卒業式典の風物詩 ~爵位編纂室の婚約破棄対策~
王宮文官の繁忙期といえば社交シーズンの始まりが挙げられるが、ここ数年でもうひとつのピークが生まれた。それが、学生の卒業シーズンにおける「婚約破棄の事後処理対応」である。
◇
今年も悪夢の時期がやってきたと、セーラはすでに頭が痛い。ただでさえ重く見えがちな黒髪を揺らしながら溜息をひとつ。聞きつけた同僚のハビエルが、不思議そうに声をかけてきた。
「どうした。なにか悩み? 恋愛相談なら任せろよ」
「恋愛は恋愛でも、私じゃなくて、学生たちのこと」
「あー。婚約破棄。そろそろ卒業式典だな」
「……今年は何件来ると思う?」
「学園の教師たちも目を光らせてるだろうし、去年よりはマシじゃないかな。やらかしそうなのは何人かいるけど、王家の名前で家に手紙を出してるから、親が言い聞かせてはいると思うぞ」
実際にどうなるかはわからないけどな。
言外にそう滲ませて、ハビエルは面白そうな顔をしている。
自身も浮名を流す遊び人であるこの男は、そういった噂に詳しい。つまり、同じく「恋多き男女」や「脳内お花畑で恋愛で身を滅ぼすタイプ」についての情報を握っているのだ。
学生と呼ばれていたのはもう十年は前だというのに、学園内の事情にも詳しいのはどういうことか。情報通の名は伊達じゃない。
「第一候補は?」
「トルゴート侯爵の三男。知るかぎり、入学以降で五人と噂がある。今の女はアロウズ商会の娘」
外国と独自の販路を持ち、輸入品に力を入れている商家の名が挙がる。長男次男はすでに妻帯しており、未成年は末の娘のみ。遅くにできた愛娘を可愛がっていると評判だ。
頭の中で情報を探り、セーラは確認のために疑問を口に乗せる。
「婚約者のご令嬢は、レイス伯爵の長女じゃなかった?」
「そうだよ。ボンクラ息子の手綱を取ってもらうべく選ばれた才女。でも逆効果だったんだろうな。あの三男は、自分が下に見られたくなかったんだよ。バカのくせにプライドだけは高い」
レイス伯爵家は、歴史のある家だ。侯爵家に引けを取らない国の重鎮で、発言力も大きい。
荒れる。これはかなり荒れる。久々の大物だ。
知らずお腹を押さえるセーラに、心配そうな声がかかった。
「セーラ、大丈夫か? 具合が良くないなら隣で少し休憩していいから」
「なに言ってるのよ。そっちこそ王太子様の成婚準備で慌ただしいじゃない」
「俺は平気だよ」
「じゃあ俺が休憩してよろしいですか? クランストフ室長」
「香水の匂いを纏わせない休憩ならご自由にどうぞ、ダイン補佐官」
セーラの頭上で、男の応酬が飛び交う。
気取った言い回しながら、会話の中身は下世話極まりない。
「職場の風紀が乱れる会話は止めてくれませんかね、おふたりとも」
唸るように告げたセーラに、二人の男は背を正し、腰を折って謝罪した。
「すみませんでした、リー書記官」
セーラ・リーは王宮ではまだ珍しい女性文官である。結婚までの行儀見習いを兼ねて侍女として城にあがる令嬢が多い中、セーラは「仕事」として文官職を選んだ。
風当たりはそれなりに強かったが、勤勉な態度が知られるにつけ悪く言う者も少なくなり、彼女を色眼鏡で見るのは他所の部署ぐらいになった。文官は武官と仲が良くないこともあり、セーラが王宮を歩いていると、聞こえよがしに嫌味を言う者も少なくない。アレが第三王子の愛妾か、と。
第三王子、アレクシオ・ウル・クランストフは、セーラの学友だ。
成人後は臣籍降下が決まっていたアレクシオは、学生時代から偉ぶったところのない男で、爵位を持たないセーラも親しくさせていただいた。
いや、させていただいた、などと丁寧な言い回しをするような間柄ではなかった。むしろもっと近い距離感だったといえる。
現在の同僚であるハビエル・ダインとともに、生徒会役員として学生時代を過ごし、青春を謳歌した仲である。進路に悩むセーラに文官試験を受けるよう勧めたのもアレクシオだし、彼の言葉がなければ今の仕事には就いていなかったといえるだろう。感謝している。
卒業後のアレクシオはといえば、諸外国の文化や政務を自国へ還元するべく留学してしまった。
