第6章 国家の掌
深夜のビジネスホテルは、昼間の安っぽい明るさを失い、異様なほど静まり返っていた。
自販機の駆動音が遠くで鳴り、空調の低い唸りが天井裏から響いてくる。
草薙は部屋の前で一瞬立ち止まった。
ドアノブの金属は冷たい。触れた指先に、その冷えがじわりと残る。
部屋に入るとすぐにチェーンを掛けた。廊下に人影はない。草薙は携帯電話を取り出し、リスク承知で電源を着けた。
携帯電話に明かりが灯ると同時に、大量の着信履歴が表示された。
「容疑者か......」
自身の置かれた立場を痛感する。
草薙は二階堂とケニーに滞在場所と状況説明のメッセージを送ると、無意識に本条にも送信していた。もはやこの状況で頼れるのは二人しかいない。
携帯電話の電源を再び切り無造作にベッドに倒れ込むと、草薙に一瞬で睡魔が襲ってきた。
今日一日の出来事が嘘だったかの様に瞼は軽かった。決して寝心地が良いとは言えないベッドの上でも極限の緊張感は睡眠欲には勝てない。
ドアの外で微かな衣擦れの音。反射的に草薙は目を覚まし、部屋の明かりを消した。
闇の中、雨音が規則正しく続く。
ドアノブがゆっくり回る。
鍵はかかっている、だがチェーンが小さく揺れた。
ノック、短く二回...... そして低い声。
「……俺だ。ケニーだ」
草薙は一瞬、動けなかった。
ケニーにメッセージは送っていたが、本当に味方なのだろうか......。
草薙はチェーンを掛けたままドアを数センチ開ける。
廊下の薄い非常灯に、ケニーの顔が浮かんだ。
「無事か」
「……それなりに」
草薙は視線を逸らさず答えた。
疲労を隠せない草薙の顔。ケニーはそれでも目の奥の鋭さは失っていない事に暗闇でも気づいた。
ケニーは部屋に入ると、真っ先に天井の隅を見た。
監視カメラの有無、盗聴器の可能性、壁の通気口。
習慣のような動きだった。
「ここ、セーフとは言えない」
「分かってる」
草薙は小さく頷いた。
それでも、今はここしかない。
「正直に言う」
ケニーは低い声で切り出した。
「俺は米国政府の命令で動いてる。君を確保する権限もある」
草薙の指は無意識にベッドの端を掴む。逃げ場はない。
ここで拘束されれば、それで終わりだ。
「……だが、その命令に君を守れは含まれていない」
「じゃあ、何でここに来た」
ケニーは一瞬だけ言葉を探し、そして吐き出す。
「ヴィンセントの死を、無意味にしたくない」
その名前が出た瞬間、草薙の胸が締め付けられる。
覚えのない記憶はヴィンセントの記憶......。
「俺のドナーはヴィンセントなのか?」
ケニーは無言で頷く。
―――本条とバーにいた男。
―――地下通路で銃撃された男。
―――プラチナブロンドの髪。
事実を知った草薙はケニーから視線を逸らした。
記憶で見た血の色が、頭から離れない。
「父親が殺した人の心臓で俺は助かったのか......」
草薙の心臓は雄叫びをあげるかの様に脈を打っていた。
ケニーはポケットからUSBメモリを取り出し、草薙に見せた。
「これは?」
「米国が握っている草薙煌史とH.A.D.E.Sの情報......。 正直、何を信じれば良いのか分からなくなった」
ケニーは机の上にUSBメモリを置くと、ベッドに座り手で顔を覆い俯いた。
草薙はテーブルに置かれた小さなプラスチックの塊が、爆弾の起爆装置のように見えた。触れるのが怖い。
ノートPCを開きネット接続を切ると、Wi-Fiのアイコンが消えるのを確認してから、USBを差し込んだ。
この程度で安全になるわけがないと分かっている。
それでも“やっている感覚”がないと、心が耐えられなかったのだ。
「君の父親は、ただのテロリストじゃない。だが、善人でもない」
ケニーの言葉は草薙の緊張感を最大限に高めた。
フォルダは三つ。
『LOG』『SCOPE』『GIFT』
草薙は最初に『LOG』を開いた。日時と座標、そして短い英語のメモが並んでいる。
《取材先:中東某国・非公開施設》
《同行者:米情報機関要人》
《記録の一部は削除済》
削除済――という文字が、逆に“消された事実”を強調していた。
恐る恐るファイルを開くと、荒い映像が再生される。
砂嵐の向こうにコンクリートの施設。
武装した兵士。
そして、カメラの向こうから聞こえる男の声。
「この場所で行われていたのは、単なる武器取引じゃない。国家が国家に依頼する殺しだ」
ケニーが映像の音に反応した。
草薙の背中に冷たい汗が流れる。
「この日を境に失踪したとするなら辻褄が合う」
吏絵から聞いた父親の失踪時期とフォルダの記録は同時期であった。
