↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
2/37

第一章 『火種』(1928年 6月)

東京、新橋の料亭「金田中」。洗面所には梅雨の湿気が澱んでいた。

 鎮海要港部司令官、米内光政少将は軍衣の袖を捲り、静かに指先を洗っていた。

羊毛に潮風が重く残る。

 背後の杉戸が音もなく開いた。

 滑り込んできた歩兵中佐——石原莞爾の額には脂汗が浮いている。

下腹部の激痛を殺し、鏡越しの米内に寸分違わぬ敬礼を送った。

「これは米内閣下。

不調法、失礼いたしました」

 米内は手拭いで指を拭いながら、鏡の中の蒼白な顔を見据えた。

「……その湿気は、骨まで腐らせるか」

 石原は応えない。

軍服の奥で軋む浅い呼吸音だけが肉体の限界を物語る。

 米内は手拭いをゆっくり畳んだ。

「うちの航空隊にいる村神中尉がな。

横須賀で酒を飲んでは泣いておるよ」

 石原の足がピタリと止まる。

「『陸校で野砲の爆死を遂げた兄の死に様が、合点がいかない』とな」

 狭い空間の空気が固まる。

「陸軍の事故処理は雑だ。

血の拭い方がな。

……身内にまで臭うぞ」

 石原は振り返らない。

首筋の青筋が一筋、ピクリと跳ねた。

「……薬室圧力異常による事故死であります。

それ以上でも、以下でもありません」

「そうか」

 米内は手拭いを竹籠へ投げた。

「ならいい。

海軍の若造が陸軍の便所に首を突っ込んで、余計な病をもらっても困るからな」

 すれ違いざま、視線が交差する。

 米内の背筋に冷たいものが走った。

眼前の男はユーラシア大陸を立体の盤面として見ている。

「……失礼いたします」

 石原が闇へ消える。

米内は鏡の中の己を見つめたまま動かない。

あの乾いた眼が脳裏から離れなかった。


 ◇


 陸軍大学校、教官室。

樟脳と古い紙の匂いが沈殿していた。

 石原は亡き村神大尉の机の前に立ち、引き出しの奥へ指を滑らせた。

「中佐殿、村神大尉のこの手記類も回収いたしますか」

 背後の曹長が机上の遺品書類へ手を伸ばす。

「本省動員課の極秘事項だ。

海軍が臭いを嗅ぎ回っている。

これ以上踏み込めば査察が入るぞ。

お前も巻き込まれたくはあるまい」

「は……直ちに焼却処分いたします!」

 曹長は蒼白な顔で書類を抱え込み、逃げるように去った。

 扉が閉まり、静寂が落ちる。

 石原は手元に残した革綴じの背表紙の隙間から、折りたたまれた紙片を抜き取った。

 朱筆の数式。


『水上機。

滑走路は要らん。

水面がある』


 異端の航空兵站の設計図。

その最終頁から、小さな紙片が滑り落ちた。

 孤児院への送金票。

『時子 四歳』

 裏面に憲兵隊の漆黒の朱印。

——『母、三・一五事件にて検挙、獄死。

並びにソコミンテルン諜報網への軍事機密漏洩疑義』

 石原の呼吸が止まった。

 下腹部に刺すような激痛が走る。

 米内の声。

野砲の破裂音。

憲兵の朱印。

暗闇の四歳。

 石原は冷や汗を拭いもしず、二枚の紙片を見つめた。

 異端の設計図と、消されるはずだった遺児。

 薄い唇が静かに吊り上がる。

硝子玉の瞳に、狂気じみた計算の光が宿った。

 指先が白く変色するまで万年筆を握り、先を紙面に叩きつけた。

 カリと鋭い音が静寂を割る。

 破れるほどの筆圧で黒いインクを走らせ、『時子 四歳』の文字と朱印を漆黒の塊の下へ塗り潰した。

 ペンを置き、濡れた紙片を二つに折って軍服の内ポケットへ静かに滑り込ませる。

 冷たい紙片が胸の肌に触れた。

 窓の外、湿った風が木枠をカタカタと揺らす。

 石原の胸の奥で、乾いた息がひとつ、静かに落ちた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。