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往還の季節

作者: 釈蓮
掲載日:2025/10/08

 放課後を告げるチャイムが鳴る。九月一日。高校一年の二学期。その初日が終わった。

 二学期早々、部活動へ急ぐ者。教室に残って夏休みの思い出話に花を咲かせる者。いそいそと家路につく者。そのどれにも加わらず、僕は夏休み前もそうだったように、一人図書室へと向かった。

 何か用があるというわけではない。むしろその逆で、何も用などないから、図書室へ行って放課後の無聊をなぐさめる。試験期間でもなく、ましてや二学期の初日であるその日に、図書室を使うような生徒はそういない。実際、一般教室棟に満ちていた人声は、そこを出て図書室へ近づくほどにしぼんでいき、ドアを閉めれば、一切の音がしなくなった。

 静寂ーー。部屋に入ってすぐ右手に、古時計がかけられた壁を背にして、貸し出し用カウンターがある。普段なら図書委員か司書の先生がいるのだが、その日そこには誰もいなかった。ただ、窓から差し込む陽の光が、立ち並ぶ書架に陰影を投げかけていた。

 静寂ーー。僕はこの静けさが好きだ。わずらわしい現実や目を背けたくなるような事実は、すべてドアの向こう側。世界を向こうへ閉め出して、あるいは世界に閉め出されて、僕は一人、放課後の時を過ごす。日常の喧噪から隔離された空間。死後の世界があるとすれば、きっと、こんな静寂に包まれているのだろう。

 薄汚れたタイル敷きの床を踏みしめて、入口とは対角線上のいちばん奥の書架へ向かう。特にこれといった目的はない。ただなんとなく、その日はその書架を見てみたかっただけのことだ。

 その書架には何かの全集のようなものが並んでいた。黒い布張りの上製本で、書架を埋めるその並びには、厳粛な時の流れを思わせる、伏し拝みたいような貫禄があった。だが、もう長い間、誰からも忘れられているようで、背表紙の題字は擦り切れて読めないし、微かな黴臭さを発していた。

 そのうちの一冊を手に取る。布地のやさしい手触り。ほど良い重量感。シックな装丁。こんな本を自室の本棚に並べたら雰囲気が出るだろうな。そう思いながら、ページをぱらぱらとめくってみる。煽られた黴臭い空気が鼻をくすぐった。古い本の香り。

 ページを半ばまでめくったとき、何か白いものが紙面をすべり落ちていった。思わず受け止めようとしたが果たせず、持っていた本も一緒に床へ落ちていく。破裂音に似た音が、一瞬、静けさを破った。ため息をつきながら、しゃがみ込んで本を拾い上げる。表紙、背表紙、裏表紙。ざっとページをめくる。どこかが折れたり、汚れたりといったことはなさそうだった。

 少し離れたところに、白い封筒が落ちていた。どうやらその封筒が本にはさみ込んであったらしい。図書委員の仕事もいい加減なものだ。もう何年も気づかれずにそのままだったのではないだろうか。近づいていって、これも拾い上げる。長い間、本に閉じ込められて眠っていたからか、その白さははさみ込まれたその時のままを保っているようだった。

 大方、誰かが栞の代わりにはさんだまま、返却してしまったのだろう。それにしても、栞を封筒で代用するとは、変わっているというか、ズボラというか。手元にあったものをとりあえずはさんでおいたのだろうか。前の借主の人柄を邪推しながら、何の気なしに封筒を裏返す。


  遺書


 そこにはそう書かれていた。


「そんなところで何をしているんだ」

 不意に声がして、喉の奥で変な音が鳴った。振り返ると、怪訝そうな表情をした女子生徒が立っていた。自分では気づかなかったが、どうやらかなりの間、封筒を見つめたまま硬直していたらしい。

 女子生徒の上履きに目線を走らせる。黄色のライン。二年生。ひとつ上の先輩だった。

 くくらずに下ろした茶色がかった長い髪。夏服からのぞく顔や腕はほどよく焼けていて、活発そうな雰囲気を醸し出していた。すっきりした顎、すっと通った鼻筋。綺麗な人だなと思わせる顔立ちだったが、鋭い眼差しと細く整えられた眉がどこかきつい印象を与えてくる。全体としてはーー怖かった。

「その封筒がどうかしたのか?」

 そう言いながら歩み寄ってくる。目線の高さがほぼ同じだった。先輩が手を差し出す。僕は口ごもりながら、封筒を手渡した。そこに記された文字を見ると、怪訝そうな表情が一層険しくなった。

「これは、君のものか?」

「違います。僕のじゃありません。はさんであったんです。この本に」

 僕は強く首を横に振りながら、手に持っていた例の本を突き出した。

 先輩はその本も受け取り、封筒と合わせて、しばらく矯めつ眇めつしていたが、外観から何が分かるわけでもなく、やがて諦めたような様子でそれらを僕に返した。手渡すとき、その表情が少し和らいだような気がした。

「とりあえず、君のではないなら安心だ。いきなりそんなやつが目の前に現れても、どうすればいいか分からないからな。だがーー」

 先輩はもう一度、僕の手にある封筒に視線を落とす。眉間にしわが寄る

「本にはさんであったとは言え、封筒がちょっときれいすぎるような気もするな。もしかすると、その遺書がはさまれたのは最近のことで、下手をすれば今日の可能性もある」

 何気なく口にされた「遺書」という言葉に、ふっと胃が下がるような感覚がした。遺書ーー。書き残すもの。誰が、誰に、何のために。

 途端にまた、図書室の静寂が意識された。誰もいない静けさ。隔離された静けさ。こちらとあちらを閉め切る境界線、それは死。

 遺書ーー。それはあちらに行こうとする者が、こちらに残る者に書き残すもの。それは、何のためにーー。

 先輩がつぶやいた。

「誰かが今日、死ぬのかもしれない」


 ただ封筒が新しそうということだけから導かれた粗雑な推論。この遺書が書かれたのはもう何年も前のことかもしれないし、そもそも趣味の悪いいたずらだったということも十分にあり得る。だが、まったくあり得ないという推論でもない。

 誰かが死のうとしているかもしれない。おそらくは自殺。自殺。自殺。頭の中が次第に冷えていく。十五歳から十八歳の、僕と同年代の人。教職員の可能性ももちろんゼロではないが、なんとなく、この遺書のイメージにそぐわないような気がした。同年代の人間が、誰か、死のうとしている。十代でこの世を去る。あり得ないこと?そんなこともないだろう。わずらわしい現実、目を背けたくなるような事実。それと正対して消耗しながらも生き続ける意味や価値。疑問。深い絶望。それは誰の胸の内にもあること。それらから解放される道がひとつしか無いのならば、僕はーー。

「おい、何をしてる」

 先輩が僕の右腕をつかむ。その表情には困惑が浮かんでいた。

「この封筒を、元に戻しておこうと思って」

「どうして」

「そっとしておいてあげた方がいいと思ったんです」

「なんで」

「死ぬことを選んだかもしれない人間の行く手を邪魔するわけにもいかないでしょう」

 そう言った瞬間、僕の右腕が強く握りしめられた。思わず顔をしかめる。

「正気かよ、おまえ!」

 思いのほか強い語気に気圧される。蛇に睨まれた蛙。全身の毛穴が閉じる。

 困惑をとおり越して、先輩の顔には怒りの気配があった。

「人が誰か死ぬかもしれないんだぞ。見て見ぬふりするつもりかよ」

 心臓が早鐘を打ち始めたが、努めて冷静を装う。

「でも、実際に誰かが死のうとしている可能性なんてそんなに高くないですよね。いたずらかもしれないですし」

「馬鹿か!人の命がかかってるんだ。ゼロじゃないかぎりは無視できない可能性なんだよ!」

 険しさを増す表情とともに、さらに腕を握り込まれて食い入らんばかりになった。さすがに耐えられなくなり、口から小さく呻き声が出る。先輩の息を呑む気配が伝わり、僕の右腕は解放された。握られた部分に思わず手が伸びてしまい、当てつけがましかったかと不安になって、先輩の方を見てみると、かなりばつの悪そうな顔をしていた。僕から目をそらして、先輩が口のなかで何かもごもごと言う。ごめんと聞こえたような気がした。悪い人ではなさそうだった。


 再び静寂が支配する。腕の痛みはすぐに収まったが、これ以上の抵抗を試みるつもりはまったくなかった。大人しく先輩の言うことを聞いていた方が、物事が丸く収まりそうだ。沈黙を破って、僕から声をかける。