国の運営に関わるのであれば、武門ではなく事務方になると語っていたため、てっきり肩を並べて仕事ができるものだと思っていたセーラは落胆し、そんな自分に驚く。学生という、ある種のモラトリアムを脱したあとは身分の差をしっかりと戒め、適度な距離感を保たなければと思っていたはずなのに、なんという分不相応で邪な想いか。
頑張ってねと見送って、頑張ってと労われて。
居なくなって初めて存在の大きさを意識させられ、彼のことが好きだったのだとようやく気づいて胸を痛め、セーラはひそかに涙したものだ。
五年の留学期間を経て戻ってきたアレクシオは、記憶よりもずっと逞しく成長していた。学生のころも輝く金髪と薄紫の瞳が美しい青年ではあったけれど、より精悍さを増したのは苦労ゆえか。離れている間も簡単なやり取りはしていたけれど、顔を合わせる機会はなかったため、ひどく驚いてしまった。
彼から定期的に送られてきたカードに書かれていた内容は、王宮で働いているからこそ共感できる仕事の話。当たり障りのない書き方をしていたけれど、気軽に愚痴を吐ける相手もいない状態ではストレスも溜まったに違いない。
後に知ったことだが、情報漏洩やら何やらの対策で検閲が入り、あまり個人的なことを書くわけにもいかなかったらしい。どうりで味気ない文面だったはずだ。
帰国したアレクシオは正式に王の臣に下り、セーラが属する総務局の上位文官に就任した。二十三歳という異例の若さだが、王の血族である。そこに否やはない。
生まれと知識を活かす部屋を任されることとなり、それがセーラが執務していた爵位編纂室であったのはどんな偶然か。
こうして再会した学友の部下となった。同じ職場にいたハビエルと共に五年ぶりに机を並べることとなり、さらに五年の月日が経過している。
◇
爵位編纂室の仕事はその名のとおり、国内外の貴族や名家を管理することである。
平民の場合、婚姻の届出は不要だし、子が産まれたとしても届出の義務はないが、貴族は必須である。上位貴族であればあるほど厳しく管理されるのは、傍系を管理するためといえた。建国当初は、血筋のはっきりしない者に家を乗っ取られたり、「貴方の子どもよ」と言われて認知したら詐欺だったりと、それはもう風紀の乱れが多かったのだとか。
その反省を活かし、貴族間の婚姻は多くの手続きを取る必要があるし、両家の署名に王家の印影、神殿長のサインが入ったものを保管する決まりだ。
多くの人間の手を経て成立した契約を破棄するのであれば、逆の順路を辿る必要があるということ。
学生らが意気揚々と「婚約を破棄する!」などと告げたあと、その諸手続きがどれだけ大変なのか、勿論彼らはわかっていない。
ゆえに苦労する。主に窓口担当のセーラが。例えば、こうだ。
「どうしてそんな面倒な手続きが必要なんだ!」
「規則ですので」
「なら、おまえがやればいいだろう。なんのための職員だ」
「契約を白紙に戻す手続きは、名を記載されたご本人でなければなりません。代理人を立てるのであれば、委任状をお持ちください」
「いにんじょう?」
意味がわかっていなさそうな声色で単語を口に乗せる男は、背丈だけは立派な成人だが頭の中は子ども同然だ。
しかし学園を卒業したということは、成人として見做される。保護者を立てずとも自身の意思で婚姻契約が結べるということは、契約破棄の手続きも本人が為さなければならないということを理解していない者が多い。婚約破棄に関しては、特に。
「ねえ、早く結婚しましょうよ。ここで用紙を出せばいいんでしょう?」
男の袖を引き、甘えるようにねだる女性は、契約書に記載された女性ではない。婚約破棄案件でよく聞かれる「真実の相手」というやつだ。
契約を破棄するのであれば、現在の婚約者を連れて来なければならないのに、彼らは総じて契約外の相手を伴って現れ、「婚姻誓約書をくれ」というのだ。理解できない。どうして手順を飛ばすのだろう。
顔に笑みを貼り付けたまま、セーラは同じ言葉を繰り返す。
委任状を持ってくるか、契約を結んでいる相手を連れてきて、まず破棄の手続きをしろ。話はそこからだ。
これをオブラート数十枚ほど包んで申し上げるのだが、すんなり聞き入れてはくれない。男はキレて、女も焦れる。なにしろ女のほうが分が悪いのだ。焦りも大きくなるのだろう。苛立ちが目に見えてくると彼女たちは攻撃的になり、矛先は男ではなくセーラに向けられることとなる。
