かう時刻には、西の空が赤く染まりだす。幸雄はちょうど夕日に向かって、隣町まで自転車をこぐ。
夕暮れの町は、まるで影絵の背景みたいだ。まだ明るさの残る空を、住宅の屋根が切り紙細工みたいにぎざぎざとした真っ黒な輪郭で縁取っている。それでいて、景色は妙にあいまいで、うすぼんやりとにじんでしまう。街灯の明かりは、そんな夕暮れをよけいに眠たく見せるばかりで、買い物帰りのおばさんも、駅から列をなして歩いてくる会社員のお父さんたちも、みんな顔をなくした影法師みたいになって、近くまで来てようやくその表情が分かる、といった具合だ。
夕暮れのなかで自転車をこいでいると、指の先から白くふやけてしまい、いったいどこまでが自分でどこからが湯なのかもはっきりとわからなくなってくる、ぬるい風呂にでもつかっているような気分になってくる。そんなとき、幸雄は自転車をこぎながら、なぜか、このままどこにも着かなければいいのにと思う。
べつに、塾へ行くのがいやだというわけじゃない。なんとなくあいまいで、だれもが、だれでもなくなってしまうようなこんな時間に、いつまでも漂っていたくなるのだ。
だけど、いつも、夜はすぐにやってきてしまうので、そんな気分が長続きすることもないのだけれど。
駅からの抜け道の路地に入ると、今日も「新人OL」は、やってきた。夕暮れの中、顔はよく見えなくても、幸雄はもう背格好だけで彼女を見分けることができる。あまりじろじろ見ていると思われないように、目の端の方だけで観察をする。
いつものコートと小さめのバッグ、ふだんと変わったところはない。
もう少しですれちがうという距離、彼女はちょうど街灯の下だ。幸雄は彼女の顔を横目でチラッと見る。
そこにあるのは――笑顔だった。
彼女はとてもうれしそうな、満面の笑みを浮かべていた。ひと目見ただけで幸せな気持ちが伝わってきて、幸雄はまるで自分まで、なんだか、いいことがあったような気がしてきた。
もちろん、その笑顔は幸雄に向けられているわけではない。それでも彼女は、まっすぐに前を向いたまま、ほんとうに幸せそうな笑顔を浮かべて歩いていた。
これまでに、こんなことは一度もなかった。ふつう、大人は無表情で歩くものだと思っていた。どんなに悲しいことがあっても、うれしいことがあっても、ひとりで道を歩きながら泣いたり笑ったりすることなんか、けっしてしない。
彼女だって、これまでは無表情を装って、すこしうつむき加減に、毎日毎日、まるでなにごともないかのように、この路地を通り過ぎてきたはずだ。涙がこぼれそうでも我慢をして、うんざりした気分の日でも不満が顔に現われないように気をつけて、たとえどんなに楽しいことを思い出しても、そんな気持ちは噛み殺しながら、家への道を急いでいたはずだ。もちろん、あの「やけ食いの日」だって「ハイヒールの日」だって。
それが、今日に限っては、ちがっていた。
そして幸雄は、笑顔だけで、こんなにも他人の気持ちが伝わってくるものなのかと驚いていた。眺めているだけで、まるで、彼女の心の中にある喜びそのものが幸雄の心にも伝わってくるみたいだ。幸雄は、その笑顔から、いつまでも目が離せなかった。
そんな視線に気づいたのか、「新人OL」も幸雄を見た。
一瞬、目が合うと、彼女はほんのすこし恥ずかしそうに、笑顔を隠そうとしたけど、それでも微笑みまで消えてしまうことはなかった。彼女はすこしうつむいて、くちびるの端に喜びの表情を残したまま、幸雄の横を通り過ぎて行った。
すれちがってから、しばらくしても、路地には彼女の幸せな気分が漂っているような気がした。それに、ふだんの幸雄なら、あれこれと推理を始めるところなのだけど、今日はなぜか、彼女の笑顔の理由を想像しようという気にはならなかった。
もう、理由なんかはどうでもいいと思った。彼女は、今夜はとても幸せな気分でいることが十分にわかったのだから。それに比べればこれまでいろいろと幸雄が空想してきたことなんて、まるでどうでもいいようなことばかりに思えてくる。
幸雄は今日、彼女について、やっとひとつだけ確かなことが分かった。彼女の心の中にある、ほんとうの気持ちに触れることができたのだ。
いつのまにか、幸雄もつられて笑顔になっていた。
すでに夕空の残照も消え、茜色だった空の端は、もうすっかり深い紫色から、濃紺へと染まっていく。幸雄は自転車のヘッドライトを灯すと、すこし重くなったペダルを、勢いをつけて踏み込んだ。
今度会ったときは、彼女に挨拶をしてみようかな、と考えながら。