我々はレミングではない
空想科学祭2011参加作品です。
この台詞が電波や通信網を通じて全世界に広がったのは、太陽系暦への移行を二年後に控えた二四九九年、二十五世紀が終わろうかとしている頃である。
当時すでに八基の世代型超長距離運行船が太陽系を離れていたのだが、その内の二基で航行を停止せざるを得ない事故が相次いで起こり、千名近い死者と多数の負傷者を出してしまったことから外星系への探査と移民計画に慎重論が唱えられ始めていた。人は地球の外では生きられない、むしろ過密になりすぎた人口を抑制することにこそ尽力すべきであるという世論が勢力を強めつつあった。
そんな折、九基目の建造を中心になって進めていた経済大国の大統領が急遽記者会見を行った席での発言が、この台詞なのである。太陽系外へ出ることなど自殺行為だという風潮に対する牽制としての発言であったのだが、後に国家元首のおこなった恥ずかしい名言として名を馳せることとなる。
とはいえ、この発言の愚かしさとは無関係に、膨らみ続ける人々の活動に待ったがかけられたのは事実である。現在地球に暮らす、安穏と過ごせる大地から未知の領域へと踏み出すことを余儀なくされている人々にとって、この問題は他人事ではなく最も身近な恐怖の対象でもあった。結局、運行船の建造と平行して人員や航路の見直し、すでに出立を終えている運行船から希望者を引き戻すといった作業が追加されることになった。事故を起こして立ち往生となっている二つの運行船に希望者募集の通達が届いたのは、例の発言が発信されてから半年後のことである。
「ようマーク、お疲れさん」
「あ、ドクターシライ、お疲れ様です」
「おいおい、ドクターはやめてくれよ。俺は医者じゃない。ただの学者だ。しかも、人間は専門外だ」
「ですが、ミスターシライのお陰で助かった命もたくさんありました。それは事実でしょう?」
「俺が本物の医者だったなら、その倍は助けられたさ」
船外での作業を行うための分厚い防護服から腕を抜き、心底安堵したような溜め息を吐く。
「んなことより、そっちこそ頑張ってるじゃないか。復旧の進捗状況、予定よりずいぶん進んでるんだってな」
「あれは……元々事故で全てがダウンしていたところで予想していましたからね。むしろこれだけ事態が拡大したのは、僕達技術屋が未熟だったからでしょう」
眉間に皺を寄せ、同じように腕を引き抜くマークの背中を、白井の華奢な左手がバシバシと叩く。筋力こそないが、しなやかな鞭のような動きは意外なほど理に適っており、かなり痛い。
「わははははっ、アメリカ人のクセして一人前に謙遜なんてしてんじゃねぇよっ。この俺が珍しく素直に誉めてるんだ。ありがたく受け取っとけ」
「はぁ、どうも……」
曖昧な笑みを浮かべて頷くものの、マークの表情に張りはない。
「そういやマーク、今日の仕事は上がりなんだろ?」
「はい、もう帰って休むだけです」
「なら久しぶりに付き合わないか? 最近飲んでなくて一杯引っ掛けようかと思ってたんだが、相手がいなくてな」
先の事故によって多くの死者が出たことは言うまでもないが、負傷者の数も尋常ではない。そのための雑務に追われる者も含めて、安穏と毎日を過ごせる者など数えられる程度しかいなかった。常に半数以上がスリープモードにある船内だが、現状で長期の睡眠モードに入っているのは全体の五分の一にも満たない。
とはいえ、元々友人の少ない彼の相手が見つからないことと現状とは、必ずしも関係しているとは言い切れなかったが。
「いいですよ。僕も少し飲みたいと思っていたんです」
事故により、彼の知り合いも数人が被害に遭っている。命に別状はないので嘆くほどではなかったが、白井の弁を悲観的に受け取る程度の心持ちではあった。
「よし、決まりだな」
こうして金髪碧眼の大男を伴った黒髪黒目の中年は、意気揚々と歓楽地区へ足を向けたのである。
感嘆の溜め息と共に鴨居をくぐると、楽しく華やかな喧騒が彼らを出迎える。あえて照明を抑えている店内は薄暗く、しかし同時に温かな熱気に包まれてもいる。
「はぁ……」
格子状に組まれた天井を見上げ、マークは温泉にでも浸かったような声を上げる。