「おばさん、嫉妬はよくないわよ。自分が結婚できないからって、愛し合う者の邪魔をするだなんて見苦しい」
「邪魔はいたしておりません。お祝いを申し上げるために、まずは前提条件を揃えていただきたいだけです」
業務の邪魔をしているのはおまえたちだ、このすっとこどっこい。今すぐ帰りやがれ――と言いたい気持ちをぐっと堪えて微笑むセーラは、この業務に就いてから忍耐力が向上したと自分で思う。面の皮も厚くなったし営業用の笑顔も上手くなったと思っているが、持って生まれた容姿が低いので効果のほどはよろしくない。生まれてこのかた二十八年。告白もされたことがない残念女子なのだ。
「おばさんは失礼じゃないか……?」
このように、なぜか婚約破棄男がセーラを庇うことも多い。女性を褒めることを良しとする貴族男子らしさのおかげかと思うが、その紳士的振る舞いよりも先に、世の良識というものを覚えて欲しいものだ。
それに庇われても嬉しくない。だって浮気女が逆上するから。
「私の男に色目使わないでよ。おばさん、未婚だから焦ってんの!?」
蔑むような目を向ける先は、セーラの左手。指輪どころか宝飾品のひとつも見当たらないので、付き合っている相手がいないのは明白だ。わざと外して遊び相手を探す層もいるが、セーラは正真正銘の独身である。
クレームが増えるにつけ、嘘でもいいからなにか付けておくべきかと口にしたところ、アレクシオに全力で却下され、ハビエルも苦笑いで首を振ったため、手は白いまま。たぶん一生このままだろう。
「レディ。大きな声を出せば可憐な喉を痛めてしまう。僕としては忍びないな」
場が最高潮に荒れたころに登場するのは、無駄に顔と愛想がいいハビエル・遊び人・ダイン。アッシュブロンドに緑がかった青い瞳。マダムキラーと名高い彼にとって、年下の扱いなどお手の物だ。
怒りに顔を赤くしていた浮気女は、麗しい年上男性の登場に別の意味で顔を赤く染める。
声の調子が変わり、ついさっきまで寄り添っていた同行者ではなくハビエルに一歩二歩と近づくのも常だ。ちらりと左手に視線を走らせ、薬指が空いていることを素早くチェックすると、さらに身を寄せる。まったくもって強かだ。素晴らしい。
ハビエルも慣れたもので、「顔が赤いね、疲れたのかな。――僕とどこかで休憩するかい?」と相手の耳許で囁き、肩を抱く。
それを呆然と見つめる婚約破棄依頼男に対し、「それで、どうされますか? 婚約の解消、本当になさいますか?」とセーラが問い、男がふらふらと帰っていく。
これが卒業式典後における、ここ数年の日常業務である。一日に数件、一週間程度続く。慣れはしないが麻痺はしてきた。
ちなみにハビエルの「ご休憩」は、実行されたりされなかったりだ。本当にどこかへ行っているのかどうか、セーラは聞いていないし、聞きたくもない。さらなる修羅場は御免だ。
婚約破棄を願った男性側は、後日きちんと相手を連れてきて本当に解消するパターンと復縁するパターンに分かれる。
そしてごく稀に、セーラに対して、「冷静で美しい貴女に惚れました」と言いにやってくる変人もいたりするが、セーラが何かを言うよりまえに上司のアレクシオが対応に出る。
王族特有の薄紫色の瞳を持つ相手に立ち向かえる貴族男子はいないだろう。気の毒なほど青ざめて帰っていく姿を彼の背中越しに眺めるセーラだが、同情はしない。それまでにかけられた迷惑と照らし合わせると妥当だと思うからだ。
◇
爵位編纂室の主な業務内容はデータ管理であり、そう忙しい部門でもないはずだった。
しかし婚約破棄ブームのおかげで、一定の時期に業務過多となった。ブームがいつまで続くかわからないため増員するわけにもいかず、ここ数年は激務だ。
卒業式典の風物詩と化してしまった婚約破棄処理への対策として、アレクシオも室長として動いていたらしい。学園側に話を通して、婚姻契約の成り立ちについて事前に講義を行ってもらったという。内容が内容だけに、興味を持って聞いてくれたようだ。
加えて今年は、長く滞っていたアレクシオの兄――王太子の成婚がやっと決まったこともある。婚姻に関連したニュースは喰いつきがいい。
「今年の式典挨拶はおまえだろ? ついでに婚約破棄事件の裏事情でも語ってやれよ」
「うちの親戚が迷惑かけて悪いと、心底思ってるよ」
「それを言えば、私も無関係じゃないんだけど」
