カフェなごみ -1.0
「明日から入院することになった」
10年ほど前のある日、父から突然電話がかかってきた。ちょうどその日、あたしはガラケーからスマートフォンに機種変更したばかりで、外からの着信の対応にまだ慣れておらず、あたふたした記憶が今も鮮明に残っている。
「えっ、入院?大丈夫なの?」
当時、あたしは夫と二人暮らし。子どもはいない。実家から自転車で15分ほどの場所に住んでいた。両親はあたしが中学生のときに離婚している。原因は主にパチンコだが、母のギャンブル癖が改善しないことだった。当時のことは思い出したくもない。通常の生活にも弊害が出始めて、父の気持ちを思うと胸が痛む。離婚以来、母からは全く連絡がないので、どこで何をしているのか、あたしは知らない。ふと思い出して考えることもあるが、今更関わっても良いことはなさそうだ。
あたしは高校卒業後、製菓専門学校へ進み卒業後、在学中にアルバイトをしていたホテルの洋菓子部門に採用されて、そのまま就職した。また、就職を機会にして、父の元から離れてひとり暮らしを始めたあたしに、父は何ひとつ口出ししなかった。
「お前が決めたんなら、それでええ」
それでも時折、短い電話をくれた。
「実里、元気か?そうか、それならええ」
そんな世間話にもならない、安否確認のような短いやり取りを重ねるうちに、ひとり暮らしと共に離れていた父との距離は、逆に少しずつ縮まっていった。
結婚を機に勤めていたホテルを退職して、専業主婦になったあたしは、時間に余裕ができ、週に一度は手作りの菓子を持って、実家を訪ねるのが習慣になっていた。父が若い頃より拘っていたらしいサイフォンで淹れるコーヒーをねだって、香ばしい香りと父の笑顔に包まれるひと時を味わうことが、あたしのなかでぽっかり空いていた、それまでの空白時間を埋めるようなささやかな幸せだった。なかでもマドレーヌは父のお気に入りで、レシピ教えてくれと何度も言われていたが、詳しく教えるのが面倒なので、その都度曖昧に答えていた。
父は祖父から受け継いだ家業を長年続け、コツコツ資金を貯めていたらしい。それを元にして自宅近隣に土地を購入し、駐車場経営を始めている。やがて廃業した家業の跡地にマンションを建てて、駐車場と併せて、本格的な賃貸業を経営し始めた。娘のあたしが云うのもおかしいかも知れないが、父は几帳面で努力家、まさに“働き者”という言葉がぴったりの人だ。コーヒー好きが高じて、準備も跡片付けも時間がかかって、面倒なサイフォンで淹れるコーヒーが趣味になったのも自然な流れだったのかもしれない。父には元々肺の持病があり、風邪には特に注意するよう医師から云われていた。それでも最近は元気そうだったので、”入院”という言葉には驚きを隠せなかった。
「検査入院やから、心配せんでええよ」
そう云われて少し安心していたが、後になって病状が思った以上に深刻だったことを知る。
その夜、あたしは台湾に出張中の夫信也に、インストールしたばかりのLINEで父の入院を伝えた。時差は1時間だけど、大事な商談があると聞いていたので電話は控えた。明日には帰国する予定なので、戻ってからゆっくり話せばいい。不慣れな入力に手間取りながらも、翌日の見舞いに備えて持ち物をメモしてから眠りについた。
翌朝、自転車で病院へ向かう。実家より少し遠いが、道は慣れている。父が教えてくれた病室は4人部屋だったが、入口の名札は二人分しかなかった。(岸田巌)の文字を確認し、そっとスライド式のドアを開ける。窓際のベッドで、父が本を読んでいた。
「あたしが読んだ本、持ってきたよ」
文庫本を何冊か入れた紙袋を、前に持ち上げて、笑顔で呼び掛けた