「じゃあ、どうすればいいんですか?死に活路を見出した人間から、それさえも奪えばいいんですか?」

「そうだ」

 力強い即答とともに、先輩の視線が僕を射った。鋭くて強い、決意に満ちた眼差しだった。だが、

「それは、酷だと思います」

 僕の正直な思いだった。八方ふさがりで、もうどうにもならなくなって、苦しくて仕方がなくて、最後に残された方途が、この遺書ではないのか。それを取り上げるのは、酷だ。

 しかし、先輩の瞳は揺るがない。

「かもしれない。だが、死はおまえが言うような活路なんかじゃない。活路は生きる中にしかありえない。死は、死でしかない」

 あなたとってはそうなのかもしれない。あるいは、そう信じられる強い人にとっては。そういう人ならば、精一杯生きる中に、活路が開かれるのだろう。だがそれは、弱者の論理ではない。

「それを、その人にも言えるんですか。もう何にも希望を見出せなくなって、生きることに失望しきった人にも」

「言える」

 また即答だった。揺るぎない瞳のまま、先輩はつづける。

「言える。言ってやるよ。どんなに泣き喚かれても、おまえの言う失望の中に引きずり戻してやる。引きずり戻して、死ぬまで生きろって言ってやる。希望が見つかるまで苦しみ続けろって言ってやる。それにーー」

 途中で言葉を切ると、先輩はわずかに微笑んだ。鋭かった眼光がにわかに柔らかくなった。

「それに、さっきはあのように言ったが、もしその遺書がおまえのものだったとしても、あたしは全力で止める。最悪、ぶん殴ってでもな。なんなら今、おまえを殴ってもいい」

 思わず僕は笑ってしまった。感嘆と諦念がないまぜになって、思わずこみ上げてきた笑いだった。

「さっきまで人の腕を軽く捻っといて、趣味の悪い冗談ですね」

「言うな。借りだ。好きにしてくれ」

「強いですね」

「おちょくってるのか」

「褒めてるんです」

 嘘ではなかった。この人は強い。健康的で、芯があって、そして、生きるということを無条件に信じられる無邪気さがある。安易に希望を語る、無自覚な無邪気さ。暴力的な無邪気さ。この無邪気さが人を殺す。無自覚の暴力。

 この人には理解できない。決して逃げられないわずらわしい現実を。いくら目を背けても視界に入り込んでくるどうにもならない事実を。なぜなら、この人は強いから。この人なら、どんな艱難でも乗り越えていく。打ち破っていく。そして、それが誰にでもできることだと思っている。

 再び、静寂が下りた。自分の呼吸が意識された。

 やはり、抵抗しても徒労に終わるだけだ。僕はそう判断した。

 別に、是が非でも貫き通したい信念があるわけでもない。助かる命が助かって、明日を取り戻すことができるのなら、それに越したことはないだろう。それができるというのなら、強いて止める必要もない。だが、死に寄り添うことができるのは、死に傾斜した者だけだ。生の希望を語るのは、いつだって死を理解しない人間だ。だから、希望を語る者に死への傾斜を止めることはできない。死に傾斜した人間が、生の希望を理解することもない。同じように、僕と先輩は分かり合えない。これ以上のやり取りは、無駄だ。そして、いつだって折れるのは弱い者だ。

「分かりました。先輩の言うとおりにしましょう」

 そう言うと、先輩の顔に明らかな安堵が現れた。

「そうか。じゃあ急ごう。こうしている間にも、もう手遅れになっているかもしれない」

 焦りが見え隠れする声音で、先輩は僕をせかす。しかし、その声は心なしか弾んでいるような気もした。だが、そんなことを気にしていても仕方がない。手遅れになるかもしれないのは事実だ。急ぐに越したことはない。

「そうですね。じゃあ、これを先生に届けてきます」

 本を書架に戻し、封筒を片手に先輩の隣りをすり抜ける。が、今度は左腕をつかまれた。

「ちょっと待て」

「はい」

「それはダメだろ」

「え?」

 困惑する僕を見て、まるで見せつけるかのように、先輩は大げさなため息をついた。

 それから、物分りの悪い生徒を教え諭すような、困ったような口調でつづける。

「こんなナイーブな問題、むやみやたらに広められたら、そいつも困るだろ。第一、教師なんざ信用できないからな。そもそも、それを書いたやつだって、誰にも相談できないからそうなったんじゃないのか?まあ、教師に相談したくてもできなかったのか、あたしみたいに教師を信用できないからしなかったのか、それは知らないけどな。でも、もし後者だったらどうする?横から教師がしゃしゃり出てきたら、逆効果かもしれないぞ」

 そう言うと、先輩は僕の手から封筒を取り上げた。横からしゃしゃり出ているのはこの人も変わらないような気もするが、その言い分には一理あるようにも思われた。

「じゃあ、一体どうすればいいんですか」

 そうは言ったものの、大体、予想はついていた。

「君とあたしの二人で探そう」

 悪い予感は外れない。どうせ人生そんなものだ。

 それから先輩は僕の左腕から手を離すと、その手で僕を指差し、そのまま手を返して今度は自分を指差した。

「君がヘイスティングスで、あたしがポアロだ」

 僕ははじめて、この人の満面の笑みを見た。油断できない、愛らしい笑顔だった。

 

 図書室を出ると、何か楽器の音が聞こえてきた。図書室でも聞こえていたのだろうが、まったく気づかなかった。この校舎のあちこちで、吹奏楽部が個人練習でもしているのだろう。まとまりのない音の羅列。窓の向こう、遠くに見えるグラウンドでは、照りつける西日のなか、運動部の連中が駆け回っていた。疲れることを知らない青春の輝き。飽くことなく繰り返される平凡な放課後。それは、見る者によっては、わずらわしい現実そのものでもある。

「じゃあ、ヘイスティングス。あたしたちはこれからどこに行くべきか。君はどう思う?」

 後ろ手にドアを閉めると、先輩が尋ねてきた。ある程度考えはあるが、その前に言いたいことがある。

「待ってください。ここからずっとそのノリでいくんですか?」

 正直、きつい。

「だめか?」

「単純にいやです。大体、ふざけているような状況じゃないでしょう?」

 先程まで見せていた熱意溢れる真剣な態度、何が何でも救い取るんだという激情。それとは打って変わった、この状況を楽しむような態度に、僕はどこかきまりの悪さを感じていた。その僕の思いを察したのか、先輩の眼に従前の鋭さが戻る。

「あのなあ。こういう状況だから、あえてふざけてるんだろうが。これを書いたやつのこと考えると、こっちまで気が滅入ってくるんだよ。そんな気分で、もしそいつに出くわしたらどうするんだ。あなたに同情してますよって辛気臭い顔した二人組に諭されても、そいつも困るだろうが」

 明らかな詭弁だが、この人なりの考えがあってしていることなら、とやかく言っても仕方がないだろう。そもそも、死に急ぐ人間の気持ちがこの人に理解できるとは、微塵も思ってはいない。

「それはそうとしても、ヘイスティングスはやめてください」

 先輩がため息をついた。あからさまな不機嫌顔だ。

「わかったよ。じゃあ、おまえの名前を教えてくれ」

「宮島です」

「下の名前は?」

 そこで僕は言い淀んでしまった。ここで滞りなく言うことができれば、相手も聞き流してくれるかもしれないが、僕はいつも口ごもってしまう。この少しの間が、相手の聴覚を研ぎ澄ませる。期待を煽る。僕は自分の名前が好きではない。自然、声は小さくなる。

「ひかりです」

「ひかり?」

 先輩が聞き返し、僕はゆっくりと頷いた。先輩の顔に笑顔が戻った。

「いい名前だな。似合ってるよ」

 暖かな声色に、思わず胸がどきりとした。この名前が似合っているとは思ったこともなかったし、人から言われた記憶もなかった。「ひかり」などという中性的な名前を、両親が何を思ってつけたのか。自分たちの子どもがどのように育つと考えていたのだろう。実際に育った人間は、二枚目でもなければ美男子でもなく、度胸もなければ愛嬌もない、陰鬱な日陰者だ。たとえ「似合っている」と言われても、お世辞にもならない下手な挨拶くらいにしか受け取れないと思っていた。だけれど、先輩の言葉はいやに胸に響いた。この人に嘘はない。僕の心のどこかに、出会って一時間もたたないこの人への信頼が、芽生えたのだろうか。僕とは違った明るい世界に生きる人。僕とは無縁な人。そんな人の輝きが、荒んだ僕の心にも届くというのだろうか。

「なよなよしてるところとかな。よく似合ってるよ」

 そんなこともなかった。そういえば、繊細さに欠けたこの無邪気さを、僕は危ぶんだばかりではなかったか。だが、意地悪くニヤニヤ笑う先輩の表情には、幾分かの照れが見て取れるような気がした。だからなのか、不思議と嫌な思いはしなかった。

