First Period 深夜の出来事
日ノ出市。その名に違わず、東の海岸の向こうに昇る朝日が美しい街だ。その朝日を浴びて人々は気持ちの良い朝を迎え、そして一日に赴く。それを、街の中心に立つ白い鉄塔はいつも見守っている。原子の力で動く時計を掲げ、常に正しい時を刻みながら、昔も今も、そして未来も。日ノ出の『時計塔』は、人々の変わらぬ営みをじっと見つめ続けているのだ。
これは、そんな日ノ出市の二〇二〇年の末に巻き起こった出来事である。
十月下旬、大分冷え込むようになった夜。青年、今村大希は一軒の小さな居酒屋を訪れていた。古ぼけた照明の下、香ばしい匂いが彼を包み込む。大希はその鷹のように丸く鋭い目を細め、焼き鳥を引っくり返している白髪の老人に向かって微笑んだ。
「こんばんは。牧田さん」
「こんばんは。もう友達が一人来てるぞ」
牧田も会釈を返すと、シワだらけの手で座敷の方を指差した。そこには、アイドルのような細面の美顔に柔和な笑みを浮かべている、来栖未成の姿があった。
「やあ、待ってたよ」
大希は座敷に上がり、脱いだ靴を揃えながら未成に尋ねた。
「待たせてごめん。……健はまだか?」
「うん。まだ見てないなぁ」
答えながら未成が戸の方を見やった時、勢い良くその戸が開かれる。そこに立っていたのは、筋肉質で頑丈そうな顔立ちの青年、空井健だった。彼は軽く牧田に向かって頭を下げると、大股で大希達の座っている座敷の方までやってきた。
「すまん。仕事の引継ぎ寸前に色々あって。ちょっと遅れたか?」
「いいや、俺も今来たところだ」
「そうか。それなら良かった」
大希が手をひらひらさせると、健はほっと息をつきながら座敷に腰を下ろした。そのまま彼は大声で老人に呼びかける。
「牧田さん! いつもの頼みます」
牧田は笑顔で頷くと、すぐに三本の熱燗を取り出してきた。良い色に焼きあがった九本のねぎまを皿に載せ、老人はそれらをお盆で運んできた。
「そう来ると思ってもう用意していたよ」
「いやあ、ありがとうございます」
大希は頭を下げると、お盆を受け取ってテーブルに置き、早速おちょこに焼酎を注いで一杯飲んだ。そしてそれをテーブルに置きつつ、ふと大希は店の隅に置かれているテレビを見た。ちょうどニュースが入っていて、見出しには『超光速粒子の存在が立証』という文字が躍っていた。大希はおぉと声を上げる。その目もいきなり輝き始めた。
「二人とも、このニュース見たか?」
大希が陽気な声で尋ねると、健はきょとんとした表情のままで焼き鳥を頬張る一方、未成は笑みを浮かべてしっかりと頷いた。
「うん。見たよ。タキオン粒子が立証されたんだよね」
「タキオン? 何だそれ」
健が串を皿の上に置きながら眉根にしわを寄せて尋ねると、大希は満面の笑みでその串を取り、指示棒さながらに振りながら説明を始めた。
「超光速、つまり光速を超える物質のことさ。光速を超えた物質は、時を過去へと遡る。今までは妄想の産物だとばかり思われてきたけど、ついにそれが実証されたのさ。つまり、タイムマシンが現実になるかもしれないってことだ! 最高だと思わないか?」
串の先を鼻先に突きつけられた健は、そっとそれを奪い取って皿に戻した。そのまま肘をテーブルについて顎を乗せ、いかにも訝しげに目を細めて大希の目を覗き込んだ。
「話がぶっ飛び過ぎてる。タイムマシンなんて実現できるわけないだろ。もっと現実を見ろ現実を。そんなだから子供扱いされて、彼女ができないんだ」
最後に鼻で笑われた大希は、思わず顔をしかめてしまった。今度は指を健の鼻先に突きつける。
「何だバカにして! お前こそ、変にそうやってハードボイルド気取るから女が引くんだぜ。なあ未成、お前はどう思う? タイムマシンはできると思うか?」
今の今まで平和にちびりちびりとおちょこを傾けていた未成は、いきなり話を振られて驚いたのか、むせ返ってしまった。こめかみを掻きながら、未成は苦笑いをする。
「え? 僕? 僕は……まあ、できると思うな。タイムマシン……」
「何だ。お前もタイムマシン推進派か。お前はもっと現実的だと思ってたんだけどなあ」
拍子が抜けてしまったように目を丸くしている健の顔を見つめ、未成は静かに頷いた。暗い照明のせいか、その目には光が無く、表情もどこか冴えなかった。
午後十一時。仕事を明日に控えた大希は自宅の古アパートに向かって住宅街の中を歩いていた。焼酎が回って火照った体に、秋の夜長の涼しい風が心地よい。大希は夜空に色々な星座を探し求めながら、どこかうっとりしたように見える表情を浮かべていた。
その時、大希はうっかり何か固いものを踏んでしまった。慌てて一歩下がって確かめると、そこに落ちていたのは、一冊の化学の教科書だった。大希は眉根にしわを寄せ、そっとそれを拾い上げて土埃を払い落とす。それから表紙、裏表紙に目を通してみるが、持ち主の手がかりは頭文字と思しき『K・M』の文字しかなかった。大希はため息をついてその教科書をぶら下げ、再び家路を歩きだした。
それを見つめている男が一人いた。黒いコートに、すっぽりとフードまで被っていた。男は歩いて行く大希から目を逸らすと、西に向かう彼とは正反対の方向に走りだした。足音を忍ばせ、街灯の下、黒ずくめの男は東へ向かって住宅街を駆けていく。そして、その視線の向こうに小さな人影を捉え、男はその姿を電柱の影に忍ばせた。
男が見つめている人物はふらふらと彷徨していて、まるで浮浪者だった。すり切れた黒い服を着て、何をするでもなく歩き続けているらしい。そんな浮浪者を見つめながら、男は懐からいきなりナイフを取り出した。静かに足を速め、男は浮浪者との間合いを詰めていく。浮浪者は男に全く気づかず、やはりただ歩き続けるばかりだった。そんな浮浪者に、男は全く容赦しなかった。
「消えろ」
悲鳴は上げなかった。背中からナイフを突き立てられた浮浪者は、ただその身をぶるりと震わせ、うつ伏せに崩れ落ちた。男はナイフを抜き去ると、それ以上浮浪者の様子に目を向けようとせず、血溜りを飛び越え、住宅街の中を素早く駆け抜けていった。血の臭いに興奮したのか、犬達の激しい遠吠えが、事件が過ぎ去った後の住宅街を満たしていった。