26th Period 約束と決意
大希はぽかんと口を開け放ったまま、すっかり自由の身となっている工藤のことを見つめていた。
「全て? ……その前に、お前はどうやってあの場を抜けだしたんだ」
工藤は不敵に笑う。その男のポケットからはみ出してきたものを見て、大希は思わず声を上げた。男を拘束していたはずの手錠が、外れたまんま、ひとりでに動いている。栄花も目を瞬かせ、呆然とその手錠を見つめていた。
「俺はもう『人』じゃない。言うなればこの世の一部だ。俺はただ拘束されてやっていただけだ」
そう言いながら、工藤は空になったカップ麺の容器に手を伸ばす。すると、不意に容器が浮かび上がり、大希や未成の脇をすり抜けて工藤の手に飛び込んだ。それを弄びながら、工藤は続ける。
「俺はタイムマシンの事故に巻き込まれた。ブラックホールに似た空間に呑み込まれて、仲間が目の前で無に分解されていくのを見つめながら、俺も死を思った。だがな、そうはならなかったんだ」
工藤は手のひらを天に向けた。ゆっくりとカップが浮かび上がり、その場でいきなり潰れた。
「しばらくして、俺はふと気がついた。俺がまだ存在していることに。だが、身体自体は失われていることにもすぐ気がついた。それを感じたんだ。自分の状態を、俺は極めて客観的に把握していた」
近い経験のある未成は納得した顔をしていたが、未だに自分の存在を理解出来ない大希、そして居合わせているだけの栄花は工藤の言葉を全く飲み込めないようだった。栄花はうろたえて首を振る。
「じゃあ、じゃあなんであなたはここに? 体だって……」
「急ぐなよ。それはラストだ。……ともかく、俺はその感ずることのできる状態の中で気がついたんだ。自分が世界をも感じていることにな」
工藤はカップをゴミ箱まで飛ばすと、窓の先にある遠い空を見つめはじめた。
「本当に世界を感じていたんだ。どこの事象でも、手に取るように分かった。……世界の有り様は乱れに乱れていた。世界の『概念』とでも言うべきものが二つに分かれているようで、完全に分かれてはいなかった。全てが揃った大きな世界と、人間その他の概念を失っていた小さな世界だ」
再び頭を抱えた大希が訝しげに顔をしかめ、そのまま工藤を見上げた。
「『概念』?」
話を切られた工藤は不機嫌な様子で鼻を鳴らし、目を糸のように細めて大希を見た。
「貴様は自分で考えるということを知らんのか。……まあいい。『概念』というのは、俺も正確な名前を知らないからそう呼んでいるだけだが、要はパソコンのデータみたいなものだ。この世界というパソコンに、人間というデータがあるから、お前らは存在している」
「……つまり、私達の世界はその人間や人工物の『概念』が存在していないから、私達が飛ばされた時代から人間や建物を取っ払ったようになってたんでしょう? なら、どうしてあの場に私達は暮らしていられるの? 『概念』がないんだから、私達は消えてもおかしくないのに」
再び工藤の語りを遮ったのは、栄花だった。戸惑いを隠しきれず、目を丸くしている彼女の顔を、工藤は射抜くような視線で見つめた。
「まあ、その疑問は当然だろう。……新しく生まれた世界にとって、お前らの存在はイレギュラーだった。それが元々不安定だった世界をさらに不安定にさせた。あるはずのないものがその場にあるんだからな。そして、その不安定な状態は大きな世界も同じだった。だから、それを世界は危険と判断したんだろう。世界は自己修復を始めた。分かれ出た小さな世界を再び大きな世界に取り込み、完全な安定を取り戻そうとしたんだ」
「そして、二つの世界の融合が始まった時、僕と大希が生まれた……」
未成がそう呟くと、工藤はその神妙な顔つきを見て頷いた。どこからともなく大小二つの青い玉を取り出し宙に浮かべると、二つをいきなりぶつけ合う。
「まあ、二つを無理にぶつけ合っても融け合うはずはない。そのためにお前達は生まれたんだ。大きな世界を安定させるために、小さな世界を速やかに崩壊させるためにな」