「デリカシーないですね」

 言い返してやると、先輩がむっとした表情を見せる。

「おまえ、意外とズケズケ言うよな」

「先輩にだけです」

「たわけ」

 ふんと鼻を鳴らすと、先輩は僕から目を逸らした。

「あたしは、すずかだ」

 どうやら自己紹介らしい。だが、少々引っかかるところがあった。おや、と思った。

「苗字がですか?」

「そうだ。鈴木の鈴に動物の鹿。サーキット場と同じ名前だ。」

「下の名前は何ですか?」

 先輩は押し黙った。思わぬ機会が巡ってきたようだ。僕は意趣返しに重ねて問う。

「僕もフルネームを教えたんですから、先輩も教えてくださいよ」

 しばしの沈黙が流れ、目を逸らしたまま、先輩が消え入りそうな声で答えた。

「ゲロだ」

「ゲロ?」

「下呂温泉の下呂だ」

「それが下の名前ですか?」

「そんなわけあるかアホ。下呂すずかだ。下呂が苗字で、すずかが名前だ」

「嘘ついたんですか?」

「うるさいな、おまえは。ぶん殴るぞ」

 そう言ってまた不機嫌顔を作るが、表情には羞恥の色があった。嘘をつくほど恥ずかしがることでもないと思うが、面白くなって、僕は追い打ちをかけてみる。

「似合ってますよ」

 本当に手が出た。痛む左肩を右手でおさえながら、でも僕は不思議に思った。第一印象は怖い女の先輩で、それを裏書きするように、振る舞いもかなり乱暴だった。だが、どこか可愛気があって、なぜか気安く軽口を叩ける。こんな人は初めてだった。

 思わず笑みがこぼれた。それを見て、先輩もつられたように笑い始めた。ひとしきり笑うと、再び先輩が尋ねた。

「じゃあ改めて。あたしたちはこれからどこに行くべきか。ひかりはどう思う?」

 考えるための間を少し取ってから、僕は答える。

「一般教室棟に戻るべきだと思います。下呂さんはどう思いますか?」

「ちょっと待て」

 先輩が僕を遮った。

「すずかと呼べ。下呂は禁句だ。小坊のときしこたまイジられたから、嫌なんだよ」

「それは」

 フェアではない。僕だってひかりという名前にいい思い出はない。先輩が僕をひかりと呼ぶなら、僕も下呂と呼ばなければ割に合わない。だが、「わかったな」と例の鋭い眼光で凄んでくる先輩に、逆らう気は起きなかった。

「わかりました。すずかさん」

「おう」

 また、すずかさんが満面の笑みを作る。

「で、あたしも一般教室棟だと思うんだ。そうと決まれば急ごうか、ひかり」 


 この遺書の書き手が本当に事に臨むのか。事に臨むとしても、それが校内で行われるのか。それは分からない。しかし、もし事が起きなければ、それは僕たちの取り越し苦労だったということで、僕とすずかさんというよく分からない組み合わせの二人が、無意味に校舎を渉猟しただけのこと。正直なところ、これが一番のハッピーエンドだ。もし事が校外で起きたとしたら、それはもう僕たちの手に負えることではない。我々には救う能わざる命だったということで、天を呪うだけである。結局はすずかさんが言うところの、「可能性がゼロでない限りは一大事」という精神でやっているだけのこと。この遺書の書き手が実際に事を企てていて、それは校内で行われるに違いないという前提で、僕たちは動くしかない。

「それに、特別教室棟は吹奏楽部とかの文化部が、そこここで活動しています。今から事に及ぼうとする人間なら、人目はなるべく避けるんじゃないかと思うんです」

「それで言うと、体育館とか、グラウンドとかも論外だな」

「グラウンドだとそもそも、事を遂行する手段に乏しいでしょう」

「まあとにかく、その線で行くと、一般教室棟が一番あやしいということになるが、もしそれが外れていたらどうする。特別教室棟でやる可能性もゼロではないだろ」

「それなら、そこで活動している生徒の誰かが、その姿を目撃してくれる可能性が高いです。ゼロではない可能性を満遍なくつぶしていくのなら、放課後には人がいなくなる一般教室棟を目指すべきです」

 うーんと唸ると、すずかさんは腕を組んでしばらく思案する仕草を見せた。

「いや、そうだな。あたしもそう考えてた。第一印象から頭だけは良さそうに見えたが、さすがはひかり。あたしのヘイスティングスだ」

 いちいち引っ掛かる物言いをしてくるが、これくらいなら誰だって思いつく。馬鹿にしているのかと疑いたくなる大袈裟さだ。もしかしてこれも、すずかさんが言うところの、気を紛らわすためのおふざけなのだろうか。

 一般教室棟に向かいながら、僕とすずかさんで各々の考えをすり合わせていた。主に話すのは僕で、すずかさんは「あたしもそう考えていた」を繰り返すだけだったが。

 放課後の時間も深まり、人声はおろか、道中では誰ともすれ違わなかった。どこか別の世界に迷い込んでしまったかのような感覚だった。あるいは、あの遺書とすずかさんとの出会いが、別世界への扉を開く鍵だったのかもしれない。相変わらず聞こえる吹奏楽部の演奏の音だけが、僕と現実世界をつなぎとめていた。

 ところで、すずかさんと話す中で、ひとつだけ気になったことがある。

「なんでヘイスティングスなんですか?」

 ふつう、探偵と助手に類する二人組を指すときは、ホームズとワトソンが挙げられる。ところが、すずかさんの場合はポアロとヘイスティングスを挙げた。この二人組も有名ではあるが、一般的とは言えない。そこを尋ねてみると、すずかさんは眼を輝かせて答えた。

「あたしはホームズシリーズよりポアロシリーズが好きなんだ。ひかりは読んだことがあるのか?クリスティを」

「まあ、読んだことありますけど」

「面白いよな、クリスティは。ミステリーの大体のトリックは彼女の作品で網羅できる。それに、単に小説として面白いんだ。人間の悲喜こもごも、実によく描けてる。あたしが特に好きなのは、これはミステリーではないんだが、『春にして君を離れ』ってやつでーー」

 饒舌に語り始めたその言葉は、残念ながら僕の耳には入らなかった。ただ意外だった。茶色がかった長髪と健康的に焼けた肌。溌溂とした態度。とてもではないが、趣味は読書ですという類の人間には見えなかった。それを言うと、最初の登場が図書室であったことも、今思えばちぐはぐな気がしてくる。そんな僕の内心の態度が伝わったらしい。あるいは視線が語っていたのか。途中で話題を切ると、すずかさんは茶色い髪をかきあげた。

「意外か?」

 図星だった。正直に答える。

「はい。本、読むんですね」

「読むよ。本くらい」

「そんな風には見えませんでした」

「人を見た目で判断するなって教訓だ。勉強になったな」

 ということは、自分が読書人には見えないことを自覚はしているらしい。だが、本好きにしては、入学してから今日まで、すずかさんを図書室で見かけたことはなかった。

「でも、図書室ですずかさんを見たのは、今日が初めてですね」

「まあ、学校で本を借りることはあんまりないからな。というか、本は買って読む派なんだ」

「本、好きなんですね」

「ん、まあな。読んでいると違う世界に行ける。自分が知らない世界に行って、まるで自分が実際に冒険しているような気分に浸れる。それが、楽しいんだ」

 そう言うと、すずかさんは遠い目をして微笑んだ。この答えも少し意外だった。現実だけを見て、現実のなかで奮闘して、現実のなかに生き甲斐を見出す。そういう人だとしか思えなかった。空想の世界に浸って自分を慰めるなど、弱い人間がすることだ。現実を見ろ、現実のなかに希望を見いだせ。そう言い切る種類の人間だと思っていた。

「そうやって違う世界から帰ってくると、また頑張ろうって気持ちになる。良い物語は生きる勇気をくれるんだ」

 先程までの共感が消え去った。やはり違う。異世界の住人を見ているような気分だった。この人は、強い。現実逃避さえも、現実を生き抜くための術にしてしまう。良い物語は生きる勇気をくれる。それは至言だが、間違っている。生きる勇気は、もともとすずかさんに備わっていたものだ。初対面で平気に軽口をたたける不思議な気安さはあるけれども、僕とすずかさんとの間には、埋まることのない溝がある。しばらくの間、二人の溝を沈黙が埋めた。

「ひかりは、図書室をよく使うのか?」

 沈黙に耐えかねたのか、今度はすずかさんが尋ねてきた。

「はい。学校の日は、ほぼ毎日です」

「本、好きなのか?」

 その質問にはすぐに答えられなかった。本を読むのは嫌いではない。物語の世界に沈潜するのは楽しい。だが、好きで読んでいるかと言われると、そこに確たる自信はなかった。むしろ、することがないから図書室にいて、することがないから本を読む。受動態の暮らし。それが実態のような気がした。

