第9話 古書の旅人
私がこの世界に来たのは今からおよそ20年前。気がつくと枯れた大地に立っていた。なぜそこにいるか、どうやってきたのかは記憶にない。思い出そうとしても無駄だった。まるで他人の記憶を覗き込むかのような感覚になって頭痛がする。
私は太陽に向かって歩き出した。何が正解か分からないし、どこに行けばいいかも分からない。太陽だけが希望だった。
途中休憩を挟みながら歩いていると、前方に四角い物が1つ見えた。建物かと期待したが、近づくとそれは大きな石版だった。知らない文字が彫られていて読むことができない。
私はあとどれだけ生きることができるだろうか。この世界に来た証を残したい。その一心で石版に自分の名前を刻んだ。
石版が地平線の向こうに消えるころには既に夜になっていた。この世界の月は青白い。地球の月の方が綺麗だったと思う。元いた世界を思い出すと胸が締め付けられる。言葉にできない痛みが心を削る。いっそのこと心を壊してしまった方が楽かもしれない。私は枯れた大木の陰で眠りについた。
日が昇り目を覚ますとひどい熱が出ていた。起き上がるのも辛い。それでも私は歩いた。歩かなくてはいけない。しかし現実は厳しいものだ。気力が尽きる前に体力が限界を迎えた。地面にうつ伏せに倒れてから起き上がることができない。いろいろな感情の後、心の鼓動は落ち着いた。人は死を覚悟すると冷静になるらしい。意識が遠のき、やがて暗くなった。
ゆらゆらと揺れている。温かい。ゆりかごを思い出す。誰かに抱えられていると気がついて目を開ける。女性だった。馬に乗っているのだろうか、蹄ひづめの音が聞こえる。死んでいるのか生きているのか分からなかったが、もう大丈夫だ、という掛け声で生きていることが分かった。安堵からか涙が出る。私は声が枯れても泣き続けた。初めて生きている幸せを感じた。
私が泣き終わったのを見た彼女は私に不思議な光を当てた。直後、体の力が抜けて傷がみるみるうちに治ってしまった。驚いた。一体何が起きたというのか。
それからしばらく歩くといくつかの黒い点が見えた。直じきにそれらが集落だと分かった。
集落は災害が起きた後のようにあらゆる建物が崩れていた。しかし、すぐに何かがおかしいと感じた。私のその勘は間違っていなかった。
到着してしばらくすると物見櫓の上からけたたましく鐘を鳴らす音が鳴った。直後、鎧を着て弓や剣を待った兵士が集落の外に出て行った。違和感の正体がこのときになってようやく分かった。この集落は人の手で壊されている。
驚く暇もなく、私は医務室に連れて行かれて治療を受けた。そこではたくさんの負傷した人たちも運び込まれていた。
外が暗くなりもう夜だと分かるころ。昼に集落を出て行った兵士たちが担ぎ込まれた。脚に受けた傷は緑色のゼリーのようなもので止血されている。腕の切り傷からは火花が散っている。医師は脚のゼリーを取って新しいものに着け替えた。腕の火花には杖から黄色の光を出して治療した。
目の前で起こった一連の出来事に目を疑う。これはもしや魔法というものではなかろうか。
数日経つと兵士の出入りがなくなった。集落の人々は踊りながら喜んでいる。みんな耳が長い。このとき、初めてここがエルフの集落だと気がついた。私を救ってくれたエルフの耳も長かった。このエルフはマウルという名前で、彼女だけが日本語を話すことができるという。
翌日、集落に4つの部族の者が来た。女、子供関わらず縄で縛られている。槍や剣を持ったエルフに囲まれながらひどく怯えている様子だ。
マウルにこの状況について尋ねた。マウルが言うには、このあたりは元々メルラーという名の森林が広がっていた。そこでは5つの部族が暮らしていて、森林の管理を分担していたらしい。あるとき2つの部族が争いを始め、それに巻き込まれる形で5つの部族間の争いにまで発展したようだ。
そしてこの戦いに勝利したエルフは今から他の4部族の全ての首を跳ねるのだという。
私は衝撃を受けた。こんなことは間違っているのではないか。他にやり方があるのではないかとマウルを説得した。しかし彼女は難しい顔をする。何も悪くない子供達の命を刈り取ることが何の役に立つと説いた。しかしこの戦いでたくさんの幼いエルフが失われたとマウルは聞く耳を持たない。
