第二十五章 『室戸』(1934年 9月)
大阪。
大正区。
貯木場。
未明の重い風が、泥混じりの潮臭さを引き連れて木材の巨躯を揺らしていた。
水面に浮かぶ数千トンの杉の丸太が、不気味な低音で互いの皮を擦り合わせている。
――ギギギ、ギィイッ。
懐中電灯の黄ばんだ光輪の中で、湿った作業服を着た男たちが黙々と鉄索を繰り出していた。
背中に刺しゅうされた「阪急技研」の文字が、汗と雨で黒く濡れ落ちている。
「……縛れ。
一本でも流せば、天保山の腹に突き刺さる」
第四師団参謀の長靴が、水浸しの踏み板を踏み鳴らした。
石原莞爾は軍帽の庇を指で押し上げ、暗い水面を見つめていた。軍服の袖口から、乾いた皮膚と樟脳の匂いが立つ。
ただ指先で軍用時計の真鍮のリューズを静かに擦り続けていた。
「参謀殿、足摺の八木アンテナから暗号電です!」
通信将校が水飛沫を削って駆け寄る。
泥のついた羊皮紙の電文を差し出した。
『足摺岬、911ヘクトパスカル通過。
風速五十五メートル。
超短波感度、極めて良好』
「……来たな」
石原の口元が、冷たくひりついた。
東京の中央気象台が「平年並みの秋雨前線」と高をくくっている紙面を、石原は昨晩、便所で破り捨てていた。
「910まで下がるばい」
暗がりから、濡れたコウモリ傘を差した男が歩み出た。
筑波から阪急お抱えにされた気象学者、大石和三郎だ。
佐賀弁の濁った語調に、確信の重みが漂う。
「満潮は午前八時前。
暴風と重なれば、海面はO.P.プラス四メートルを越える。
天保山の堤防など、お冷やのコップの縁と一緒たい。
……丸太が跳ねるぞ」
「跳ねさせません」
石原は振り返り、控えていた退役下士官の作業隊長を射殺すような眼光で見据えた。
「送電線用の高圧ワイヤーで丸太枠を束ねろ。
ブロックを括り付けて水門の底へ沈めろ。
上流の陸軍兵糧庫から土嚢を二万出せ。
出さんと言ったら、第四師団の憲兵を叩き込め」
「ハッ!」
怒号とともに、数十本の太い腕が一斉に動いた。
真鍮の滑車がみしりと悲鳴を上げ、巨大な杉の幹が水底へ沈められていく。
鋼線の軋みが、暗い水面に火花のような摩擦熱の匂いを撒き散らした。
池田。
白梅館。
雨戸を猛烈にはじく暴風の地響きに、天井の電球が細かく揺れていた。
い草の静かな匂いが漂う茶の間で、テイ子は膝を折り、寸分の乱れもなく針を運んでいた。
――チク、シュッ。
木綿の布を滑る糸の擦れる音が、外の狂気のような風音をかすかに押し返す。
その傍らで、十歳の時子が膝の上の茶碗を固く握りしめていた。掌のぬくもりが失われ、指先が白く強張っている。
小さな息の乱れ。
テイ子の胸が、かすかに上下した。
テイ子は手元を止めず、視線すら落とさずに言った。
「……時子。お茶が冷めますよ」
「……おかあさん。
とおちゃん、海におるの?」
「ええ。
私たちが足元を乱さねば、お父様の陣が崩れることはありません」
テイ子の声は、静かな水面のように澄んでいた。
針先が、布の目を正確に捉える。
畳に落ちる灯りの下で、テイ子はふっと息を整え、時子の強張った小さな手を自らの手のひらでそっと包み込んだ。
皮膚の冷たさが伝わり、時子の肩からふっと力が抜ける。
「……うん」
時子は茶碗に口をつけ、ほうじ茶の温かい湯気を吸い込んだ。
二人の間に流れる異常な静寂。池田の丘を揺らす嵐の中で、そこだけが石原の足元を支える不変の要塞と化していた。
午前七時三十分。
天保山。
着底戦艦『扶桑』。
空が濁った鉛色に潰れ、暴風が海面を文字通り削り取っていた。
三十六センチ巨砲を引き抜いた円形装甲の跡地。そこに増築されたガラスサロンの鉄骨が、「ヒィイイ」と高い摩擦音を吐き出している。
四万トンの鋼鉄の巨躯が、高潮の狂暴な浮力を受けて、みしみしと海底で身悶えした。
「重油ポンプ、全開にしろッ!」
艦底の機関室。
油まみれの堀部安成が、圧力計のガラスを拳で叩き割りながら怒鳴り散らしていた。
