第五話 夜更けのコーヒーと先代のリリィ
「……お?」
部屋に入った瞬間、俺は少し驚いた。
確かに外観はボロかったが、中は意外と綺麗だ。
床はしっかり掃除されていて、ホコリひとつない。
窓もちゃんと拭かれていて、明るい陽の光が差し込んでいる。
そして、ベッドに軽く腰掛けてみると――
ふかっ
「……あれ? アタリじゃね?」
見た目は微妙だったが、寝心地は悪くない。
「これで5シルバーなら全然いいじゃん……!」
俺は思わず笑みを浮かべた。
今日はここでゆっくり休めそうだ。
宿に泊まるのは久しぶりだった。
硬い地面や草の上ではなく、ちゃんとしたベッドで眠れる。
最高の贅沢だ……!
そう思いながら、アレンは布団にくるまり、リラックスしていた。
しかし――
「……んー、寝れねぇ」
「アレンさん、起きてますか?」
扉の向こうから聞こえたのは、リリィの声だった。
「……ああ、起きてるよ」
扉を開けると、リリィが小さな木製のトレイを持って立っていた。
湯気の立つカップと、小さな皿の上には角砂糖が二つ。
「寝れないかなと思って、コーヒーを淹れてきました」
「マジか、気が利くな」
アレンは驚きながらも、ありがたくトレイを受け取った。
カップを手に取り、香りをかぐと、ほんのりとした苦味と深みのある香りが広がる。
「うまそう……」
「うちは貧乏だけど、コーヒーだけはちゃんとした豆を使ってるんです」
リリィは誇らしげに笑った。
アレンが一口飲むと、ほどよい苦味と香ばしさが口の中に広がる。
疲れた体にじんわりと染み渡るような感覚だった。
「……うめぇ。やっぱ夜に飲むコーヒーは格別だな」
「ふふっ、よかったです」
リリィが嬉しそうに微笑んだそのとき――
コンコン
今度はリリィの背後から、別のノックが聞こえた。
「リリィ……起きているの?」
ゆっくりと扉が開き、そこに立っていたのは、一人の女性だった。
やせ細った体に、優しげな顔立ち。
年齢は40代くらいだろうか。
どこか儚げな雰囲気を持った女性だった。
「お母さん……まだ起きてたの?」
「ええ……ちょっと、あなたの様子を見にね」
どうやらこの人がリリィの母親らしい。
体調が悪いのか、顔色は少し青白い。
「すみませんね、うちの娘が夜遅くに……」
「いや、むしろありがたいっすよ。助かった」
アレンはコーヒーを見せながら言った。
女性は微笑みながら、小さく頷く。
「あなた、初めてのお客さんだから……リリィが気にしていたのよ」
「え、そうだったのか?」
「はい。だって、せっかく泊まってくれたのに、居心地が悪かったら申し訳ないじゃないですか」
リリィは少し照れたように笑う。
その様子を見ながら、母親はそっと目を細めた。
「……ねえ、アレンさん。あなた、リリィの名前の意味をご存じ?」
「リリィの名前? いや……」
そういえば、普通の名前かと思っていたけど、何か特別な意味があるのか?
「リリィは、この宿を受け継いだ者に与えられる名前なの」
「え?」
「代々、この宿の主には『リリィ』という名前を継ぐのが習わしなのよ」
「つまり……?」
「リリィという名前には『安らぎ』という意味があるの」
アレンは驚いて、リリィを見た。
「そういうことだったのか……」
「はい。私は体が弱くて……もう長く宿を切り盛りするのは難しいんです」
「だから、お母さんの代わりに私が宿を守るって決めたんです」
リリィは真剣な眼差しで言った。
「この宿に来た人が、安心して休める場所を作る。それが私の仕事です」
「……そっか」
アレンはコーヒーをもう一口飲んだ。
不思議と、体が温かくなってくる気がする。
この宿の雰囲気の良さは、ただ安いからとか、部屋が綺麗だからとか、そういう理由だけじゃなかったんだ。
ここには、人を癒す「安らぎ」がある。
「いい宿だな、ここ」
素直にそう言うと、リリィはちょっと驚いた後、嬉しそうに笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、アレンはなんとなく、もう少しこの宿にいてもいいかもしれない――そんな気がした。
翌朝、アレンは荷物をまとめ、宿を出る準備をしていた。
昨日は久々にぐっすり眠れたし、リリィのコーヒーのおかげでいい気分で朝を迎えられた。
そろそろ次の行き先を決めるか――そう思っていた、その時だった。
ドサッ!
宿の廊下から、何かが倒れる音が聞こえた。
「……?」
慌てて扉を開けると、そこにはリリィが顔を青ざめさせてしゃがみ込んでいた。
「お母さん!!」
リリィの視線の先には、床に倒れ込んでいる先代リリィ――彼女の母親の姿があった。
「おい、大丈夫か!?」
アレンは急いで駆け寄り、彼女の肩を支えた。
肌は冷たく、顔色は異様に青白い。
呼吸も荒く、額にはじっとりと汗が滲んでいる。
「くっ……!」
リリィは必死に母親の手を握りしめていたが、どうすればいいかわからない様子だった。
「お母さん……! しっかりしてください!!」
「……だ、大丈夫よ……ちょっと……疲れが……」
母親は弱々しく微笑もうとしたが、そのまま意識を失いかけた。
――これは、ただの疲れじゃない。
アレンは彼女の症状を見て、あることに気づいた。
「この症状……まさか……!」
この青白い顔、冷えた肌、そして浅く弱い呼吸――
王宮の厨房でも、一度だけ見たことがあった。
「これは……毒だ!」