「ああ、悪いな。ありがと。ん?推理小説か?まあ、そこへ置いといて」
父はベッドサイドのラック棚を指差した。
「ここ、二人しかおらんからええわ。もうひとりも検査入院みたいやし、空気が重うならんで助かるわ。その人と交代で留守番や」
斜め向かいの空いたベッドを顎で示した。たわいもない話をして、30分ほどで切り上げた。あたしが席を立って、丸椅子を元に戻そうとしていると、父が思い出したように呼び掛けた。
「そうや、実里。悪いけどな、リビングの本棚に青いノートがあるんや。つぎ来るとき、それ持ってきてくれへんか?確か。お前の結婚式のアルバムの横にあるはずや」
「うん、分かった」
日記か何かだろうか、深く考えず、病院の帰りに実家へ立ち寄った。
玄関横のポストには何通か郵便物が入っていた。まとめて手に取って、リビングのテーブルに置いた。室内はいつも整っている。リビング奥の本棚には、花嫁姿のあたしと父のツーショット写真が、父の手作りの写真立てに入れて飾ってある。その下の棚に結婚式のアルバムが収めてあったので、目的の青いノートはすぐに見つけることができた。
「あ、これやね」
あたしは呟きながら青いノートを取り出し、トートバッグに入れようとして、ツーショット写真の隣に、木製の小さな玩具のクルマに気付いた。幼い子供用だろうか、細めのサンドペーパーで丁寧に仕上げられたのだろう、表面がすべすべした優しい手触りになっている。
「あれ?こんなん、前からあったかな?」
その瞬間、昨夜見た夢がまるで再現ドラマのように脳裏に浮かんだ。あたしは昨夜、このリビングで遊ぶ小さな男の子の夢を見ていた。カウンターキッチン、木製の食卓、20畳ほどの広い空間に、寄木造の床にしゃがみ込んで、木のクルマで遊ぶ男の子がいる。
「ブーブー、ブーブー」
誰なんやろ…。
「あんた、誰なん?お名前は?」
実里が尋ねる。
「僕のこと?僕、ナオくん」
明るい声で答えた。目が覚めてはいないのに、その場面で、夢自体が途切れていた。あたしは少し前から夢を見ることが多くなっていた。別に悩みや心配事があるわけではないのに、いろいろな情景が夢のなかに出てくる。しかも、この男の子が何度かその夢のなかに登場するのだ。あたしはトートバッグに入れようとした玩具のクルマをもういちど手に取って、しばらくその場に立ち尽くしていたが、思い直したように我に返った。
「あ、郵便も持って行かんと」
テーブルに置いた郵便物の束をトートバッグに入れようとして、重なったハガキの一部が目に入った。
(お越しになるのをお待ちしております)
とてもきれいな筆文字だ。新地かミナミのクラブかラウンジだろう。丁寧な印象を受けた。勝手に読むのも気が引けて、そのままバッグに入れた。実家を後にして自宅へ戻り玄関で靴を脱いでいると、スマホに着信があった。夫信也からのLINEだ。
(おやっさん、大丈夫なんか?予定よりひとつ早い便に変更できたから、晩飯うちで食べるわ)
父が元気そうだったこと、しばらく父の賃貸業を手伝うことになったことなどを知らせて返信しておいた。
その夜、信也はLINE連絡の通り、夕飯時間に間に合うタイミングで帰宅した。夕食の後片付けをしていると、風呂から上がった信也がぐったりしたような顔を見せた。
「今日は疲れたから悪いけど先に寝るわ」
「あら、そうなん。お疲れ様やね。おやすみなさい」
実里が食洗器のスイッチを入れ一息ついて、テレビのニュース番組を見るでもなく、ボーと見つめていると、今日、実家で見たあのハガキの美しい筆文字を思い出した。トートバッグに入れたままの郵便物の束を取り出して、テーブルに広げてみた。筆文字ハガキの差出人を確認してみる。
《さいふぉん珈琲 なごみ》
