一話 ラウ―brown―①
ラウは閉じていた目を開け、顔を上げた。揺れた服の隙間からさらさらと沙が溢れる他は、生き物がたてるであろう音はなにもしない。
完全な静寂だった。それは、死の音だった。
息遣い一つすら聞こえない、完全な静寂だった。
空には雲。足元には地球。
風が強くなって、最後の土煙が、茶色の帯になって吹き散らされると、そこにはただ、何一つ無い大地が広がっていた。
時刻は昼。正午を過ぎ、夕方に近付きつつある。気温は高く、湿度は限りなく低い。熱砂と乾燥し荒れ果てた地表。すでに辺りは太陽に炙られ、体温を遥かに越えた陽炎が燃え上がり、極限まで澄んだ空が、ての届かない所で、青く染まる。
この荒野では空気中に水分が殆ど無いために、温度が安定せず、摂氏三十度分の昇降が昼夜にある。いまの気温からすると信じられない話だが、夜は凍りつくように寒い。ラウは荒野の真ん中で凍死した遺体を見たことがあった。それも、ここではそれほど珍しいことではなかった。よくある事だと、幼い頃から、この地の恐ろしさを肌身に感じたこの身には、そんな言葉すらも生ぬるい。
周囲は見渡す限り、土や砂やらの残骸。
そうとしかおもえない茶色の塊が、この荒野の全てだ。
北ラインズ大陸の一角。アルカン山脈に囲まれたバンディーカル平野は現在は、広大無辺な不毛の大地である。のし掛かる熱風に太陽。日中の平均気温は40度を軽々とまたぎ、年間降水量は、百ミリのラインにもてが届かない。雨も降らず、乾ききった大気はけあなから水分を蒸発させていく。そのくせ、真夜中は極寒の地とかすのだ。苛烈な自然現象の数々は、氷もかくやと思わせる厳しさを纏っていた。氷原も、ここも過酷な土地と言う意味では、殆どそのないように相違はないに違いない。すっかり日避けぬので白く覆われた影のなかで、ラウは怠い眼球を動かした。暑いからといって服を脱げば、忽ち肌を露出させた部分が火脹れとなる。すっぽりと全身を隠した白い布の繊維は荒く、透かして暑さが降りかかる。風通しのよいゆったりとした服を羽織り、強すぎる太陽光に供えて黒いゴーグルを着けたラウは、棒漠とした荒野に揺らがない視線を据えた。
周囲は見渡す限り、ひび割れた大地。
風が砂を右から左へ淡々と転がすだけで、動くものはそれだけだ。頬がちくつくとした痛みに襲われる。太陽は地平線を離れて久しく、悪意に満ちたねっっせんをぶつけてくる。岩場の影から1歩出れば、太陽がもたらす白熱の爆発に焼き付くされ、灼熱の熱風に強かに殴られるのだ。生まれてから十六年間いるのだが、好きな場所ではない。ゆっくりと渇きながら荒野の真ん中で死んでいく夢を見て、飛び起きたことさえある。髪の毛の毛先までぐっしょりと冷や汗に濡れた事は忘れられない。
ラウは、視線の先にある光景を静かに見詰めた。ゴーグルを通して見てもなお、強雨悪だ。ひび割れた大地は、亀の甲羅の様にも見える。暗い亀裂は、遭難者を引き摺り込む、悪魔の口蓋だ。ラウのはは譲りの真っ赤な瞳は、茶色と青の上下に位置する両極市価写さず、聞こえるのは、風が吹き荒れる寒々しいものばかり。風景は、表面ばかりを穏やかに取り繕っているが、その実情は、地獄と全くの同義。真空より薄い地平を前に、表層だけ穏やかな形にした影が一つ。
いつのまにか見慣れてしまった風景。いつか見た懐かしい風景。その残し。
見渡す限り広がる荒野は、どこまでも稀薄だった。余りにも空っぽで背筋が凍る。空から俯瞰すれば、真空より稀薄な地表が見えるだけだ。どかまでいっても見えるのは、僅かな起伏を添えた平坦な荒野。その何処にも人間が介在できる余地はない。
今更ながら、改めて思う。空っぽだ。自然が作り出した虚無ではない。うろのようなを感じさせつつも、壮大さを厳然と示し、威圧さえある雄大な造形。大自然の気紛れによって形成された無機質ながら、畏怖を感じさせるもの―ではない。
頬に感じるのは熱と砂。肌を引っ掻く細かな粒子は、きを抜けば、耳の穴や目にまでくまなく浸入してくる程に小さい。隙間とあらば、何処にでも入り込む細かさだった。マスクがわりの白い布をずらすと、焼けた熱砂が口に入り込んでくる。養分を失った土は、今や養分を吸い付くされ、泥の塊となって吐き出される。
響くのは、岩場を通り抜けた風の音。何かの動物の鳴き声の様にも聞こえる。だが、その鳴き声に応える声は返ってこなかった。渇き、ひび割れた大地。辛うじて残った植物は、痩せ細った細い茎を天に伸ばし、その身を潤す水を切に欲している。残骸という言葉がよく似合う状況だった。況してや動物等は、何処にも視認することすらできない。