 すずかさんが立ち止まる。口ごもる僕の姿から何か察したのか、すずかさんの声色が少し曇る。

「おまえ、部活は?」

 それは愚問だ。放課後をほぼ毎日図書室で過ごしているという人間が、なにか部活動をしているわけがない。幽霊部員という可能性もあるが、それはこの場合、無所属と同義だ。

「習い事は?」

 以前は塾に通っていたが、夏期講習の途中で、どうにも行く気が無くなってしまった。

「じゃあ、つれは、友達は、いるのか?」

 これもなかなかデリカシーに欠ける質問であるが、それでも心に咎めるところはあったらしい。少し控えめな問いかけだった。

「仲の良かったやつらは、みんなここより良い学校に行きました」

 ここは「いません」で済ませればいいところを、なぜか自分の恥部をさらけ出すような真似をしてしまった。一度切り出してしまえばもう終わりだ。だけれど、すずかさんになら見せてもいいように思えた。そう思わせる何かが、この人にあるのだろうか。それとも、僕の奥底に潜んでいた誰かに打ち明けたいという欲求が、初対面の気安さに触発されたのだろうか。

「ここより良い学校と言ったって、ひかりはそこを受けなかったのか?」

 それも愚問だ。

「受けましたよ。落ちました」

 嫌な記憶がよみがえる。

「でも、今でもそいつらとは会ってるだろ?」

 合格発表の日。自分の番号を見つけて喜ぶあいつら。

「会ってません」

 その横で、何が起きたのか理解できない僕。

「どうして」

 会わない理由。そんなの決まっている。

「会いたくありません」

 最後の言葉は、思いのほか強くなった。ただそれだけで、僕の心中を見透かしたのか、少し間をおいて、すずかさんは鼻で笑った。そして「卑屈だな」と呟いた。侮蔑と憐憫が垣間見えた。一瞬、頭に血が上った。真っ黒な罵倒の文句が脳を染めていく。卑屈なのは百も承知だ。だからどうしろと言うんだ。お前には分からない。分かってたまるか。突き飛ばして、怒鳴りつける。その想像が頭を駆け巡る。が、すぐに平静を取り戻した。どうせこの人には理解できないという諦めが、沸騰した思考を冷ましていく。気を許したことを、少し後悔した。

 どちらからともなく、また歩き出す。沈黙が気まずかったので、僕から話題を振る。

「すずかさんは、部活とか入ってないんですか」

「入ってない」

 ぶっきらぼうな口調だった。

「けっこう焼けてるんで、なにか運動部にでも入ってるのかと思いました」

「ああ、これか?」

 そう言うと、すずかさんは両腕をあげ、それをしげしげと眺めた。

「これは、夏休みに海に行ったときのやつだ」

「友達と、ですか?」

「ん、まあ。友達、かな」

 含みのある言い方だった。下ろした腕をさすりながら、すずかさんが続ける。

「この学校の人間じゃないんだ。ここには、あんまり仲の良いやつはいなくてな」

 僕に遠慮したのか、少し控えめな口ぶりだった。さすがに僕もそこまで繊細ではない。いらぬ気を回さないでほしかった。そういった思いも込めて、努めて明るい口調で返す。

「学校が分かれても、仲がいいんですね」

 それを聞いて首を横に振る。

「いや、学校っていうか。学校には行ってなくてな。まあ行ってるやつもいるけど、定時制だったり中退してたりで。あとは働いてたり、ふらふら遊んでたり、いろいろだ」

「はあ」

「ガキを連れてるやつもいたよ。たいへんだよな、あいつも」

「そうなんですか」

 僕が知らない世界だ。だが、生活環境が異なっていても定期的に会うことのある人がいるというのは、恵まれていることだ。

「楽しかったですか?」

 最後に僕がそう尋ねると、すずかさんは声をあげて笑った。

「愚問だな。楽しかったよ。泳いで、遊んで、うまい肉食いながらダベって、ちょっと、その、一本開けたりしてな。楽しかったよ」

 その笑顔のどこかに、作為の影があるような気がしたが、おそらくそれは僕の僻みが見せた幻だ。生を謳歌する人に罪はない。それを羨み、僻むのは、僕の卑屈さだ。つくづく嫌気がさす。言わなくてもいいことを言い、聞かなくてもいいことを聞いて、勝手に打ちひしがれる。とんだ自傷行為だ。

 内心を誤魔化すように、僕も笑った。僕のそれは完全なる作為だった。


 廊下に人があふれ、一面が話し声に満たされていた一般教室棟も、今は人影ひとつ見当たらなかった。眠りについたかのような静寂に包まれた校舎は、日中の騒々しい活気とは打って変わり、陰惨な空気を醸成しているように感じられた。演奏の音は遠ざかり、代わりにグラウンドの方から掛け声が聞こえてくる。しかし、そのいずれも白い壁に遮られ、ここだけ世界から隔絶されたかのような疎外感を演出していた。僕とすずかさんの考えは当たっていたかもしれない。おそらくこの一般教室棟が、今、この学校の中で、最も死に近い場所だ。

「さて、着いたはいいが、どうするかな」

 伸びをしながら、すずかさんが呟いた。どうするもこうするも、出来ることは一つしかない。

「そもそもが少ない可能性を重大視して始めたことです。しらみ潰しにひとつひとつ、見回っていくしかないでしょうね」

 大きくひとつ息を吐いて、すずかさんは腕を組んだ。眉間にしわを寄せて、廊下の奥を睨みつける。

「しゃらくさいな。どこか一か所、危険度の高いところに張り込んで、見張るわけにはいかないのか。あっちこっちに移動している間に、どこかでやられたら取り返しがつかない」

 それは無理だ。

「張り込んだ場合だって同じですよ。見張ってる場所以外で事に及ばれたら、もう終わりです。第一、誰かがそこにいると分かった時点で、場所を変えるでしょうしね。巡回がいちばんだと思います。可能性がゼロでない限り、無視はできないでしょう」

「誰が言い出したんだ。そんな薄っぺらい文句を」

 もう一度息をつくと、すずかさんは腕組みを解いた。その表情から険しさが消え、何か決意のようなものが見て取れた。

「ひかりの言うとおりだ。巡回しよう」

「手分けしましょうか」

「いや。二人で動こう。あたしたちの間に連絡手段がない。もしこいつに出くわしてしまった場合に、一人だと対処を誤るかもしれないしな。人傷沙汰はごめんだ」

 スカートのポケットから例の封筒を取り出し、ひらひらと振る。制服のスカートにポケットがあることを初めて知った。しかし、どうして殴る前提なのか、なぜ僕が止めに入ることを当てにしているのか。言いたいことは山々だが、すずかさんの言い分には一理ある。しかし、

「それじゃあ、連絡先を交換しましょう。手分けした方が、やっぱり効率的です。人傷沙汰は自制してください」

 すずかさんの表情が苦った。

「携帯が無いんだ」

 間の悪い人だ。

「忘れたんですか?」

「違う。持ってないんだ。親が、な。買ってくれないんだよ」

 それなら仕方がない。二人で行動するしかないようだ。実のところ、僕はこの事実に少し落胆していた。できれば別行動をとって、何としてでも僕が先にその人をーー本当にそんな人が存在すればの話だがーーすずかさんより先にその人を見つけたいと思っていた。いや、僕が見つけなくてはならないと思っていた。

 すずかさんは悪い人ではない。しかし、ここまでで僕が感じたのは、二人の間の決定的な隔絶だ。もちろん、この人にも多少の生きづらさはあるのだろう。だが、この人には生来備わった強さがある。あるいは、恵まれた人間が自身のなかに育んできた信頼がある。困難に打ちのめされても、また立ち上がる生命力。立ち上がりさえすれば、どんな苦難でも突破できるという確信。態度の端々からにじみ出る人生への図々しさ。溢れる自信。

 言葉を重ねれば重ねるほどに遠ざかっていくような気もするが、この人が持っているものを僕は持ち合わせていない。それだけは確かだ。そしてもう一つ確かなことは、あの遺書の書き手も、それらを持ち合わせていないということだ。だから、その人とすずかさんを引き合わせたくはなかった。引き合わせてはいけないと思った。二人は分かり合えない。すずかさんはその人を理解できない。その人もすずかさんを理解できない。峻烈な光と底知れぬ陰をぶつけたとき、いつだって呑まれるのは陰の方だ。それは陰が光に包摂されたことを意味しない。陰は光にかき消される。強烈な希望は、時に、人を殺す。

