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第四章『靚空』(1938年 8月)

浜離宮。

阪急大回廊。

 潮風がガラス窓を震わせ、東京湾のギラついた水面が天井へ白い光を跳ね返していた。

 白磁の皿に載っているのは、阪急マルーン色に妖しく光る洋菓子——阪急モンブランだ。

「おねえちゃん、早よ食べな。

クリーム溶けてきてる」

 十四歳の時子は口の端に白クリームをつけ、スプーンを豪快に突っ込んだ。

 合成バニリンの刺すような香りと、重厚な甘み。

麻布の湿った書斎と線香の臭いが、大量の糖分で強引に塗りつぶされていく。

 十九歳の靚子は、不器用にスプーンをペーストへ向けた。

「……綺麗な赤ね。

お山のかたちなのに、どうしてこんな色をしているのかしら」

「おっちゃんの騙し絵やねん」

 時子はスプーンの先でケーキの断面を冷たく指した。

「栗なんか二割も入ってへん。

あとは小豆の絞りかすとサツマイモ。

川に捨てる渋汁を梅酢で染めた、阪急電車の赤や。

クリームも綿実油の落とし子。

原価、五銭」

「五銭……?」

「地下の売店で十八銭、最上階のここで五十銭。

……でも、甘くて美味いやろ?」

 時子に促され、靚子はそっとペーストを口へ運んだ。

 濃厚な油脂の甘みが、冷たい質感とともに舌の上で跳ねる。

母を亡くしてから六年近く、何を噛んでも砂のようだった喉の奥へ、強烈な熱量が流れ込んできた。

「……ええ。すごく……甘いわ!」

 麻布の暗い重圧が、舌の痺れとともにゆっくりと解けていった。

「時ちゃん!

ちょっとこっち来なさい!」

 回廊の特等席からダミ声が響いた、小林一三だ。

 卓上には帳簿と書類。

横では佐賀弁の老学者、大石和三郎が上空一万メートルの気象図面を広げている。

 時子は靚子の手を引き、机の横へ立ち寄った。

「大連を自由港にする。

英米の商船を無税で叩き込んで、三宅坂の陸軍を干し揚げるんや」

 小林が金の懐中時計をパチンと閉じる。

大石が偏西風の図面を細い指で叩いた。

「……問題は気象電信たい」

 大石は図面から目を離さず、佐賀弁の細い声で静かに呟いた。

「上空一万メートルの風はな、嘘をつかん。

狂うのはいつも、地上の人間の手元たい。

黄海から渤海湾のデータを英文で打ち続けんとイカンが、うちの技師は油まみれで、まともな英語なんぞ書けぬ」

「三宅坂に隙を見せへん外交級の英文が要る。

……時ちゃん、誰かおらんかお父ちゃんに聞いてんか?」

「おっちゃん。

ここに最高の専門家がおる」

 時子が後ろに立っていた靚子の背中をそっと押し出した。

 靚子は背筋を伸ばし、着物の裾を静かに整えて深々と頭を下げる。

「はじめまして。

……井上靚子と申します」

 小林の目が、眼鏡の奥で一瞬にして光った。

懐中時計を握る太い指が止まる。

「……軍務局長の、井上君の御息女か」

「はい。

父より外交公文書の手ほどきを受けております。

英文データの精査でしたら、滞りなく処理できます」

 大石が眼鏡のツルを指先で押し上げ、初めて靚子の細い手元を凝視した。

その眼孔には、少女を人間としてではなく、精密な測定器として見定めるような冷たい光が宿っていた。

「……軍務局長の娘が引く線の美しさ。

これなら、陸軍の雑音も大気の乱れも、一文字たりとも混ざり込めん。

綺麗すぎる電信になるばい」

「……決まりや」

 小林の手元で、冷酷な損益計算が完結した。

「『白江航空・暗秘気象翻訳顧問』。

表に名前を出さん幽霊になってもらう。

……井上君にはわしから直接電話を入れておく。

『心置きなく三宅坂で暴れろ』とな」

「……わたしが、父の背中を守る影になれるのですね」

「役に立つどころちゃう」

 時子が靚子の手に自分の手を重ねた。

「おねえちゃんが精査した風のデータで、白鶴が飛ぶんや。

……麻布の静かな家で井上先生の無言に怯えてるより、裏部屋で騙し絵のモンブラン食べながら電信打ってる方が、ずっと合理的やん」

「ええ……喜んでお受けいたします、小林社長」

 その瞬間、小林が破顔し、傍らの宣伝部員へ手を振った。

「よし!

宣伝部、カメラ持ってこい」

「は? ……カメラでございますか?」

「はよ、陸軍と海軍の血を引く男前の嬢ちゃんらが二人も揃ってるんや。

このモンブランの販促ポスター撮るに決まってるやろ」

「おっちゃん、名前出せへんってゆうたとこやん」

「名前なんか出せへん。

『阪急百貨店が贈る秋の雅味』や。

ハイカラな女学生と格式高いお嬢様がマルーン色のモンブランをつついてる写真一枚で、阪急の客が何千人押し寄せると思ってんねん。

……ほら二人とも、皿挟んで顔寄せ合って」

 暗箱カメラが据え付けられ、マグネシウムの光が白く炸裂した。

 レンズの向こう側で、代用油脂と小豆の渋汁で作られたケーキを挟み、二人の「影」が静かに見つめ合っていた。

 数週間後。

 梅田駅、各地大回廊のコンコースに掲げられた巨大なセピア色のポスター。

『美味にして経済的!

阪急が誇る 色の芸術品』

『一個 五拾銭(地下売店にて気軽な一角 十八銭も御座います) 阪急百貨店』

 行き交う雑踏の頭上で、何も知らぬ群衆に向け、二人の少女が冷ややかに微笑み続けていた。

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