私はこの世界に来てまだ日が経っていない。メルラーの地の歴史を知っているわけでもないしこの地でどんな酷いことが起きたのかを知っているわけでもない。けれども、これから起こるだろう悪夢を止めることができるのではないだろうか。小さな命を守ることができるのではないだろうか。今の私は前の私とは違う。この世界の私には溢れゆく小さな命を救うことができるのではないか。
私はマウルに過ちを繰り返してはならない、遺恨が残るだけだと叫んだ。
心の叫びが届いたのか、マウルが族長たちを説得しに去って行った。
どれだけ時間が経っただろう。とてもとても長い時間が過ぎたころ、1人の老いたエルフが来て集落のエルフたちに向かって話し出す。話を聞くエルフたちは険しい顔になり、抗議を始めた。怒鳴り声が聞こえ始めたころ、マウルがやって来てエルフたちを諭す。ひとり、またひとりとマウルに同調していく。最後まで抗議していた身籠ったエルフも遂に首を縦に振った。
老いたエルフの命令で縄を解かれた者たちは泣いてマウルに感謝を伝えている。そう、これでよかったのだ。
それからしばらく経ったある日、マウルに呼ばれた私はエルフの族長の家にいた。老いたそのエルフには見覚えがあった。マウルを介した翻訳によって族長が私に感謝していることを知った。無駄な血を流さずに済んだこと。言葉で戦いの終止符を打てたこと。それは全て私のおかげだという。
私は当然のことをしただけだ。あのとき見て見ぬふりをすることはできなかった。手が届くところで失われる命があるのなら全力でそれを阻止しよう。一度死を覚悟した我が身だから死の恐怖を知っているし、生きる喜びも知っている。誰も死なせてはならない。私の力で救える命があるのならその全て救おう。
そう話し終わった私の前で2人は泣いていた。熱く語っていたようでいつの間にか息が切れている。
どうしてだろう、気がつくと私が5つの部族の長となることが決定していた。
若干の想定外もありつつ、私はメルラーの地の長として過ごすようになった。人の上に立つことは初めてでうまくいかないことばかりだったが、マウルの支えのおかげで全てがうまくいった。
マウルとの思い出は特別だ。
指を切ってしまったと言って泣いたときは驚いた。できない料理を私に作ってくれたときには嬉しくて泣いてしまった。簡単にできるサンドウィッチを教えたら目を輝かせて喜んでいた。ケムソウの花を摘んで来たと駆け寄ってきたマウルの無邪気な笑顔を私は一生忘れないだろう。
マウルと過ごした日々は、その全てが私の大切な思い出だ。
長くなったが、これが今まで私が経験してきたことだ。これを読んでいるあなたはおそらく日本人だろう。私の自慢の街は気に入ってくれたかな?手塩にかけて育てた街と仲間だ。中でも温泉はお気に入りの一つだ。ぜひゆっくり過ごしてほしい。
あと、余裕があれば私が名前を掘った石版を探してくれると助かる。私が生きた証をぜひ見てくれ。メルラーの街から日が沈む方角のどこかにある。
(追記)
昨夜、変な夢を見たんだ。
私はポポという街で冒険者をしている。ドラゴンを討伐して勇者となった私は"ポポの勇者"という二つ名を得た。
あまりにも鮮明すぎる夢に困惑している。身に覚えがないのに、まるで私の人生の一部を見ているかのような夢だった。
自分の過去のようで他人の夢のようなもの。
これが何なのか調べるために明日の早朝から旅に出ようと思う。
マウルは私を止めると思うから黙って出て行こうと思う。
寂しがるかな。
でも、もうあの子は1人でも大丈夫だ。
マウルは私が名付けたダンゴという大きな馬を連れている子だ。強気で強情なくせして、実は甘えたがりな女の子だ。
手間をかけるが面倒を見てやってほしい。
ここまで読んでくれてありがとう。あなたがこの世界で幸あらんことを。
これがキノシタミミの人生。正確には長い人生の一部だ。もっと言えば、この世界に来てから、この街メルラーを出るまでの出来事だ。
2人は本当に強い絆で結ばれていたようだ。僕が日記の内容をエルフに伝えると泣き出してしまった。
そして日記の中のマウルとはこのエルフのことだろう。
そんなマウルを置いてまで彼女は旅に出た。
キノシタミミよ、君には一体何が見えていたんだ?
(あとがき)
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次回は第10話「探し物」です。