ハビエルの弁に、アレクシオとともにセーラも溜息を落としてしまう。漏れた息が重なり、ついでに視線も絡む。
「セーラはちっとも悪くないだろ。そもそもの発端は王家にあるんだから」
アレクシオが言うとおり、婚約破棄宣言のキッカケになった騒動は彼の伯父によるもの。とはいえ、もう数十年前のことだ。
学園に在籍していた王子殿下が、子どものころから決められていた令嬢との婚約解消を申し出た。他に愛する女性ができたという理由だ。入学後に出会い、惹かれ合い、その先を求めるようになってしまったという。
正々堂々、公衆の面前で申し出を行った理由は、自分から発することによって、彼女に非を与えないようにするためであったという。王族からの一方的な要求には、誰も逆らえないと見越しての行動。
婚約者との間にあるのは友諠でしかなく、令嬢のほうにもひそかに想い合う相手がいることを王子は知っていたこともある。ならば己が悪者になればよいと、彼はそう考えた。
王子らの婚約は円満に解消に至ったが、それを見ていた周囲の人間たちにも影響は及んだ。つまり、「家の犠牲にならなくてもいい」「親に決められた相手と無理に結婚しなくてもいい」という前例ができてしまったため、別れるカップルが増えてしまったのである。
さらに間の悪いことに、この学年には他国の留学生がいた。その女生徒は帰国した際、このセンセーショナルな出来事を周囲に話した。
美しい愛の奇跡だったそれは尾ひれ背びれがつき、民草の間に広まるころにはよりドラマチックに脚色される。円満解消ではなく、略奪愛としていくつも物語が作られ、上演され、他の国へ広まっていく。
この国に戻ってきたころにはまったく違う物語と化しており、発禁令が出たほどだ。
しかし禁止されれば広がるのが世の常。「誰とは言ってないじゃないか」と言い張ってさらにアレンジされる始末。
結局は最初の騒動となった王子が「創造の権利を侵害するべからず」と宣言することで終結となった。
この騒動により王族の婚約者に関しては慎重となり、成人までは確定しないことが通例となる。
今年二十八歳を迎えるアレクシオは、卒業後すぐに留学したこともあって婚約者の選定すら行われていない。セーラとしては嬉しいような虚しいような感覚だ。おかげで報われない気持ちを抱いたまま、かれこれ十年。学生時代の恋を未だ引きずったまま動けない。
そんなセーラの祖母は異国人、例の婚約破棄事件を脚色した作家の妹だったりする。
つまり、この騒動の関係者と言えなくもない立場。学園でアレクシオと親交するキッカケになったネタではあるが、決して喜んでいいものではないだろう。
舞台演劇題目のひとつだった「婚約破棄」は、五年前にリバイバル上演され再ブームとなった。現代風にアレンジがされ若者に受けた。それが今の「卒業式典で婚約破棄」に繋がっており、セーラは窓口担当として大伯父のツケを払っているところである。
卒業式典には来賓挨拶があり、侯爵家以上の人間が壇上に立つ決まりだ。王家が担当することは稀だが、まったく無いわけではない。昨今の婚約破棄事情を鑑みて、王家としても何かしらの釘を刺しておきたい気持ちがあるのかもしれない。
付き添いとしてセーラも式典に参加することになったのは意外だが、少し楽しみでもある。卒業してしまえば、学園に立ち入ることもなくなってしまう。久しぶりの母校に加え、アレクシオの演説も楽しみだ。生徒会長時代の彼は、巧みな弁で生徒を導いていたものだったから。
「噛まないといいんだけどなあ」
「なに殊勝なこと言ってるんですか、会長」
式典会場である学内講堂の控室で待機中、昔の呼び名で茶化すと、アレクシオは笑みを浮かべて天井を仰ぐ。
窓からの採光がアレクシオを照らし金の髪が輝く。横から見ると際立つ高い鼻梁が顔に陰影を浮かび上がらせ、なんだかあの頃よりもずっと頬がこけた気がして心配になる。王太子の成婚関連で随分と忙しそうにしていたが、きちんと休んでいるのだろうか。
「こうしてると昔を思い出す。部屋も変わってないし」
「ハビエルも一緒なら完璧だったわね。留守番役は私でもよかったのに」
「そこはまあ、あいつの気遣いというか計らいというか」
「なにそれ、変なこと企んでる?」