 では、僕ならその人を理解し、救うことができるのか。それもあり得ない。僕にはそもそも、その人の死への傾斜を止めようという意志はない。抵抗しても無駄だという諦念のもと、ただすずかさんについてきただけのことだ。死ぬことに逃げ道を見つけ出した人間から、それさえも奪い取ってしまうのは、やはり酷なことだ。その思いは変わらない。僕は止めない。彼あるいは彼女が、自ら生を閉じることで一切から解放されるのなら、僕にはそれを止めることはできない。ある特定の人間にとって、生きることは辛苦であり、死は甘美なものだ。

「行こうか」

 すずかさんの声に思考が打ち切られた。「はい」と答えて、隣に並ぶ。こうなってしまった以上、願うことは一つだけだ。あの遺書が本物だろうが偽物だろうが、この学校で事が行われようが行われまいが、僕たちが、すずかさんが、誰とも出会わないように、何も見つけないように、何にも気づけないように。


 そうして、僕たちは一般教室棟を見回り始めた。一階の昇降口から、下駄箱、玄関ホール、男子トイレ、女子トイレ。それぞれの個室も隈なく。不審なものは無いか。誰かいないか。不可解な動きが、起きてはいないか。

 一階には今のところ、何も異常はなかった。相変わらず人影もなく、外から誰かが入ってくることも、誰かが出ていくこともなかった。

「二階に行こうか」

 僕は無言でうなずき、一足先に階段に足をかけていたすずかさんについていく。見回りが始まって以降、二人の間に会話はなく、聞こえてくるのはグラウンドからの掛け声だけだった。いつの間にやら、吹奏楽部の演奏は聞こえなくなっていた。しかし、無言で探索を続けながらも、僕の中ではひとつの疑問が渦巻いていた。

「どうして、あんなところに遺書があったんだろうな」

 二階の踊り場に達したところで、すずかさんが沈黙を破った。そう。僕もちょうど、そこを考えていた。図書室の一番奥にある書架。かなりの長い期間、もう誰も手に触れていないであろう黴臭い上製本。そこに遺書と書いた封筒をはさみ込み、彼あるいは彼女はどこかへ消えた。

 いたずらの線は考えない。乏しい可能性を追いかけるこの状況下での、ただ一つの原則だ。そうすると、なぜあの遺書の書き手は、形見となるべきあの封筒を、自分のもとから手放したのだろうか。たとえ手放すとしても、どうしてあんなところへ隠すような真似をしたのか。まるで誰かに見られることを忌避するような。あるいはーー。

「誰にも、見つけて欲しくなかったのかもしれません」

 遺書を書き残しながら、それを誰にも見られたくなかった。そのようなことがあり得るのか。それは、当人でなければ分からない。その当人さえ、分からない何かに突き動かされただけなのかもしれない。僕の回答を聞いて、すずかさんもゆっくりと頷いた。

「あたしもそう考えていた。こいつは、本当に、孤独だったのかもしれないな」


 二階には主に一年生の教室が入っている。すっと奥まで続く長い廊下。僕の生活空間であるのだが、生き物の気配が感じられない閑としたその光景は、見なれた空間であるはずなのに、非日常に彩られていた。なんだか悪いことをしているような気分で、教室を一つ一つのぞいていく。ここでも、念のためトイレを確認する。もしかしたら個室で誰かが倒れているかもしれない。しかし、誰もいなかったし、何もなかった。言葉数少なく、僕らは三階へ向かう。すずかさんの表情はどこか強張っており、フロアに隈なく向けられる視線は、壁の向こう側を透視せんばかりの、今日一番の厳しさだった。僕の表情もきっと、険しいものだったに違いない。

 三階には二年生の教室が入っているのだが、そこも二階とさして変わらなかった。だが、なんとなく自分がいるべき所ではないような、いたたまれない気持ちになってくる。そんな僕とは対照的に、すずかさんは、ここは自分のテリトリーだと言わんばかりに、ずかずかと教室に入っていく。もっとも、この人の場合は一年生の教室でもお構いなしだったが。

 二年三組の教室に入ったとき、すずかさんがふっと笑みをこぼした。

「ここは、あたしのクラスなんだ」

 窓際の一番後ろの席に歩み寄っていく。

「これが、あたしの席だ」

 そう言うと、すずかさんは手を伸ばし、机の天板をそっと撫でた。厳しかった表情は和らぎ、まるで愛猫を愛でるような、柔らかな仕草だった。らしくないその雰囲気が可笑しくて、僕も自然と笑顔になる。自分の席に愛着の湧く気持ちは分からないでもない。僕もそばまで歩を伸ばす。角度の関係か、窓から差し込む陽光が、ちょうどその横顔を照らし出した。ちょっとどきりとしてしまった。つい忘れていたが、この人はまあまあ綺麗だった。

「最後の、遊び心のつもりなのかもな」

 近づいた僕に向かって、すずかさんが言う。何の話なのか分からなかった。怪訝そうな表情をしていたのだろう。僕の表情を見て、補足する。

「本にはさまれた遺書のことだ」

 ああ、と僕は声を漏らす。

「遊び心、ですか?」

「そうだ」

 窓の外に視線を向ける。だがその眼は、外の景色を見ているわけではなさそうだった。ずっと遠くの方へ、その視線は注がれていた。右手には例の封筒が握られていた。

「こいつは、きっと孤独なんだ。だから、抱えた問題を誰にも打ち明けることができなかった。結局、死ぬところまで追い詰められて、でも胸の内にわだかまった感情をどうすることもできなくて、これを書いた。だけど、それを渡す相手が思い浮かばない。だからといってこれを捨ててしまえるほど、自分の感情に整理がついたわけでもない。それで結局、誰も見つけられないようなところに隠したんだろうな。遊び心とは違うかもしれないが、見つけられなかったらそれまでで、もし誰かが見つけてくれたら、その誰かがどうしても打ち明けられなかった自分の思いを受け止めてくれる。その時はすでに、自分は死んでいるだろうから、誰にも言えなかった思いや感情が、誰に知られようがどうでもいい。その結果を自分は決して知ることのできない哀しい賭け事。そんな気がするんだ」

 ここまで一息に話すと、すずかさんは黙り込んだ。僕はまた、意外な思いにとらわれていた。この人が、絶望に瀕した人間の気持ちを、ここまで想像するとは思わなかった。黙って遠くを見つめるすずかさんを見つめながら、僕は呟く。

「もし、すずかさんの言うとおりだったとして、僕たちは、それを見つけてしまいました」

「そうだ」

 すずかさんは強く頷いた。そしてくるりと向きを変えると、僕と差し向かいに立った。その瞳には燃えるような色があった。涙さえ浮かんでいるようだった。叫ぶような力強さで、すずかさんは口を開く。

「あたしたちは見つけてしまった。これはこいつの最後の叫びなんだ。一人で抱えて死ねなかった。誰かに助けてほしいという最後の訴えなんだ。羞恥か、遠慮か、プライドか、何かは知らないけれど、何かに阻まれてどうしても言えなかった叫びがこれなんだ。こいつを救う最後のチャンスなんだ。絶対に、絶対に探し出して、おまえは一人じゃないって、言ってやらないといけないんだ」

「でも」と僕も負けじと声を張る。やはりこの人は、想像することはできても理解することはできない。死に傾斜した人間を、生を無条件に信じられる人間が救おうとするおこがましさが、この人には分からない。黙っていても駄目だ。あなたには、その遺書を残した人を理解できない。たとえ見つけ出しても、救うことはできない。それを突きつけなくてはならない。

「でも、その人は隠しました。誰も見つけられないような場所に、隠したんです。それはその人の決意の固さだとは思いませんか。すずかさんはそれをSOSだと考えてるみたいですが、僕はそう思えません。それはこの世界への絶縁状です。その人は生きることを放棄したんです。生への絶望から抜け出すために、死に希望を見出したんです」

「生きることを放棄できる人間なんていない。希望は生きる中にしかないんだよ」

「それは、すずかさんだから言えるんです。その人は誰にも、自分のことを打ち明けられなかった。すずかさんだってそう言ったじゃないですか。誰にも開けなかった心を、開かせることができると思ってるんですか」

「そんなことは問題じゃないんだ。死んだら終わりなんだよ。死にたい人間はその思いにのぼせ上がって分からないかもしれないけどな。絶対に後悔する。死んだら何もないんだ。でもな、生きてる限りは、誰にだってチャンスはあるんだよ」

「そこに溝があるんです。死にたいんですよ。何もなくなることを望んでるんです。チャンスがあるなんて、何を根拠に言い切れるんですか。そう言い切れるのは、言い切るだけの力があなたにあるからなんですよ。その力があれば、チャンスも来るだろうし、それをものにもできる。でもね、力のない人間は死ぬしかない。死ねば何も感じなくていい。わずらわしい現実からも、目を背けたい事実からも、解放されるんです。死ぬことだけが僕らを救ってくれるんですよ。無責任に、生きていればいいことがあるだなんて言って、すずかさんたちがこの現実苦から救ってくれるんですか。生きろと言うだけで、希望はあると励ますだけで、具体的なことは何もしないくせに、何もできないくせに、唯一の逃げ道さえ奪って、一体、生かしたいのか殺したいのか、どっちなんですか!」