元は水場であっただろう乾いた窪地が、額まで覆う黒いゴーグル越しに遠く見える。
微かに見える折れた骨のようなきはだを晒す枯れ木は、元は水辺に生えていたものだろう。散らばる白は、生物の骸。
ほぼ毎日、一年中どこでも見られるものだから、その光景はラウには見慣れたものには相違ないが、それにしては余りにも生理的に受け入れがたい異様な光景だった。立ち枯れた樹は、捻れた醜い顔で天を仰ぐ。更にそれはあちこちに散財していて、そのかずは、数える限り百はざらにある。半ばから折れたものや、根こそぎひっくり返しった木々。重なり、絡み合った枯れ木。そしてその合間に散見される骨の数々は、およそ普通は荒野の中でみられるものではなく、不気味なものだった。
がらんと広がった空間は何かを引かれた後の結果でしかなく、散らばる骸は、その引かれたものだった。一目でわかるほどの重大な欠落をかかえた荒野は、その光景を差し引いてもうそざむいものである。
まず、水、そして命を満たす為の食料。
それらが圧倒的に足りなくなったこの大地ではいきることさえ難しい。いや、困難と言う陳腐な言葉がのが霞んで見える。
水が消え、植物がかれはてると、先ずは、大型の草食動物が姿を消し、次に小型の草食動物。食べるものが無くなったものから死んでいった。そして、その死はそれを食べる肉食動物へと。喰うものから喰われるものへ、喰われるものから食うものへ。巡り巡っていき、やがて元の動物層は姿を消した。
食物連鎖。この地で起こった事はまさにその通りの円環の絶滅の連鎖だった。絶滅には、大小も、立場も関係なかった。いずれにせよ、自然現象が相手を選ぶ筈もなく、もはや死神の鎌とかした自然の暴力にあらゆる動物が頭を垂れた。飢え、渇き、なぶられて、数えきれない生物が死を迎えた。
とうに、生き物達はこの地を見放し、今となっては残るものはその残骸。骨髄迄も貪られ、肉を砂に剥ぎ取られた骨。つまり、この荒野を形付くるのは骸でもある。赤茶色の砂が舞う、墓標とは余りにそぐわない不毛極まる市の地層。
眼窩から草をつきだした頭蓋骨が空っぽの瞳で、空っぽの視線をラウに注ぐ。目を凝らせば、傍らでは大きく欠けたらその胴体が踞り、すでに朽ちた腕で、小柄な骨の塊を下記抱いている。その特徴から、かつてはこの地で栄華を極めていた大型猫かの肉食獣であると知れた。骨の色は薄曇り、かなりの古いものだった。確かに、ここは死の地だ。あしさき1歩ぶんの距離でで無惨な姿を晒す大型肉食動物の牙は、半ばから砕け、脳があった場所には大穴が空いている。
渇き、奪われ、死んだ。
ここで生き続けると言うことは、つまり、そうであることだ。
じわりじわりと水分を毛穴からこぼれて乾いて死ぬか、喰われて死ぬか。痛みの中で死んでいくか、真綿で締められるような緩慢な死を受け入れる他はない。と子供の頃から理解していた事に無意識に直面し、ラウは、身を抱える腕の力を強くした。砂漠の中で一人佇む身が、ひどく頼りない。不意に、よるよすがのない不安に襲われひどく体が重くなり、ラウは身を包む布を握り締めた。これだけしかない。呼吸を止められたよう。窒息してしまいそうな稀薄な大気がさらに薄くなり、視界が薄暗くなっていく。ゆったりした大きい服の下で浮き出たあばらが痛くうずいた。猫の額程の岩影で、光の隙間に身を埋めたラウは、もう、止めるか?とじわりと滲み出す思考を押さえる事が出来なかった。少しでもいきながらえたい。どうせ危険に身を晒すのなら、村跡に戻ったらほうが安全には違いない。奴等に見つかれば、まず間違いなく殺される。ここで、誰にも知られぬまま無意味に死ぬのなら、少しでも長く生きるほうが良い。いずれ死ぬのだから、せめては穏やかに。苦しみながら、目的も果たせずに食い殺されるなんて、それこそむだじに、いぬじにというものだ。今から引き返せば.....。
全ては、ラウが生まれる前、この地に起こった出来事らしい。
二十年前。ラウは十六才だから、ラウが生まれる四年前に、始まった。
そして、終わったのだ。
空には雲、足元には地球。生物の死に絶えた、灼熱の土地。
眼前の視界を確かめるまでもなく、その結果は分かりきっている。
ラウの父も、母も、祖母も、祖父も何も出来ずにただ死んでいく大地を見守るしかなかった。看取るしかなかったのだ。諦めて、ただ守るしかなかった。緑が、茶色に侵食されていくのを見捨てるしかなかった。豊かな土地が、失われていくのをじっと見守るしかなかった。