「ん? おいマーク、居酒屋は初めてか?」
「あ、はい。立ち飲みのバーなら、何度か入ったことはあるんですが」
「バー? ずいぶん小洒落たとこに行ってるんだな」
「そんなことないですよ。単に入りやすかったというだけでして」
「まぁ確かに、モロ外人のお前に居酒屋は似合わんわな」
そう言ってケラケラと、中年男性は無遠慮に笑う。
「いらっしゃいませぇ」
やや困ったようにマークが曖昧な笑みを浮かべたところへ、着物風の洋服に紺のエプロンを纏った若い女性が歩み寄る。製造業での労働力のメインはロボットに移行しつつあるが、サービス業は未だに人間の独壇場だ。アンドロイドの開発も進んではいるが、どうにも『何か笑顔が怖い』という状況から脱することができないでいる。
「何名様ですか?」
「二人だ。お前、タバコはやらないよな?」
「はい、吸いません」
マークの頷きを確認して、白井は続ける。
「禁煙席で頼む」
「かしこまりました。えーと――」
女性はポケットから端末を取り出すと、アルバイトらしいぎこちない手付きで何やら入力を済ませ、またすぐに笑顔を取り戻す。
「ご案内します。こちらへどうぞ」
三人は連れ立って、細かくパーティションで区切られた店内を歩いていく。同じ空間を共有しながら、決して触れ合うことのない不思議な環境がここにある。それはまるで弁当箱に綺麗に並べられたおかず達のようにも映った。
「こちらになります。ご注文がお決まりになりましたら――」
「今聞いてもらってもいいかい?」
座るなり、メニューを開く間もなく白井が問う。
「あ、はい」
「とりあえず中生二つ、それから枝豆大皿と焼き鳥の盛り合わせと刺身の盛り合わせを一つずつ」
すらすらと注文を済ませてから、目の前でようやくメニューを開いたばかりのマークへと視線を移す。
「お前も何か頼め」
「あ、はい、えっと……」
こういった場に不慣れなことを問い質すまでもないほど、視線が泳ぎまくっている。白井に比べて二回りは大きな身体が縮こまり、熊が丸まっているかのようにも見えた。ただし、滑稽ではあるが可愛くはない。
「じゃあ、この唐揚げを」
「奢りだからって遠慮するなよ?」
「……それと、こっちのフライドポテトも」
どうやら揚げ物が好きなようである。
「それでは、ご注文を繰り返させていただきますね。生ビール中ジョッキがお二つ、枝豆がお一つ、焼き鳥盛り合わせがお一つ、刺身盛り合わせがお一つ、唐揚げバスケットがお一つ、フライドポテトがお一つ、以上でよろしいですか?」
「とりあえずそれで」
「はい、ご注文承りました。ごゆっくりどうぞ」
マニュアル通りの言葉と笑顔を残して、女性は足早にテーブルを離れる。用意されていたお絞りで手を拭いたところでビールと枝豆、それにフライドポテトが届き、味気ないテーブルに彩りと香りが広がる。
「よし、まずは乾杯だな」
「そうですね」
ビールを掲げ、小さく打ち鳴らす。それが宴の合図なのは、多少の文化が違えど変わりはない。
二人は互いに競うようにしてジョッキを傾け、その黄金色の液体を喉へと流し込んでいく。弾ける炭酸が喉を叩き、滑らかなアルコールが胃に落ちる。それを心地良いと感じるのは、人間だからというより生物だからと称すべきであろう。
「くあーっ、やっぱり最初の一口はビールが最高だなぁ!」
半分ほど一気に空けたところでようやく口を離し、白井は大きく息を吐く。
「あはは、さすがにそういうのはよくわからないですね」
「まぁ、夏場のビールを味わっちまうとなぁ。さすがにマークにはわからんか」
「僕がこの船に乗ったのは十五歳の頃でしたから」
船内に季節と呼ばれるものは存在しない。それは記録として残っているだけの現象だ。航行を始めてすでに二十年以上の月日が経過しているが、約半分が常にコールドスリープ状態にあるというシステムでの運行なので、彼の体感年数は十年程度になる。一応全行程の三割程度を消化したということになっているが、現在は航行をほぼ完全に停止しているので、この先どの程度の年数を必要とするのかの試算は正確に公表されてはいなかった。管理局に対する不満と先行きに対する不安が渦巻いている中、とりあえず目の前に広がっている惨事に追われているというのが一般人の現状だった。
