第六話 とある酒場の女性
浮遊王都の西地区には、ニーナという名の女性がいた。
成人したばかりの赤毛少女で酒場に勤めているのだが、彼女を目的に客が訪れるような美人として知られており、言い寄る男は数知れなかった。
(早くなんとかならないかなあ……)
そんな彼女はある日、浮遊王都の混乱が一日でも早く終わるように願いながら通りを歩いていた。
元々西地区というのは、正門がある南、賑やかな中央、そして貴族や多族の住む北に比べ、ドロップアウトした人間が行き着くことが多い場所だ。
そのせいで国王レオンハルト死去後、西地区の住人は真っ先に治安が悪くなるのはここだと恐れ、市民は自警団の設立のために動いている真っただ中だ。
しかし急に自警と言っても、荒事に無縁な者達は仕事があるし、品のない連中は寧ろ治安を悪化させる側だ。それに地区の役人は肉体労働を忌避する傾向が強く、いきなり大きな組織を立ち上げる予算もない有様だ。
「安心安全のPH警察会社をよろしくお願いします! スピード違反、違法薬物、暴漢、ストーカーから変質者、地域の見守りまで、PH警察会社が皆様をお守りいたします!」
「ほへ?」
やたらと声が大きな青年の言葉に、ニーナは素っ頓狂な声を漏らして立ち止まってしまう。
自警団の話が流行っている段階で、それを飛び越えた警察業務を行う会社が設立されるなど、今まで噂になったことすらなく、急な異物が現れたようなものだ。
(東地区の人かな? そしてあっちの大きな人が社長さん)
ニーナが見たところ、浮遊王都の東地区に多い黒髪黒目の青年は、警察業務を行うような体型には見えない。そのためその周囲で適当にチラシを配っている筋骨隆々の大男が社長で、青年の方は手伝いに駆り出された雑用係に見えた。
「はいどうぞ。PH警察会社をよろしく」
「あ、どう……も……?」
「電話係の正社員だからバイトじゃないわよ」
ぼーっと眺めていたニーナは、急に差し出された手作り感満載のチラシを反射的に受け取とると、魅入られたかのように固まってしまう。
一部では随分と持て囃されているニーナでも霞んでしまう、人類最高の天才が作り上げた人形が人間になったかのような美しさ。
それがニーナに視線を送り、冗談めかした口調で役職を告げても、彼女は固まったまま動けなかった。
「ああそうだ。捕まえてほしいハエがぶんぶん飛び回ってないかしら?」
「へっ⁉ いえ、そんなことはないです!」
「そう。じゃあ危ない奴が出たら電話を頂戴。こっちも暇だと倒産しちゃうし」
再び少女に話しかけられたニーナがようやく再起動するが、話の内容は中々世知辛い。
民営化されている警察。というより殆ど賞金稼ぎに近い存在は、犯罪者がいなければ成立しないため、平和と共存できないのだ。
「わ、分かりました」
おまけに警察が機能していない西地区の現実はもっと世知辛いため、頷いたニーナはチラシを捨てることが出来ず、そのまま持ち帰るしかなかった。
「よおニーナ、今日も頼むわ」
「はい店長!」
その日の夕方、ニーナはいつも通りに勤めている酒場へ顔を出し、禿げた中年店長に挨拶をする。
「ああそうだ。あれ見たか? えーっと……なんちゃら警察会社」
「見ました見ました。チラシも渡されちゃって」
「そうなのか。俺が見た時は若いガキと貴族っぽい嬢ちゃん。それになんか強そうな奴の三人だけがチラシを配ってたな」
「あ、私の時もそうでした」
「三人……実質一人で警察とか出来ねえだろ。いや、流石に人はもっといるか」
「流石にですよ」
「だな。酔っぱらったやつが出たら頼んでみるか?」
「区がお金を出してくれるような、明確な犯罪者を捕まえる時はタダって書いてましたけど、軽微な揉め事とかは値段表がありましたね」
「単なる酔っ払いじゃ金は出せねえな。ま、向こうも簡単なのをタダでやっちゃあ、なにも出来なくなるか」
「ですねー」
店長は仕込みの手を止めずに世間話のつもりで、周辺を騒がせているなんちゃら警察会社を話題にすると、ニーナも話に乗った。
酒場をやっている以上は、どうしても酔っぱらった迷惑客が発生してしまい、治安を維持してくれる組織は必要だった。
これが以前なら、鋼の衛兵が巡回してくれていたので、そちらに任せればいいだけの話だったのだが、彼らが去った今現在は、どこの酒場も神経を尖らせていた。
「鋼の衛兵も話が分かる奴らだと思ってたんだが……いや、あいつらはあいつらで、レオンハルト様への義理を果たしたんだろうな」
「そうかもしれません……」
店長とニーナはどこか寂しそうな表情を浮かべた。