見捨て、早めに先祖代々の土地を見放したものは幸運だった。残された後、外界から切り離された状況は、控えめにいっても飢餓地獄と、灼熱の海。飢え死にする子供をいこたえるのそしゅうんかんまで抱き続けた母親がいれば、肉親の遺骸から肉をくってまで生き延びようとした子供もいた。正気でこの地に留まれたものはいなかった。
しかし、この地出ていくと言う選択は、その時には彼等にとっては既に不可能なものとなっていた。故に、ここで生きるしかない。それは死とほぼ変わりがなかった。真綿で締められるような緩慢な死を受け入れるという選択。
脱出に遅れた人々は今や、この地に生きることを選択した決意、故郷愛に傾いた自分を恨むしかなかった。
始まった時にはもう手遅れだったらしい。気付いた時には、彼等を育み、彼等が母と仰いだ肥沃な大地は死んでいたのだ。
今では、人間は、細々と、先の見えた人生を惰性で歩むだけ。たった一人残されたラウに希望などない。望んでも、それは叶えられ無いから。無謀なかけに好き好んで対価をはあうものはいない。負けるとわかっているのに、挑むものなどいない。この場合の対価とは、つまりラウの命。燃え尽きようとする短い蝋燭。それでも、これ以上縮めたいとは思わない。だけれどー白い骨から視線を外し、ラウは自分でも知らない間に止めていた息を吐いた。
ここでいきるという事も、ここから出ようとすることも、つまり、そう言うことだ。誰かの嘯いた声がひどく遠い。
つまり、そう言うこと―死ぬ。その一語が胸に突き刺さり、暗い熱を生む。成功の可能性は限り無く低い。十分の位置、いや、百分の一も無いだろう。
転調に輝くこの世一つの太陽が片隅に見え、光線のような帯が、目に一瞬のうちに虹の残像を焼き付ける。のし掛かる先行に目を細めるも、その視線は歪む事なく太陽を睨んでいた。先刻より激しさを増した太陽が、ラウを笑っていた。
黙ってラウは、視線を受け止めた。受け止め続けた。
―いや、駄目だ。
今更戻る事は出来ない。今更、諦める事など許されるものか。既に背負った鞄は半分程の重さに減った。諦めれば、目的が果たせなくなる。もう、ここで死を待つばかりの生活に戻る。
背負った鞄がひどく軽い。それは、残された時間。残された命。これまで住んでいた家から持ち出せたものは、それが全てだった。村中―村の残骸―をくまなく探してかき集めたのだ。これ以上、使えるものははなにもなかった。すなわち、これが最後の一度。最後の機会。その成功の有無に関わらず、もう、戻ってはこれないし、こないだろう。成功の可能性は限り無く低い。失敗はすなわち死。
それでも。とラウは叫んだ。愚かさの極まる行動であることは、自覚している。
それでも、せめて一度だけ。一度でも、外の世界を.......
より気温を上げた大気が、目から水分を奪う。
当時は温暖だった気候は、今や気温は昼間は摂氏五十度前後。乾燥した灼熱の荒野へとその身を変貌させた。遥遠くの天と地の境目には陽炎がたなびき、砂煙が渦巻く。叩き付ける強い熱風が砂をまいあげている。赤茶色の粉塵は、まるで雲霞の群れだった。空に濁ったフィルターを掛け、ゴーグルの表面に張り付いた。
赤茶けた大地に蓋をする青空。高くすみわたった空。青い天蓋を真っ白い羊の群れが駆け足で去っていく。地平線から沸き上がる雲がぐんぐんと音をたてるような勢いで迫ってくる。地平線の向こうから追いたてられた羊の群れの隙間から頭上に輝く太陽が白熱する光線を解き放ち、地表を焼いていた。雲海の更に空高くから漏れでる光は、狂暴な力を持っていた。肉を焼き、脳を沸騰させ、全身をくまなく炙る猛威。あらぶる自然の暴力の前では、食料は勿論、一滴の水さえも望む事すらぜいたくだ。人間は、砂のまにまに流される塵と呼ぶべき無に等しい存在―いや、塵とすら言えるのかもあやしく、現にその残りのたった一人の命は今や風前の灯火だった。
どうせ、死ぬときは死ぬ。いつかは死ぬのだから。
周囲とはかけ離れて冷たく凍えた頭に言い聞かせて、ラウは地べたに目を落とし、目を閉じる。出発は夜になるだろう。昼前、灼熱の大気をかき分け出歩くのは自殺行為だ。夜は奴等がうろつくが、焼かれて死ぬよりかは、幾分ましだ。何かを恨んで死ねるだけマシ。それくらいの自由があってもいい。
ラウは、だぼついた服に覆われた肉の薄い腕を、抱え込んだ。