未成は目を見開いた。今まで彼が信じてきた、『マザー』の言った見解とは正反対だった。しかし、信じろと言われれば信じられない話でもなかった。
「……僕は、僕に与えられた『特異点』としての性質は、元々僕が暮らしてきた世界を無に変えるために存在していたということですか?」
「そういうことだ。その力を、世界の意志に関わらず自分達のために使ったのが人間だ。成功すればまあそれはそれで良かったが、結局のところはしくじって、世界は共倒れの危機に瀕することになった」
未成に三人の視線が集まる。彼らをそれぞれ一瞥し、未成は再びうなだれ頭を抱えてしまった。その姿を見下ろしながら、工藤は髪を掻き上げる。
「俺はずっと外から見ていた。この男が動くに動けないまま世界が崩壊しかけて、そして一年前のものに復元されて、再び、という繰り返しを。もどかしかった。復元するたびに、世界は歪んでいく。今村大希の抜け殻、来栖未成の記憶という、完全に『あるはずのない』存在のせいで……だが、そうして世界の歪みがひどくなったお陰で、俺はこの世界に無理やり飛び出すことができたがな」
ただの狂人とばかりに見えた工藤は、今や全く得体のしれない存在となっていた。鬱屈としたため息をつき、大希は静かに椅子から立ち上がって工藤を真っ直ぐ見つめる。
「じゃあ、俺の抜け殻を殺し続けたのは、世界の歪みを修正するため。そういうことなのか」
「そうだ。そして同時に、お前達の意識を大きく変えることを狙っていた。来栖も、お前も予想通りにうろたえ、今まで取ったことのない行動を取った。お前は死体について嗅ぎまわり、そして俺を捕まえた。来栖はまんまと俺の挑発に乗せられて、こっちの世界の味方として大きく立ち回った」
工藤は三人の前を通り過ぎ、風の吹き荒れる外を見つめた。激しく降りしきる雪景色の中に、うっすらと陽の光が差し込んでいた。
「そのお陰でお前を取り巻く死の運命は全て解き放たれた。そして、今までは知りもしなかった事実をわりかし冷静に受け入れている……だから、俺は最後の手段に移る。どちらの世界も、人はいる。動物もいる。生きている。世界に取り込まれている間、俺はその事実が心に染みつくほど感じ続けてきた」
工藤は宙に浮いて飛び回る二つの球を掴み取ると、しっかりと力を込めて握りしめた。
「だから、俺には片方だけを残すような、そんな情けない真似はできない……俺は模索し続けてきた。二つの世界を活かす方法を。そして、俺は『マザー』に方法を探させた。今度こそ嘘は付くなと言ってな。そして『マザー』は見つけたんだ。俺と、お前ら二人が揃う事で初めて可能になる唯一の方法を」
大希は呆然として工藤を、そして未成を見つめた。未成はすでに自分の運命を受け入れたらしく、背筋を伸ばして正立し、じっと工藤の背中を見据えていた。静かに彼は口を開き、尋ねた。
「教えてください。それはどんな方法なんですか」
工藤は静かにポケットからタブレットを取り出し、その画面を大希達の前に突き出した。そこには、大量の青い粒が赤い球の周囲を動き回る、複雑な3D画像が描かれていた。
「一七三番元素を使う」
大希はタブレットを食い入るように見つめた。一つ取り上げても肉眼では見られないほど小さな物質に、未知の力は宿っていた。工藤はタブレットをしまうと、再び外の光に目を向けた。
「詳しい話は小さな世界でしたい。だから、これから二人には俺と来てもらう」
その口調には、有無を言わせぬ凄みがあった。大希は導かれるように頷きかけたが、寸前で思い止まり、操り人形のようにぎこちなく口を開いた。
「待ってくれ。……俺は……どうなるんだ」
その呟きには、本能で危険を感じ続けているような響きがあった。大希は祈るような目をしていたが、その甲斐もなく工藤は頷かなかった。
「これだけは言っておこう。俺達はこの世界を修復するために、俺がかつていた世界に飛び込む。その際に肉体は失われる。……ほぼ帰って来られないと考えていい」
大希は目を見開いて固まった。その隣では、栄花が雷に打たれたような顔をして、肩を小刻みに震わせながら工藤の背中を見つめていた。
