第二十三章 『銀巨躯』(1932年 6月)
東京。
羽田。
多摩川河口の湿った潮風のなか、その異形が鈍い灰色の光を放っていた。
全備重量二十四トン。
陸軍が三菱に造らせた九二式超大型重爆撃機――ユンカースから買い叩いた波型ジュラルミンの巨大な主翼が、黒々と湿った滑走区画を覆い尽くしている。
翼の厚みだけで大人の背丈を超え、巨躯の側面に「東希航空」の文字が躍る。
陸軍から「民生試験」の名目で払い下げさせた、三井資本の威容だった。
「水の上を這い回る大阪の泥舟など、玩具に過ぎん」
三井の重鎮が、湿った高級葉巻の煙を濁った海へ吹き捨てた。
「羽田から陸空路で大連、奉天へ直行する。
これぞ皇国の空の覇者よ。
小林の電車屋に空の使い方が分かってたまるか」
東京の紙面は「空の要塞」「白鶴を圧殺す」と連日踊り、東日本の財界は西の阪急、住友連合への逆襲に湧き立っていた。
――だが。
三宅坂。
陸軍省。
軍務局長、永田鉄山少将の執務室は、六月だというのに冷え切っていた。
卓上には、東希航空の事業計画書と、赤インクで埋め尽くされた試算表。
永田は黒漆の万年筆の先で、計画書の「羽田整備費」と「ドイツ、ユンカース社製L88発動機維持費」の項目を、トン、トン、と無感情に叩いた。
「……羽田の泥だ」
ポツリと落ちた声に、側に控えていた参謀の背筋が跳ねた。
「この二十四トンの化け物を支えるコンクリート代を、誰が出す。
発動機の液漏れを見るたび、ドイツへマルクを払い続ける気か。
三井は空を買ったつもりで、底なしの沼を買ったのだ」
永田は万年筆のキャップを静かに締め、計算用紙の端に小さく「二年」と書き走らせた。
「……三井の血を、絞れるだけ絞らせろ」
二年後。
昭和九年五月。
羽田。
叩きつける冷たい雨のなか、三井の「銀巨躯」は歪んだ姿で泥の中に沈黙していた。
着陸の衝撃で未舗装の粘土層を踏み抜き、ひん曲がった車輪がヘドロのような泥水へ深く落ち込んでいる。
自重二十四トンが、己の重みで脚をへし折っていた。
独逸からの部品供給はマルク高で途絶え、滑走路の補強工事費は膨れ上がり、東希航空は破綻した。
天文学的な負債と、主翼に溜まる雨水の音だけを残し、銀色の巨躯は雨のなかで赤錆を吹いていた。
銀座の料亭。
座敷の空気は、湿った畳と腐った酒の匂いに満ちていた。
床の間の花は枯れ落ち、集まった三井の重鎮たちは、潰れた蛙のようにうつむいたまま盃すら握ろうとしない。
下座には、三井に独逸製発動機を売りつけた三菱の役員が、無表情に座していた。
役員は静かに懐の煙草入れから一本の敷島を取り出し、銀のライターで火をつけた。
その袖口から覗く手首の動きには、動揺など欠片もない。
彼らがすでに西の小林一三と通じ、阪急・川西の『白鶴』向けに「三菱A4」エンジンを大量納入する裏契約を交わし終えていることを、ここにいる三井の老害どもだけが知らなかった。
カチ、と畳の上で誰かの拳が固く握り締められた。
「……あの、泥商人が…」
しわがれた声が漏れる。
自らの無知と過信は消え去り、焦げ付いた巨額の負債はすべて「西の小林と石原」への激しい怨念へとすり替わっていた。
スッ……と、襖が静かに開いた。
軍服用飾緒の揺れひとつ見せず、永田鉄山が入ってきた。
畳に頭を擦り付ける三井の重鎮たちの前へ、永田は静かに腰を下ろした。
「ご無念、察するに余りあります」
永田の声は、湿った座敷の隅々にまで冷たく染み渡った。
「西の石原と小林は、阪急の私利私欲で空を割り、国家の統制を乱しております。
このままでは、皇国の兵站は大阪の商人どもに買い叩かれる」
永田は、震える三井の重鎮たちの手元を見つめた。
そして、下座で煙草をくゆらす三菱の役員へ、一瞬だけ鋭い視線を走らせた。
三菱の役員は静かに煙を吐き出し、深く、深く頭を下げた。
両天秤の対価は、これで支払われた。
永田の手が、卓上の上に置かれた東希航空の膨大な欠損書類へ、滑らかに伸びる。
「皆様のその無念……
そして、この羽田の泥に消えた欠損。
陸軍が、すべて買い取りましょう」
座敷の中に、息をのむ音が響いた。
「西の息の根を止めるための『国家総動員』。
そのための軍需空路として、この会社と羽田の地盤を陸軍の傘下へ収めます」
永田の指先が、負債の束を静かに手元へ引き寄せた。
東の財閥が流した血と怨念。
そして西へ寝返った三菱の欲望までもが、永田鉄山という男の冷たい懐の中へ、影もなく呑み込まれていった。




