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第三十七章『泥』(1940年 8月)

ガリガリガリ、チン。

 一千台の真鍮歯車が削り合う悲鳴と桁移動の鈴音が、浜離宮大回廊の湿った板間を揺らしていた。

潮風の湿気、タイガー計算機が撒き散らす重油の匂い、一千人の女が吐き出す酸っぱい呼気が、天井の梁に重く澱んでいる。

 第四演算班、三十八名。

ミサヲは油で黒ずんだハンドルのクランクを握り締め、狂ったように腕を回し続けた。

 右腕の肘から手首にかけて、黒くひきつったケロイドがある。

一回転ごとに、突っ張る肉がちぎれるような異音が腕の奥で鳴る。

「回せ! 手ぇ休めるな!」

 背後で、軍医上がりの陸軍少佐の靴底が板間を蹴った。

参謀本部の怒号に押し潰された男の、狂気じみた唾がミサヲの首筋へ飛ぶ。

「ハワイとバタヴィアの兵站試算だ!

コンマ数時間の遅れが、太平洋の白鶴をそのまま海へ叩き落とすと知れ!」

 カチャン、と鈍い金属音が響いた。

 十四歳の娘がクリアレバーを握ったまま、膝から板間へ崩れていた。

「……小石川へ送れ。

明朝のトラックで東北から代替を百人引き抜く」

 少佐の懐中時計を握る手が震えている。

脱落者を出せば己の首が飛ぶ。

倒れた娘の顔から血の気が引き、割れた爪を板間に立てて、肩を荒く上下させた。

 ミサヲの右腕のケロイドが、硬く引きつった。

 板間に倒れた娘の指が、まだクリアレバーに掛かっていた。

 十四歳。

 明朝、代わりの百人が来る。

 その百人の中にも、同じ年頃の娘がいる。

 ミサヲは顔を上げなかった。

 クランクを半回転させ、手首を返す。

 いつもの速さで回せば、また誰かが倒れる。

 ミサヲは次の桁へ進む手を、ほんのわずかに緩めた。

 隣の娘が、その手元を見た。

 何も聞かなかった。

 ただ、自分のクランクを回す速さを落とした。

 次の台。

 その次の台。

 三十八人の手が、少しずつ遅れ始めた。

ガリ、ガリ……チン。

桁移動の鈴音が、あちこちで途切れた。

 少佐は懐中時計を睨みつけた。

「クッ……全台、油が切れているのか……!

全員、今夜の配給は半合だ!