「そういや、お前はどうするんだ?」
いきなりの質問に、枝豆へと伸びかけていたマークの手が止まる。
「どうって、何がですか?」
「帰還事業に決まってる。通達くらい聞いてるだろ?」
「あぁ、その話ですか。もちろん参加する気はありませんよ」
「まぁそうだろうな。お前の伯父さんは移民推進派なんだろうし」
管理局から正式に帰還希望者を募る旨の告知が発表されてから、すでに一週間が経過している。しかし今のところ、この船においての話ではあるが、大きな反応は見られなかった。事故対応のためにそれどころではないという実情もあるにはあったが、むしろ興味がないという様相にも見えた。
ちなみにマークの伯父というのは、例の会見で有名になった大国の大統領だったりする。
「別に伯父が何者でどんな思想の持ち主でも、僕の思惑とは何の関係もありませんがね。とりあえず移民推進派じゃありませんよ。あの人は移民船の建造がしたかっただけですから」
「なるほどな。演説が薄っぺらなワケだ」
「僕がこの船に乗ると決めた時、地球から逃げていく負け犬とまで言った人ですよ。正直、あまり好きではありませんでしたね」
正確には、移民船に国籍というものは設定されていない。しかし実情としては、どのコミュニティが建造したかによって社会システムの基盤が定まってくる。この五番目に当たる移民船は日本の企業によって建造されており、クルーの七割が日本人である。公用語に英語や中国語も含まれてはいるが、日常会話の大半は日本語で行われていた。
そういった事情もあるので、自国での建造を期待できない発展途上国の面々はともかくとして、大国に属している側の人間がわざわざ選ぶ理由には乏しい。観光で訪れる程度なら『好き』という価値観だけで事足りるだろうが、一生を捧げるということになると溶け込む覚悟が必要になる。社会や言語の特殊性も手伝って、アジア圏以外の乗組員は全体の一割に満たない。この船はまさしく、リトルジャパンそのものなのである。
「それにしても、建前上推進派を気取っている連中ですらその体たらくなんだ。重力に縛られた地球主義者にとってみれば、オレ達は『自殺志願者』以外の何者にも見えないだろうなぁ」
口元で枝豆を弾けさせ、その塩気を堪能する。呆れた物言いとは対照的に、心地良い旨味に表情を和らげた。
「例のレミング発言ですか。確かに増えすぎた人口を減らすために間引いてるなんて考え方は、気分の良いものではありませんね。地球に残った人達は、そんな風に思っているんでしょうか?」
「さてな、自分達が選ばれたエリートだなんて思っている連中の考えていることなんざわからねぇし、わかりたくもないね。まぁもっとも、集団自殺するレミングと人間は違うんだなんて声高に叫んでいる時点で、程度が知れるってもんだけどな」
「単純に比較するにしても、配慮に欠けた発言ですよね。フキンシン、でしたっけ」
「それもあるが……ひょっとしてマーク、お前もレミングが自殺すると思ってるのか?」
「え、しないんですか?」
「おいおい、あれが――」
「お待たせ致しました」
二人の話を遮るように、大皿を抱えたウエイトレスが割って入る。とはいえそれを不快だと思わせないのは、湯気の立ち昇る料理を欲する空腹ゆえにのことだろう。
「やっぱビールと言えば焼き鳥は外せねぇなぁ」
オーソドックスなネギ間を摘み上げ、そのまま口へと運ぶ。溢れ出す濃厚な肉汁を包む甘辛いタレの風味が、ビールで潤った口内に余すところなく広がった。その様子を見て喉を鳴らしたマークもツクネを手に取るが、それを口に運びかけたところで思い止まる。
「で、さっきの話ですけど」
「あぁレミングな。多分お前の知ってる話、レミングは個体数が増えると集団で自殺するって話な、あれはデタラメだ」
串をスライドさせながら肉を引き抜き、ビールを煽る。ちなみに地球では肉の間にネギが挟まっているが、ここではその逆である。肉という名の動物性たんぱく質は完全な人工培養品となっており、野菜や果物に比べて遥かに安い。
「え、デタラメ、なんですか?」