学生時代、生徒会長と副会長はコンビで悪ふざけをしがちで、諫めるのはなぜか書記のセーラだったことが思い出される。
「心外だな」
「まあ、わかるわよ。アレクとハビエルが並んで壇上に居たら、静かに話を聞く体勢にはならないでしょうし。その点、私ならただの助手にしか見えないもの」
「すごくもどかしいんだよな。セーラを壇上に上げて野郎の視線に晒したくないけど、手が届かないところに置いておいて、声かけられるのを止められないのも嫌だし」
アレクシオに複雑そうな顔で見つめられ、居心地が悪くなる。着慣れないドレスの裾を無駄に手で払ってしまう。
セーラとしてはいつもどおりの執務服で出るつもりだったが、アレクシオに拒否された。教師陣も式典に合ったドレスを着用するなか、たしかに悪目立ちしたことだろう。
平民のセーラは舞踏会には縁がない。自分が学生のときは、学園側が斡旋する店でレンタルしたぐらいだ。今回はどうしようかと悩んでいると、いつのまにか準備されていた。
ボルドーに黒の縁取り。ラメが入っていて、採光の加減で控えめに輝く、アップにした黒髪にもマッチした配色。
おそらくハビエルの手腕だろう。さすが色男の采配だ。セーラが自分で選んでいたら、こんなものは絶対に着ていなかった。
婚約者が決まっている貴族の子どもは、相手に合わせた装いをしていたことも思い出す。招待券があれば、その日だけは部外者の参加も許されたので、年上の婚約者とダンスを踊る同級生も多かった。セーラは壁の花――いや、染みとして飲食に勤しんだが。
「そういえば、アレクは婚約者がいなかったから、プロムのダンス相手もいなかったのよね。誰かを誘うわけにもいかなかっただろうし、王族って気の毒だわって思った」
「セーラとあれこれ食べて楽しかったけどな」
「お互い、色気より食い気だったわね。まあ、色気がないのは今もだけど」
「あのときの自分に活を入れたい気分でいっぱいだ。だから今日リベンジする」
「え……?」
いったい何の話だろう。
問おうとしたとき、扉がノックされる。どうやら時間らしい。
立ち上がったアレクシオがセーラに手を伸べる。十年前よりも大きくなったそれに重ねた自分の手は、あまり成長していないような気がして胸がチクリと痛んだ。
◇
来賓挨拶とは退屈なものだが、アレクシオは流石である。人前に立つことに慣れた堂々たる振る舞いは、見ているだけで痺れるほど素敵だ。
惚れた欲目ではないと思うのは、女子生徒だけではなく教師陣の目も集めているから。斜め後ろに控える自分は、さぞかし目障りなことだろう。学生時代から慣れた立ち位置だ。
厳粛な式典の空気。学生たちの緊張した顔つきが微笑ましいと思える程度には、社会性を身につけてしまった。自分はもう子どもではないのだ。
この式典は良い機会かもしれないとセーラは思った。
こじらせまくった初恋から、そろそろ卒業しよう。王太子の成婚が決まったのだから、アレクシオにだっていずれ話は来るはず。考えるだけで泣きそうになるけれど、恋心に踏ん切りをつけなければ。
「先日、契約の在り方について講義が行われたと思いますが、これについて、せっかくなので補足を兼ねてお話させていただこうと思っております。身内の恥を晒すようですが、なにかと物議を呼ぶ婚約破棄のキッカケは我が伯父上です。彼らのその後について、ご存知ですか?」
実に円満な解消であったこと、二組の夫婦は現在も仲が良く、互いの子どもが縁づくのも間近と囁かれていること。
王族の婚約者選定が遅くなっているのは、その騒動が契機になっているが、晩婚化は貴族全体に広がっていること。
「恋愛は自由ではありますが、安易に関係を解消してしまえば、私のように三十を間近にしても独り身という状態になってしまいかねない。皆さまには同じ轍を踏んでいただきたくありません。先輩として、心からの忠告です」
重々しく告げてはいるが、おどけた調子で肩を竦める姿に、学生からは笑いが漏れる。
アレクシオは講堂をぐるりと見渡すと、改めて口を開いた。
「私も卒業して十年が経ちます。今回、挨拶役を引き受けたのは良い機会でした。この場をお借りし、未だ止まぬ婚約破棄に歯止めがかけられたらと思い相談を持ちかけたところ、学園長にも快く許可をいただきました。大人への門出は別れではなく、新しい一歩を刻む契機とすることを願い、不肖わたくしめがその先陣を切らせていただきたく思います」