明朝までに歯車を磨き直せ!」

 誰も返事をしなかった。

 三十八人の手が、また一斉に動き始めた。

 速さだけが、元に戻った。

 少佐はそれを確かめると、忌々しそうに靴底で床を鳴らし、廊下へ消えた。

 倒れていた娘が、胸を上下させながら無音で肩を揺らした。

 ミサヲは唇の皮を噛み切り、溢れた血を飲み込みながら、黙ってクリアレバーを叩いた。

数日後。

阪急浜離宮大回廊。

 大回廊の端にある「浜離宮かふぇ」のカーテンレース越しに、白い陽光が落ちていた。

 銀のスプーンの先で、黄色いペーストが静かに崩れる。

「……なん、だべ……これ」

 油で黒ずんだ指先が、小さな銀器を壊しそうなほど強く握りしめられている。

「阪急モンブランや」

 時子は珈琲のカップを置く音も立てず、目の前の少女を見つめていた。

「芋と豆乳で作ってある。

食べてみて」

ミサヲがおそるおそるペーストを口へ運ぶ。

舌を刺す甘みに、喉が鳴った。

次の瞬間、大粒の涙がぼろぼろと頬の汚れを洗って落ちる。

「……こんな……甘ぇもの……」

「泣かんとって。

甘味に酔う前に、これ見て」

 時子はテーブルの端に、折りたたんだ集計用紙をすっと滑らせた。

「第四班の気象計算シート……」

 時子は集計用紙を指で押さえた。

「陸軍の古い一律補正を、機体ごとの実績に当てはめてる。

わさじいの偏西風データと、白鶴の飛行実績を突き合わせたら、過大な見積もりが見つかるんや」

 ミサヲの手からスプーンが落ち、カチャと高い音を立てた。

「……気づいたんだな、あねさま」

時子は答えず、ミサヲの右腕を見た。

「倒れた子だけやないんやね」

 ミサヲの手が止まった。

「三十八人、全員を残したかったんやろ」

 ミサヲはスプーンを握り直した。

「……一人減ったら、次が来んだ。

次も倒れっちまったら、また次が来んだ」

 声が掠れた。

「うちら、何人いだって足んねぇんだ……」

 時子は集計用紙に目を落とした。

 時子は一列の数字を指でなぞった。

「必要な予備燃料は削らへん。

実測値を根拠に、予算を査定し直す。

過大な見積もりを改める。

そこで生じた差額を、振替が認められた特定作業費の枠を通して、保守費と糧食、第四班の手当に回すんや」

 ミサヲは涙を拭わず、集計用紙を見つめた。

「……監査に耐える数字に、すんだな」

 時子は用紙を置き、ミサヲの右手を握った。

「行くで、ミサヲちゃん。

今夜はわたしの家来て」

代沢。

石原邸。

 昆布出汁の匂いと、炊きたての飯の湯気が茶の間を満たしていた。

「さ、冷めないうちに召し上がりなさい」

 テイ子が差し出した塗りの椀から、熱い味噌汁の香気が立ち昇る。

だがミサヲは畳の上で身体を硬直させたまま、指一本動かせない。

 向かいに座る男——畳の上に投げ出された鋭い眼の異形。

陸軍大臣、石原莞爾の眼光が、ただ暗く、重く、茶の間の空気ごとミサヲの呼吸を止めている。

「なに気取ってら。

食わねば冷めるろ」

 莞爾が庄内弁のダミ声で言い捨て、雑に椀を傾けた。

ミサヲが喉の奥で息を詰まらせた瞬間、隣から声が落ちた。

「とうちゃん」

 時子が箸を置く。

「言い方。

この子、朝から何も食べてへん」

莞爾は手に持った椀を止め、一瞬だけ眼の奥を光らせた。

「腹減った兵が叩き出す数字は、薬量間違えた砲弾と同じだ。

現場で狂う」

 椀を置き、黙々と飯を口へ運び始める。

「腹満たさね奴に、兵站の数字触らせる気はねえ。食え」

 テイ子の柔らかい手が、ミサヲの背に添えられた。

 ミサヲの肩が大きく跳ねた。

叩きつけられた圧に弾かれ、両手で椀を抱え込んだ。

米粒の上に涙をこぼしながら、夢中で飯を掻き込んだ。

 行灯の灯りが落ちた時子の部屋。

 敷かれた二つの布団の間に、畳の冷気が静かに忍び寄っていた。

 隣の布団から、衣服の擦れる音と、押し殺した嗚咽が漏れる。

「……あねさま」

「時子でええよ」

「……と、時ねえ」

「……なに?」

「……おっかぁの味噌汁と、おんなじ匂いすんだ」

 ミサヲの体が布地の中で丸まり、小刻みに震えている。

 時子は無言で己の掛け布団を押しのけ、ミサヲの布団の中へと潜り込んだ。

 冷気のあとに、ミサヲの体温と、汗と油の匂いが触れる。

時子は細い腕を伸ばし、ミサヲの痩せた肩と、右腕の硬いケロイドごと強く抱き寄せた。

ケロイドの角立った皮膚が自分の胸に食い込む。

 ミサヲが時子の胸元に顔をうずめ、ついに声を上げて泣き出した。

胸元に、熱い涙と吐息が深く染み込んでいく。

——泣くな。弱みを見せるな。

そう自分に言い聞かせたはずの氷が、音もなくひび割れる。

目の奥が熱くなり、抑えていたものが一気に溢れた。

暗闇の中で、二人の嗚咽が重なる。

体温と呼吸が、一つに溶けていった。

やがて、時子は掠れた声で言った。

「……死なせんための数字を、わたしが作る」

 翌朝。

神田。

婦人問題研究所。

 油墨と湿気た紙の匂いが沈殿する六畳間で、房枝は原稿用紙の上から鉄筆を上げず、眼前の二人をじっと見つめていた。

 眼鏡の奥の光は鈍く、重い。

「ほう……一千人の地獄で手首ひとつで三十八人の手を止めたかね。

どえらい度胸だて」

濁った太い名古屋弁が、部屋の静寂を削り取る。

ミサヲの右腕の傷と、時子の背後に蠢く青臭い覚悟を、冷酷なまでに丸裸にして見据えていた。

「男どもが『軍政統制』だの威張っとる足元で、あんたらは泥に塗れて生き残りの歯車回した。

……だがな、そんな現場の足掻きなんぞ、永田の帳簿に入れば一発で叩き潰されるがね」

時子は言葉を返さず、房枝の前に一枚の集計表を滑らせた。

「だから、実測値で査定し直します」

 時子の指先が、数字の列を淡々と叩く。

「わさじいの偏西風データと、機体ごとの飛行実績を突き合わせます。

必要な予備燃料は削らない。

過大な見積もりを改めて、振替の認められた特定作業費の枠を通して、保守費と糧食、第四班の手当に振り直します」

 房枝は鉄筆を置いた。

「……その数字は、監査に出せるんだね」

「出せます。

せやけど、金が動けば記録が残る。

物が届けば、受け取った人間の名も残る」

「それで、アタシに何をさせる?」

「配給です。

物資を集めて、必要なところへ届ける。

運ぶ人間も、受け渡す場所も、先生の人脈で繋いでほしいんです」

 時子の言葉に、房枝は眼鏡を押し上げた。

「帳簿を誤魔化すんじゃないんだね」

「正規の予算を振り替えます。

その先の人間まで、永田に一目で辿らせたくないんです」

「役所の紙に載らん繋がりなら、アタシらにはあるがね。

物を集めて届ける。

受け取った女らまで、あの蜘蛛の網に絡め取らせん。

そこは、アタシがやる」

 時子は黙って頷いた。

「……石原の娘らしい、汚ぇツラになりおったわ」

 房枝は立ち上がり、ミサヲのケロイドの残る右肩を、骨が響くほど強く叩いた。

「よし。

物資の手配と配給の道筋は、アタシがつけたるでね。

誰がどこへ運び、誰に渡したか。

永田に一目で追わせんよう、人の繋がりを使うでね」

 房枝は時子を見据えた。

「永田の網に、こっちから穴を開けたるわ」

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