「ああ、間違った知識だ。レミングは自殺なんてしない。少なくともそう思っての行動ではないよ。彼らの選択や行動を自殺行為だと言うのなら、あながち間違ってもいないのかもしれんがね」
「で、でも、子供の頃にドキュメンタリー見ましたよ。結構古い映像でしたけど」
「まぁ、お前さんの故郷は最新の技術が集まる場所であると同時に、古臭い宗教観に最も振り回されているお国柄でもあるからなぁ。進化論を未だに否定してるし」
「まぁ、それに関しては否定できませんがね」
彼がこの船を選んだのも、日本語が堪能という理由もさることながら、特定宗教というしがらみからの解放を望んでいたからである。実際、この船のクルーになることを望んだ『外人』の多くは、程度の差こそあれ無神論者であることを自認している。
「レミングという生き物は北極近くのツンドラ地帯に住んでいるネズミの仲間なんだが、個体数が激変することは良く知られていた。集団で自殺するって話も、随分前から民間の伝承レベルで多数存在していたし、雲から生まれるなどと言われるほど突然に増えることも知られていた」
「奇妙な生き物ですね」
唐揚げを箸で器用に摘みながら、マークは素直な感想を口にする。
「生態を知らなければそうだろうな。レミングを見た昔の人達は、突然増えた様を見て雲から湧いて出たと思い、海や川に自ら飛び込んでいく様を見て自殺をしていると思った。それ自体は不思議な話じゃないさ。逸話は伝承や民話になり、それを元にして物語が創られて人々に伝わっていく。ハーメルンの笛吹きなんかも、こういった民間伝承から派生したものなんだろうな」
「……でも、その話だけを聞いていると、自殺するって話はあながち間違いでもないんじゃないですか? 個体数が増えることによって、海や川に飛び込んだりするワケでしょう?」
「まぁ確かに、直接レミングに聞いたワケじゃないからな連中が集団で移動する時に何を考えているのかという正確なところは、正直言ってわからんよ。ただ――」
マグロ風に作られている人工の赤身を二切れ同時に摘み上げ、醤油を付けずに口の中へと放り込む。
「もし仮に宇宙人が居たとしてだ。今のオレ達を見て『個体数が増えすぎたから自殺しようしている』なんて言われたら、お前はそれに頷くのか?」
「そんなワケないじゃないですか。僕達は自殺するためにこんなことをしているつもりはないんですから」
「レミングだって同じことさ。固体が増えすぎれば食料や住環境は悪化してくる。だからそこを離れて、新しく快適な環境を目指して旅に出るのさ。もちろん、旅と一言に言っても行く先は未知の領域だ。危険もあるだろうしトラブルもあるだろう。しかしその先に楽園が待っていると思っていれば、困難を乗り越えようという気概も湧いてくる。今のオレ達のようにな」
「……なるほど。でも、だったらどうして海に飛び込んだりするんです? さすがに自殺行為だと思うんですが」
「あまり知られてはいないがな、レミングってのは割と泳ぎが達者なんだ。少なくとも宇宙空間に漕ぎ出す我々よりは、真っ当で堅実な賭けではあると思うね」
「そうなんですか。知りませんでした。てっきり溺れるものかと」
有名なドキュメンタリーが無理矢理海に突き落としていたという事実が世間に知れ渡ったのは、この逸話が世に十分知られるようになった後の話である。それでも尚この逸話が消えてしまわないのは、人間の中にそういった、自己犠牲を美徳とする主観が存在するからであろう。ちなみにレミングの和名は『タビネズミ』と称するのだが、こちらの名前で広まっていたなら事情は少し変わっていたかもしれない。
「なぁマーク、オレは少しばかり生き物の生態に詳しい程度の人間でしかないが、これだけは言える。生き物ってのは、どこまでも利己的で自分勝手なものなんだよ。もしも我々が真社会性を有する蟻や蜂のような存在であるならともかく、そうでないなら自己犠牲なんぞ偽善以外の何ものでもないのさ。地球の人間達の為に離れたなんて思われるのは、極めて心外な話だね」
「それは、全くですね」