二千トンの重油と、汲み上げた海水がバラストタンクへ叩き込まれていく。
自重を強制的に数千トン増量し、海底の泥床へねじ込む。
可撓スライド継手の巨鋼が、膨張する高潮の揺らぎを「シャリ、シャリ」と鈍く滑らせ、衝撃を外へ逃がしていた。
「はくつる」の機体群は、昨晩のうちに舞鶴の隠れ入江へ全機退避を完了している。
甲板のサロン。
窓ガラスの外は、白濁した暴風と高潮の狂気しか映らない。
防潮堤はとうに消滅し、天保山の仮設ターミナルは怒濤の海底へ沈んでいた。
だが、この扶桑の床板だけは、一度たりとも傾かない。
小林一三はガラス窓に寄りかかり、手にした冷えたソーダ水の氷をカランと鳴らした。
「……綺麗な海やな。
東京の役人どもに見せてやりたいわ」
小林の視線の先、高潮に呑み込まれた対岸の官設港湾では、数千トン級の汽船が走錨し、木造の倉庫群を木っ端微塵に粉砕していた。
東京の法令を守り、標準規格の防波堤に頼っていた他社の資産が、目の前で潰れ、流されていく。
「……買えるな」
小林が静かに呟いた。
「被災した土地も、潰れた船渠も、全部三割引きで買い叩ける。天保山は、今日からうちの庭や」
その背後で、軍服のボタンを上まで留めた石原が、腕を組んだまま水平線を睨みつけていた。
軍靴の底越しに、海底へ沈み込む四万トンの鉄骨の振動を捉えている。
「……風の道を知らん奴らが、勝手に溺れてるだけだの」
午前十時。
風が急激に弱まり、気圧の谷が東へ走り去った。
天保山周辺は泥海と化していたが、扶桑は傷一つなく海底に鎮座し、八木アンテナの送受信機は依然として大連との暗号通信を刻み続けていた。
崩落した他社の港湾施設を尻目に、阪急の直営地域と第四師団の管区だけが、要塞のように孤立して生き残っていた。
午後。
泥を被ったスカイパーラーの図面台の上で、石原が赤鉛筆を走らせていた。
十二月に予定されていた『軍艦ホテル』の開業日「昭和九年十二月」の数字が、太い赤線で力強く消し込まれる。
「……小林さん。
開業は来年、十年九月に延ばします」
小林がゆっくりと振り向いた。
「ほう? 九ヶ月もか。
銭が寝るで」
「寝かせます」
石原は指先で図面の天保山を強く叩いた。
「室戸の風はO.P.四メートルを超えた。
……東京の条約枠で作った軟弱な港など、次の戦争では一発の艦砲射撃で吹き飛んじまう。
この天保山を、単なるホテルじゃなく、大気の狂気と敵艦隊の砲撃に耐えうる『絶対不沈要塞』へ作り変えます。
九ヶ月で、全側壁を重装甲化する」
小林は数秒間、石原の濁りのない眼光を見つめ返した。
やがて、カランと氷を鳴らし、薄く笑った。
「……ええな。
それ、いくらで売れる?」
「三宅坂を買い潰せる値がつくだの」
石原は赤鉛筆を置くと、窓の外、雲の切れ間から覗く蒼穹の遙か高みを見上げた。
軍帽の庇を押し上げ、濡れた雨煙の向こう、地球の輪郭のさらに外側を射抜くような眼光を凝らす。
「……だが、直前に知るんじゃまだ遅ぇ」
石原の口から、低く濁った庄内弁が漏れた。
傍らでゴム気球の観測手帳を叩いていた大石和三郎が、ふっと手を止めて振り返る。
「……なんと言ったたい、石原さん」
「数時間前に足摺から電報打って喜んでるようじゃ、まだ下策だの。
……大石先生」
石原は腕を組み、長靴の底で床板を力強く踏みしめた。
「気球追いかけて大気の底で風を待つんじゃねぇ。
もっと早く、もっと上から……
この地球の風の生まれ故郷を丸ごと見下ろす『目』が要るだの。
……空の、さらに上からな」
大石は一瞬、佐賀弁の語気を失って目を丸くした。
だが、次の瞬間にはその細い目の奥に、天文学者としての狂気的な光を宿していた。
「……天の上から、地球を見るちゅうとか。
……恐ろしい算盤を弾く男たい、あんたは」
石原は答えず、軍帽を深くかぶり直した。
丸窓の外、引いていく泥海の中で、扶桑の巨大な影が、崩壊した大阪港を冷たく見下ろしていた。