「違う!」

 眼に涙をためてすずかさんが叫ぶ。それは絶叫と言ってもいい叫びだった。

「違う。違うんだよ」

 首を左右に振りながら、うわ言のように繰り返す。気勢を削がれて、僕はもう何を言う気にもならなかった。この人と僕とは、分かり合えない。生まれ持った性質も、生きる環境も、違い過ぎる。

 自分と世界を信じられる限り、すずかさんは死を否定する。自分と世界に失望しきった今、僕は死を憧憬する。

 あの遺書を書いた人のことにしたって、誰にも打ち明けられない胸の内を想像することは、すずかさんにもできる。でもそれまでだ。誰にも打ち明けられない、誰にも頼れない、差し伸べられた手を握ることさえ恐れる心の弱さを、この人は理解できない。

 二人の間を静寂が満たす。グラウンドの掛け声も、もう聞こえなくなっていた。完全なる静寂。耳鳴りがするような静けさ。

「この遺書、開けてしまおうか」

 右手の遺書を天にかざして、すずかさんがぽつりと呟いた。

「中身さえ読んでしまえば、こいつが何を思っているのか、ひかりが正しいのか、あたしが間違ってるのか、分かるだろう」

 正確には、僕が正しいか、すずかさんが正しいかだ。よっぽど混乱しているらしい。僕の方がまだ冷静なようだった。

「それはまずいですよ」

 ゆっくりと、努めて明るく、なだめるように、僕は言う。

「こんなナイーブな書置き、むやみに読まれたら、その人も困るでしょう」

 すずかさんはふふっと笑った。

「どこかで聞いたことあるような言い草だな。誰が言ったんだ、そんな薄っぺらいセリフ」

 この人とは分かり合えない。だけど、それは僕はこの人が嫌いだということを意味するわけではない。


「一旦始めたことを、途中で投げ出すわけにもいかないだろう」

 すずかさんがそう言うので、三階の残りの教室と四階の教室もひと通り見て回る。三年生の教室は、さすがのすずかさんも我が物顔で闊歩するわけにはいかないようで、誰もいないことに変わりはないものの、どこかおっかなびっくりな様子で調べ歩いていた。結局、三階にも四階にも、人の姿はただの一つもなく、何かが起きた痕跡も、何かが起こりそうな気配も、何ひとつ見当たらなかった。

 残すは屋上のみとなり、僕は内心、胸を撫で下ろしていた。やはり、あの遺書は誰かの悪趣味ないたずらだったのだろう。教室をひとつひとつクリアしていくにつれて、そのような考えが支配的になる。それはすずかさんも同じようで、まだ眼光から鋭さは失われておらず、最後の最後まで取りこぼしのないように努めている様子こそ伺えるものの、その表情は和らいだものになっていた。涙はもうすっかり乾いていた。こうなってくると、先程の激昂がだんだんと恥ずかしくもなってきて、居たたまれない思いがこみ上げてくる。

「ここが最後だ」

 屋上へ通じる扉の前で、すずかさんが言った。

「もうここまでくれば、誰もいないことを願いたいな。これはあたしたちの取り越し苦労だったってことで」

 左手に持った封筒を振りながら、右手で取っ手を握る。僕は黙って頷いた。

「開けるぞ」

 そう言うと、すずかさんが扉を押し開く。軋むような音がしたかと思うと、風に煽られて扉が一気に開ききった。僕らは一歩進み出る。すずかさんの長い髪が、日暮れ前のぬるい風に吹き上げられて、僕の頬をくすぐった。勢いを失った日差し。傾きかけた太陽に、屋上を取り囲むフェンスの影が、長く延びていた。

 そこには誰もいなかった。


 すずかさんと二人、フェンスにもたれかかって、そこから見える景色を眺めていた。景色といっても、住宅街の向こうに田畑が並び、そのなかをJRの線路が走る、何でもない景色だ。そんな何でもない景色を、二人並んでじっと眺めていた。

 視界の端で、すずかさんが胸元のポケットから何か小箱を出すのが見えた。その小箱から白いものを一本取り出すと、それを口にくわえる。

「吸うか?」

 尋ねながら、僕に小箱を差し出した。どきりとしたのは一瞬のことで、すぐに僕は呆れ顔を作る。それを見てすずかさんがニヤリと笑った。

「紙巻より葉巻が好きか?」

「いや。ココアシガレットじゃないですか」

「なんだよ。あたしが喫煙者に見えたのか?」

「正直、見えました」

 殴られた。

「人を見た目で判断するなという教訓だ。勉強になったな」

 鼻を鳴らすと、シガレットをちびちびと舐め始める。またしばらく沈黙が流れた。下りの電車が走っていく。その電車が建物の影に見えなくなったくらいで、すずかさんがポケットにしまい込んでいた例の封筒を再び取り出し、「ちょっといいか」と改まった口調で切り出した。その封筒を見て、僕は少し身構えた。

「この遺書なんだけどな、本当に、おまえのじゃないよな?」

 改まって何の話かと思えばそんなことか。僕は笑って応じる。

「僕がこんな趣味の悪いいたずらをしたと、そう思っているんですか?」

 対して、すずかさんは今日何度目かの不機嫌顔を作ってみせた。

「そんなことは思っていない」

「じゃあ、なんですか」

「おまえは、死のうなんて思っていないよなってことだよ」

 二人の間を強い風が吹き抜けた。すずかさんの口から、シガレットが落ちる。「あ」と小さく叫ぶと、すずかさんはフェンスから身を乗り出した。自由落下の勢いに乗って、シガレットは視界から消えた。舌打ちが聞こえた。すずかさんは胸元からもう一本取り出してそれを口に運ぶと、またちびちびと舐め始めた。それを見届けて、会話を続ける。

「僕は別に死ぬつもりはないですけど、どうしてそんなことを聞くんですか?」

「最初に会ったときの雰囲気と、話してみた感じと、さっき聞かされたおまえの演説を思うとな。心配になってきたんだ」

 そのことを蒸し返されると、僕は少し居たたまれなくなる。つい熱くなって、見苦しいところを見せてしまった。それに、何かひどい言葉を投げつけたような記憶もあり、それでも僕を案じる言葉をかけてくれるこの人に、何か申し訳ない思いがこみ上げてきた。

「なんか、すいませんでした」

 自分でも情けないほどの中途半端な謝罪が口から出た。顔を合わせるのも恥ずかしいような気がして、すずかさんの表情は伺えなかった。

「何に対する謝罪だよ」

 声音はひどく不機嫌そうだった。

「その、ひどい言葉をかけてしまったみたいで」

 それを聞いて、すずかさんが吹き出した。

「ああ。あれはちょっと応えたな」

「ちょっと、泣かせてしまったみたいで」

「調子に乗るなよ」

「すいません」

「あのことは別にいいよ。あたしも自分の理想を押し付けすぎたみたいだしな」

 そこまで言うと、すずかさんは身体を返して、フェンスに背をもたせかける格好になった。その格好で天を仰ぐと、シガレットを口から離し、空に息を吹きかけた。見えない煙を楽しんでいるようだった。

「雲がないな」

 そう言うので、僕も同じような格好になって空を仰ぐ。たしかに、雲ひとつないよく晴れた空だった。

「よく晴れてますね」

「あたしたちの人生も、あれくらい晴れ渡ってたらいいのにな」

 何の気なしに呟かれたその言葉が、今の僕にはひどく重たく感じられた。何も答えられないまま、また時間が過ぎていく。 

「ひとつだけ、言っておきたいことがある」

 空を眺めたまま、再びすずかさんが切り出す。

「なんですか」

 僕も空を眺めたまま、それに応じる。

「ひかりはあたしのことを、力があるって言ったよな」

「はい」

「安易に希望を語るおめでたいやつ、というようなことも言った」

「そこまでは言ってないと思いますけど」

「言った」

「はい。言いました」

「だけどな。それは違うんだ」

「違う」という言葉に、僕は心臓が止まるような思いがした。あの教室で、うわ言のように「違う」と繰り返すすずかさんの姿が、視界にちらついた。

「あたしは強くないんだ。弱いんだ」

 消え入りそうな声だった。僕は黙っていた。何も言えなかった。

「気丈に振舞うのも、乱暴な素振りをするのも、前向きな言葉を口にするのも、希望を語るのも、ぜんぶぜんぶ、弱いからなんだ」

 空を仰いだ格好のまま、僕は黙り続ける。すずかさんの顔を見る勇気がなかった。見ては駄目なような気がした。

「ひかりは、死んだらすべてから解放されると言ったな。実は、あたしもその通りだと思うんだ。そりゃあ生きていれば楽しいこともあるだろうけれど、その楽しいことさえも、最後には苦しみに変わってしまう。永遠なんてないからな。いつかは別れる時が来る」