街を巡回していた鋼の衛兵は普通に会話が成立するし、なんなら冗談を交わすような関係を築いている者だっていた。
勿論、酒場を営業している関係上、頻繁に出会う店長やニーナも良好な関係だと思っていたが、レオンハルトが死去すると衛兵たちは何の未練もないと言わんばかりにこの街を去り、人間の持つ感情との違いを明らかにしてしまった。
「お忙しいところ失礼しまーす! 本日開店した、PH警察会社の者です! お時間は取らせませんので少しお話をさせてくださーい!」
「ああっと、仕事熱心なこった。どうせ酔っ払いで困った時は呼べって感じだろうから、軽く相手してやってくれ」
「分かりました」
突然、店の前からやたらと元気のいい声が聞こえると、肩を竦めた店長がニーナに対応を任せた。
「はーい」
「あ、仕込みで忙しい時間帯にすいません」
「いえいえ、酒場に人が入るのは遅いですから。どうしました?」
ニーナが店を出ると、そこには記憶通りの顔が二つ。そして知らない人間がいた。
「あら、また会ったわね」
「およ? 昼にチラシ渡した感じ?」
「ええ」
愉快気に微笑む美しい少女と、やたらと活力に溢れている青年は、確かに今日会ったことがある。
「なんで吾輩が夕方に営業回りなど……」
しかし、文句を言っている人間は知らない上に、ニーナでも分かる異様な気配を漂わせていた。
男性にしては長い、肩甲骨まで流れる金の髪。鋭い血の如き瞳とやたら赤い唇。威厳を放つ口周りの整えられた髭。日焼けをしたことがないのではと思わせる血色の悪い肌。
更には一目で質が高いと分かる、貴族が着るようなシャツとズボンを着用し、その上から黒いマントを羽織っている姿は、あまり品がいいとは言えない西地区には不釣り合いである。
問題はそんな違和感が些事に思える程の、単なる町娘であるニーナすら思わず感じ取れてしまう危険な気配だ。
それはさながら、爆発を無理矢理抑え込んでいるような、噴火寸前の火山を思わせる暴威の塊だった。
「ニーナ? お、おおっと旦那。どうしなすったんで?」
「吾輩、このバカップル二人の付き添いであるから気にするな」
「へ、へえ……」
硬直したニーナを不思議に思って、表に出てきた店主もまた、貴族風の男の威圧感に呑まれ、下町の口調ながらも丁寧に接する。
「本日開店したPH警察会社の社長、ツクモと申します。夜の街はなにかと物騒が予想されますが、鋼の衛兵がいないのはさぞかしご不安でしょう。そこで役立つのが我々です。チラシと料金表をお渡ししますので、是非ご参考にしてください。ご迷惑をおかけした代わりに、初回は半額で対応させていただきます」
「あ、これはどうも……ご丁寧に」
「お忙しい中、大変申し訳ありませんでした。これで失礼させていただきます」
一方、社長を名乗ったツクモは必要最低限のことだけを伝えると、チラシと料金表を渡しすぐさまこの場を去った。
酒場の仕込みで忙しい時間帯に邪魔をしている以上、社会人としてこれ以上の迷惑をかけられないのである。
「……なんだか……なんだ? 変? 奇妙?」
「ですねえ……」
残された店長は、この奇妙な一団に相応しい表現が思い浮かばず口をもごもごさせていたが、ニーナには十分通じて同意を得られた。
「あー。お貴族様の道楽かな?」
「だと思います」
「でも態々西地区なんかに来るか?」
「言われてみればそうですね……」
店長とニーナは、若者二人の後ろで突っ立っていた、貴族風の男が道楽で会社を立ち上げたのかと思った。しかしよくよく考えると、貴族が直接この西地区に来る理由が思い浮かばず、謎は深まるばかりだ。
「ま、まあいいか」
「チラシはどうします?」
「どうしたもんかな……お上が頼りないから、変な詐欺にあったら面倒なんだよな」
「実は別の料金でしたー。なんて言われたくないですよね」
「だよな。ニーナはどうした?」
「捨てちゃいました」
「俺もそうするわ。幸い客は気のいい奴が多いから、酔っ払いが出ても一緒に協力してくれるだろ。捨てといてくれ」
「分かりました」
店主とニーナの意見は一致したらしい。
右から左へ流す。ゴミはゴミ箱へ。面識のないよそ者が立ち上げた会社など、怖くて仕えたものではない。
もしこれが知り合いの多い組織なら店長も食いついただろうが、よそ者の扱いは基本的にどこも似たような物だ。
ましてや今は行政が頼りにならないのだから、怪しいものには関わらないのが最善だ。
だからチラシはニーナがごみ箱に捨て、この話は終わり。後はお上が混乱から立ち直るまで耐え、なんとか生活を維持するだけである。
尤も、酒場に訪れる客もこの件でもちきりになるが。