第10話 変化の前触れ
※この話には血の描写を含む狩猟シーンがあります。苦手な方はご注意ください。
卒業してから、村の景色はほとんど変わらない。
変わったのは――いつもの道に、もうフローラの姿がないことだけだった。
子どもたちは学校を卒業すると、それぞれ家の仕事を手伝うようになる。
ロアも例外ではなく、父・ガルンの狩りの手伝いをすることになった。
だが、フローラはもう村にはいなかった。
卒業式のあと、すぐに街の女学校へ行ってしまったのだ。
村の子どもが街へ出るのは珍しい。
きっと、娘に良い教育を受けさせたいという家族の願いなのだろう。
(……卒業式以来、全然会ってない)
ロアは手首の影守りの紐を指でなぞりながら思った。
そのとき。
「おーい、ロア! 準備はできたかー!」
ガルンの大きな声が響いた。
「今行く!」
ロアは影守りの紐を袖の中にしまい、家を飛び出した。
春になると、森の空気は少しずつ柔らかくなる。
雪が溶け、土が息を吹き返すように、獣たちも活発になっていく。
ロアとガルンが日常的に狩るのは、宵ウサギや木陰イノシシだ。
まれに、月光鹿の子どもが獲れる日もある。
森へ向かう途中、ガルンが言った。
「ロア、なぜ月光鹿は名前に『月光』とつくと思う?」
「うーん……そんなに派手な動物じゃないよね? むしろ地味なような」
ガルンは笑った。
「今まで見てきたのは雌や小鹿だからな。
でも牡鹿は、月明かりに照らされるとぼうっと光るんだ。」
ロアはその光景を思い浮かべた。
夜の森に、幻想的な光が揺らぐ――想像するだけで胸が高鳴る。
「さあ、昨日設置した罠の様子を見に行こうか。」
ガルンが言った。
狩人は槍や弓を持つが、罠を使うことのほうが多い。
派手さはないが、確実に獲物を得るための、堅実な仕事だ。
ロアは黙って父の後ろをついていく。
春の森は湿った土の匂いがして、鳥の声が遠くで響いていた。
罠の近くまで来ると、がさがさと草が揺れ、穴の底から地面を叩くような重い音が響いた。
覗き込むと、大きな影が暴れている。
「木陰イノシシの雄だ。こいつは大物だぞ!」
ガルンは荷物を降ろし、槍を構えた。
「ロア、お前は後ろで見てろ。……これは父さんがやる」
その言い方に、ロアは父の気遣いを感じた。
ロアは少し離れた場所に下がり、息を呑む。
ガルンが槍を振るうと、猪が大きな叫び声をあげた。
ロアは思わず目をつむった。
「ロア、終わったぞ。急いで血抜きしよう」
ガルンの声に、ロアは目を開けた。
二人で木に猪を吊るし、首元から血を抜いていく。
ロアは作業をしながら、初めて血抜きをした時のことを思い返した。
あのときの獲物は、木陰イノシシの子どもだった。
猪の首元から流れる血は、ロアにはただの『暗い液体』には見えなかった。
影守りの紐を染めた水よりもずっと熱く、重い光――命の灯そのもののようだった。
それを直視した瞬間――
視界がぐらりと揺れて、世界が遠のいていった。
気がついたときには、ガルンの背中に揺られながら家に運ばれていたのだった。
今はもう、倒れたりはしない。
燃えるように熱い血が地面に落ちても、目がくらむことはない。
それでも心臓はどきどきと落ち着かず、
ロアは胸元をぎゅっと握りしめながら、小さくつぶやいた。
「大丈夫……大丈夫……」
血抜きが終わると、ロアはガルンの荷物と武器を預かり、
ガルンは猪を背負って家へ向かった。
家に着くと、いつもの作業が始まった。
ガルンが猪を台の上に横たえ、手際よく解体していく。
ロアは横で道具を渡しながら、解体されたものを受け取り、下処理していった。
毛皮は干し場へ運び、しわを伸ばして木枠に張る。
牙は、水で汚れを落としたあと、布の上に並べて乾かす。乾いたら、小さな布袋にしまう。
肉は部位ごとに切り分けて、母・リネアに渡す。リネアはそれを台所へ運んでいく。
血の匂いはまだ少し苦手だけれど、
家族で手を動かしていると、不思議と落ち着くのだった。
しばらくすると、弟のリオが学校から帰ってきた。
「すげえでかい毛皮! 父ちゃん、兄ちゃん、すごいな!」
ほとんどはガルンの働きだったが、ロアは少しだけ胸が温かくなった。
取れたての肉を、リネアがシチューにしてくれた。
木陰イノシシの肉は硬いが、煮込むと旨みが出る。
「二人のおかげで美味しいごちそうになったわ。いつもありがとうね」
リネアの言葉に、ロアは照れくさそうに笑った。
……そんな日常が、これからも続くと思っていた。