新地の飲み屋ではないようだ。父がよくコーヒーを飲みに行く店なのかもしれない。それ以上何も考えずに、郵便物に青いノートを重ねようとして、何かがはらりと落ちた。白い縁のある、古びたモノクロ写真だ。ノートに挟まっていたらしい。
「ん?赤ちゃん…。これ、あたし?かな?でもモノクロって…」
拾い上げて裏面を見る。
(昭和55年5月5日 自宅居間にて)
見慣れた父の筆跡で書かれている。これは誰なんだろう。あたしではない。昭和53年生まれのあたしが、おくるみに包まれた赤ちゃんであるはずがない。頭の中の思考回路がぐるぐる回って、ショート寸前だ。このまま眠れそうになかったので、ハーブティーでも淹れようと、食器棚を開けたとき、電子レンジ横に立てかけてあるB5サイズののスケッチブックが目に入った。
「あ、ナオ君って…」
気付けば鉛筆を握り、そのスケッチブックに、夢で見た小さな男の子を描き上げていた。
「わっ、もうこんな時間…。寝んとあかん」
静かに寝室へ入り、微かにいびきをかいて熟睡の夫を起こさないように、そっと布団にもぐり込んだ。
(ごとん)
玄関ドアの新聞受けの音。恐らく5時頃だ。ほとんど眠れていないが、目が冴えてしまった。いまは高いびきの夫を横目で見ながらリビングへ向かう。
*
スケッチブックを開いた。ナオ君だ。少し大きくなっている。
こちらへ近づいてくる。
「このクルマ、すべすべして気持ちいいなあ」
かわいい声が聞こえた気がした。忘れないうちに書いておこう。
*
懸命に鉛筆を動かしていると、背後から信也の声がした。
「どうしたん?こんなところで寝て」
あたしはダイニングテーブルでスケッチブックを広げたまま眠っていた。
「誰の絵?なんか、おやっさんを子どもにしたみたいやな」
その一言で、モノクロ写真の赤ちゃんと木製のクルマが一本の線で繋がった。あたしは夢と現の狭間がわからなくなっていたのも忘れて立ち上がった。
翌日、父の病室を訪ねた。
「はい、これ。ノートと郵便物。それから」
例のモノクロ写真を差し出した。
「ごめん。床に落として、見てしもた」
父は黙って頷き、目を細めて写真を見つめた。
「おまえの…、実里の弟や」
「ナオ君、やね?」
父は驚いたように顔を上げた。幼いあたしが覚えているはずがないと思っていたのだろう。
「これ見て、描いてみたから」
スケッチブックを差し出した。
「そうか、気に入ってくれたんやな。あのクルマ」
父はうんうんと、ひとりで頷きながら、遠い時間を旅しているようだった。あたしはそんな父をしばらくひとりにしようと、何も言わずに席を立って、缶コーヒーを買うため病室を出た。
「微糖しか売ってなかったわ」
差し出された缶コーヒーを手にしたまま、父は静かに語り始めた。
あたしが生まれて2年後にナオ君が生まれたが、突然この世を去ってしまったことなど。サイフォン珈琲を淹れるようになったきっかけや、いま心の支えである女性がいることも教えてくれた。
「お前、絵うまいな…」
帰り際の父のひと言を思い出しながら、家でスケッチブックをもういちど広げてみた。声が聞こえてきた。
「お父さんのこと任せて。それと、これ持っていくからね。お父さんが僕のことわかるように。それから…」
ナオ君は木のクルマを抱えて微笑んだ。
翌日、父は旅立った。葬儀の跡片付けをするまで気が付かなかったが、実家の本棚に置いてあった木のクルマもなくなっていた。あたしが弟を描いたスケッチブックと共に…。
「ナオ君、お父さんのこと、お願いね。それから、これ、ありがとう」
表紙に(お絵描きノート)と書かれている。表紙を捲ると、そこには満面の笑みを浮かべた3人が並んで描かれていた。
「ナオ君も絵、上手やんかっ!」