 そこで一度言葉が途切れ、シガレットを嚙み砕く音が聞こえてきた。それをごくりと飲み込むと、すずかさんは続ける。

「でも、死はすべてを癒してくれる。死ねば何も感じなくなる。この世界を取り巻くいろんなものから、あたしは解放されて、楽になれる。それは、つれと遊んで楽しかったなんて、ちょっとしたことで消えてしまうような、中途半端なものじゃない。永遠の安らぎなんだ。それが死だ。だからな、ひかり。正直に言うよ。あたしは一度、本当に一度だけ、死のうと思ったんだ」

 僕はだんだんと息苦しくなってきた。この話がどこに向かうのかまったく分からない。

「ところで、ひかり」

 すずかさんの視線がこちらに向いた気配がした。恐る恐る、僕も顔を向ける。少しきつそうなところはあるが、綺麗な顔立ちだった。鋭い眼差しがまっすぐに僕をとらえていた。

「ひかり、おまえは、死んだことはあるか?」

 そんなこと、

「あるわけないじゃないですか」

 何とか声を絞り出す。

「そうだろう。誰だってそうだ。死んだ人間はここにはいない。だから、死んだ後のことなんて、もしかしたら死そのものだって、あたしらの空想に過ぎないかもしれないんだ。死んだら楽になるなんて、幻想かもしれない」

「地獄の思想ってやつですか」

「違う。賽の河原で石積みなんて、そんなお伽話のことじゃない。死はつかみどころがないってことだ。空想は実際とは違うのが相場だ。でも、その実際がつかめないのだから、あたしたちは想像するしかない。ひかり、想像してみろ」

「想像ですか」

「目を閉じろ」

 言われるままに、僕は目を閉じた。

「想像してみるんだ。おまえは今から首を吊る。天井に取り付けられたフックにロープをひっかける。その先はわっかになっていて、おまえはそこに頭を通す。踏み台を蹴って、宙に身を投げる。頸椎が折れる音がする。息ができなくなる。次第に意識が遠のいていく。意識の残りかすが消えゆくその瞬間ーー」

 言われたとおりに、想像していく。だが、その先は無かった。すずかさんはつづける。

「次だ。おまえは部屋の隙間という隙間にマスキングをしていく。すべて密閉されたことを確認すると、ガスの元栓を開ける。机の上に用意していた睡眠薬を一気に飲み込んで、おまえはベッドに横になる。思考がぼやける。まどろみが襲ってくる。もう二度と覚めない眠りが、じわりじわりと近づいてくる。それがおまえをとらえたその瞬間ーー」

 言われたとおりに、想像する。

「最後だ。目を開けろ」

 僕は目を開けた。目の前に、すずかさんの顔があった。僕が目を閉じている間に、その眼にはまた涙がたまっていた。そのように見えた。

「下を見ろ」

 すずかさんがフェンスの下を指差す。言われたとおりに、僕はフェンス越しに下を覗き込んだ。四階建ての建物の屋上。何メートルの高さか、正確なところは分からない。ただ高い。それだけは確かだ。ここから落ちれば、間違いなく、死ぬ。折からの風が吹きつける。少し、足がすくんだ。

「おまえは、今から飛び降りる」

 すずかさんの声も少し震えているような気がした。

「フェンスを乗り越えて、今みたいにすくむ足を励まして、一歩踏み出す。落ちていく。今までのことが蘇ってくる。地面がぐんぐんと近づいてくる。そして、地面に激突する、その瞬間ーー」

 ここですずかさんは言葉を切った。僕は顔を上げ、すずかさんと差し向かいに立つ。いっぱいにたまった涙をこらえながら、すずかさんは言った。

「その瞬間、おまえは、何を思った。想像してみて、何を思った?」

 僕を見つめる、まっすぐな、鋭い、潤んだ瞳。僕もそれをまっすぐに見つめ返す。

「わかりません」

 それが正直な答えだった。

「僕には、分かりませんでした」

 眼に涙をたたえたまま、すずかさんは力なく微笑んだ。

「そうか」

 そして僕から目をそらし、遠くを見つめた。東の空に夜の気配があった。

「あたしは、怖いと思った」

 絞り出すような、今にも喘ぎだしそうな、苦しそうな声だった。

「怖かった。どうしようもなく怖いと思ったんだ。死にたくない。生きていたい。心の底からそう思った」

 その瞳から涙がひとすじ零れ落ちた。それを皮切りに、ふたつみっつと次々に流れ落ちていく。それを拭おうともせず、すずかさんは僕の方へ向き直る。そして、満面に笑みを作った。今までにない痛々しい笑顔だった。

「もし、ひかりが言うように、あたしに力があるのなら、その正体はこれだ。死に対する恐怖。頭で考えたことじゃない。本能的な恐怖だ。おまえにも、あたしにも、同じ生命が宿ってる。生まれや境遇によって、姿かたち、性質は違ってくるかもしれないが、みんな同じ生命を持ってるんだ。それは生きるようにプログラムされている。あたしはおまえに、死んだら終わり、必ず後悔するって言った。あれは半分嘘だ。後悔するのは死んだ後じゃない。死ぬ瞬間だ。どれだけ理論武装していたって、最後の最後はおまえの生命が悲鳴をあげる。死にたくないって。生きていたいって。あたしはそれに気づいてしまった。だからーー」

 しゃくりあげながら、とめどなく流れる涙を袖で拭う。

「だから、あたしに力があると、ひかりが感じるとしたら、それはあたしの力じゃない。あたしの中にある、ひかりの中にもある、生命の力なんだよ」


 すずかさんが落ち着いた頃、下校準備のチャイムが鳴った。跪いてしゃくりあげるすずかさんの横にしゃがみ込んで、僕はこの人が言ったことをずっと考えていた。だが、すずかさんの言ったことを、僕はまだ半分も理解できていない。いつか分かる日が来るのだろうかと思いながら、でも心の奥底に何か確固としたものが出来上がるような感触もあった。何なのかは分からないけれども。そんな僕の心中を見抜いたのか、すずかさんが言った。

「今はあたしの言ったことを理解できないかもしれないし、もしかしたらこの先もずっと理解できないかもしれない。でも、これだけは覚えておいてくれ」

 胸元からココアシガレットの小箱を取り出して、僕にそれを手渡す。思わず受け取ってしまったが、何がなにやらわからない。その様子を見て、すずかさんはまたニヤリと笑った。

「それは今日の記念品だ。持って帰って机に飾っといてくれ」

「はあ」

 とりあえずもらっておくことにした。小箱をポケットにつっこむ。

「それで、僕は一体何を覚えておけばいいんですか?」

「死ぬまで生きろ」

 その瞳に出会ったばかりの鋭さが戻っていた。だがもう、怖いとは思わない。僕は聞き返す。

「死ぬまで生きろ、ですか」

「そうだ」

 すずかさんは力強く頷いた。

「どんなに辛いことがあっても、苦しいことがあっても、死ぬまで生きるんだ。生きていれば希望があるなんて、そんなこと、おまえにはもう言わない。おまえは生きるために生まれたんだ。生きるためだけに生きろ。どんな手を使ってでも、死ぬまで生きるんだ」

「それはちょっと、約束できないかもしれないです」

「どうして」

「そんなバイタリティ、僕にはありませんよ」

 僕がそう言うと、すずかさんは盛大なため息をついた。だが、その表情には言い様のない親しみと親愛の情が溢れていた。

「あたしは今日、ひかりと一緒に過ごせて、楽しかった」

「え?」

「嘘じゃないぞ。まあ、ちょっと険悪な空気になったときもあったが、それはお互いに本音をぶつけたからだ。そんな経験はなかなかできない。本の話もできたし、ちょいちょい叩きあった軽口も、すごく、心地よかった。誰か死ぬかもしれないってときに不謹慎かもしれないが、あたしは、ひかりと会えて、よかったよ。だからーー」