彼は彼自身の為にこの船に乗るという選択をしたのだ。自分から犠牲になろうだなんて、微塵も考えたことはない。しかし地球に暮らす、少なくとも自分達が選ばれたエリートだと思っている人間達にとっては、自ら母なる大地を離れるような輩など、集団自殺するレミングのようにしか見えないのだろう。それが集団自殺ではないという事実ですら、無視をするかもしれない。
「人間も動物なんだ。レミングと大差はないさ。そういう点で、オレはお前の伯父さんの言葉には賛同できないんだ。移民推進に反対する気はサラサラないがね」
「……傲慢、ですね」
「そうだな。その恩恵を受けておきながら公然と批判とか、確かに傲慢だ」
枝豆を摘みながらの言葉に、マークは首を横に振る。
「いえ、ミスターシライが、ではなく、僕の伯父が、ですよ」
神妙な面持ちでの訂正に、白井はニヤリと笑う。
「大統領の伯父を真っ向から批判とは、ずいぶんと言うようになったものだな」
「正しいものは正しいと言うように、間違ったものは間違っていると言うべきでしょう?」
「その通りだ。人は絶対的に正しいワケじゃない。むしろ間違いを犯すのが人間であり、生物だ。地球にのさばっている連中は自分達を神だとでも思っているんだろうがな、人間に神は務まらんよ」
「ですね」
「そもそも――」
残ったビールを煽り、大きく息を吐く。
「どうして我々がここに居るのか、連中は一人としてわかっていないんだろう。こんな場所まで来て戻りたいなんて思うようなら、最初から船になんて乗り込んじゃいなかったさ」
「彼らは多分、本当は地球に居たかったのに逃げざるを得なかったと思っているのでしょうね」
「いや、思っているというより、思い込みたいんだろうよ。そう思うことで自己正当化を図りたいってだけのことだろ。帰還事業なんていう馬鹿げたプロジェクトをやる時間があったら、少しでも復興に回した方が賢明だろうに」
結局、議論を生みはしたものの、帰還事業への参加者は皆無だった。この結果を地球の対策委員会は経済効率の観点から計画を回避したと発表しているが、もちろん真実ではない。
少なくとも脱した人間にとって、地球はもう楽園ではなかった。
ただ、それだけの話である。
五番船『KIBOU』が再稼動と再発進に至ったのは、緊急停止の措置を行ってから二年後のことである。想定されていた航路スケジュールは大幅な変更を余儀なくされ、その行程は遅れに遅れた。しかしこういった状況を騒ぎ立てるのはいつも明確な成果を求めてくる地球の人間ばかりで、現場に居る彼らは至って冷静であった。生物は危機的な状況にあるほど争いを避ける傾向にあるというのは、白井の残してくれた言葉だ。
結局キボウは、目的地となる殖民星へ到達するまでに三度の運行停止を甘んじて受けることになる。彼は一度目で迷いを払い、二度目で人生の師を失い、三度目で自らの左腕と左脚を失った。
それでも彼は大地に――不安定で心許ない人工の大地に立ち、前を向いている。
「我々は今、一つの目標を達成した」
かつて一人の『ガイジン』でしかなかった彼は、今は皆の先頭に立つリーダーとなっており、気付けば総理と呼ばれるようになっていた。テラフォーミングは順調だ。来年には第一陣の入植者が降りる予定となっている。それもこれも、先人の積み上げてきた礎があったればこそだ。
「苦難を乗り越え、ここに一つの安心を得ようとしている。これが偉大な一歩であることは揺るぎようのない事実だ」
この、人類の移民というプロジェクトの総仕上げに当たる入植のカウントダウンを開始するセレモニーにおいて、彼は公式の場で初めて組織の首長としての言葉を連ねた。
「しかしこれは、生物としての生存本能が正常に機能した結果に過ぎない。我々が生物の一種としての『人間』に止まるのか、それとも自らの意思で大地を踏み固める『ヒト』となるのか、それはこれからの一歩にかかっている」
ここで一度民衆を見渡した彼は、後に比較される一言をここで発することになる。
「我々は未だ、大きなレミングに過ぎないのだから」
ここに、自殺をするために集まった者など、一人として存在しなかった。それは明確に、彼らが独立した命であることを証明してもいる。
だからこそ、彼らは始めるのだ。
第二の地球を作らないための努力を。