「ただのテロリストじゃない。米国の諜報員でもある」
ケニーは間髪入れず続けた。
「H.A.D.E.Sは、国家の影で育った組織だ。米国も、日本も、都合の悪い汚れ仕事を“外注”してきた。恐らく君の父親は監視を名目に、政府と組織の繋ぎ役を行っていたんじゃないかと推測している」
草薙はあまりの情報量に思考がついてこなかった。
「違うフォルダも見てくれ」
草薙は『SCOPE』のフォルダを開く。
画面には東京の地下構造図が映し出され、
配電網、通信網、交通の要衝。
赤いポイントが、都心の“喉元”に刺さっている。
「―――これは」
草薙は鋭い目つきをケニーに向けた。
「東京テロ予告の計画図......。 対象は東京駅の地下。これが実行されれば、東京の首都機能は壊滅だよ」
ケニーは身を乗り出した。
「本来、H.A.D.E.Sの役割は自作自演のテロ予告をして、政府に速やかに解決させる。いわば政治の道具にすぎない組織だったんだ」
「今の状況は組織が制御不能になっている?」
「そういう事。テロ計画が分かっていたから、これまで大事故は起きなかった」
ケニーの口調は怒りの感情が混ざっている。
「今回自作自演ではない可能性は?」
「次のフォルダを見てくれ」
ケニーはパソコンを指さし草薙の質問を遮った。
最後のフォルダ『GIFT』を開いた瞬間、草薙は息を止めた。
そこには、事件現場の写真が並んでいた。
ボストン。
N.Y地下鉄。
グランド・セントラルの地下通路。
床に倒れた人影。
「これはヴィンセントの写真......。」
草薙がPC画面に映る写真を拡大し、ヴィンセントの頭部の銃創を確認すると、ケニーが割り込んできた。
「さっき自作自演のテロって俺言ったよね?」
「何か引っ掛かる事あるのか?」
草薙の興味はPCに向いていた。
「ヴィンセントとコンビを組んでいた時に感じていたんだけど、犯人や爆弾見つけるのはいつもヴィンセントだった」
「ヴィンセントが能力高いだけじゃないのか?」
草薙はPC画面を見ながらそっけなく返答した。
「H.A.D.E.Sと関わっていたとしたら?」
草薙の手が止まる。
「いや、だとしたら殺される理由は?」
草薙はPCからUSBメモリを抜き取りケニーに振り向いた。
「その理由が思いつかない......。 とにかく今の状況を整理すると、H.A.D.E.Sが政府に対し何ならかの理由で
報復しようと企んでいる」
「東京のテロがその一つ?」
「そうだ。“見せしめ”と“交渉材料”。どちらにも使える」
草薙は唇を噛んだ。
国家が“都合のいい悪”を育て、制御を失えば切り捨てる。
そして父親が報復側についた。
「俺はこれからどう動けばいい?」
ケニーはポケットから紙片を取り出し、机に置いた。
紙片には英文で住所が書かれている。
「セーフハウスの住所だ。今は俺が使っているからここに移動した方がいい」
「罠の可能性は?」
「罠であっても行く価値はあるよ」
草薙は紙片を掴む。
紙が薄く、すぐ破れそうなのに、重く感じる。
「……俺を利用してるのか」
ケニーは視線を逸らした。
「利用していると言われればそうなるけど、それだけじゃない」
沈黙が落ちる。
雨音が、部屋の外で一定のリズムを刻む。
「俺は、あいつの友達だった」
ケニーの声が僅かに震えた。
「……だから、終わらせたい」
草薙は頷いた。
この男もまた、失った側だ。
その瞬間、壁の向こうで足音が鳴る。
誰かが廊下を歩いている。
ケニーが即座に草薙の腕を掴んだ。
「今すぐ出る」
「何かいるのか?」
「壁の内側でエレベーターが動いてる」
草薙は非常口の位置を思い出す。
二人は部屋を出て非常階段へ向かった。
廊下の奥で、エレベーターの到着音が鳴った。
「来る」
ケニーが低く言う。
二人は階段を下りながら足音を抑え、呼吸を殺す。
階下の踊り場で、スーツの男が二人、静かに会話しているのが見えた。
イヤホン、腰のラインに不自然な膨らみ。
銃を持っている。
ケニーは草薙を壁際に寄せ、合図だけで“待て”を示す。
数秒。
永遠のような数秒。
男たちが階段を上がり始めた瞬間、二人は反対方向へ動いた。
靴底が擦れる音が、心臓の音と重なる。
外に出たとき、雨は止んでいた。
濡れたアスファルトが街灯を反射し、妙に美しい。
「ここから先は別行動だ」
ケニーが言った。
「また会えるか」
草薙の問いに、ケニーは一瞬だけ黙った。
「生きてたらな」
二人は別れた。
草薙は夜の街へ歩き出す。
国家の掌の上で、それでも自分の足で進むしかない夜だった。