そこで言葉を切ったアレクシオは、後方に下がる。控えていたセーラと同じ位置まで来ると、その場で片膝をついた。
「セーラ・リー嬢。貴女の隣に立ち、その先を共に歩む権利を私にいただけないでしょうか」
それは古式ゆかしい、型通りの求婚の言葉。
一瞬、息が止まったセーラだが、やがて理解する。
これはパフォーマンスだ。婚約破棄対策の一環。この場で一番地位が高い彼が求婚をしたあとで、いったい誰が婚約破棄宣言などできようか。吉事に泥を塗るような真似をする貴族はいないだろう。
問題はセーラの心の内だけ。
片想いの相手に求婚されて、けれどそれは形だけのもの。
立場上、安易に声をかけられないアレクシオの相手役を担えるのは、腐れ縁のセーラしかいなかったことはわかるけれど、ならばせめて事前に教えておいてほしかった。
「初めて会ったのは入学式のあとだった。特待生として引き合わされた君は、まだ十三歳だというのに、王族を前にしても堂々としていて。平民だからと侮る周囲の声を受け流す姿に感銘を受けた。役立たずの三男坊と陰口を叩かれて勝手にひねくれていた自分が恥ずかしくなった。君に会わなかったら、バカなガキのままだったと思う」
返答に悩むセーラをよそに、アレクシオは語り始めた。
伝統として、王族関係者が生徒会の長を務めることになっている。その脇を固めるのは貴族で、そのまま将来の側近として任じられるのも慣例。
それを見越しての配置が望まれるなか、書記としてセーラを選んだ。
異国の親族が多いせいか語学に精通している彼女は、教師の覚えも良い。事実、外国から客が来た際には通訳を務めることも多く、重宝されていたぐらいだ。
囁かれていた反発の声は次第に消え、そのことが我が事のように嬉しかった。
「臣下として国を支えるため、一度は外に出ることは決まっていて。帰国したあとは一緒に働けたらいいと思って文官試験を勧めたんだけど、受けてくれてよかったと思ってる。戻ったらセーラがいることを励みに頑張れたから。――だけど俺はやっぱり、愚かでバカのままだった。五年も一緒に居たのに、卒業して独りになって、初めて気がついたんだから」
「……なにを?」
胸に生まれる淡い期待に流されないようにしながらも、心の天秤は都合のいいほうへ傾こうとする。力んで握りこむ拳をアレクシオの手が優しく包み、その温かさにますます心が揺れた。
「ずっと君が好きだった。本当は帰国してすぐに伝えたかったんだけど、上司になるし、兄上の結婚が成立するまで待てって言われるし、監視されるし、君はもてるし、気が気じゃないし、そんな俺を見てハビエルは笑ってるし。だから全力で仕事して、兄上のお相手関連の諸問題を解決した。もう文句は言わせないし、俺が待てない」
王族の仮面をかなぐり捨て、完全に素の顔でまくしたてたアレクシオは、セーラの顔をひたと見つめて告げる。
「セーラが好きだ。ずっと、十年――いや、たぶんそれ以上。気持ち悪い男でごめん」
「……アレクが気持ち悪いなら、同じ年数だけあなたを好きでいる私だって気持ち悪いわよ」
涙まじりの声で返した答えは、強く抱きしめられたことで相手の胸に吸収される。
かわりに聞こえたのはひとつの拍手。やがて伝播し、割れんばかりの音となって壇上の二人を祝福する。
そういえば人前だったと気づき、耳まで赤くなる。今の自分は、ボルドー色のドレスと同化しているかもしれない。
恥ずかしさに固まるセーラの耳許で、アレクシオが甘く囁く。
「ハビエルが言ってた意味が今ならよくわかる。自分が選んだドレスを纏った女はより愛しいし、脱がすのが勿体ないけど、やっぱり脱がしたい」
「……ひとこと余計よ、このドスケベ」
ヒールの踵で思いきり爪先を踏んでやると、それでも男は嬉しそうに笑い、セーラの頬にそっと唇を寄せた。
卒業式典において、婚約破棄の宣言ではなく、壇上で求婚することが流行するのは、これより一年先のことである。
契約破棄の手続きではなく、婚姻誓約書で忙しくなるのもまた、来年のおはなし。
作中には入らなかったキャラ設定などを活動報告に公開しております。
ご興味のある方はどうぞ。
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