「二つの世界を救うにはこれしか無いんだ。お前はまだ死にたくないだろうが、死んでもいい覚悟を決めろ」
大希はうつむいた。そして、ちらりと栄花を窺う。彼女はさらに苦しそうな顔をしていた。大希は彼女をじっと見つめ続けた。やがて深く息を吐き出すと、大希は顔を上げた。
「わかった。……でも三十分だけ待ってくれ。それくらいなら構わないよな」
「それくらいは待つ。手短に済ませて来い」
大希は立ち上がると、工藤から全く目を逸らさずに頭を下げ、そのまま大股で病室を出ていった。
「あ、待って……」
栄花は閉じた戸の音でようやく我に帰ったが、既に遅かった。無意識に身を乗り出していた栄花は、重苦しい動作で体を戻し、膝を抱えてうなだれてしまった。
その様子を工藤は窓に映して見つめていた。目を細くして、じっと見つめていた。やがて彼はため息をつき、いきなり窓を開け放った。途端に身を切るような冷たさが病室に吹き込んでくる。それでも工藤は空に差し込む陽光をしかと見据えて呟いた。
「来栖。時計塔の下で待っているから、そう今村にも伝えておけ」
「はい。了解しました」
未成が頷くと、工藤は窓から飛び降りて姿を消した。後に残された二人は、静かに見つめ合う。
「来栖先輩。久しぶりです」
かの世界で世話になってきた未成を前にして、栄花がようやく絞り出せたのはこんな当たり障りのない挨拶だけだった。未成はそんな栄花を見て静かに微笑み、その頭を撫でた。
「相変わらずみたいだね。一度決めたら突っ走るところは。君が自分達に弓を引いたって、他のみんなは君に対して激怒してたけど、僕はまあ、君なら仕方ないって思ったよ」
栄花は曖昧に微笑むと、ぼんやりと視線を宙に泳がせた。
「そうですよね。やっぱり、怒りますよね……」
「心配することはないよ。僕や大希で、必ずどっちの世界も守るから」
「は、はい。そうですね……」
未成の包み込むような声色を聞いた途端、栄花の言葉がいきなり震え、彼女は唇を噛みしめてうつむいた。未成は、静かにその姿を見つめる。
「栄花。大希の事をとても大切に思ってるんだね」
栄花は静かに頷いた。
「最初は敵のくせに、とか思ってたんですけど、気づいたら、また会いたいなんて思うようになっちゃってて。そんな人を手にかけるような事して、私はそのまま生きていく自信がなくて。どうせ恨まれる事になるんです。それなら、大切な人を守りたい、って思った矢先に……」
栄花は鼻をすすった。肩を震わせ、布団を握りしめる彼女の目には、うっすら涙が浮かんでいた。未成は励ます言葉を見つけられず、彼女の顔をただただ見つめるだけだった。
「どうして? どうして私がずっと居てほしいと思った人はみんな目の前からいなくなっちゃうんですか? 来栖先輩、あなたも含めて……」
未成はそんな栄花の嘆きに応えてやることなどできなかった。彼はただただ涙を呑み、妹のように扱ってきた栄花の肩をさすり続けていた。
その頃、大希は剣人が入院している部屋を訪れていた。椅子に腰を据えて全てを話す大希を、親友たちは真冬に冷水を浴びせかけられたような表情で見つめていた。誰も何も口にすることができず、病室は沈黙が占拠してしまっていた。
「これが……工藤から教えられた全てだ」
剣人は眉根にしわを寄せて大希のことを見つめていた。そのうち大希と視線がぶつかり、剣人は神妙な顔で口を開いた。
「なあ……本当に、それしか無いのか?」
強く頷く隣のさくらもまた、祈るというより、むしろ懇願するような瞳をしていた。大希は重々しく首を振った。
「この世界を救うだけなら、いくらでも方策はあるさ。……でも、二つの世界を同時に救うには、それしか無い。何だか分かる気がしてくるんだ。魂が教えてくれる、っていうのが一番近いかもしれない」
今までとうとうと語り続けてきた大希は、どこか悟りを開いたかのように落ち着き払っていた。健は、唇を白くなるほど噛み締めながら大希の目を見つめる。
「ガキのわがままなのはわかってる。けど、簡単には受け入れられない。死にに行こうとする友人を止めない奴はいないぞ」