 先輩が笑う。鋭い目つきからは想像もつかない、愛らしい、油断ならない笑みで。

「だから、死なないでほしい。少なくとも、悔いにまみれては死なないでくれ。あたしと真剣に向き合ってくれたおまえに、そんな死なれ方は、されたくない」

 情けない話だが、僕は何も言えなかった。「僕もすずかさんと過ごせて楽しかったですよ」くらい、言えばよかっただろうか。


 下校時刻が迫るなか、すずかさんは僕に例の封筒を手渡した。

「それは、職員室に届けてくれ」

 最初と言っていることが違う。

「本当にいいんですか?」

 突然の転向を不審に感じながら、僕は一応念を押してみた。

「かまわない。結局、今日は誰も何も起こさなかった。諦めたのかもしれないし、あたしたちの手の届かないところで、目的を達したのかもしれない。いずれにしても、あたしたちの役目は終わったんだ。これ以上その遺書を持っていても、いいことはないだろう。もうここは、然るべき力を持ったものに任せる段階だ」

 僕はもともとそのつもりであったし、別に異論はない。ただ、

「すずかさんは一緒に来ないんですか?」

 そう尋ねると、すずかさんは目をしばたたかせた。

「あたしか?あたしはパスだ」

「どうしてですか」

「まあ、こんな見た目だからな」

 そう言って、すずかさんは茶色い髪をかきあげた。その姿を見て、僕も思わず軽口を叩く。

「人を見た目で判断するなという教訓を、どなたからかいただいたのですが」

「おまえ、本当にうるさいな」

 すずかさんが声を出して笑った。僕もつられて笑った。心からの笑いだった。

「実はな、会いたくない先生がいるんだよ」

 ひとしきり笑うと、すずかさんが神妙な顔つきで言い出した。

「会いたくない先生ですか?」

「ああ。山下先生なんだけどな」

 山下先生というと、もうすぐ定年と噂されるベテランの男性教師だ。生徒を諭すことはあっても怒鳴ることはなく、いつも温厚な笑顔を絶やさず、面倒見もいい。授業も分かりやすいと評判の、生徒からも人気の先生だ。

「あの山下先生ですか?」

「あの山下先生だ」

 何か不思議な因縁でもあるのだろうか。それはそれ、僕とは違う世界を生きてきたすずかさんのことだ。何か事情があるのだろう。

 そうこうしているうちに時間は過ぎていく。すずかさんに急かされて、屋上を出る。一階の踊り場で別れると、僕は職員室へ向かった。今日はなんだかんだ言って楽しかったです。結局、すずかさんには言えずじまいだった。


 職員室に入ると、一年団所属の生徒指導の男の先生が一人、ちょうど机に向かっていた。あまり大事にしたくもない折、これはいい機会だと、その先生のもとへ近づいていく。近本先生といって、二十代後半から三十代前半の若い体育教師だ。

「近本先生、ちょっとよろしいでしょうか」

 書きかけの書類から、先生が顔をあげる。

「おう、宮島か。珍しいな。もう下校時刻だぞ」

「実は、図書室でこんなものを見つけまして」

 先生に例の封筒を渡す。それを受け取り、一瞬間後、先生は硬直した。顔から血の気が引いていく。比喩ではないその実物を、僕ははじめて見た。

「これをどこで見つけた」

「図書室です」

「それはさっき聞いた。状況を教えてくれ」

「図書室の一番奥の書架に、古い全集本があるんですが、その一冊にはさまっていました」

 それを聞いて、近本先生は封筒を机に置くと、腕を組んだ。

「難解なシチュエーションだな。いたずらじゃないのか?」

「それは否定できないです」

「だが、本物だったとしたら大事だからな。無視はできない」

 腕を組んだまま。先生が唸り声をあげる。

「宮島以外に、これを知ってるやつはいるか?」

「はい。二年生の下呂さんが知っています」

「ゲロ?二年の?」

「はい。二年三組の下呂すずかさんです。下呂温泉の下呂と書きます」

「悪い。先生は去年三年団を見ていたから、二年生の全員を把握しているわけではないんだ。弱ったな」

 その後も近本先生とのやりとりが続いた。下校時刻はとっくに過ぎていたが、さすがの先生もそれどころではないらしい。そうしているうちに、入口のドアが開いて、別の先生が一人戻ってきた。しまったと思ったが、その姿を見て天の助けを感じた。山下先生だった。僕は早速、近本先生に告げる。

「山下先生なら、下呂さんを知っていると思います」

 近本先生の表情がぱっと明るくなった。

「そうか、山下先生か。山下先生はちょうど、二年生つきの生徒指導担当をされているんだ」

 近本先生は立ち上がると、「山下先生!」と大声で呼びかけた。そんなに大きな声を出さなくても、と思ったが、あるいは山下先生は耳が遠いのかもしれない。嫌な顔もせず、呼びかけに応じて、山下先生が傍まで寄ってくる。いつもの温厚な笑顔を浮かべて「どうしましたか?」と尋ねるその姿は、まさに天の助けそのものだった。

「下呂という生徒をご存知ですか」

 しかし、近本先生が発したその問いかけに、山下先生の笑顔は瞬時に溶けてなくなった。すずかさんも言っていたが、これは相当な因縁がありそうな気配だった。

「下呂さんが、どうかしたんですか?」

 いつもの笑みこそ消えたものの、聞き返す山下先生の声は、まだ平静を保っていた。だが、その奥深くに何か動揺の音色があるような気がした。

「実は、ここにいる宮島が、遺書を見つけまして」

「遺書?」

 平静が崩れた。その声は完全に上ずっていた。

「その遺書は、どこにあるんですか!?」

 いつもの山下先生からは想像もつかない、物凄い剣幕だった。さしもの近本先生も驚いたようで、「これです」と言いながら、しどろもどろに例の封筒を差し出した。

 初老とは思えない俊敏な動きだった。近本先生の手から封筒を奪い取ると、僕らがあっと叫ぶ間もなく、山下先生はその中身を取り出した。あまりに一瞬の出来事で、近本先生も反応が遅れた。

「何してるんですか、山下先生!」

 やっとのことで声は出たものの、山下先生の異常な行動に、金縛りにでもあったかのように動けなくなっていた。そんな近本先生の横で僕は、声も手も何も出せなかった。

 折りたたまれた遺書を開き、山下先生は一気に目をとおす。まさに齧り付くように、目を皿にして読んでいく。その眼は血走っていた。

 読み終えると、山下先生はその場に崩れ込んだ。慟哭。文字どおりの慟哭だった。

 僕も近本先生も、泣き叫ぶ声を聞きつけて飛ぶように戻ってきた他の先生たちも、何が起きているのか訳がわからなかった。誰も何もできず、遠巻きに眺めるだけだった。

 発作的な慟哭が、徐々に収まっていく。泣き叫ぶ声が、形を見せ始める。一番近くにいた僕が、一番最初に気づけたかもしれない。

「ごめんよ。ごめんよ」

 山下先生はそれだけを繰り返していた。

「先生が愚かだった。ごめんよ。気づいてあげられなくて。ごめんよ。ごめんよ」

 そして再び慟哭。それも収まると、山下先生は立ち上がって、僕の方を見た。思わず僕は身構える。

「宮島くんといったね」

 涙でぐちゃぐちゃに汚れた顔を醜く歪めて、山下先生が言った。

「はい」

 乾いた喉が、掠れた音を立てた。そこではじめて、喉の渇きを自覚した。

「この遺書をどこで見つけたんだね」

「あの、図書室です」

 歪んだ山下先生の表情に、驚きが加わった。

「図書室!図書室か!私は何も分かっていなかった!!」

 そう叫ぶと、今度は大声で笑い始めた。狂気の沙汰だった。あまりの異様さに起こり始めた周囲のざわめきも、その笑い声にかき消された。

 やがてその笑い声も収まると、山下先生はしゃくりあげながら、僕に近づいてきた。先生たちがあっと叫ぶ。僕の身体は危険を感じて硬直する。思わず目を閉じる。

 しかし、次の瞬間、僕は山下先生に抱きしめられていた。混乱に次ぐ混乱で、何も考えられなかった。僕を抱きしめながら、山下先生がうわ事のように言う。

「ありがとう。ありがとう、宮島くん。君のおかげで戻ってきた。戻ってきたんだよ。私にも、ご家族にも、友人たちにも、なにも分からなかった。なにも分かってあげられなかった。突然、私たちの目の前から、永久に消え去ってしまった。理由を何も残さずに。私が、みんなが、この十数年いかに苦しんできたか。でも、それも今日終わったんだ。ありがとう、ありがとう宮島くん。戻ってきた。君のおかげで、私たちのところに、あの子は戻ってきたんだよ。ありがとう。ありがとう」

 後はただ、ありがとうと繰り返すだけだった。訳が分からなかった。僕を抱きしめ続ける山下先生の手から、あの遺書がこぼれ落ちた。

 ひらひらと舞って、床に落ちる。文面をちょうど、こちら向きにして。身動きを封じられた僕には、それを読むことはできなかった。けれど、末尾に書かれた署名だけは、何とか読むことができた。


  下呂 寿々花


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