「ああ、わかってる。死んだら、二度と笑いあえないしな……でも、父さんは書いてただろ。『人殺しの上に築かれた平和は、すぐに壊れる』ってさ。向こうの世界を押しのけて生き残ったところで、その平和は平和なのか? ……俺一人が犠牲になれば世界の、いや、日ノ出市の平和が守れるっていうんだ。素晴らしいことじゃないか」
「死を賛美しないで! 大希が、大希が一番わかってるでしょ……後に残される辛さ……それに、私達の約束、前提から反故にするつもり……?」
さくらは今にも泣き出しそうな顔で訴える。その声には、悲愴な響きがあった。大希は目を伏せ、唇を噛んだ。しばらくさくらに睨まれながら黙っていた彼だったが、再び彼女に無言で詰め寄られ、ようやくその顔を上げた。
「……俺は、今の今までずっと納得がいかなかった。どうして父さんが笑って死ねたのか。みんなで父さんの思いを引き継ぐって決めても、いくら理由をこねてみても、やっぱり納得いかなかった」
大希は表情を穏やかにして、宙を見上げた。
「でもな、剣人が右足を失っても、栄花が自分は死ぬとわかってても、にこにこ笑えてるの見てたら、何だかわかったんだよ。誰かを守りきったって喜びの大きさを。それが、命を代えてもいいくらいに大きなものだってことを、理屈じゃないところで……」
表情を引き締めると、彼は息を深く吸い込む。降りしきる雪もいつしか止み、厚い雲を割って黄金色の光が差し込んでいた。
「今ならわかる。どんな気持ちで、あの時、父さんが『助かったんだから笑いなさい』って言ったのか……俺達を守れて、父さんはどれだけ嬉しかったのか……すまない。俺に行かせてくれ。この街を、みんなを守らせてくれ。そして、俺の分まで、父さんの遺志を継いで、この街を愛してほしい……頼む」
さくらは肩を震わせ、膝を見つめた。健も理加も、大希から目を逸らして俯いてしまう。大希は顔を曇らせ、ちらりと剣人の方を窺った。彼はふと息をつくと、ベッドに寝転び天井を見上げた。
「俺からは何も言えねえよ。その気持ちは、俺だってわかってるしな……だから、胸張って行ってこい。お前がそう決めたなら……ただ、俺は信じないからな」
「何?」
剣人は大希の目を真っ直ぐに見据え、静かに続けた。
「信じねえよ。これが、こんな別れが、最期だなんてな。万が一、いや、一億分の一でも可能性があるなら、俺はお前が戻ってくるって信じて待ち続ける。……それだけしか、お前にはしてやれないからな……」
「お前らしいな、剣人。じゃあ、俺も信じるよ。また戻ってこられる事を……」
大希はじっと友人の顔を、まるで目に焼き付けるかのように見渡した。健は深々とため息をつくと、組んだ指を見つめて小さく口を開いた。
「仕方ない。俺がお前の立場だったら、そうしたに違いないからな……」
「大希、もうつべこべ言わない。堂々と行ってきてよ。でも……大希は諦めちゃダメなんだからね。最後の最後まで、私達のところに戻ってくるよう努力して。それが、私達に対する……礼儀ってもんでしょ? 約束してね……」
さくらの潤んだ瞳を見つめ、大希は目を閉じて沈黙していたが、やがて彼は力強く頷いた。
「ああ。絶対に諦めない。最後まで」
大希は静かに敬礼した。剣人達も息を吐きだして姿勢を整えると、真剣な顔で敬礼を返す。頭を軽く下げると、大希は戸を勢い良く開けて病室を出ていった。
剣人はその後を見つめて黙り込んでいたが、やがて隅っこで小さくなっていた理加の方に目をやる。
「理加さん、すまないが、頼まれごとを聞いてもらえないか?」
「……何でしょうか」
大希は戸を閉じると、目の前に立っている青年と顔を見合わせ、柔らかく微笑んだ。
「さあ、準備はできた。未成は大丈夫か?」
「ああ。僕は初めっからできていたよ」
未成はいつも通りの穏やかな表情をして立っていた。そのまま、彼は静かに時計塔に目を向ける。その塔は、日ノ出市から人がいなくなってしまっても、確かな時間を真正直、無感動に刻み続けていた。
「行こう。工藤さんが時計塔の下で待ってる」
二人は頷き合うと、純白の鉄塔に向かってゆっくりと、そして堂々と歩き出した。




